セーラー服と日本刀



 とん、と軽い音をたてて瓦屋根の上に立ち眼下を見下ろす。時折、強い風が遮るものもないので直接肌に触れて体を冷やしていくが、乱れる髪を軽く押さえつけて目を細めた。

「・・・なんか増えてる・・」

 広い庭を、のそのそと何かを探し回るかのように動き回る物騒で不気味な化け物たち。あの赤い角を持った大太刀の怨霊だけではなく、白拍子姿の薙刀を持ったやはり大きな怨霊や、肩に骨の蛇を巻きつけた槍を持った怨霊など、どうも今日は大振りな獲物をもった敵がわんさかといる。ちなみにどれも初見のものばかりだ。見慣れた短刀さんやら脇差さんやら打刀さんたちはどこいった。
 これはもしかしてあのおっさん共が入ってきたからこんなことになったのかしら、なんて思いながら、一通り敵の数と位置を確認して、そっと体を屈めて腹這いになりつつ、屋根の上で頭を抱える。

「全員でかすぎる・・・なんだあれ無理ゲーか・・」

 速くはないといってもそれは同類からみた範囲であって、人間の身ですとやっぱりそれなりに速いわけでして。その懐に飛び込む?勢いと覚悟がものを言う。一撃で終わらせる力をもった相手と対峙するのは、並大抵の覚悟では為し得ない。懐に入るのもまた然り。死ぬかもしれない一撃を縫って、近づかなくてはならないのだ。恐怖以外の何ものでもないだろう。掠っただけでお陀仏の可能性が高いのが本当に憂鬱この上ない。肉を切らせて骨を断つ戦法が肉も骨も切られる未来しか見えない。泣きたい。一番の敵はきっとこの恐怖心だな、とどくどくと騒ぐ心臓に溜息を吐き出しつつ、何か弱点でもないものか、ともう一度屋根の上からちら、と大太刀ぶん回しながら庭の木々をぶった切っている怨霊に、お前それ整えるの大変なんだぞ!と奥歯を噛みしめた。くっそ好き勝手しおってからに!

「弱点でもあれば、そこを攻める戦略でも考えるのに、・・・ん?」

 首を傾げ、しばし視線を中空に彷徨わせ、ハッと目を見開いて袂に手を突っ込む。ごそごそと探って目当てのものを取り出すと、急いで電源をいれてカメラ機能を起動させる。そうだよ、私にはこの携帯があるのだ!文明の利器がなぁ!あ、でもシャッター音は無しにしとこ。気付かれたら大変大変。設定操作をしてから、遠目から照準を合わせて、ぽちっと画面を押してシャッターを切る。フラッシュもシャッター音もなくした無音のカメラで一通り怨霊の姿を画像に収めると、再び携帯をぱこぱこと操作する。

「・・・あー・・・やっぱ特に弱点とかないんだ・・・」

 初見通り機動が遅いぐらい?流れるスレに溜息を零して、軽くレスをしてあとはやっぱり狭い場所に誘い込んで動きの制限を促すぐらいだな。電源を落とした。何時までもスレを眺める余裕はない。となると戦場は外ではなく中。・・・屋敷を壊すのは心苦しいが、生き残るためには止むを得ないこともある。妖精さん達には目を瞑ってもらおう。
 折角立て直したのにな、と溜息を吐いた瞬間、ぞわり、と背筋に悪寒が走る。刀の鍔がカタリ、と音をたてた瞬間、私は上を見ずに屋根の傾斜を転がり落ちるように体を滑らした。
 刹那、ガシャァン!!と瓦の砕けるけたたましい音が鼓膜を揺さぶる。転がり様今までいた場所を見れば、大きく不気味な白拍子が、今まで私が寝そべっていた場所に薙刀を降ろしていたところだった。粉々に砕けた瓦と薙刀が食い込んだ屋根の棟の部分が回転する視界に見える。ゆらり、と白拍子がこちらに向き直り向かってくる前に、軒先から転がり落ちるようにしてその場から離脱する。落ちる間に体勢を整え、トン、と足を曲げてできるだけ衝撃をなくし、着地音を最低限に留めた。そのまま、縁側から飛び込むように屋内に入ると、ずどんっと音をたてて屋根から白拍子が黒い袴の裾をなびかせ、そこから地面に降り立つ。
 もうちょっとふわっと着地するかと思ったら結構な重量だった。軽く砂煙の立つ中、こちらに背を向けていた白拍子の首が、グギギ、とぎこちない動作で動き始める。と、思ったら、急にグルン、と人間の構造上有りえない角度まで回った首が、正面に私を捉えた。
 お前はフクロウか!!ひぃ!と声にならない悲鳴をあげるも、ばっちり180度回転した首で体は前を向いているのに首だけ真後ろを見ているホラーな様子で、薙刀をゆっくりと構え始めた姿に、ごくりと生唾を呑む。え、待って、その状態でどうやって、

「―――!!」

 首と体の方向性を誤ったまま、言うなれば後ろ向きにこちらに駆けだしてきた白拍子に腹の底から悲鳴をあげそうになったが、ガチン、と奥歯を噛んで必死に耐える。
 ここで大声をあげれば他の敵に居場所がバレてしまう。集われたらやばい、という判断ぐらいはできる。刀を抜き、対峙してみるものの、未だどう戦ったらいいものか、結論が出てないまま相対するのは死ににいくようなものだ。でもあの状態なら首落とせばいけるんじゃね!?と思った瞬間、それが非常に甘い見方だと痛切に思い知らされた。
 恐らく、薙刀の間合いに入った瞬間だろう――ぐるん、と、胴体そのものが、首を追いかけるようにして半回転し、その回転力をも加えた一撃が、横薙ぎに振り払われた。
 ゴォ!と、風を切る必殺の一撃が目前に迫る。これは受けてなどいられない。一瞬で刀を下げ、目を見開いて目測を図る。一歩、二歩、三歩!バックステップで大きく三歩、後ろに下がって薙刀の刃先から逃れると、左足をつけた瞬間、今度は前傾姿勢で前に飛び出す。
 大きな薙刀を思いっきり振るい終わった直後だ。懐に大きな隙ができている。今なら・・・!

「っぐ、」

 打刀を相手の胴体に切り込ませようとした瞬間、横から薙刀の柄がその進路を阻むように突き出される。初手を封じられ、足を止めて回転しながら逆側から切り込むが、今度は下から薙刀の柄を跳ねあげるように突き出されて、刀を受け止められる。ギチリ、と切り込んだ刃が食い込み、一瞬お互いの動きが止まったあと、ぐん、と一気に柄を持つ手に負荷がかかった。

「お、ぉっ」

 ぎちり、と柄を持つ手が白く痺れるほどに力を籠める。刀身が細かに震えるほど、力を籠めてるとぶわっと体中の汗腺が開いたかのように汗が噴き出る。まずいまずいまずいまずいまずい。ぶわっと額に汗が浮かぶ。真向から切り結ぶなんてやっちゃいけない。鍔迫り合いなどもっての外だ。キチキチと刀身が悲鳴をあげる。いや、あげているのは私の両腕か。
 今まで味わったことのない重さが、両腕、いや踏ん張る足や、背骨にまで伝わって、全身が悲鳴をあげる。もたない。そう思った瞬間、下から掬いあげるように、薙刀の強さが増した。ハッと目を見開くと、私の両足は宙を浮いていた。交わったまま、薙刀の柄で持ち上げられたのだ。眼下に長い黒髪の隙間から喜悦に歪む裂けた口元と、蒼い燐光が垣間見える。
 この次の動きは容易く想像できる。投げ捨てるように、大きく振り回された薙刀によって、私は庭の外へと放り出された。まるでボールでも投げるように容易く放り出される自身の体。人間の体ってこんなに軽々飛ぶものなのかと唖然としながら、地面の上に放り出されて凄まじい勢いでゴロゴロと転がった。・・・・っ受け身は取った!大丈夫、動ける!
 間髪入れず立ち上がり、擦過傷と泥にまみれた体で刀を構えて怨霊を見据える。
 ゆらり、とこちらを向いた白拍子は、薙刀を再び構えてにたり、と裂けた口元を見せた。ぞわっと背筋に悪寒を走らせながら、カチカチと鳴る歯を食いしばった。
 どうする、どうする、どうする!?庭に投げ出された。屋内で相手の動きを制限して立ち回ることはできない。恐らくそれも見越してこちらに投げ飛ばされたのだ。理性がないように見えて存外に理性的な判断をする、と頬を引き攣らせた。
 汗が米神を伝い、顎先に溜まってぽたりと滴り落ちる。その瞬間、再び相手が動いた。どん、と大きく足を踏み出し、薙刀が頭上から振り下ろされる。脳天をかち割る勢いで振り下ろされたそれを避けて横に回り、更に後ろに遠ざかる。ブォン、と横薙ぎに払われたそれの間合いから遠ざかるものの、追いかけるように連続して薙刀が振るわれた。あれほど大きな薙刀を振るっているのに、まるで自分の手足のように軽々と扱われては手の出しようがない!!必死に避けながら、じりじりと後ろに下がり続ける。
 追い込まれている、そう自覚しながらも、懐に入り込む隙を見つけられずに防戦一方となる。というかまともに切り結ぶことすらできていない。
 完全に受けるというよりも、ギリギリに受け流す、という形でかちあうことを避けるが、捌き切れずに腕、肩、胴、頬、至る所に裂傷が刻まれていく。ギン、ギン、キィン、と火花が散る鋼のぶつかり合う音が鼓膜を揺さぶり、刀を握る手にじぃん、と痺れが走った。力に差がありすぎるのだ。一撃一撃が馬鹿みたいに重たくて、一瞬受けるだけでも相当の衝撃が両手に伝わってくる。
 今、刀を弾き飛ばされていないだけでも奇跡のように思う。ひゅっと鋭く呼気を吸い、思い切って後ろに大きく飛ぶ。ブォン、と唸り声をあげて軌跡を描いた薙刀から逃げると、とん、と地面に膝をついて、探るように片手で地面を弄る。
 ―――元より、真向から剣だけで迎え撃つほど、単純じゃない。
 弄った地面で、かつりと指先に何かが引っかかる。目の前の怨霊が一気に間合いを詰めてくる前に、突起物にくぐらせるようにして指先を引っ掛け、ぐいっと思いっきり上に引っ張った。瞬間、地面から大量の竹槍が勢いよく飛び出し、土埃をあげて怨霊に襲い掛かる。先が斜めに切り落とされ、鋭く鋭利な形となっている竹槍は、それだけで人の体ぐらいなら軽く貫通するほどの威力を秘めている。
 これなら多少のダメージぐらいは、と淡い期待を抱いた瞬間、閃光のように一陣の線が目の前を走った。

「・・・え、」

 間の抜けた声が零れる。見開いた目に、一瞬にして薙ぎ払われた竹槍の残骸が空中に飛散していく様が映る。一瞬だ。一切の躊躇いもなく、手間取ることもなく。
 たったの一薙ぎ。それだけで、無数にあったはずの竹槍が、全て切り飛ばされた。切り飛ばされ、砕かれた残骸がばらばらとこちらにまで飛んできて、慌ててその飛来物から逃げるように後ろに下がれば、顔から血の気が引くのがわかった。足止めにもならない、だと・・!?
 発動したトラップの向こう側、一切の傷を負うこともなく、悠々と佇む怨霊の姿がある。にやにやと笑う口元が、まるで無駄な足掻きと嘲笑うようで、奥歯を噛みしめた。
 他に、この付近で使えそうな罠は・・・!仕掛けた罠を思い出そうとして、リィン、と高い鍔鳴が聞こえ、はっと顔をあげて前を見る。竹槍の残骸を踏み越えて、怨霊がこちらに向かって薙刀を突き出していた。
 慌てて刀を立てて、ぎゃりん、と火花を散らしながら顔のど真ん中を狙っていた刃先の軌道を逸らす。押し負けて体をよろめかせると、更に横に動いた柄が、がつん、と立てた刀にぶつかって弾き飛ばされた。

「づぁっ!」

 ずざぁ、と倒れ込むように地面に横倒しになり、肘を擦りながらそのまま地面をごろごろと転がる。ざん!と地面に何かが振り下ろされる風切り音が聞こえ、転がり続けて勢いで立ち上がった。

「はぁっはぁっはぁっはぁっ・・・!」

 呼吸が乱れる。肩を大きく上下させて、荒れる息を必死に整えようとしながら、ゆらりと体を揺らして落としていた腰をあげた怨霊に、ごくりと唾を飲み込む。
 悠然と佇む薙刀を持つ白拍子は、にたりと裂けた口角を見せつけて、ゆらゆらと刃先を揺らしながら、音もなく薙刀を構える。その余裕すら感じる動作に――実際、余裕なのだろうと乱れる呼吸を細く整えながら、乾いた笑みを浮かべた。
 多分、今の私はあれにとってサンドバッグか跳ねて飛ばして遊ぶボールのような玩具だろう。それだけの力量差があるし、事実二回ぐらい吹っ飛ばされている。
 怨霊にとって、私の・・・人間の体など、ボールと相違ない程度の肉塊だ。ちょっと突けば吹っ飛ぶ程度のそれを、何時終わらせるかも多分気分次第。今こうして生きているのは、正直偶然のようなものに近い。いや、勿論全てが全て偶然とは言わない。急所を外す努力はしているし、捌き切れずとも、全く捌けていないわけではないから、こうして生き残ってるわけだし。ただ、決定打がないのだ。私に、あれを倒しきる一打が打てていない――打とうと、していない。
 カタカタと刀を持つ手が震える。それは重い攻撃を受け続けてきたからの痺れなのか、それとも・・・・考えたところで、意味はない。いや、考えなくてもわかっている。
 私は、恐怖している。あれの懐に入ることを。凄まじい攻撃の隙間を縫って、あの近くに行くことを――怖がっている。当たれば即死。運が良ければ生きているかもしれないが、多分立ち上がることは難しいだろう。相手の間合いに入ると言うことはそれだけの危険性を孕んでいる。近づいたところでどうにかできるかもわからない。だから怖い。逃げたい。嵐のような剣戟に飛び込むことが、堪らなく恐ろしい――だけど、行かなければ活路がないのもまた事実。
 行かねばならない。行って、活路を作らなければ・・・待つのは明らかな死のみだ。
 細く、息を吐き出す。次いで深く息を吸い込み、打刀をカチン、と鞘に納めた。
 それから腰の反対側に差し込んでいる短刀を握り、すらりと抜き放つ。鈍色の短い刀身がきらりと光りを反射し、ふるりと震えた。
 肩、上がる。腕、まぁ動く。握力、そこそこ。足、問題なし。いくらかの裂傷と擦り傷、痺れが残るものの、動く分にはさほどの支障はない。あぁそうだ、そのように攻撃をいなしてきたのだから当然だ。
 短刀を握る柄を二、三度、緩めては強く握りしめを繰り返し、掌に馴染ませるようにきゅっと握りこむと、低く体勢を構える。さぁ―――覚悟を決めようか。
 だん、と、地面を蹴った。体勢を低くして、一気に間合いを詰めていく。真正面から、トップスピードで。物凄い俊足、というわけではない。乱太郎や、夢前君のように、足に絶対の自信があるわけではない。ただ、それでも・・・決して、私は自分が「遅い」とは思っていない。一気に、先ほどまでの防戦を感じさせない勢いで、怨霊の間合いまで走り込む。僅かに反応が遅れた怨霊が、構えていた薙刀を縦に振り下ろした。ブォン、と風を切り裂く唸り声が聞こえ、眼前に白刃が見える。見える、つまり、動きが追える。もう一度地面を強く蹴り、軽く跳躍する。先ほどまでいた場所に薙刀が空振り、狙いを定めて、その上に着地した。軽業師のよう、なんて、ちょっとした自画自賛。薙刀の峰の上に立ち、顔をあげる。そして、一気に柄を辿って駆け上った。
 これは、人の体重など軽々と扱える怨霊と規格外の大きさが為せる業だな、と思う。でなければ人が乗った武器を支えるなど普通の人間ではできない。普通じゃない人間はできるかもだが、まぁ、そんな人間早々いないのでほぼありえない話だ。
 まぁ、そんな夢物語はさておいて――駆け上り、飛び跳ねて、勢いを殺さぬように、思いっきり、曲げた膝を、怨霊の顔面目がけて叩きこんだ。めきょ、と鼻っ面と膝がぶつかり合う衝撃が伝わり、蹴られた拍子に怨霊の頭が後ろに弾き飛ばされる。か弱い人間の力だとしても、急所に膝蹴りは利くだろう。僅かによろめいた体の上で、肩の上に手をおいて顔面を蹴った反動で足を上に跳ね上げる。勢いで片手倒立まで果たしたところで、ぐっと肩を握る手に力を籠め全身を振り子のように扱い、再度、同じところに膝を叩きこむ。今度はたまらず、大きく傾いだ体の上で大きく短刀を振りかぶった。
 後ろに倒れ込む体。崩れていく足場で、けれど大きな体は妙な安定感を生んでいる。足場があるって便利ね、と白拍子の胸板と肩口に膝をついて振り下ろした短刀が、とん、と軽い音をたてて怨霊の眉間に、その鈍色の刃先を埋め込んだ。

ギャァアアアア!!

 つんざく悲鳴が鼓膜を揺らす。間近で聞いたからこそ耳に痛いその叫びと、深々と突き立つ刀が歓喜に戦慄く。どぉ、と地面に倒れた白拍子の上から素早く退くと、のたうち回り眉間に突き立った刀を抜こうと柄を握って必死にもがく怨霊に、けれど抜かれるものかとばかりに短刀はより深く、一層突き刺さるのみで。
 もう持ち手もいないのに、そこに誰かがいて、奥深くまで差し込んでいるかのようだ。痛みにもがき苦しむ様子は、いっそ哀れみすら誘う。死に際の姿なんてどれも似たようなものだけど。その様子をどこか冷めた、疲れ切った様子で一瞥して、鞘に納めた打刀を抜く。

「・・さよなら」

 ザン

 上から落とした刀身が、吸い込まれるように怨霊の首の上に落ちる。不思議なことに、骨を断つような抵抗感も少なく、すとん、と刀身が落ち切るとごろりと首が転がった。その瞬間、びくん、と陸にあげられた魚のように一度大きく怨霊の体が跳ねて、もがいた腕が、ぱったりと地面に落ちて動かなくなった。首と胴が離れ、じわじわとどす黒い何かが地面に染み込んでいく。酷い光景、と顔を顰める間に、いつものようにしゅわり、と淡い光の欠片となって怨霊の首が、体が、空気中に溶けていく。手にもっていはずの薙刀は、刃先からピシピシと罅が入り、それが木でできた柄まで広がると、パキィン、と乾いた音をたてて砕け散った。怨霊の体と同様に空気中に溶けて消えていくと黒ずんだ染みも跡形なく消えて、後に残されたのは満身創痍の私と、地面に転がる私の懐刀だけだ。
 その様子に、ようやく一つ安堵の息を吐き出して短刀を拾い上げる。一体倒すだけでこれとか、本当に生きた心地がしないなぁ。カチン、短刀を鞘に納めて、痛む体に次は、と顔をあげた瞬間、ぐわん、と突然に、右手が動いた。え、と横目を向けた、その刹那。

 息が、止まる。

 コンマ数秒。空白の時間ができたと思ったら、次いで襲ったのは耐えがたいほどの衝撃だった。何かに背中からぶつかったのだ。みしぃ、と、背骨が、あらぬ悲鳴をあげた気がする。ひゅっと呼吸が止まる。大きく見開いた目の前がスパークして、どさっと地面に落ちた時にようやく息ができた。

「な、が、・・・ごほっ」

 全身が震える。背中が痛い。呼吸がぎこちなく、一瞬止まった呼吸のせいで頭の中が真っ白で、何も考えられない。ただ途方もなく痛みが全身を苛み、指一つ動かせない事実がそこにあるだけで。
 何が起こったのか、何があったのか、わけがわからぬまま、崩れ落ちた土の上でぎこちなく顔を動かして視線を動かす。

「・・・ぁ、・・・」

 そして、見つけた姿に、瞳を限界まで見開いた。
 大きな体。赤い鎧に、頭部から生える二本の角――その手に、巨大な太刀を携えて。
 思わず、歯がみした。地面に爪をたて、ぎりぎりと土に跡を残しながら最低だ、と歯を食いしばる。一体だけじゃなかったのに。決して、油断なんてしてはいけなかったのに。薙刀の怨霊を倒したところで、もう一体の存在に気付けなかった。そりゃそうだ。あれだけの大立ち回りをしていれば気づかれるし、気を抜いたところに攻めてくるのは当然のことだ。わかっていながら気を抜いていたのは、完全なる私の落ち度である。

「く、そぉ・・・・っ」

 動かなきゃ。立たなきゃ。剣を取って。構えて。そうじゃなきゃ死んじゃう。殺されちゃう。嫌だ、死にたくない。生きていたい。こんなところで、わけもわからないまま、何の事情も知らないまま、殺されたくない。―――――なのに!!
 動かない。体が言うことをきいてくれない。背中を強打して、痛めたのだろうか。痺れたように手足が動いてくれなくて、途方もない痛みが背筋を中心に全身を苛む。
 嗚呼、どうして・・・!視界に、悠然と近寄ってくる怨霊の姿が映る。剣先を地面に擦りながら、恐怖心を煽るかのように近づく姿に、視界が歪む。
 地面の上で、みっともなく蹲ったまま、縋るように何かを探す。縋る物なんてないのに。助けてくれる人なんていないのに。それでも探したのは、私が弱いからだろうか。
 地面スレスレの視界に、吹き飛ばされた拍子に手放したのだろう、愛刀が映る。
 沈黙し、投げ出されたその姿に、あぁ、と掠れた吐息が零れた。
 ・・・わたしの、剣。ずっと一緒だった。この屋敷に連れてこられて、気が付いた時からずっと一緒だった。一番多くの敵を一緒に葬ってきただろう。偶に離れることはあっても、私の一番の刀は、彼だった。手を伸ばす。震える手で、少し離れた場所にある刀に腕を伸ばした。
 彼がいなければ戦えない。彼でなければ倒せない。お願い、届いて。お願い、握らせて。動いて体。闘って私の体。痛みなんて糞くらえ。怪我がなに。痛めたからなんなの。このままじゃ死んじゃうの。殺されちゃうの。
 折角教えて貰ったのに。君の名前、やっと知ったのに。今まで呼んであげられなくてごめんね。でも仕方ないよね、全然なんにも知らない状況だったんだから。でもね、もう知ってるんだよ。知ってるの、呼べるの。君の名前。呼んであげられるのに、やっと、君を、呼べるのに。
 視界が歪む。指先が伸びて、僅かに、爪先が、触れて。



「・・・か、・・・せ、ん・・・」



 もう遅いなんて、言わないで。