認識しましょう、君の事
さて、今日は何をしようか。全ての授業の工程を終えて自由になる放課後の時間。委員会活動があるならそれをすればよい話だが、生憎と今日は活動日外だ。
もっとも、学園長の突然の思いつきとやらが実施されなければの話だが、今の所ちら、ともその兆しは見えないのできっと今日も何事もないに違いない。極々偶に、「ギンギーン!」とか「いけいけどんどーん!」っていう声が聞こえるけれども、今だかつて私はその声の主達の顔を見たことはなく、そして多分見ないほうがいいような気配がしているので特に気にしたことはない。くの一と忍たまは分けられていたから見かける機会がなかっただけなんだろうけど。・・・ということはいずれ見かける日も来るのだろうか、と現状を思い出してふぅ、と溜息を吐いた。今忍たまと授業受けてるからな、何かありそうでちょっと怖い。
何事もありませんように、ささやかなお願い事をひっそりと行い、さてもとにかく何しよう、と再び最初に戻って首を傾げた。誰かと遊ぶ、という考えは今の所ない。そもそも遊ぶ相手がいない。い組の子、は・・・まだこう、なんか一歩引かれててちょっと居辛いし、男女の差も考慮する余地があるかなとか。まぁ私にしてみれば子供なのだから特に深く考えることはないといえばないんだけど、ほらやっぱり向こうが扱いかねてたら居た堪れないでしょう。
となると必然的にどうしても一人になるわけで、そして一人できることなんて結構限られてるわけで。この世界にネットでもあれば話は別だが、生憎と偶に時代錯誤があろうともここは室町。そんなものあるわけない。ということは、だ。
「本を読むか、刺繍するか、寝るか・・・どうしようかな」
あと食堂のおばちゃんの手伝いとかそんなのもあるけど、それにはまだちょっと時間が早い。そういえば勉強という選択肢もあった。しかしそこまで勉強熱心なタイプではないし、今の所理解に苦しんでいるわけでもないので極自然に選択肢は握り潰す。
あ、でも課題はしておかないと。プリント二枚。・・・やっちゃおうかな。終わった後は、本を借りにいこう。見た所そんなに難しい問題じゃなかったし、教科書見れば容易く解ける問題ばかりだった。時間は十分にあるだろう。借りてきたら夕食まで時間を潰して、おばちゃんの美味しいご飯を食べて。うん、それでいこう。ぼんやりとやることを決めると部屋に戻るべく踵を返し、庭の道を一歩外れる。当てもなく歩いていたせいで意味もなく庭の散策となっていたせいでくの一の長屋までは少し距離がある。
春の陽気に誘われて舞い出したアゲハ蝶によく似た黒い翅の蝶がひらりひらりと飛び回る中を進めば、まるで蝶に追われているようだ。一匹二匹、三匹。同じ種類のそれが絡み合うように視界の端を行ったりきたりと飛び回る。なんとなくそれを目で追いかけながら木の陰を過ぎた刹那、頭に軽いとは言えない衝撃が走った。痛い痛くないの問題ではなく、そう、いきなり上から押さえつけられたような衝撃だったのだ。しかも視界も何やらフィルターでもかかったみたいに不明瞭になるし、いきなり降って沸いたような出来事にふぎゃあ!と驚きすぎた猫みたいな声を出してしまった。ふぎゃあって。
「わわ、ご、ごめんなさい!」
「え、あ、・・・か、上ノ島君?」
パチクリと瞬かせていると、横から慌てた声が聞こえてもたもたと頭に被っているものが揺れる。それがなんなのか、ここに至って理解し、細かい網目の袋みたいな・・そう、虫取り網を頭から被っている状態なのだと気づいて納得の声を上げた。そうか、だからいきなり視界が不明瞭になったのか。網を被ったまま、おろおろと泣きそうな顔で慌てている上ノ島君を見つめて首を傾げる。・・・なんで私いきなり捕獲されたのでしょう?
「ご、ごめ・・!あの、ちょ、ちょうちょを捕まえようとしただけでわざとじゃ・・・!」
「ちょうちょ?」
まぁるい目に薄っすら涙を見せて虫取り網を持ったまま必死に言い繕う彼の横をひらひらと黒い翅の蝶が飛ぶ。その動きを目で少し追いかけて、さっきから周囲を飛んでいたあれを捕まえようとしたのか、と納得するとそっかぁ、と軽い声をあげた。
それにしてもさっきからごめんなさい実験台はやめて!とぷるぷる震えている彼は私をなんだと思っているのか。実験台ってなに。そう思いながら、よっこいせ、と頭に被った網を除けて乱れた髪をちょいちょい、と直すと、にこりと笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。驚いただけだから」
「ふぇ?」
「別に痛くもなかったし。怒ってないから、そんなに謝らなくてもいいよ」
ユキ先輩達本当、なにしてきたんだろうか彼らに。微笑めばきょとんとしている上ノ島君に虫取り網を返しながら、その井桁の頭巾に包まれた頭を撫でた。いい子いい子、と動揺している子供を宥めるように撫でて、ポカーンとしているちょっと間の抜けた顔にくすりと笑った。
「お、怒ってないの?」
「怒ってないよ。だってわざとじゃないでしょう?それより、ほら。ちょうちょ、捕まえなくていいの?」
こんなことぐらいで怒るような狭量な人間じゃありません。しかも相手は年下だ。年上の矜持にかけてもこんなことで目くじら立ててなどいられない。実際驚いただけの話で、怒るなんて考え付きもしないことだった。昨今の経験からか元々の性質かは知らないが、大抵のことは流せるようになったつもりだし。というか流せなくちゃやってけないので、周囲を逃げることもなくひらひら飛んでいる蝶を指差すと、上ノ島君はあっと声をあげて慌てて虫取り網を構えた。が、ちら、とこちらに視線を寄越したのでん?とばかりに首を傾げる。
勿論口元には薄っすらと笑みを浮かべて見せることは忘れてはならない。いや、ほら。びびられたら嫌じゃないか。同じクラスなのにちゃんと会話した子って今の所彦四郎君だけなんだものなぁ。特に上ノ島君は見た目からもちょっと肝が小さい印象を受けやすく、寄って来ないのでなんだか新鮮だ。
にこにこしていると、上ノ島君はぱっと頬を赤らめて視線を外して、ひらひら飛んでいる蝶を追い掛け回し始めた。ばさ、ばさ、と虫取り網が振り回されると逃げていた蝶も一匹、また一匹と捕まり始める。しかしこの周囲から飛んでいかないなぁ、と顔の横をひらりと近寄ってきた黒アゲハから逃げるように顔を引く。見る分にには問題はないが、あまり近くにいたいものではないからだ。しかしこれは捕獲を手伝ったほうがいいのだろうか。でも私虫取り網なんて持ってない。素手?いやいやそれはちょっと無理だ。私そこまで俊敏じゃないし。
そうして考え込んでいると、私の周りをひーらひら飛んでいる蝶に焦点を合わせたのか、上ノ島君がこちらを向き、それから目を丸くして危ないよ!と叫んだ。
「何が?」
「だってそのちょうちょ、鱗ぷんに毒を持ってるんだよ!」
「それ早く言おうよ!」
ちょ、暢気に顔の周り飛ばせている場合じゃねぇ!慌ててちょうちょから離れるが、こういうときに限って虫ってついてきたりするのだ。いやいや来るな来るなどんな毒かは知らないが、扱いかねるものは御免被る!あわあわと慌てていると、上ノ島君も急いで虫取り網を振りかぶって蝶を捕まえて、網の口を地面に押し付け逃げ道を塞ぐ。それにほっと安堵の息を漏らして胸を撫で下ろすと、網越しに虫篭に放り込んだ上ノ島君が眉を下げた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ビックリした・・・さっきから周りを飛んでるから普通のちょうちょかと思ってたのに」
極普通に馴染んでたからまさか毒持ってるとは思わなかったよ。さすが忍術学園。
感心というべきか呆れというべきか、ともかくもなんともいえない顔で苦笑すると、上ノ島君も苦笑いするように生物委員会で飼育してるから、と零した。
・・・生物委員会といえばよく毒虫を逃がすということで有名なあの委員会。先輩方が戦々恐々としてたなぁ、と思いながら、そっかぁ、と頷くと籠の中の蝶を見た。
「無事捕まえられてよかったね」
「うん」
言えばにこりと無邪気に笑う。ほわんとした微笑みは子供らしく愛らしく、ふと幼い龍神を思い浮かべたが、内に閉じ込めるだけで終わらせた。無邪気、無邪気。最初の怯えた雰囲気はどこへやら、至って自然体で対峙している上ノ島君に、どことなく嬉しく思いながら目を細めた。
「その子達委員会に返しに行くの?」
「もう少し周りを見て回ってから戻るけど・・・」
「そっか。大変なんだね。・・頭に葉っぱついてるよ」
他に逃げたのがいないか探さないといけないらしい。それは大変だな、しかも虫だし探しにくそうだと、と会話をしながら手を伸ばして頭についていた木の葉を取って地面に放り捨てる。それからどことなく埃塗れだったのでついでにぱっぱと簡単に埃を払い落としてから、最後に頭を一撫でしてじゃぁ頑張ってね、と離れた。パチリ、と上ノ島君が瞬きをして、頷くのを見届けて踵を返す。ふむ。なんだ、案外普通に話しできるじゃないか。
明日もこの調子で声をかけたら反応してくれるかなぁ、と考えながら、心持り浮き足立った足取りで、くのたま長屋まで歩いていった。