傍に



 立ち去ろうとする背中に、飛来したものはなんだったのか、俺にはサッパリわからなかった。でも、ここからあいつが去ろうとしていることは理解できて、ここに一人取り残されることを知って、ぽかりと何かが口をあけたのはわかった。ぽかりとあけたそれはとても暗くて寒々しくて、覗き込んだらあまりの深さに身震いを起こすようなものだった。暗すぎて手を伸ばすことすら恐ろしいそれ。それが何か、俺は知っていた。過去、味わったことのあるものだった。

 行かないで。

 声にならない声で喉が引き攣った。言葉が出てこなくて唸り声しか出てこない。涙だけは鬱陶しいほど流れてきて、頭のどこかで勿体無い、と囁く声がする。勿体無い、自分の体から流れ出るものを、無駄に垂れ流している。それが嫌なのに止まらなくて、去っていく背中を満足に引き止める声すら出てこなくて。感情ばかりが先走って、思いが言葉に変わってくれない。

 行かないで、行くな、お願い、―――ひとりにしないで!

 胸中にぽっかりとあいた穴。真っ暗で何も見えない空虚なそれ。手を伸ばしても何も掴めない、震え上がるほど恐ろしく、悲しい悲しい大きな洞。―――孤独という名の、その、感情。
 ぞわりと粟立つ肌に、息が詰まって胸が苦しい。呼吸が不自然に感じて、唇が戦慄いた刹那、立ち止まったあいつが振り返った。そうしたら、ぎょっと目を見開いて慌ててこちらに駆けてくる。なんだよ、どっかいくんじゃなかったのかよ。そう皮肉りたかったのに、言葉は最後まで出てこず終いで、傍に寄ってきたあいつがおろおろと手を伸ばしてきた。

「きりちゃん、どうしたの?一人になるのは嫌だった?ごめんね、誰か人呼んできたほうがいいのかと思って・・・乱太郎がいい?しんべヱ?土井先生?・・・食堂のお姉さんとかの方がいい?」

 そう言いながら、おずおずと頭に触れてきたがゆっくりと頭の形に合わせて撫でてくる。優しく上下するそれにうっかりまた涙がぼろぼろと落ちて、くそう、水分が、なんて思ったけど、俺はふるふると首を横に振るしかできなくて、ひくひくと喉を震わせた。

「きり丸?」
「い、ぃ・・・いら、な・・・っだれも、い、っらな、・・・っ」
「うん?」

 よく嗚咽が混ざって言葉が途切れ途切れになる。聞き取れなかったのかが首を傾げて耳を近づけてきて、ずるる、と鼻を啜ると俺は涙でぐしょぐしょになった手を伸ばしての服を握り締めた。桃色のそれをきつく皺ができるほど握り締めて、拳が白く血の気を失う。はそれも気にならないかのように、なぁに?とやたらと涙を誘う優しい声で問いかけてきた。

「らんたろ、も・・・しんべ、も、どいせんせいもよば、っくて、いい・・・!ま、ゆみさんもっ・・・いらない!」

 叫べば、すこぅしだけ目を丸くして、はわかった、と頷いた。それから懐から手拭いを出して、ごしごしと頬を擦ってくる。

「・・・私はここにいてもいいの?」
「・・・・っ」

 ゆっくりと尋ねられて、俺は一度言葉に詰まると頬を優しく拭う手拭いの端を掴んで、こくこくと頷いた。もう今更だ。こんな情けない姿見られて、どこかに行こうとした背中を引きとめようとして。ここにいてもいいの、なんても酷い質問をする。それは彼女の性分がそうさせるのか、それとも。ぐちゃぐちゃになった頭ではそれ以上のことなど考えられなかったが、頬に触れる布のさらさらとした感触にいくらかの気を落ち着けて、の衣服を握る手を更に強めた。例えばこの過ぎるほどに遠慮がちな態度が、俺に言えない一言を言わせたのかもしれない。そうしなければ、こいつはきっといてくれはしないから。


ひとりに、するなよぉ・・・っ


 ひとりにしないで、そばにいて。おいていかないで、いなくならないで。
 頼むから、もうさびしいのは嫌なんだ。