矢印の向かう先
真夜中に目が覚めることはよくあることだった。要するに夢見が悪い。不眠症を患ったことはないけれど、昔よりも確かに寝つきが悪くなったように思う。昔というのは、異世界に召喚される前のことだ。
今で言うなら前世とでもいうべき日々のことであろうか。微苦笑を零すと両目を手で覆い、大きく息を吐いた。嫌に焦る心臓が煩わしい。どくどくと響いて五月蝿くて、思い出すと悲しいから忘れたフリをする。思い出さないように気を散らして、遠ざかった眠気に歯噛みした。寝れば何も考えずにすむのに、寝たら夢に見る。決して毎日そんな日々を繰り返すわけじゃないけど、少なくはない回数には辟易とした。
さて、どうしようか。気を紛らわすための方法は、この時間帯ともなるとあまりない。クラスメイトすらいないせいで必然的に一人部屋になった、少し広い自室の暗い天井を見上げて拳を握る。
電気があればなぁ。本でも読むのに。この時代だと油も貴重だからあまり無駄には使えない。結局外に出て月や星でも眺めるか、あるいはこのまま布団の中でゴロゴロするか、あとは鍛錬という手段しかない。
時折聞こえる虫の声にゆるりと目を閉じ、どうしようか、と自問した。・・・少し、体を動かした方が気が紛れるかもしれない。あまり激しい運動をする気はないが、軽い運動程度ならいいだろう。
手裏剣は個人のものが何枚かはあるので、それを使おう。まさか自分がそんなものを投げる練習をすることになろうとは思わなかったが、普通の的中の感覚でやれば遊びのようなものだ。これが人に向けられることを考えさえしなければ、の話ではあるが。・・・思うよりも鋭利な刃の部分を思い出して、眉を潜めると溜息を吐いた。ダメだ。やる気が殺がれた。克明に思い出せる刃は嫌な記憶を刺激して止まない。・・・お月見でもしよう。
生憎と満月やら半月というほど丸くない月ではあったが、見ている分に支障はない。むしろ星がよく見えていいかもしれない。そう思いながら、閉じていた目を開けた。
「っひぃ!?」
思わず、引き攣った悲鳴が喉から零れた。見上げた天井に、人の顔が浮かんでこっちをじっと見ている。普通に怖い。怖すぎる。なんだこのホラー。薄闇に長い髪の女の顔が浮かんで、じぃっとこちらを見ている様はどんなホラー映画だと罵りたいぐらいの衝撃映像だった。だらんと垂れた髪が余計リアリティと恐怖を倍増させる。目を逸らしたいのに、あまりのショッキングな光景と半端な好奇心がそれから目を逸らすことをよしとしない。瞬きを繰り返すも、残念ながらそれは消えてはくれなくて、心霊体験だぁ、と呆然としているとそれはやにわににへら、と相好を崩した。にたぁ、とよくある恐怖を煽るような笑い方ではなく、やけに人間臭くて人懐っこい笑みにパチっと目を丸くすると、それはするりと天井から体を出して、とん、と足元に着地を果たした。
白い夜着に体を包んだしなやかな女性が、薄闇にぼんやりと浮かび上がる。なんか、やけに動きが生身の人間臭い幽霊である。こう、ホラー映画の幽霊といえばもっとこう、非人間的な動きで恐怖を煽るものなんじゃないかと思いながら、しかし体は思ったよりも強張っていてどうしよう、と心底焦った。え、このまま私なんかされるの?うわどうしよ!まじやばい?!焦りを覚えて逃げようかと布団を跳ね除けようとするが、行動に移す前に、幽霊が動いた。
「にゃはーん、ーーー!」
「ちょ、ぎゃああぁぁぁぁ!?」
がばぁ、と布団の上から覆いかぶさるようにそれが突撃してくる。逃げることもできずにホールドされれば身動きなど取れるはずもなく、悲鳴をあげて為すがままだ。抵抗しようにも布団の上から覆いかぶさっているので余計に抵抗ができない・・・!ちょ、誰かーーーー!!重みのある温かな体が覆いかぶさって、笑いながらすりすり頬ずりをしてくるので半ば涙目になって助けを・・・・・ん?
「え、ちょ、あ、せ、先輩?!」
「にゃはー頬すべすべーわかいーぷにぷにーうーらーやーまーしー!」
「え、いやちょ、先輩何事!?ていうかえ、先輩?!」
「うふふー。そうですよーのせんぱいですよー」
「いやいや真夜中になにしてるんですか!しかもお酒臭いし!」
酔っ払いか!!至近距離で顔を見たことと、生身の肉体そのものな体にようやく目の前の幽霊もどきがくの一の先輩だということに気づいて私は一気に恐怖心を飛ばして抗議した。しかしほどよくお酒が入って上機嫌な様子の先輩は変わらず、ひたすら頬をすりすりと寄せながらにゃはにゃはと笑っている。
・・・ダメだ、言っても聞き入れてくれる様子じゃない。何故真夜中に寝込みを襲われなければならないのかとも思ったが、酔っ払いに理屈は通じない。この先輩酔うとこんな風になるんだな、という発見をしながら、別に危険なわけではないので引っぺがすのを諦めて私は好きなようにさせることにした。抵抗をやめるとここぞとばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめられて、ちょっと苦しい。私はぬいぐるみではないんだけど。
「うふふー今ねーみんなとぉ、お酒飲んでたんだぁー」
「そうですか、他の先輩方もいらっしゃるんですね」
なら早く助けにきてくれないかな、と思いながら相槌を打つと、先輩はそうなのぉ!と間延びした口調でガバっと顔をあげた。
「だからぁ、も一緒に飲もうねー」
「はい?」
「レッツゴー!」
「え、いや、ちょ、せんぱーーーい!?」
言うが早いか、素早く布団を引っぺがした先輩が、女性の細腕とは思えない腕力で私を脇に抱えて、部屋から疾走する。あぁ、障子戸が・・・!すぱーんと明けられてガコ、と外れた音をたてたそれにがくりと項垂れると、真夜中の長屋を先輩に抱えられて疾走するという稀有な体験をする羽目になった。ていうか、私の部屋、下手したら朝まであの状態・・・?丸見えなんですけどーーー!!
うぅ、と泣くが先輩には気づいてもらえない。いつもはもちっと周囲に気を配ってくれる先輩なのに・・・!てか、これだけ騒いでていいんだろうか。シナ先生に見つかったら怖いと思うんだけど、と思いながら(私被害者だから罰とかないよね?)揺さぶられていると、やがて上級生の長屋までやってきた先輩がたっだいまー!と
陽気な様子で再び障子を遠慮なしに開け放つ。煌々と灯りの点った部屋で、先輩曰く一緒に飲んでいた、という数少ないくの一の六年生が、あらあら、とばかりにお猪口を傾けていた。薄明かりに白い夜着と薄い布地から見える体のラインがぼんやりと浮かんで、わぁ、皆さん色っぽーいと思わず呆ける。
「本気でつれてきちゃったわ、この子」
「ちょ、大丈夫?!」
「ていうかシナ先生に気づかれてないでしょうね?罰則なんてやぁよ」
三者三様とはこのことか。それぞれらしいといえばらしい反応を見せながら、戸の前で立っている先輩と抱えられたままの私を部屋の中に無理矢理押し込めて、円を描くように腰を落ち着ける。私は唯一心配してくれた先輩の手によってようやく開放されながら、ちょこんと座ってある意味くの一教室として豪華メンバーである先輩達をぐるりと見渡した。・・・え、なにこの場違いな感じ。
「・・・あの、これは何事なのでしょうか・・・?」
「ごめんなさいねぇ。あの子がちょっと暴走しちゃって」
「暴走ですか・・・」
いや、うんまさにそんな感じだったけど。おっとりと、頬を紅潮させながら答える先輩の手にはしっかりと・・・お猪口ではなく湯のみが握られていて、多分がっつりこの人も酔っているんだろうな、と思った。
恐縮しながら居心地悪!!と落ち着かないでいると、まぁこれでも食べて、と・・・恐らくお摘みであろうスルメが差し出された。お酒でないだけ良心的である。大人しく受け取って齧ると、じんわりと味が出て美味しかった。
「まさか本当につれてくるとは思わなくて・・・ごめんね。寝てたのに」
「いえ、丁度目が覚めていたのでそれはいいんですが・・・先輩、どうしたんですか?」
うん。むしろ寝付けなくて困っていたぐらいなので正直迷惑ながらもありがたい襲撃ではあったのだが。笑いながら再びぐびぐびお酒を飲み始めた先輩を見て、お酒が入っているにしてもすごいハイテンションだなぁ、ガジリ、とスルメを齧る。噛めば噛むほど味が出るので、もぐもぐと何度も噛み潰す。
酒盛りというのが相応しい様子で楽しんでる先輩達の横で、マイペースに、時に適当に絡んでくるのをあしらっていた先輩が、ただのやけ酒よ、と鼻で笑った。
「やけ酒?」
「そ。男に振られたから飲んでるの。わかりやすいでしょ?」
「はぁ、そうですか」
なら先輩たちはその付き合いということか。納得しながらしかし荒れてるなぁ、とばかりに眺めてそれで何故私がここに?と首を傾げた。やけ酒ぐらい人生のうち何度かあるだろうし、それ自体は珍しくもないのでどうとも思わないが、巻き込まれたのが解せない。仲間内の酒飲みに後輩とはいえ無関係の人間を引っ張り込むのはどうかと思うのですが。最初ホラーですごい怖かったし。
「いや、そこはノリっていうか?酔っ払いに意味求めちゃだめよ」
「個人的に、呼ぶんでしたらもっと穏やかな方法がよかったです・・・」
「どんな方法で連れ出したのよあんた!」
ぐったりと言えば、開放してくれた先輩がすかさず突っかかる。それに、連れ出した張本人は「天井からお邪魔してつれてきただけだよー」とカラカラと笑った。その天井がホラーだったんですってば。
「・・・ほんとごめんね。なんなら今から戻ってもいいのよ?」
「え、いや、この状況で帰っても・・・」
「まぁ、微妙よね」
うん。すごく。すげに出来上がっている二人を尻目に、こっちはこっちでのんびりとしていると、やがてあちら側のお酒が底をついたのか、ぐるっとこっちを向いて先輩が突撃してきた。もう一人の先輩は酔いつぶれたのか寝てしまっている。相手がいなくなったのも矛先を此方に変えた要因なのであろうか。しかし何故私に突撃する。ここは両隣の先輩に突撃しましょうよ!咄嗟に身構えてなんとか受け止め、「こら!」という叱咤の声を聞きながら抱きついてきた先輩の頭に所在のない手を置いた。ぐってりと胸部に顔を埋める形で抱きつく先輩の、伸びきった足がばたばたと床を叩く。
「えへへーー>ー」
「はいはい、なんですか先輩」
「先輩はぁ、がおっきにいりなのでーす!」
「ありがとうございます」
うん、気に入ってくれてないとこの扱いはないと思うからね。しかし好かれて嬉しくないわけがないので、幾分トーンをあげてお礼を言えば、先輩はまるで子供帰りしてしまったかのように緩んだ顔で照れたように笑った。
両隣の先輩が、溜息交じりにどっちが後輩かわからないじゃない、とぼやいている。・・・まぁ、中身の年齢は生憎と先輩方より上なので、あながちこの状況間違いではないと思うが。
とりあえず抱きつく先輩に足を崩しながら、ごろごろと擦り寄るのを対処に戸惑いつつ頭をなでた。
「・・・なんか動物に懐かれた気分です」
「こっちもそうとしか見えないわ」
しみじみと言えば、やはり実感を込めて言い返されてそれもどうなの、と苦笑を返す。先輩はもう残り少ないお酒をちょびちょびと継ぎ足しながら、明日泣きを見るわね、と愉快そうに口角を吊り上げた。
その横で寝てしまった先輩の体に掛け布団をかけてあげている先輩が、シナ先生に怒られるでしょうね、と溜息を零す。うん、きっと叱られるだろうなぁ。頷いていると、下からーと名前を呼ばれたので、いつの間にやら膝枕みたいな状態になっている先輩の旋毛を見下ろした。
「はい?」
「あのねー、はー真由美さんのことすきー?」
「真由美さん、ですか?」
はて。何故いきなり件の食堂のお姉さんが話題に出てくるのであろう。予想外の人物の登場に目を丸くすると、先輩は夜着を引っ張りながらねぇ、すき?と再度問いかけてきた。その声が、先ほどの陽気なそれとは異なって聞こえたように感じて、私はそろりと視線を正気を保っている先輩達に向ける。二人、苦笑とも似つかない曖昧な表情をして、静かに一つ頷いて見せた。・・・なんだかな。
「・・そうですねぇ、嫌いではないですけど」
「そっかーあのねー。七松は、真由美さんのことがすきなんだって」
「七松先輩が?」
あぁ、うん、そんな感じだった。反復し、記憶を掘り返すまでもなくぱっと、光景が浮かんで内心で納得した。そして、事の顛末も検討がついて、瞳を細めるとゆっくりと先輩の頭をなでた。
「ずっとすきだったんだけどなぁ」
「はい」
「真由美さんが来る前から、すきだったんだけどなぁ」
「はい」
「・・・ふられちゃったぁ」
「はい」
膝に顔を埋めた先輩が、どんな顔をしているのかはわからない。ただ少し、小刻みに肩が震えているので、泣いているのかもしれない、とそれだけを漠然と感じて髪に指を通した。長く伸びた髪は手入れも怠ってないのだろう。さらさらと指通りがよかった。でも少しだけ毛先の方が傷んでいたので、四年生の斉藤先輩に切ってもらえばいいかもな、とそんな取りとめのないことを考える。
沈黙が少し重たくて、夜の気配はずっと静かで、先輩の震える声がただ切ない。
「先輩は、七松先輩が大好きだったんですね」
「うん」
「ふられて、悲しいんですね」
「・・うん」
「なら、もうしばらく膝貸してあげますね」
「・・・ぅん」
励ましの言葉は、何も持っていなかった。慰めの言葉も、持っていなかった。ただ、傷ついた人の頭をなでて、そっとしておくことしかできなくて。重たいなぁ、これ。と思いながら、天井を見上げてやるせなく吐息を零す。あぁ、こんな所にこんな弊害があるなんて、考えていなかった。しばらくそうして、優しく静かな沈黙が辺りを包むと、やがて膝に顔を埋める先輩の呼吸が穏やかなものへと変わる。膝の重みも幾分増したかのように感じて、さらさらと梳いていた手を止めると、こっそりと息を吐いた。
「・・・何故に私に縋ってきたのでしょう」
「それはその子にしかわからないけど・・・きっと、縋りやすかったんでしょうね」
「そう、ですか」
普通は同輩の人に縋るものであろうに、何故私を選んだのか。素朴な疑問には明確な答えはなく、肩を落として寝入ってしまった先輩にどうしよう、を首を傾げた。ずっと膝枕しているわけにはいかないんだけど・・・。
動けずにいると、見かねた先輩が一応起こさないように配慮しつつも結構ぞんざいな扱いで先輩を引っぺがし、適当に敷いてある布団の上に転がしてばさりと掛け布団をかけた。顔ごと覆ってしまっているが、これは泣き顔を見せないための配慮だろうか。僅かに染みのできた膝の夜着を辿ると、カチャカチャと転がっている酒瓶やお猪口、湯のみを片付け始めている先輩が、全く、と悪態を零した。
「飲むだけ飲んで潰れるなんて迷惑この上ないわね!」
「しょうがないでしょ、初っ端から飛ばしてたんだから」
「そっちはいいわよ。問題はこっち!ったく、勝手に潰れて!」
そういって、真っ先に潰れていた先輩をギロ、と睨んで腕組みをする。その様子に苦笑しながら、先輩はあぁそうだ、とこちらを振り返ってにこ、と仄かに赤い顔で笑った。
「ちょっと待っててね、簡単に片したら送ってあげるから」
「え、そんな。私自分で帰れますよ」
「いいのいいの。こっちが無理矢理連れて来たんだし。大人しく待ってなさいな」
そういってひらひらと片手を振る先輩に、はぁ、と曖昧に頷いて眉を下げる。・・・なんか所在ないから片付けるの手伝おう。いそいそと近くに転がっていた空になった酒瓶を手に取ると、先輩の持つ袋の中に無造作に突っ込む、先輩は一瞬申し訳なさそうにしていたが、すぐに笑顔を取り繕うと3人で片付けを始めた。
3人も揃うと案外早く終わるもので、一通り見られる部屋になったところで、私は部屋に送ってもらえることになった。もう一人残った先輩は、もうこの部屋で寝てしまうらしい。人を抱えて移動するのが面倒くさい、ということらしいが3人も寝ると狭いと思うんだけどなあ。そう思いつつも、頭を下げてその場から退出する。
きしきしと静かな、ちょっと静か過ぎる長屋の廊下を先輩に送ってもらいながら歩いて、あと何時間ぐらい眠れるだろう、と考える。まだ空は暗かったが、多分そんなに時間はないんだろうな、と思う。
気晴らしにはなったが、代わりにまた別のことで物思いにふけることになりそうだ。嘆息すると、部屋の前まできた先輩が、外れたままになっている障子戸に顔を引き攣らせて、あの馬鹿、と軽く舌打ちをした。
私も帰ってきて現状を思い出し、あーあ、とばかりに外れた戸に手をかける。・・・まぁ、戸そのものが壊れたわけじゃないので、嵌めれば問題はないんだけど。
「いや、本当ごめん。夜中押しかけた挙句戸を外すとか本気ごめん」
「いえ、いいですよ。嵌めれば問題ないわけですし」
「・・・はいい子ねー」
そういってよしよし、と頭を撫でられる。内心少々複雑であったが、振り払うこともできずに大人しく受けて、二人で障子を嵌めるた。立て付けは大丈夫か確認して、スムーズに動くことによし、と頷く。そうして先輩は自分の長屋に帰ることになったのだが、その最後に、そっと頭をなでて、月を背景に穏やかに笑んで見せた。
「ありがとうね、」
「・・・あれでよかったんでしょうか」
「いいのよ。でも、そうね。このことは、あの子に言わないであげてね」
「?」
「あの子、泥酔した後のことってあんまり覚えてないのよ。後輩にあんなとこ見られたとか、覚えてないほうがいいでしょ?」
「あぁ・・はい。わかりました」
確かに、こんな繊細なことを他者に知られるのは好ましくないだろう。酔った勢いでしたことならば尚の事。こくりと頷いて了承すると、もう一度ありがとう、といって先輩は背中を向ける。足音もなく去っていく後姿が完全に見えなくなった所で、私は欠けた月を見上げた。煌々と光る月の光は少々弱弱しい。
どことなく金色というより青白く見えるそれを見上げながら、やるせない、と小さくぼやいた。
「こうなるとは、なぁ・・・」
ありえないことではなかったのだろう。だがしかし、考えてはいなかった。そういう可能性もあったのだ、と今更ながらに思い当たった程度で、実際そうなっているとは考え付きもしない。
別に、あの人がいなくても先輩の恋は実らなかったかもしれないけど。そういうものなんだとは、思うけれど。でも、確実にこの世界にとってあの人は異分子であることは確かで、本当は組み込まれなかったはずの存在ではあって、多分それは私もそうなのだろうけど。でも、生まれてしまった私と、飛ばされてしまったあの人を比べるなら、きっとあの人の方が異分子としては成立している。まぁそんなことはどうでもいいのだけど、もしもあの人がいなければ、先輩の恋は実っていたのかもしれない、と、そう思ってしまうのも仕方ないだろう。
元々この世界にいたわけではないあの人。異分子だけど、組み込まれているのだろうあの人。数多くの好意を寄せられて、その中からたった一つを選べる権利を持つ人。だけどその裏には、確かに散った恋があったのだろう・・・今みたいに。あの人に好意を寄せる人の中に、好意を寄せる人がいて。それはなんて報われない恋になってしまったのだろう。この世界の主役になってしまったあの人に、勝てる存在なんて早々いないから。
あの人を、好いた人が好きになってしまったら、もうそこで終わりだ。あの人が、選ばない限り、可能性の芽すらない。いなければ、まだ可能性は、あったのかもしれないのに。いるから、可能性すらなくなってしまった。
これが異分子が割り込んだ代償の一端なのだろうか。他者の思いの芽すらなくしてしまう、問答無用さ。
決してあの人のせいではないけれども、しかしやるせないものは消えない。ずっと好きだった、と膝に顔を埋めた先輩を思い出して、私は俯いて目を閉じた。
多くの好意は、時に酷く重たいのだと、初めて知ったような気がした。