派手に転んだときのこと
なんてことはない一瞬だった。別に石が転がっていたわけでもないし、草が生えていたわけでもない。先輩の仕掛けた罠があったわけでも、どこからともなくボールが飛んできたわけでも、床板が浮いていたわけでも、段差があったわけでもない。ましてや保健委員みたいに不運であるわけでもなく、そう、それは偶に有る芸術的な油断であったのだろう。
恐らくは本人も受身も碌々取れず不恰好にこけた事実が理解しきれていないに違いない。こけた状態でポカンと呆けている様子は年齢以上に幼く見えた。幸いにも周囲に人影は少なかったが、それでもいくらかの人がその見事すぎるこけっぷりにポカンとしていた。大丈夫?と声をかけるでもなく、まじまじと地面にうつ伏せに寝転がる羽目になった少年を見つめてしまう程度には。
かく言う私もいきなり近くで起こった出来事に少々反応ができずにポカンとしていた。こけた黒門君の周囲には運んでいたプリントが散乱しており、廊下はちょっとした荒れようだ。
しばらく無言の時が流れると、ざわざわ、と喧騒が徐々に戻ってきて、じわじわと黒門君の頬に赤味が増していった。ぐっと唇を噛み締めて、床についた拳をぎゅう、と強く握り締める。そうして顔を隠すように俯いた所で、私はようやくはっと瞬いた。
「(あー・・・これ気まずいっていうか超恥ずかしいな・・・)黒門君、大丈夫?」
「・・・・・」
「足とか捻ってないよね?立てそうならプリント拾っちゃおうか」
「・・・・・うん」
声をかけつつ、しゃがみながら周囲に散乱したプリントを拾い始めると、転んだ状態でじっとうつ伏せていた黒門君が沈黙の末、俯いて篭った返事を返した。いつもより覇気のない返事に僅かな苦笑を浮かべつつ、もぞり、と起き上がった彼が俯きがちにプリントを拾い始めるのを黙々と手伝う。ちらりと見た顔は俯いて影ができてどんな表情をしているのかはわからなかったが、意気消沈とした様子に大体の想像はつく。顔を見せないのもわざとだろうし、散乱したプリントを集め終えるとすくっと立ち上がって俯く黒門君に視線を合わせた。すっきりと横の髪も上に纏め上げて多少目元にかかる程度の前髪しか彼の顔を隠すものはなく、赤くなった頬と耳、それから横顔から僅かに目尻が見える。ざわり、とそこでようやく周囲にも動きが見られたが、どことなくくすくす、と笑い声が聞こえて黒門君の下唇がきゅっと白い歯に挟まれた。巻き込むようにぷくりとした下唇が口の奥に消えて、耐えるようにプリントを持つ手に力が篭る。戦慄く小さな肩を見やり、周囲を見やり、それから肩を竦めて何事もなかったこのように歩き出した。
後から動きにつられてついてくる黒門君に、どうやら足に異常はなさそうだとほっとしながらまぁでも受身もちょっと危うかったし、後で保健室にでも連れて行ったほうがいいかなぁ、とぼんやりと考え、明るい青の衣装をした生徒の横を通り過ぎたとき、にやついた顔で二年生が言った。
「だっせー」
「忍たまの癖にあんな派手に転んでやんの」
嘲笑を含んだ揶揄に、カッと黒門君の頬が更に赤くなる。けらけらと笑う声は、あまり心地の良いものではない。悪意というほど苛烈ではないが、けれど好意に取れるはずもないからかいは自分に向けられたものではなくてもいささか不愉快である。
確かに黒門君のこけっぷりは笑われるに値するだけの見事さではあったけれど、わざわざ通り過ぎるときに聞かせるように言うことでもない。まぁまだ十かそこらの子供なのだから、この程度の揶揄は可愛いものだとは思うけれども。そういえば忍たまでは近い学年同士はあまり仲が良くなかったんだったかな。くのたまは少人数故か、上下の仲でさほどの問題はないからいまいちわからないけれど。いや、もしかしたら私の中身が中身だからなのかもしれない。真実年が近い故の感情の揺らぎが把握できていないのかもしれないなぁ。
そう思いながらも、羞恥なのか怒りなのか、大幅の比重は羞恥に偏っているだろう黒門君が耐えるように肩を怒らせるのを横目で見やり、よく振り返って睨み付けないものだと感心した。彼等の性格からいえば、振り返って睨みつけるぐらいしそうなものだとは思うが、黙って耐える姿は少々痛々しい。くすくすという笑い声に肩を落とし、私はそれにしても、と何気なくを装ってにっこりと黒門君に笑いかけた。
「困ってる人を助けられもしないなんて、残念な人が多いね」
散乱しているプリントを拾う手伝いをするとか、大丈夫か、の一言ぐらいあってしかるべきだと思うんだけどなぁ。年上ならば、それぐらいの余裕は持てずにどうする。
優しさは三禁?馬鹿を言え。日常生活の優しさとお仕事の優しさは別物だ。それぐらいの分別つけずして全てを禁じては、それは最早人の括りですらないではないか。
ポカンと目を丸くしてしん、と水を打ったように静かになった廊下で、同じくポカンとしている黒門君に笑いかけつつ先を促す。
「さ、早く安藤先生のところに行こうか。首を長くして待ってるよ」
「あ、あぁ」
さて、私が毒を吐くのが意外だったのだろうか?多少視線を泳がせてどもった黒門君に別に君に毒を吐いたりはせんよ、と思いつつちら、と視線を彼の背後に向けた。
件の二人は呆けたように目を丸くしていたので、多分まだ意図が掴めてないのだろう、と判断してそそくさとその場を言い逃げするかのように後にした。いや、絡まれてはたまったものじゃないし。なら口出しするなという話だが、小さい子、しかも友人が貶されているのに何もしないのも心苦しい。嫌味の一つも言いたくなるじゃないか、事なかれ主義としても。
これで自分の身に多大な影響が出るというのならまた別だが(例えば、メインキャラとかが相手とか)とりあえず私が記憶する範囲で彼等は特に何も掠めないので、漫画やアニメとしてはいるけどいないキャラという立ち位置だろう。所謂モブ。実際はこうして生きているのだからモブという言い方はあれだが、わかりやすい表現はこれであろう。
黙々と廊下を歩いていくと、沈黙がなんとなく気まずい。何か話題はあったかしら、と視線を泳がせると、俯いていた黒門君がぽつりと呟いた。
「別に」
「うん?」
「あいつらの言ってることは、本当だし」
「うん」
「あ、あんなこけ方、忍者なら、しちゃいけないし」
「うん」
「助けて欲しいとも、思ってなかったんだ」
「そっかぁ」
前を向いて視線を合わせずに相槌を打てば、一度言葉を止め、黒門君はずいっと一歩大股を踏んで前にでる。どた、と板張りの廊下に大きめな足音が立ち、目の前に水色井桁の制服が広がった。
「はお節介だ」
「そうでもないよ?」
「お節介だ」
断言されて、そうでもないのになぁ、と苦笑する。黒門君のずんずんと前を歩く背中を眺め、それからひょい、と肩を竦めた。まぁ、立ち直ったようで何よりだ。耳まで真っ赤な様子が大層可愛らしいと、和むのは至極当たり前のことなのだから。