セーラー服と日本刀



 案の定、押し入れの中にあった布団は黴臭く湿気ていて、とてもじゃないがそのまま寝るには憚られる代物だった。ダニとかもいそうだったので、明日は晴れたらこの布団は天日干し決定である。でもできるならクリーニングにでも出して洗いたいなぁ。できるはずもないけれど、と溜息を吐いて、道すがら見つけた箒で部屋の中を軽く掃き清め、とりあえずの寝床を整える。
 今日はここで直寝である。かったくてボロボロの畳の上とか、世知辛い。つい昨日まで普通に現代のお布団で寝ていたのに、なんだろうこの嬉しくない劇的ビフォーアフターは。野宿でないだけマシだろう、と言い聞かせてみるものの、やっぱり納得できない気持ちもあるわけで。本当、理不尽極まりない状況である。まぁ、これでもどこでも寝られるような訓練は前世に受けているので、多少寝床が硬かろうと汚れていようと、寝られますけどね!使い終わった箒は近くの壁に立てかけ、電気も通っていない部屋に、燭台もないので部屋の中は大層薄暗かった。明かりは全て外からの自然光源だけだったので、今頃は月明かりに取って代わられていることだろう。
 夜目は利く方だし、月も出ているので何も見えないわけではないが、行動は制限される。まぁ今日はもう動く気もないけれど、と文机に置いておいた刀を取り上げて、抱え込むようにしてごろり、と横たわった。ついでにパソコンの方も実は日が落ちる前に触ってみたけど、そもそも電気が通ってないから動かしようがなかった。現代機器もこうしてみればただのガラクタである。それにしても見たことのない型のパソコンだが、最新式なんだろうか?それとも逆に旧式?どっちにしろ使えないので、無駄っちゃ無駄だけど。そんなことよりも、予想通りに寝心地の悪い畳の堅さに非常に微妙な気分だ。堅い畳の感触にもぞもぞと位置を探りつつ、久しぶりの雑魚寝なので、明日節々がちょっと痛いかもしれないなぁと、ぐぅぐぅと鳴るお腹から意識を逸らすように目を閉じた。
 思えば、あの葬儀のあとから何も食べてないし飲んでない。お腹は減ったし、お葬式の後だから精神的にも肉低的にも疲労が溜まってる。疲れた、なんて言葉では言い表せないほどに、疲れた。
 寝転がった拍子に、これまでの疲れが一気に押し寄せてきたのか、ぐったりと体から力が抜ける。べったりと頬を畳みにくっつけて、抱き枕のように抱えた刀の柄にぐりぐりと額を押し付けた。硬い。いや当たり前だけど。うぅ、疲れたよぉ・・・。
 そういえば怪我をした手も何もしてないままだ。まぁさして痛くないからいいんだけど。時折ピリっと走る痛みに門の所で怪我をした手を思い出して、しかしそれらを治療できる器具もないので、やっぱり放置の方向で、と早々に投げ捨てる。

「明日は・・・布団を洗って・・・それから井戸を見て回って・・・食料探して・・・やることいっぱいだなぁ・・・」

 明日は晴れることを祈ろう。でないと動き辛い。せめて水と食料だけは絶対確保しなければ。瞼を閉じたせいか、それともやはり疲労が溜まっていたのか、うとうとと意識が微睡み始める。刀を抱く手も徐々に抜けていって、あぁそういえばこの刀もどうしたらいいのかなぁ、と微睡み始めた頭で考えた。必要ないといえばないような気もするが、しかしあえて刀があったことが引っかかる。鍛冶場まであったわけだし、この刀もどうもきな臭いというか普通じゃなさそうだし・・・離すに離せずこの状況だが、明日からはどうしようか。
 あぁ、でももう今日はいいや。眠いし、疲れたし、眠いし。諸々のことが最早面倒くさくなり、全てを丸投げにするように、私は迫る睡魔に大人しく身を委ねた。





 それから、どれだけの時間が経ったのだろうか。不意に、パキィン、とガラスの割れるような乾いた音が聞こえた気がして、ふっと目が覚めた。
 月明かりが障子越しに室内を照らし出す中、幾度か瞬きを意識的にこなすと、上半身をむくりと起こしてじっと穴だらけの障子を見つめた。
 今、何かがこの屋敷に入ってきた。それが何かはわからない。ただ、屋敷の結界を越えて、何かが入ってきたような妙な違和感がざわざわと肌を這いまわっている。
 静謐な空間を、一点の歪みが犯していくような。酷く歪で、不気味な気配――陰の気配を纏った、覚えのある気配だ。
 あのガラスの砕けたような甲高い音は、恐らく屋敷の周囲を覆う結界の壊れる音だろう。かといって、あの大きな結界の全てが壊れたとは思えない。迂闊に結界全てが壊れてしまえば、この屋敷を異次元の中で保つことなどできないだろうし。ならば一部に穴でも開いたか。いや、開けられた、のか・・・。あまりにも不穏な空気に、無意識的に抱いていた刀を引き寄せて、柄に手をかけて息を殺した。
 じっとりと額に汗をかいているのがわかる。キリキリと弦を引くような緊張感が静寂の中でピンと張りつめて、ちょっとの動作でふつん、と途切れてしまいそうだ。
 緩く、握るか握らないかの瀬戸際で柄に手をかけたまま、片膝をたてて、腰元で刀を構えた状態でごくり、と唾を飲み込んだ。ドクドクと早く打つ心臓の音が耳に響いて煩い。
 一体、どれぐらいその体勢でいただろうか。ほんの数分かもしれないし、数時間かもしれない。時間の経過も曖昧なほど研ぎ澄まされていく意識に、額に浮かぶ汗がたらり、と米神を伝うその感触さえもまざまざと感じた。そして、その時はやってくる。本来ならば来てほしくはない、その時が。
 音はない。あの歩けばミシミシと音がなる半ば腐りかけの床板が来訪者を告げることは無く。しかし、確かにそれは近づいていた。最初は、それの鼻先だったのかもしれない。
 ほんの僅かに、部屋をぴしりと仕切る障子戸に、月明かりで浮かび上がるまるで影絵のような姿。
 光の角度のせいなのか、大きく、白い障子をスクリーンのようにして、それは徐々に姿を現した。最初に鼻先。口に何かを咥えて、次に胴体。まるで蛇のように長くうねる胴体が、その頭から尻尾の先まで黒い影となって余すところなく障子戸に浮かび上がる。形は、蛇のようとはいったけれど、ひどくデコボコとして、それでいて細い。肉など一切ないような、ひどく薄い胴体が空中をうねるように飛んで、目を疑う暇もなく、それはただただ異形の為りをしていた。自分に関係ない、いや、あるいは自分以外に誰かがいて対処をしてくれるのならば「うわぁ、マジかよ」ぐらいの余裕はあったかもしれない。別に初めてでもないし、嫌なことながら慣れている。ただ、現状、守ってくれる相手もいなければ助けが来るような気配もない。そんな状態で、余所事に気を取られているわけにはいかなかった。
 呼吸が自然、細く、長く、小さくなる。全力で、気配を殺しに行った。唾を飲み込む音すら憚られる、耳に痛いほどの静寂。泳ぐ蛇のようなそれが、ゆっくりと部屋の前を通り過ぎる。こちらに気づかなかったのか、それともそれはただの浮遊するだけの異形なのか。
 ただ障子越しにもわかる酷い穢れの気配に、良いものではないことは確実だとふっと肩から力を抜いた瞬間――赤い燐光が、両目に焼きついた。

「―――っ」

 破れた障子の隙間から、爛々と鈍く光る二つの赤い光。薄暗く、底知れない空洞の奥から、赤黒い光がじっとこちらを見つめている。
 空洞は虚無だ。暗く淀んで、負の気配を詰め込んでどろりと溶かしたかのような無明の闇。そこにぽつんとある赤い光は、決して希望などと呼べる優しいものではなく、ただひたすらに、燃える憎悪と妄執に駆られた、ひどい執着の輝きだ。
 ぞわり、と一瞬にして全身の汗腺が開いたかのように肌が泡立つ。ぞっとする。あの目、あの色、その全て!ひゅっと息を呑んだ瞬間、一切の思考を投げ捨てて、鞘から剣を抜き去り鞘を投げ捨てるのと、元々ボロボロだった障子戸をぶち破って、それが部屋に押し入ってくるのはほぼ同時だった。

 ギシャアアア!!!

 形容しがたい獣の咆哮にも似た雄叫びが空気を震わせる。破られた障子の木枠の破片が飛び散り、飛んできた破片が手足を掠めた。
 遮る物がなくなった月明かりが、室内を余すところなく照らし出す。その光を背負って、襲い掛かってきたそれは――まさしく、化け物と呼ぶに相応しい異形の姿をしていた。
 赤い燐光を宿すぽっかりと闇を抱えた眼孔。うねる長い胴体に肉は無く、生白い骨だけがその体を作っている。口には何故か短刀を咥えていて、ぎらり、と刃は物騒な輝きを見せた。化け物は狙いをこちらに定めると、いくつもある肋骨の鋭い先を月光に一層青白く光らせ、胴を大きくくねらせてその尾の先でまるで泳ぐように空を蹴ると、一段と速さを増して迫ってきた。咄嗟に、抜いていた刀で襲い掛かってきた化け物の短刀を受けたが、骨骨しい外見に見合わぬ重さに、ぎしり、と柄を握る手に力を籠める。冷や汗が止まらなかった。
 さすが怨霊。見た目に見合わぬ馬鹿力ですこと!相手が刀を口に咥えているものだから、間近に見えるその空虚且つ不気味な瞳にぞっと背筋を泡立たせ、ギリギリと鍔迫り合いを続ける。これは、長時間は圧倒的に不利だ・・・!徐々に押される均衡に、ぐっと奥歯を噛みしめるとふと長い尾がゆらりと閃いたのが視界の端に横切った。瞬間、はっと目を見開いて一瞬鍔迫り合いにかけていた力を抜いて、抵抗のなくなった反動でよろめいた相手の隙を突いて体を屈めて刀を最下段に構える。頭を下げた瞬間、ブォン、と風を切る音が聞こえて、頭上を骨骨しい尻尾が通り過ぎた。明らかに顔面を狙う打撃だ。弧を描くように大きく空ぶったその無防備な背骨目がけて、ヒュッと鋭く呼気を発しながら、下段に構えていた刀を下から掬うように切り上げた。ガツリ、と堅い感触が刀身から痺れるように柄まで伝わってくる。しかし、止めているわけにはいかない。歯を食いしばって、骨に食い込んだ刀身を、そのまま上に跳ね上げ、胴体を斬り飛ばす。
 ギシャアァァ、と苦悶と思しき声をあげたそれに向かって、振り上げた刀を今度はその首目がけて、振り下ろした。


 ズパンッ


 いっそ小気味よいほどの切れ味で、怨霊の頸椎と背骨が切り離された。拍子に、ぽろりと口に咥えられていた短刀が落ちて、すとん、と畳に刃の中ほどまで突き刺さった。
 首と、胴の中ほどと、二か所切られたそれは綺麗に三分割にされて、動きを止めてピシピシ、と骨全体に罅が入っていく。それから、瞬く間に白い骨全身に亀裂が走ると、パキィン、とまるで何かが折れるような、そんな鈍い音をたててそれは完全に砕け散った。
 きらきらと、白い粒子が空中に飛散し、月光を弾いてプリズムのように輝く。やがてその粒子も本当の光のようになって、空中に飛散したまま、ふわり、と溶けて消えて行った。
 刀を両手で握ったままその光景をじっと眺め、最後の一粒まで昇華されたかのように消えていく様を見届けてから、がくり、と肩から力を抜いた。がくがくと両足が震え、乱れた呼吸が五月蠅いぐらい室内に響いた。

「び、びびった・・・」

 床に刀を突き立て、それを支えにしてずるずるとしゃがみこむ。縋るように柄に腕を絡めて、熱くなる眼球に唇を噛み締めた。

「ない、ないったらない。マジでバトルありきとかそんな定番必要ない」

 これ、私に戦闘経験があって武器の使い方を知ってるからなんとかなったけど、そうじゃなかったら初っ端で詰んでた。確実に初撃で喉掻っ切られてた。
 今更ながら、自分の身に迫っていた鋼の刀身の鋭利さを思い出して、ぞわぁ、と怖気が走った。ひぃふぅ、と荒い息を吐いて、本当になんなの、とぽつりと弱弱しく呟いた。そりゃ武器がある時点でなんかあるかもなーと思わなかったわけじゃないけど、それが本当になってほしいなんて思ったわけじゃなくて。むしろ想像のままで終わらせたかったぐらいなのに、こんなのってあんまりだ。
 少なくとも化け物との戦闘経験がなかったわけじゃない。怨霊という、ほぼあれと同じようなものと戦ったこともある。忍びとしての技術も経験も磨いたことは有る。それでも、決して自分が矢面に立つほどに優れていたわけではなかったし、基本的には守られる位置にいたのだ。こんな、明らかに自分一人で対処するような事態など早々あるわけもなく、甘ったれな自分と、守られていた事実に天を仰いだ。
 久しぶりに感じた命への危機。奪われるかもしれない恐怖。凶器を握る恐ろしさと、張りつめたそれだけで命を削るような緊張感。久しく忘れていたその感覚に、きつく目を閉じて唇を噛み締めた。あぁ、―――忘れて、いたかった。

「・・・まだ、終わってない」

 感傷は僅か。掠れた声で囁くと、目を開けて天井を見つめた。まだだ。まだ、終わってない。まだ、この屋敷の中をあの穢れを纏った怨霊が蠢いている。
 空気を通じて伝わる。この閉ざされた空間で、いくつかの歪みが何かを侵していくのを。じわじわとこの屋敷そのものを塗り替えようとするようなその感覚に、あれを野放しにしておくわけにはいかない、と上を向いていた顔を、正面に戻す。
 目の前に、床に突き立てた刀がしん、と沈黙して佇んでいた。刃毀れ一つない白刃が、月光を弾いて鈍く白く光る。
 この場所を守らなければ私に道はない。あれらを倒してしまわなければ私は生きていられない。あんなのと共存なんて土台無理な話だし、そもそも問答無用で殺しにかかるような存在だ。相容れるわけもなく、生き残るために、自らを守るために、取るべき道など決まっていた。どれだけ選びたくなくとも、どれだけそれが厭うべき手段だとしても。
 そうしなければ、何も残らない。わかっていた。痛いほどに。だから。

「――行こう」

 逃げるという選択肢はなかった。逃げてもいいという声が聞こえなかった。守ってくれる人などいない。助けてくれる存在などありはしない。
 私の元にあるのは、自分と、目の前の刀だけ。
 突き立てた刀の柄に手を伸ばし、立ち上がって床から引き抜く。すんなりと抜けた刃は歪に私を映して、それがまるで泣き顔みたいに情けなくて、あぁ、全く覚悟なんてできてないんだなぁ、と苦笑を浮かべた。やっぱり、刃に映る自分は、泣きたそうにヘタレた顔をしていたけれど。

「泣かないだけ強いでしょ?」

 まぁ、泣いたらそこで私は終わっちゃうと思うけど。きっとそれは強さではないとわかっていたけれど、それは今は見ないフリをして、視線を逸らすと前を向いて唇を引き結んだ。
 さぁ、行かなくては。大きく深呼吸をすると、ふわりと。暖かな気配を感じて、咄嗟に横を振り向いた。しかし、横に何かがいるはずもなくて、ただそこには、青白く月明かりを浴びる廊下の先が続くだけ。だというのに、なぜか横に、寄り添うように、誰かがいるような、そんな気がして――どこか、少しだけ、ほっとした。
 私の目にも見えないとは、よほど実体が作れないほどに弱いのか、それとも見せる気はないのか――まぁそれでも、寄り添ってくれる程度には、気にかけてくれているのかな。
 この屋敷に住む何かなのかもしれない。あの鍛冶場の妖精のような。ふふ、と少しだけ吐息を零すように笑みを浮かべて、ぐっと柄を握りしめた。

「いっちょやりますか!」

 大丈夫。助けてくれる人も守ってくれる人もいないけど。
 全部私が背負わないといけないけど、もしかしたら死んじゃうかもしれないけど。
 それでもきっと、一人じゃないなら、ほんの少しだけ、頑張れる気がした。