セーラー服と日本刀
はらり。
一枚の薄紅が、ちらりと視界を横切った。
はらり、ひらひら。
どこからともなく、薄紅の、可憐な花弁が、降り注ぐ。幻でも見ているのだろうか。今際の際の夢ならば、なんて綺麗な桜雨。ぼんやりとその幻影を見つめていれば、やがて桜は量を増し、気が付けば、視界を薄紅で覆い尽くすほどの桜吹雪が全てを覆い隠していた。何もかもを、覆い尽くさんばかりに、桜の暴雨が降り注ぐ。それは、迫る怨霊の姿さえも覆い隠して――その中で、ひらり、と。
大輪の牡丹が、咲いていた。
「嗚呼――なんて、雅じゃないんだろうね」
低くたおやかな声が聞こえる。ほんの少しの呆れと、隠し切れない苛立ちを多分に含めた、聞き覚えのない声だ。桜吹雪が晴れていく。音もなく、本当に幻であったかのように、サァ、と開けていく視界に、一つの人影。黒い外套は風に煽られ、その裏地に大輪の牡丹が咲き誇る。先ほど桜の合間から見えたのはこれか、なんて思った瞬間、誰だろう、と疑問が脳裏を横切った。今この場で、私以外に人などいない。屋敷の中にはいるけれど、まぁあれはカウントしないとして。外套を羽織り、銀灰色の袴を揺らして、背の高い男の人が、私の前に佇んでいる。
これこそ、夢なんじゃないだろうか。死の間際に、助けてと願ったから見せた幻覚だとしたら、随分とよく出来ている。まぁ、夢でも幻でも、悪いものじゃないなら、別にいいかなぁ、なんて、自嘲を浮かべた瞬間、ちらり、と男性がこちらを向いた。
視線があうと、彼はその秀麗な顔を歪めて、けれどどこかほっとしたように目元を和らげた。翡翠色の、綺麗な瞳だ。藤紫色の髪の間から、垣間見えた緑色の瞳に見惚れていれば、彼はすぐに前を向いて、腰に差していた鞘から、すらりと刀身を抜いた。あれ、あの、刀は・・・・。
「折角、ようやく、顕現したというのにこんな状況、全く、これっぽっちも雅じゃない」
腹立たしい、とばかりに、ぶん、と刀が横に振られる。ピッと一切ブレることもなく体の横で留められた刀身はすらりと長く煌めいて、その見覚えのある姿にあれは、と掠れた声を零した。
「あぁ、だけど、ギリギリに間に合ったのは重畳かな?ふふ、本当にギリギリすぎて、生きた心地がしなかったけれど・・・」
なんかごめんなさい。誰に聞かせているのか知らないが、静かに静かに、多分怒っているっぽいお兄さんに、動けないけど気持ち体を小さくする。え、なんか怖い。死の危険とは別の意味でなんか怖い。ひしひしと空気を通じて伝わる怒りに冷や汗が浮かんだところで、ふっと笑い声が聞こえた。
「まぁ、いいさ。この腸が煮えくり返るような感情も、僕の主をこのような目に遭わせた咎も全て―――貴様の首で帳消しにしてやろう」
あ、怒髪天突いてる。それがわかるぐらい、空気が変わった。今までピリピリとしたものが、その瞬間一気に重みを増して鋭さを増す。重たい、痛い、苦しい。怒りと殺意。二つが混ざって、研ぎ澄まされた白刃のように凝ったのがわかる。
無意識に地面の上で手を握りしめると、一オクターブ、低くなった声音で―――彼は、囁いた。
「さぁ、その首を差し出せ」
わぁ、物騒。告げた瞬間、差し出される前に、お兄さんが動く。目にも止まらぬ速さ、というのはああいうことを言うのかもしれない。勿論、敵も動いていたのだろうが、それが動き切る前に、お兄さんの外套がはためいたと思ったら、ざん、と音をたてて、怨霊の首が吹っ飛んだのだ。え、早くね?と目を丸くする。私の苦労はなんだったの?とばかりに実にあっさり、首を跳ね飛ばしたお兄さんにぽかんと口を開ける。
え、あれ?待って。これ、夢じゃないの?茫然としていると、怨霊を即行で斬り伏せた彼は背筋を伸ばしながらふん、と鼻を鳴らした。
「次から次へと、全くボウフラのようだね。まぁ、一々探し回るよりも手っ取り早いか・・・いいだろう、次は誰がその首を差し出してくれるんだい?」
言ってることが怖いですお兄さん。笑っているのに、確実に目が笑っていない声色で片手を差し出す姿に、ぞっと背筋を泡立たせながらぎこちなく体を動かしていく。
視線を動かせば、確かに。お兄さんの視線の先に、先ほどの大太刀と同じ怨霊や、槍を持った怨霊もぞろぞろと姿を見せ始めていた。
これはやばい、と奥歯を噛んで、ぐっと腕に力を籠める。背中が痛い、し、立ち上がるのもままならない、けど。ずっとこうして 蹲っているわけにもいかない。どれも大振りな武器を持った敵ばかりで、いくら先ほど敵を一体瞬殺したとはいえ、分が悪いことには違いない。早く、動けるようにならなければ、敵と切り結び始めたお兄さんの足手纏いだ。どうやら夢?のようだけど夢ではないらしいし。まぁ、夢だとしてもこんな夢なら死んだとしても心安らかだろう。―――助けてくれる、人がいるなんて。なんて、幸せな、夢。じんわりと、目頭が熱くなる。鼻の奥がツンと詰まって、けれど泣いている場合でもなければ、泣ける状況でもない、とぐっと押し殺す。
助けてもらえるなんて思ってなかった。誰かが助けてくれるなんて、思いもしなった。ずっと一人だった。きっと、物語みたいに、ピンチになったらヒーローが、なんて、そんな甘い話有りえないと思ってた。だって、現実ってそうでしょう?都合よくなんて事は運ばないでしょう?だけど、それが今現実に起きているのなら・・・なんて幸せな、奇跡なのだろう。
でもとりあえず動けるようにならなきゃ話にならないな。しかし背中が痛い。ついでに脇腹も痛い。これ確実に骨か筋かやったな。少し思考に余裕が出てきて、恐らく、私はあの大太刀の怨霊に、不意を突かれて吹っ飛ばされたのだろうな、と状況を思い返した。それで壁か何かに激突した、と。・・・・生きているのが不思議なぐらいだ。完全なる不意打ちだった。防御も間に合わなかったはずなのに、なんで私、体繋がったままなんだろう、と考えた瞬間、そういえば、と思い当たる。あの時、勝手に右手が動いたんだっけ。右手が、というよりも、右手に持っていたものが、だろうか・・・あれは。
「刀、が・・・?」
勝手に・・・?あれ、刀。そういえば、私の刀・・あ、そういえば、どこかで。
そこで、はっと目を見開く。よろよろと上半身を起き上がらせながら前を見れば、槍を切り結んでいるお兄さんを視界に捉えた。その手に握る刀を見つめて、目を丸くする。ハッと、乾いた息が零れた。
「うそ」
まさか、本当に・・・?話には聞いていたが、と茫然とすればビィィィン、と不意に腰に差していた短刀が激しく震えた。ぎょっとしながらも、反射的に地面に伏せる。
「っ、つ、くぅぅ・・・っ」
急な動きに、痛めた背中が悲鳴をあげる。痛みに悶絶し、息が止まる。背中だけじゃねぇ。肋骨もやってるっぽい。前と後ろから間断なく襲い掛かる痛みに動きが鈍るが、違う、そんなことしてる場合じゃない、と無理を通して体を捻ってその場から転がり遠ざかる。しかし、立ち上がれずに、地べたに這いつくばったまま、顔をあげるとそこには、短刀を咥えた見慣れた骨魚が浮かんでおり、お前までいんのかよ!!と舌打ちをした。
常ならばいざ知らず、この状態では短刀一つ相手取るのもままならない。あぁ、どうしよう。お兄さんは、駄目だ。彼は今あのでかぶつ達と戦っている。こちらに、なんて呼べるはずもない。絶望感に目の前が真っ暗になりかけながら、襲い掛かってきたそれに必死に体を捩じって一撃を避ける。しかし、避けた拍子に痛めた肋骨にズキーン、と痛みが走り、はくはく、と声も出ずに口を動かした。
駄目、動けな、いや、違う、動かなきゃ・・・!肋骨を押さえ、脂汗を浮かべながら腰を弄って短刀を手に取る。ここで死ねない。折角助けてくれたのに、こんなところでっ。
リン、と、刀が震える。鍔鳴が掌を介して伝わり、視線を向けて、あ、とか細い声を零した。呼んでる。ずっと、ずっと。呼んでいた。何時から?きっと、――最初から?
ひゅっと息を吸い込む。骨魚が襲い掛かってくる。震え続ける短刀の柄を握りしめて―――祈るように、名前を呼んだ。
「今剣・・・!」
刹那、薄紅の嵐が目の前に広がった。視界の一切を埋め尽くす桜の花弁。まるであの時のように、幻想的なまでの桜吹雪が全てを隠した一瞬で、さらりと流れる白銀を垣間見た。一瞬、懐かしい龍の影をみたような、そんな錯覚に囚われたけれど、手の中で握りしめていた刀の柄の感覚がなくなったことに、茫然として目の前を見つめていた。
桜吹雪が晴れていく。薄紅の視界が途切れて、名残のように数枚、空中に溶けて。
晴れ渡ったその先で、小さな背中が、怨霊を真っ二つにしているところが見えた。ギシャアァァ、と断末魔の叫びが響くと同時に、長い白銀の髪がうねるように波打つ。
高下駄を履いた小さな足が器用にぴょんと飛び跳ね、細い足首に絡まる金環がちゃりん、と高く澄んだ音を奏でた。
振り向いた顔は、顔半分が長い前髪に隠れて、片方の瞳だけがキラキラと輝いて私を見つめる。赤い瞳が、それはそれは嬉しそうに、泣きたそうに細くなって、白い頬が興奮したように薔薇色に染まる。
「あるじさま・・・!」
高い舌足らずな声が、感極まったように呟く。茫然と少年を見つめていれば、彼は物言いたげに唇を戦慄かせて、しかし次の瞬間、大きな赤い双眸をきゅっと細め、剣呑な眼差しで横を向いた。
「あぁ、ぶすいなやからばかりですね。かせんではありませんが、まったく、じょうちょのかけらもない」
折角会えたと言うのに、ゆっくり話せもしないじゃないですか、と。酷く不機嫌に吐き捨てて、少年は・・・きっと、今剣という名の短刀は、己自身を構えて、くっと幼い面に似合わぬ酷薄な笑みを刷いた。赤い瞳の瞳孔が、くわっと開いて、爛々と輝く。
「ぼくのあるじさまをきずつけたこと、こうかいさせてあげます」
あ、こっちもこっちで怒髪天突いてやがる。舌足らずな口調のはずなのに、それが役にぞっとするほどの冷たさと人形めいた硬質さを帯びていて、私は顔を引き攣らせた。
少年の(それはお兄さんにも言えることだが)神がかった美貌が、余計こと恐怖心を煽る。整いすぎた顔が怒りを孕むと綺麗過ぎて怖いの典型例だな、と脇腹と背中の痛みに朦朧としながらはぁ、と息を零した。
少年が襲い掛かってくる怨霊を捌くのを視界に映しながら、ゆっくりと体を倒していく。
あぁ・・・・もう、限界。
霞む視界に、眉間に皺を寄せながらゆっくりと、目を閉じる。
きっと、もう大丈夫だと深く息を吐き出して、私はようやく、意識を手放した。