逃避行
「バイトが大事なのはわかるけど、でも無理しちゃだめよ?もっと甘えていいの。一人で全部を背負うのは、とても苦しいことだから」
そういって優しく笑う人に、泣きたくなったのは果たして喜びゆえか、それとも別の何かのせいだったのか。そっと握られた手の綺麗さに、ぐっと思わず唇を噛み締めた。
※
ぐるぐるして、もやもやする。苛苛して、泣きたくなる。吐き気を覚えて気持ち悪くて、何かに当たりたくて何もかも忘れてしまいたい。
最悪の心理状況だ、と思わず打った舌打ちは、誰にも聞かせられないと思った。特に友人たちに今のこの状況はとてもじゃないが見せられない、とそう思った。きっと今会えば抑えていたものが顔を出す。凶悪な感情が牙を向いて彼らに襲い掛かることだろう。それはだめだ、と臍を噛んだ。
傷つけたくない。笑って欲しい。一緒にいて欲しい。傍にいたい。大切な大切な友達だから、この乱暴な感情だけはぶつけたくないと思ってしまう。吐き出してしまいそうなものを飲み込むように喉を鳴らした。どろりとしたものが食道を通って臓腑に落ちていくような気がする。またずんと重くなった下腹に、気持ち悪さも一緒に増したような気がした。
それもこれも、全部疲れてるからだ。ここ最近バイトの数を増やしすぎててんてこまいだったし。授業料納めるためにも必要なバイト量だったから仕方ないけど、疲れがたまって余裕がないのだ。だからこんなに荒れている。誰にも会わないように慎重に道を選びながら、今日はもう寝るまで誰にも会えないかもしれないなぁと、溜息を吐いた。
―――いや。誰にも、会いたくない、の間違いかもしれない。
人気のない道を無言で突き進みながら、ちっと舌打ちを打って乱暴に土を蹴り飛ばした。巻き起こる土煙が一瞬霞のように周囲を燻らせ、顔が歪んでいくのを自覚する。
会いたくない。会えば爆発するかもしれないこの感情が恐ろしい。違う、違うのだ。わかっている。理性では理解しているのだ。どうにもならないこと。これが俺の当たり前。同情するならすればいい。哀れみの目も気まずい空気ももう慣れた。可哀想と言えばいい。そんなことは当たり前すぎて最早傷つく要素にすらならない。だってそれはただの事実だからだ。そうだ俺は可哀想な子供だ。家をなくして家族をなくして一人で生きていかなくてはならない、可哀想な子供だ。だからどうした。それは現実だ、あぁ受け止めようじゃないか。
自分で理解している。今更だ。今はそんなことより今を生きることが大事だ。明日の生活を心配することが大事だ。わかっている。わかっている。言ったって無駄なことじゃないか。わかる奴とわからない奴がいる。別にわかって欲しいわけじゃない。同情して欲しいわけじゃない、それより確実な明日が欲しいだけ。ここにいられる確かな未来が欲しいだけ。
頭で理解しているのに、今までそうやって生きてきたのに、時折訪れる叫びだしたいほどのこの衝動を、他人晒すのがひどく恐ろしいのだ。それをすると今までの自分が崩れてしまいそうで嫌なのだ。怖いのだ。結局自分を守るために、会いたくない、だけで。
それなのに。
人気のない道を歩いていたのがダメだったのだろうか。その選択がそもそもの間違いであったのだろうか。乱暴に、木の枝で手を傷つけながら掻き分けた先で。人から逃げるように駆け込んだ先で。
「、」
どうしてお前がいるのだろうか。