ようこそカレイドワールドへ



 騎空団に寄越される依頼というのは、存外に雑用めいたものも多い。仕事に貴賤はないが、荒事めいた――所謂魔物討伐だとか、盗賊の捕縛だとか、そういったものばかりではないこともよくあった。特化型の騎空団もあるので、一概に任される仕事が荒事ばかりというわけではないが。弱小、あるいは発足したばかりの団なんかはまさに街の何でも屋さん、とばかりに迷子探しだとか、家畜の追い立てだとか、農家の収穫手伝いだとか害獣駆除だとか、まあそんな仕事が多いものだ。そこから実績と信頼を積んで大きくしていくものだが…私らがいる団はちょっとまあ初出からかなりヘヴィな案件が多かったので例外とする。初っ端から大星晶獣とバトルする騎空団などまずいない。それに付随して艇に関わる人間関係もかなりヤバめなのだが、まあ、悪人…悪人?ヤバい人間及び人外はいるが、まあ、今の所、兄さん、引いては艇に害を成すような悪逆非道な者はいない、と思う。多分。始まりが激ヤバでも今が平和なら大丈夫と思いたい。人としてまともかどうかという問いにはヤバいとしか言えないが、害がなければ…大丈夫じゃないかな…。
 さておき、我が団のヤバさについては横に置いて、何が言いたいかというと、兄さん率いるグランサイファー騎空団は、割となんでもやる騎空団である、ということを前提に語りたい。それなりの規模と知名度を得た団というのは得てして依頼を選り好み…といっては語弊があるが、選別することはままある。レベルに応じた依頼というものが世の中にはあるのだ。それで言うなら我が団も人員の質、能力、経験共に中々なものだとは思うがグラン兄さんが基本依頼は全て子守から星晶獣との因縁まで手広く手掛けるので、よく言えば分け隔てなく、悪く言えば見境いがない状況である。まあ背景やら事情が後ろ暗そうなヤバい案件は経験豊富な団員達が見極めてるので受けずに済んでいるので、今の所は我が団の表立っての悪評は聞かない。裏は知らん。妬み嫉みの類などは聞いちゃいられないからね。
 そして今回の依頼は、どちらかというと花形のような討伐や護衛依頼などではなく、とあるお屋敷の片付け任務である。なんでも所有者がお亡くなりになり、引き継ぐ身内もおらず権利だけが宙ぶらりんになって何年も捨て置かれていたのだが、廃屋となった屋敷は治安面でも衛生面でもあまりよろしくない、と住民からの苦情により街の役人が重い腰をあげて撤去に乗り出した物件だそうだ。どこの世界でも空家問題ってあるんだね。それだけなら街中のお役所なり業者がやればいいんじゃないかと思うが、何故か白羽の矢が立ったのが我が騎空団。そこそこの広さを備えたお屋敷の片付けなど人数に物言わせる人海戦術が1番だと思うんだが…町の業者より経費が安かったのかな?
 しかし我が騎空団、出入りが激しいので定常してる団員って基本初期メンバーぐらいなんだよね…。出入りが激しいってのはつまり客員団員が多いというか、割と皆個人で仕事受けてたり用向きが合致したら乗船したりとかで、そもそも別の騎空団もいるしな?十天衆とかな?グランサイファーは止まり木か?まあ金は払ってもらうが。なのでその時々で出られる人員はマチマチで、こういう片付け任務は今の人員的に受けるのはちょっと遠慮したい気もあったのだが、兄さんが快く受けてしまったのだから仕方ない。基本的に決定権は兄さんにあるし、屋敷の片付け程度で目くじら立てる必要もない…と思っていたのだが。

「これは…なんとも趣深いお屋敷だねぇ」

 片付けメンバーはグラン兄さん筆頭にいつメンで固めて、長年放置されていたと言う空家を訪れると、あまりといえばあまりなその風貌に思わず全員絶句する。かろうじて捻り出した言葉は上滑りをして、ラカムさんの半目の視線が突き刺さるように痛かった。

「趣深いねぇ…ちぃっと趣深すぎる気がするけどなぁ」
「こりゃ思った以上に骨が折れそうだな」

 男性陣の溜息が重い。しかし、それを否定する文句を出すには、屋敷の有り様は酷いものだった。棘つきの枯れた蔦が絡みつく背の高い門扉。その奥に広がる元は美しかったのだろう庭園は手入れが入ることなく植木や雑草が好き勝手に群生し、育った木々が絡みついて昼間なのに全体的に薄暗い。放置されたガーデンスツールやテーブルは背の高い草や蔦に浸食され、雨風に晒されて腐っていたり足が折れていたりと殊更哀れな様子で庭先に佇んでいるのも雰囲気づくりに一役買っている。こういう、無造作な場所にある植物ってのはどうしてこうも生命力が強いのか。あぁ、逆か。生命力が強い植物が生き残った結果、人の手が必要な植物は淘汰されていくのだろう。寄生植物だろう蔦の絡まる細い枯れ木を見やり、鬱蒼とした庭の向こうに静かに佇む屋敷を見上げる。立派な洋館だ。元は白壁のそれは薄汚れ、アイビーのような植物が壁面を半分ほど覆い、まるで黒い手に襲われているかのよう。あながち間違いじゃないかもな、と思いつつぐるりと外観を見渡す。壁面に嵌めこまれた窓は、硝子が無事そうなのもあれば割れているものとマチマチで、中の様子は暗すぎてよく見えない。ただ、窓際にかかっているカーテンがなかったり、ビリビリに破れていたり、これは中も相当だろうな、と容易に想像できた。屋根の風見鶏が風に吹かれてくるくると回転しているのが物寂しい。主のいない屋敷の屋根の上で、一人ぼっちなのは殊更哀れだ。廃墟の洋館。このフレーズだけでなんかちょっと、アレな雰囲気を漂わせている。その思考を呼んだかのように、ビィがうへぇ、と顔を顰めてパタタ、と羽を動かした。

「幽霊でも出そうな屋敷だぜ」
「ちょ、ちょっとやめてよビィ!皆思ってても言わなかったのにっ」

 グラン兄さんの頭にしがみついたビィに、イオちゃんがびくっと肩を跳ねさせて眉を吊り上げる。ぎゅっと握りしめた杖の先がプルプル小刻みに震えて、ちらちらと視線が屋敷とビィを行ったり来たりした。幽霊屋敷。まさにそれ、と同意しかない。ビィが例えたようにそう表現されてもなんら遜色ない洋館は、昼間だというのになんだかどんよりしている。空は晴れているのに、雰囲気だけで暗く感じるのだから外観とは大事なものだ。まあ、別にそれ以上はなにも感じないので、ナニがいるわけでもないただの廃墟なんだろうけど。

「でも、とても立派なお屋敷ですね」
「元の持ち主は相当な資産家だったそうだ。だが妻帯はせず、子供もいなかったことから継ぐものもおらず、ずっと放置されていたそうだが」
「町の人からなんとかしてほしいって嘆願書が出たんだっけ、確か」
「空き家問題ってのはどこにでもあるからねぇ。放置してると変な人間に利用されたり、鼠や虫が湧いてご近所に迷惑かかることもあるし。治安面と衛生面からいっても、さっさと更地にするのが一番なんだよ」

 まぁ金銭面だの、土地の利権だのが絡んで進まないこともあるからそう簡単な話ではないのだが。というか管理さえされていれば別に人が住んでようがいまいが気にされないんだろうが、管理者不在の放置ってのが問題なのだ。景観的にもよろしくないって文句が出たんだろうなぁ。まぁ、この有様じゃしょうがないだろうけど。だって見た目完全に幽霊屋敷。ホラースポット扱いされてもしょうがない。そうなると子供とかが変な好奇心に駆られて屋敷に侵入して、怪我とか事件とかに巻き込まれかねないっていう可能性もある。割れた窓なんかは実はそういったことがすでにあったせいじゃないかと思うんだよね。

「更地にするなら、中のものも全部やっちゃえばいいじゃない」
「いや、更地ってのは一例だし、やっぱりある程度中の片づけは必要だと思うよ?…というか、資産家だったせいで中にあるものも結構値が張るものが多いって話だし」
「家財出して金にしちまおうって算段だな。小物はともかく、でかいものはそのままだろうからなぁ」
「とにかく、ここでこうしていても仕方ない。中に入ってみよう」

 兄さんの一声で、チェーンで雁字搦めにされて南京錠で固定されている門に近づく。空の世界の資産管理がどうなってるのか知らないが、年単位で失効するようにしているんだろうか。日本なら勝手に空家の撤去とか家財の売買とかできないけど、まあ町や国毎に法律違うからなあ。
 町の一応の管理人から渡された鍵を差し込み、がちゃりと捻って南京錠を開けるとぐるぐる巻きのチェーンを外してぐっと内側に押し込んだ。ギ、ギギィ…と重たく軋んだ音をたてて、格子状の門が開いていく。やだ、音さえも不気味。…まぁ、やばそうな気配はないので大丈夫だとは思うが。ルリアちゃんも反応していないし、ホラー案件やら星晶獣案件にはならない物件そうだ。あとは人為的なものが絡んでこなければ普通の御片付け任務だな。いやものすごい大変だけど。…中を見分して、計画を練らなくちゃなぁ。人手と日数、考えなくちゃ。
 玄関までのアプローチに敷いてある石畳の隙間から芽を出す草を踏みつけながら、重厚な門扉の前に立つ。ここも封をするように取手にチェーンと南京錠がかかっている。普通の施錠だけでは飽きたらないというのか…。

「随分と厳重にしてんだな」
「もしかしたら事故があったのかもしれないね」
「事故、ですか?」
「子供とかが忍び込んで怪我をしたとか、そういうの。お、開いたよ」

 南京錠を開け、更に扉の鍵を開けて取手を押す。ガチャリと押し込んだ感覚に合わせてキィキィと錆び付いた蝶番の音がした。まあ錆もするよなぁ、と思いつつルリアちゃんの疑問に簡単に返事をして中を見れば薄暗い。埃っぽい匂いに眉を潜めて玄関扉を大きく開け放った。扉から差し込む明かりで玄関ホールが明るくなり、舞う埃がプリズムのようにキラキラと光った。玄関ホールは広く、正面に左右に分かれて踊り場で合流し、更に左右に掃けていく大階段があり、真ん中に時が止まったままの柱時計がどんと鎮座している。多分あれアンティーク。整備すれば動くだろうから、そこそこ値が張るものになりそうだ。頭に差し押さえの紙がぷかぷかと浮かぶ。見上げた頭上にはシャンデリア。埃を被って曇り切ったクリスタルがぼぅ、と浮かんでいる。球の切れたシャンデリアを吊り下げる鎖に絡みつく蜘蛛の糸が玄関から入る風にふわふわと揺れて、踏み込んだホームのフローリングがぎし、きし、と音を立てた。腐り切ってはいないので歩くに支障はないが、不安感を煽る音である。

「…こりゃ、マジで出てきてもおかしくねぇな」
「やめてよラカムっ。もうっとっとと片付けるわよっ」

 埃と蜘蛛の巣、人が住んでいなかったからこその木材の劣化具合。広いからこそ行き届かない明かりによる停滞する薄暗さ。まさにパーフェクト!と手を叩きたいぐらいのゴーストハウスっぷりだ。やや顔を引きつらせたイオちゃんが杖を振り回して一歩を踏み出した瞬間、ガタガタ!とどこからか何かが落ちたような音がして全員の肩がびくっと跳ね上がった。

「な、なに?なんなの?!無人なんでしょ!?なんで音がするのよぉっ」
「イオ、落ち着くんだ。きっと鼠か何かが通ったんだよ」
「それもやだ〜〜っ」

 軽くパニック状態なのか半泣きのイオちゃんを宥めつつ、ビックリしたのかすすす、と近寄って服の端を掴んで辺りをキョロキョロ忙しなく見渡すルリアちゃんに超和む。いいよいいよお姉さんの服掴んどきな!ヤバイ気配が一切していないのでマジでただの無人の屋敷だとわかっているだけに、ちょっと恐がる美少女はひたすらに可愛い。まあ、玄関ホールで立ち往生してても進まないから奥には行くけど。

「とりあえず間取りの把握と、持ち出す家財の選別から始めよ。あとカーテンとか取っ払って明かりを取り入れよう。さすがに暗いと動きづらい」
「そうだな。まずは屋敷の中を把握しなければ手のつけようがない」
「つっても価値なんかわかるかねぇ」

 オイゲンさんが顎髭を撫でつつ目利きなんてできねぇぞ、とぼやく姿に全員が確かに、と頷いた。…まぁ、専門家じゃないのでそりゃ何が売れて何がゴミかとか明確にわかるわけじゃないけど…。ゴミに見えて「え?これそんなに価値あるの??」って奴がザラにあるからなぁ。特にアンティーク系は。

「そうはいっても、ぶっちゃけこんな中に長年放置されてるものなんて状態が悪いだろうからほとんど金額なんてつかないと思うよ」
「そうなの?」
「多分ね。もしかしたら掘り出し物があるかもしれないけど…それこそ専門家の域で、私たちはとりあえず価値はともかく中の仕分けをするのが先決。…そうだね、中を見てから艇で目利きができそうな人連れて来ようよ」

 無駄にバラエティに富んでるから、誰かそういうの得意な人いるだろ。地元で依頼するとその分お金がかかるから、団員で賄えるものは賄うべきだ。リサイクルというか、高額にはならなくとも再利用して使えるものぐらいはさすがにわかるし。そういうとなるほど、と兄さんは頷いてじゃぁ、とりあえず右の部屋から行く?と時計回りに進むことを提案されたので是、と答えておいた。ルリアちゃんはとりあえず兄さんの服の袖掴んでおこうね!可愛いから!ビィは…イオちゃんとセットにしておこう。カタリナさんは蜘蛛の巣にびくびくしているので、オイゲンさんの後ろを歩いて貰い、その後ろをラカムさんに固めてもらう。蜘蛛の巣が引っかかった場合、最初の犠牲はオイゲンさんに決まりだ。まぁ危険な要素は今のところ感じないので、人間でやべぇ奴がいてもこのメンバーなら大概のことならどうとでもできるので、とりあえず安心である。バトル要素のない任務って気楽だなぁ!とフフン、と鼻歌を歌えば、イオちゃんから信じられないものを見る目で見られた。
 こっちからしてみれば命の危険一杯の骨肉の争いがへっちゃらでこんないるかいないかよくわからないようなものが怖いという方が理解しがたい。・・・・いや、これは私がそういうのにそこそこ特化してるせいか?未知なるものが怖いのは真理なので、イオちゃんの方がか弱い乙女としては正しいのかもしれない。いやでもしょうがなくね?何もいないのがわかるんだから怖がりようがない。あと私の方が絶対か弱い。物理的に。
 ぎしぎしフローリングを軋ませながら応接間、食堂、トイレ、キッチン、書斎、等々屋敷の中を周り、ついでにボロボロのカーテンをはぎ取って放りすてていく。もうもうと埃が舞うが、今度来るときはマスクと割烹着、それから手袋が必要だ。脳内必要な物リストにチェックが刻まれていく。
 カーテンがなくなった窓は水垢や砂にまみれて曇っているが、明かりが入ってくるには十分だった。そうすることで外からの明かりを十分に手に入れて、屋敷の中はそこそこに明るくなっていく。まぁ、そもそも人が住んでいた家なのだから、光彩の取り入れ方は考えられていて、特に食堂なんかは朝日と共に朝食をとることを考えていたのか、窓は大きいし十分に明るい。食器棚の食器が高級そうだったので、これは値が張りそうだな、と差し押さえ札をぺったり脳内でつけておく。うん。やっぱり艇から目利きができる人呼んで来よう。パーシヴァルさんとかできそうだよね。あとセルエルさんとか。お貴族様は目が肥えてるはず。あとは学者系かなぁ。つらつら人数とこの規模の片づけに必要な日数と、町からの依頼料を換算して赤字が出ない予定を立てていく。あ、天気も考慮しなくちゃ。雨が降っちゃうと外が使えないからそれで滞るものもあるんだよね。一週間分の天気をティアマトに聞かなくちゃいけない。時折割れたガラスの破片や壊れたドア、剥がれた壁紙など所々ホラーテイストを演出するものもあるが、屋敷の中が明るくなっていけばさほど怖いものでもない。イオちゃんも私がばっさばっさと遠慮なく窓を解放していくので、恐怖心も薄れたのか進んで窓を開けていくようになった。そうそう。明るいところにゃなんにもないってな!

「ぐわっ。ぺっぺっ!すげぇ埃だぜ」
「ビィ、真っ白だよ」

 2階にあがってここらは恐らく寝室や私室なんだろうな、という部屋を解放していく中、ばさぁ!とカーテンフックごとはぎ取るように絡め取ったビィがカーテンに巻き込まれてすってんころりと転げ落ちる。兄さんが笑いながらカーテンに絡まったビィを掘り起こすと、埃で真っ白になったビィが顔出して口の中に入った埃を吐き出すように餌付いた。水あったかな、と鞄を漁ると、不意に視界に影が横切る。え、と振り向くが、窓ガラスとバルコニーがあるだけで、特に影になるようなものはない。…鳥の影でも目に入ったのかな?空を見上げると白い雲がぷかぷかと浮かんでいるのが見えたが鳥の姿はなく、首を傾げながら水筒をビィに差し出した。ついでにハンカチを取り出して汚れてしまった顔をごしごしと拭う。

、グラン!お隣の部屋の窓も開けてきましたよ…はわっ。ビィ、真っ白です!」
「カーテンを頭から被っちゃったんだよ。だから無理矢理はぎ取るのはよくないって言ったのに」
「だってよぉ。チマチマフックから外してられねぇよぉ」

 気持ちはわかる。どうせ壊すんならカーテンレールだのフックだのが壊れてもいいよね!ってなるよね。劣化してるせいでパキパキ折れるし、一気に行きたくなるのはすごくわかる。まぁビィの場合、体が小さいからこうなっちゃったんだけどね。びっくりしたようにアホ毛をピンと立てて、ルリアちゃんがぱたぱたと近寄ってくる。壁にかかった曇った鏡の前を通り過ぎて、水を口に含んでぺっと吐き捨てているビィの前にしゃがみこんでこれはお風呂に入らないとですね、とふふ、と笑みを零した。そうだね。皆ちょっとのことなのに埃塗れだから、戻ったらお風呂に入らなきゃ。

「2階はあとどれぐらい部屋があるかな?」
「えっと、あとは反対側のお部屋だけだと思います」
「手分けしたらやっぱり早いね。中にあるものもおおまかに把握できたし、明日からもっと人連れてこなきゃ」

 慣れてしまえば廃墟の洋館とはいえ特に思うところはない。怪しいものもないし。古いものはあるけど、それに何か魔力的なものが込められているとか、変な物が憑りついているとか、そういうこともないし。平和だな、とトラブルの多いこの騎空団を思えば破格の状況に気を緩め、カーテンからビィを解放して部屋を出ようと顔をあげた瞬間、え、と目を丸くした。

「っルリアちゃん!」
「え?」

 壁の、鏡から、誰かがルリアちゃんに向かって手を伸ばしている。そんな。何も気配なんてなかったのに!!咄嗟にルリアちゃんを押しのけるように場所を入れ替えた瞬間、空を掴むはずだった手が、弾みで浮いた私の鞄の紐を掴んだ。あ、まずい。

「しまっ」
!」

 足を踏ん張って抵抗しようとした瞬間、信じられない力で鏡に向かって引きずり込まれるのが分かった。ちょ、もっと抵抗させて!?ひゅっと息を吸い込むと、鏡がまるで水面のように波打っているのが眼前に迫ってくる。青白い骨ばった手が、もう一本ずろりと伸びてきて、私の手首を掴む。ぞっとするほど冷たい、まるで氷のような手。肌が泡立ち、首筋の産毛が総毛立つ。視界の端で兄さんが手を伸ばしたのが見えたが、鏡の手に手首を掴まれた私はその手に自分の手を伸ばすことができない。いやそれをする間もなく、波打つ鏡の中へ、引きずり込まれたのが分かった。

「にい、さ…!」
ー!」

 かろうじて動かした首で、助けを求めるように唇を戦慄かせる。必死の形相の兄の顔を最後に、私はどぷん、と鏡の中へと体ごと飲み込まれた。―――明るい、白昼の出来事だった。