セーラー服と日本刀



 不意に嗅ぎ慣れた青い匂いが鼻孔を刺激し、薄らと目を開けると規則正しい編目の色褪せた畳が視界に映る。ひどく目線に近い位置で、自分の手と一緒に見えた畳を見つめてから、眼球だけをぐるりと動かした。
 正面にはぴったりと閉められた障子戸。とはいっても、大分古いのか障子は破れて穴が開いているし、場所によってはすでに障子の意味もなさないほどにボロボロのものもある。外からの明かりはそこから直接室内を照らしているようだった。筋のように室内に零れいる明かりが点々と畳を照らし出し、僅かに目を細めてゆっくりと床に肘をたてて、上半身を起こした。
 途端、ぐわん、と脳みそが揺れたように視界が歪み、咄嗟に両目をきつく閉じて、片手で顔を覆った。まるで車酔いでもしたかのように気持ちが悪い。三半規管が平衡感覚を失っているのかなんなのか・・・はて。車に乗った覚えはないんだが。ぐらぐらと揺れる頭でそんなことを考えつつ、ゆっくりと顔を覆っていた手を退けて瞼を開ける。
 少しチカチカと明滅する視界が落ち着くと、緩慢な仕草で起き上がり色褪せた畳の上に座り込む。それから、今度は首を巡らして部屋の中を見渡した。
 畳の床から框を作って上に上がった床の間に、その脇に作られた違い棚。床の間には本来なら掛け軸なりかかっていそうなものだったが、そこにあるのは薄汚れた漆喰の壁ばかりで、代わりに違い棚の上に何も活けられていない花瓶が一つだけ佇んでいる。
 更に床の間の反対側には洋風の建築でいうと出窓のように外に張り出した窓があり、見慣れた・・・いや、見慣れた、というにはあまりに遠い過去ではあるが、それでも見慣れた和風建築の姿に、今時こんな純和風の家って、と眉間に皺を寄せたところで、そもそもここは何処だ?とあまりにも当たり前すぎる疑問に思い当たる。
 まず最初に思うべき疑問であるはずなのに、今更すぎるだろう自分、とがっくりと項垂れた。あれだ。超常現象を経験しすぎて何か鈍くなってんじゃないか?私。それにしてもないわー、と自分に呆れていると、僅かに動いた指先がこつん、と何かに当たる。
 うん?と視線を緩慢に下に向けると、思わず、ん゛ん゛っ!?と変に息が逆流して咽こんだ。げほごほっと数度咳を繰り返して、パッと両手を上にあげる。おいおい、なんてものが転がってるんだ・・・!

「刀・・・!?」

 そこにあるのは、紛れもなく鞘に収まった日本刀であった。え?なに?模造刀?いやまぁ、こんな立派な床の間があるんだから、模造刀の一つでも飾りに置いていたら様になるだろうけども!!しかし、床の間で刀置きの上にでも鎮座していそうな立派な拵えのそれは何故か床の間でも飾り棚でもなく、私のすぐ脇に転がっている事実。あまりに無造作に転がっているものだから、通常触るのが憚られるそれに、好奇心混じりにそっと手を伸ばした。まぁ、周りに人の気配もないし、ちょっとぐらい、ね?
 そう言い訳をしつつ、恐る恐る手を伸ばして、そっと鞘の部分を触る。大きさはざっと90センチぐらい・・・?1メートルはなさそうなので、最近のものにしては割と短めだ。分類でいうなら打刀といったところか。艶めく表面に無数の斑紋が白く光り、確かこれは、と過去の記憶を引っ繰り返した。

「カイラギ・・・?だった、かな。随分と風流な拵えだこと」

 梅花皮、とも書く。まぁ字も読み方も様々ではあるが、一般的にカイラギという用語は陶芸などで使わることが多い。釉が縮れて粒状になった部分のことを言うのだが、まぁ実際の焼き物を鞘に使っているわけではない。蝶鮫の皮肌の白い斑点が、そのカイラギに似ていることから転用して使われているのだ。でも、こういう飾りは鞘に使うよりも剣の柄に使われることが多いはずなんだけど。
 しげしげと鞘を眺め、今度は柄の方に目をやる。ほう、透かし鍔か。随分とまあ凝った仕上げをしているものだなぁ、と感心しながら、つつぅ、と柄の部分まで指を滑らせ、ふと首を傾げた。・・・なんか、この刀、模造刀にしては、随分と年期が入っているような・・・?あと、なんか、こう、あくまでも昔モノホンを見ていたし使っていた側の人間からするとね?ちょっと、本物っぽいなぁ、とか。とかとか?

「・・・・まさか、ねぇ?」

 疑いつつ、恐る恐る、鞘をそっと握りこむようにして両手で掴む。いやーな予感、と思いながら少し持ち上げると、ずっしりとした鋼の重みが両手にかかり、思わぬ重さに落とさぬよう、ぐっと腕に力を込めた。これは、と眉を寄せて、鞘から片手を離して、柄を握った。それから、少し力をこめて横に引く。カチン、と小さく音をたてて鯉口から僅かに鈍色の刀身が見え、するすると引っかかりもなく四分の一ほど刀身を鞘から出して動きを止める。しげしげと眺めた刀身は綺麗に、且つ鋭利に輝き、白い刃紋の波打ちを見つめ、こっくりと一つ頷く。無言で刀身を鞘に戻し、そっと、それはそれはそっと慎重に、刀を畳の上に戻すと、座敷に手をついて、ずりっと半歩ぐらい後ろに下がった。うん。

「本物かよ・・・!」

 ちょ、マジモンの刃物ですよ物凄く切れ味よさそうな刀身でしたよやだなにこれ怖い!起きてすぐ横に本物の日本刀とか超怖い!なに!?これでなにをされる予定だったの!!??首?首狙われてた?ならいっそ寝ている時にスパッと!スパッとお願いしますぅぅぅぅっ。物騒にすぎる凶器の存在に、見知らぬ場所に拉致された事実以上の混乱に見舞われ顔から血の気を引かせてぎゅっと両手を握った。
 何もあれを握ったこともない人間だは言わない。振るったこともない、ただの真っ当な一般人だとは、口が裂けても言えないことはわかってる。無論今生では、そう言っても問題のない身の上であることは明白だが、魂の経歴がそれを許さないのだから仕方ないだろう。かといって、好き好んで人を斬る道具を握っていたわけではないのだ。
 正直怖いし持ちたくないし観賞用でもない用途不明で置かれている日本刀など、手に取るという選択肢など私の中にはない。
 好奇心が身を滅ぼす――そんなよく話に聞くような事態に遭いたくはない。
 確実に、明確に。あれを手に取り携えれば、私は何か取り返しのつかないことに巻き込まれる。そうだ。そもそもここがどこかもわからない。知らぬうちに連れてこられたこんな場所で、不自然に置かれたそれが怪しくない筈がない。というか何故私は拉致られたんだ?目が覚める前まで、何をしていたか。
 状況を整理するためにも、さほど昔でもない過去を思い返す。
 父が死んで、葬儀を取り仕切って、その葬儀が終わって、参列者も帰って、一息吐こうとしたところで、変なスーツのおじさんが―――明らかにあいつがなんかしやがったんじゃねぇか。

「拉致誘拐、だけど拘束もしないで部屋に放置?」

 しかもその部屋が今時見ないような純和室?・・・誘拐犯が何を考えているのかわからない。そもそも凶器・・・いやこの場合武器を近くに置いていることも解らない。下手すればこれで被害者が暴れまくる可能性だってあるのだ。まぁ私はあんまり触りたくないですけどね!行動の意図が読めず、しばしの黙考のあと、とりあえず日本刀を視界から排除してそろそろと這うように障子戸に向かった。・・・せめて障子の張り替えでもしてればいいのに、それもせずに放置とか外を見てみろとでも言いたいのか?
 きゅっと唇を噛みしめ、息を殺しながら穴だらけのそこから、腰を屈めてそっと外を覗き見る。板張りの廊下の向こう側は庭になっているのだろう。荒れ果て、好き勝手に枝葉を伸ばす植木や雑草が生い茂り、元は手入れされた庭園だったろうに、今は見る影もない寂れた様子が垣間見える。庭の向こう側には土壁の塀が見えるが、それも瓦の部分が半ば崩れかけており、一体どれだけ放置されて久しい屋敷なのか、と首を傾げた。
 ・・・見張りの影も形もないな。視線を動かして廊下の左右を見やるも、姿どころかその影を見つけることもできず、そっと覗き込んでいた穴から顔を離して、口元に手を添えて畳の上に座り込んだまま思考を巡らせる。
 怪しい。何もかもが怪しすぎる。まるで自由に動き回ってくださいね、と言わんばかりの待遇だが、なら何故わざわざ拉致などしてこんなところに放置した?金銭目的にしても葬式があった直後の家にわざわざそんなことをする酔狂な人間がいるとは思わない。なにせ金を使った跡がわかるだけに、狙うならもっと金持ちのところを狙うだろう。いや、まず金銭目的ということはないかもしれない。

「特定されてたしな・・・ならやっぱり用があるのは私?」

 思い返せば、わざわざ本人確認までされたのだ。まぁ、返事をする前に意識がブラックアウトしたので向こう側が私をちゃんと私と認識したのかはわからないが・・・あんな借家にわざわざ来るぐらいだから、あの問いかけが形式的なものなのはわかりきっている話だ。問題は、ならどうして「私」を拉致したか、ということだ。私が目的ということは私になにかさせたいことがあるということのはずである。それとも私には私の知らない出生の秘密でもあって、その関係でこんな廃れた屋敷に拉致を?・・・いや、それにしたってこんな無防備な放置の仕方はないだろう。逃げられでもしたらそれこそ意味がないのだから。

「・・・どれにしたって、こんなやり方はない、な」

 最悪、目覚めてこれだけ時間が経っているのだから誰か一人でも顔を見せるものだし、そもそも見張りの一人もいない状況が解せない。普通、目が覚めたことを誰かに告げる役目の人がいても可笑しくないはずなのに、完全放置も甚だしい。
 さて、これは、勝手に屋敷内を見て回れと言われているのか・・・日本刀が置かれているのも、何か意味があってのことか?ということは、ここには何か変なことが起こっていると・・・?そしてそれは、日本刀を持って対処するような・・・?

「・・・どう転んでも嫌な予感しかしないや・・・どーしよ・・・」

 かといって何時までもここにいるのもどうなのか。人の気配が微塵もしないので、もしかしてこの屋敷には誰もいないんじゃないかとすら疑っている。この屋敷の規模がどれほどかはわからないが、庭を見るに結構な大きさの屋敷じゃないかと思っている。
 動き回るに支障はなさそうだし、むしろそれを望まれている気さえしているので、現状、場所の把握の為にも探索はしてみたいところだ。かといってここまでお膳立てされすぎると、あまりに私にとって不都合な展開が待っていそうなのも事実。持っていけとばかりに転がっている刀もそうだし、さっき触らぬ神に祟り無しと決めたばかりなのに、今更それを手に取れと。・・・・いや。

「こうなってる時点で、逃げる術はない、か」

 逃げるならば、あのおっさんに遭遇した時点でどうにかするべきだったのだ。私はすでに渦中の只中にいる。踊るしかないのだ、きっと。相手の思うように、行動する以外に選択肢はない。せいぜい、祈る程度しか私にできる術はないのだろうなぁ、と溜息を吐いてくるりと後ろを振り返った。そこには、私が置いたままの刀がただ静かに鎮座している。
 無言で、けれど、じっとこちらを見られているような。不可解な気配を感じつつ、惑うように視線を泳がせ、やがて深い溜息と共に立ち上がった。

「・・・行こうか」

 刀の前に立ち、見下ろして、そっと鞘に手を伸ばす。ずっしりと重たい鋼の重みを感じながら、できればこれを抜くような事態にはなりたくないな、と眉を潜める。
 腰に差すのがいいのだろうけど、さすがにスカートの腰に差し込めるほどの隙間はない。なにせ、葬儀後の拉致なので恰好は学校指定の制服姿のままだ。水兵を模した襟に、赤いスカーフがちらちらと揺れ、膝丈の紺のプリーツを翻してボロボロの障子戸に手をかけた。息を吸って、ぐっと背筋を伸ばして腹に力を籠めた。
 えぇい、どうか手に負える範囲の厄介ごとでありますように!!
 祈りながら、障子を引く手に力を込めた。