悪魔的にも程がある



 天狗になっていた自分の鼻っ柱を折ったのは、爆弾解体の失敗でも一歩間違えば死んでいた事実でも親友からの重い拳でも職場の仲間からの心配の声でも家族の涙でも上司からの説教でもない。いや、そのどれもが確かに自分の矜持だとか自尊心だとかそういった突き出ていた釘を目一杯頭打ちしたのは確かだ。特に間近に迫った死という足音は恐怖という言葉では言い表せないほどに冷や水をかけられた。
 親友の涙も、家族の叫びも、それはそれは己の罪悪感と馬鹿さ加減を自覚させるには十分だったが―――でもきっと、一番に自分が情けないと、何をやっていたんだと、自分で自分が殴りたくなったのは―――年端もいかない少女の、真っ白な包帯と穏やかな微笑みをこの目に収めた時だ。

「あぁ、大したことなくてよかったですね。お兄さん」

 自分こそが大怪我を負っている癖に、あの中で一番守られるべきで、怪我なんて負うべきじゃない存在がそれをなんでもないことのようにして、笑っている。皮肉でもなんでもない。ただ事実として、無事でよかったですね、と。あの時、一番怪我を負うべきだった相手に向かって笑っている。その言い方と、微笑みで、きっとこの少女はそれを自己犠牲だとかそういうものだとは考えてもいなくて、恩を着せる気も殊更に善人振る気もなくて、ただ、お互い生きていてよかった、と、あるがままの事実を受け入れて笑っているのだと何故か理解できて、声にならない感情で喉が焼け付きそうだった。
 自分が自分の死という恐ろしい現実に震えて、他を顧みる余裕もなく。他者からの叱責でようやく周りに目を向けられたというのに。
 あの場で誰より守られるべき存在が、事もなげに笑っている――代わりに守られていたのだと突き付けられた現実はあまりに自分の無力さを突き付けていて、喉を掻き毟って叫びだしたいような、みっともなく泣きじゃくりたいような、腹の内をぐるぐると回る言い知れぬ激情に、自分の顔が歪に引き攣ったのがわかった。それに目を丸くした少女が、少し考えるように視線を横に流して溜息を吐いた。それから、しょうがないなぁ、と少し面倒そうに目を細めて、重たげに手を動かしてサイドテーブルを指差す。

「林檎、剥いてください。それから売店でお茶とお菓子を買ってきて、あとはそうだなぁ・・・死にかけたんですから、これからは慢心を捨てて責任を果たすのがお兄さんの仕事ですよ」

 勤務態度だのはいちいち言いませんけどね、と子供らしくない大人びた調子で言った少女は、それからまるで悪魔のような囁き声で、立ち尽くす俺に向かって言ったのだ。

「ずっと、背負って生きてくださいね」

 幼子の声で、まるで悪魔のように、俺の生き方を決めたのだ。





「なんていうか、ちゃんってあの時から年の割に大人びてるよなぁ」

 スーパーの精肉コーナーで豚肉を物色している小さな旋毛を見下ろしながら、カートにもたれかかるようにして呟いた俺に、二割引きシールが貼られている豚バラ肉をレジ籠に突っ込んだ彼女が振り返る。そして眉を潜めて胡乱な視線を投げかけた。

「え?なんですか急に」
「いやぁ、ずっと思ってたんだけどね?ちゃん偶に俺より年上なんじゃないかなーって思う時が多々あるっていうか」
「まぁ、じゃないとやってられない状況が多々ありましたからね」
「ア、ハイ」

 吐き捨てるように・・・というよりは最早諦めたかのように大きな溜息と共に吐き出された返事はあまりに彼女の日々の苦労を物語っているようで、脳裏に過った今までのあれやこれや・・・警察として見過ごしちゃいけない様々な事象に俺はそれ以上の言葉を飲み込む他なかった。いや、そうだな、うん。決してこの子自身がどう、というわけではないが周囲に巻き起こる犯罪の頻度が確かに多すぎる。警察官として本当に申し訳が立たないレベルで色々と巻き起こっている。情けないことに、この街の犯罪率の高さは反論の余地もないほどに高いのだ。これでも頑張っているんだが、それにしてもちょっとなぁ・・。
 いや、愚痴を言っている暇があれば市民の安全のためにも俺たちは馬車馬のごとく働くべきだな。

「まぁでも昔に比べたら減ってますし、私自身巻き込まれることはほぼほぼないですから、警察官様様ですよねー」
「そういって貰えると嬉しいわ」
「まぁニュース向こうの犯罪は相変わらずですけどねー」
「・・・鋭意努力を続けます」
「体壊さない程度に頑張ってください」

 野菜コーナーで葉物が高いな、と愚痴を言いながら目線も寄越さずにさらっと言い捨ている横顔を見つめて、こういうところだよなぁ、となんとはなしに吐息を零した。
 言葉運びだとか、返事の返し方だとか、さりげない気遣いだとか。多分本人は何も考えていないレベルで、けれど何かを察して口にしているのだ。弾むようにポンポンと交わされる会話の応酬はあまりに気楽で、10以上も年下の子供とは思えないのに、見た目は子供なのだからギャップがすごい、と思う。
 多分、子供の無邪気さだとか無垢さだとか子供故の考え無しな発言だとか敏感さだとか、そういったものは彼女は持ってはいないのだろう。そういう部分で癒されるだとか和むだとか、そういったことは今まで一切感じたことは無い。俺も親友も、そういった当然にあるべき部分で少女の横に居心地の良さを覚えたことは一度も無かった。
 思えばそれは本当に可笑しな話なのだが、時折、少女の言い知れぬ何かにぞっと背筋を粟立たせることも、ないとは言えないのだが・・それでも、少女の傍は居心地がいいとも、思う。
 つい、と少女のふくよかなまろい頬に指を伸ばして突くと、何事?とばかりに振り返る顔にふは、と息を零して笑った。

「今日の飯なに?」
「豚バラの春巻きですね。なんか雑誌で見たやつです」

 突いたまま止まっている指をぺち、と軽く叩いて落としながら彼女はしめじとえのきを籠に突っ込む。葉物は諦めたらしい。今度安い所見繕って連れて行ってあげようかなぁ、と思うのは少女の作るご飯が美味しいからだ。俺も松田もしっかりがっちり胃袋を掴まれている・・・本人にその気は一切なかったんだろうけど、美味しいのが悪い。
 それから前を行く少女の後ろをカートを押してついていきながら――小さな背中に目を細めた。
 あの日、白いベッドの上に横たわっていた小さな少女は今も俺にとっては小さいままで、いくら大きくなってもきっとあの日あの時あの瞬間の姿を忘れることはできなくて、もうずっと網膜に焼き付いたまま消えることなどなくて、あの囁きも昨日のことのように思い出せるのだけど。

「きっとどうでもいいんだろうなぁ」

 今を一生懸命生きている、生きていればそれでいいと笑った彼女はきっと情けない男の情けない姿なんてさしてなんとも思っていないに違いない。
 あの日あの時あの瞬間の出来事は、少女にしてみれば思い出に刻むほど重大なことではなくて、きっと今話した今日のご飯のメニュー程度の日常に違いない。
 見た目に寄らず罪深いなぁ、といったところで多分なにいってんだこいつ、って目で見られる未来が想像がついて、可笑しくなって喉奥を震わせた、くっくっという押し殺した声はスーパーの喧噪に紛れて前を行く背中には届かなかったようだ。
 振り返りもしない背中を見つめて悪魔の囁きを思い出す。

 あの日あの時あの瞬間、もういいんだと許しの言葉を言わなかった君を、俺はいつまでも忘れない。