自分のことしか、考えてなかった。



 元より奇妙この上ない日々ではあったけれど、でもそれは個人の問題であって、「お母さん」にも「お父さん」にも、なんの非もないのだ。そう、奇妙なのは「私」であって、生活にも、日々にも、家族にも、不審な点はないし、不満もなかった。極々普通の家族(まあ、私が子供っぽくないという問題があったが)は、まるで「私」の頃の当たり前の幸福で包まれていた。生活水準が記憶にあるあの世界とは大分違うことがあれだが、そこはあれだ。
 伊達に記憶持ってないぜってことで、遙かの時の経験のおかげで別に問題視することもなかった。そうだ。別に、不満らしい不満はなかったんだ。しあわせだったんだ。
 私が「私」でない相違に狂おしいまでの焦燥と絶望を噛み締めていたけれど。
 時折とても、寂しく、辛く、どうしようもない気持ちに駈られたけれど。
 それでも、私は、わたしは、この日々を、愛しく思っていたのだ―――戦うことのない、特別などなにもない、日々を。私は知っていた。それがどんなに貴くて愛しいものなのか。
 失いたくないものなのか、失えないものなのか、噛み締めるほどに、泣きたいほどに、私は、それが、大切だった。――――あぁ、なのに、それなのに、どうして。





 それが起こった時、私の体はふわりと抱き上げられ、同時に床に押し倒されていた。
 背中と後頭部に回された腕がしっかりと抱き込み抱えて、私はすっぽりとその細くしなやかな両腕に包み込まれていた。それは母と呼ぶ人の腕の中で、暖かな体温を布越しに感じながら、呆然と僅かに垣間見える肩越しに、粗野な男が振り上げる鈍い色をした剣を見つめていた。ギラリと、窓から入る僅かな月明かりを跳ね返す刃物の有り様が、まざまざと私の脳裏に記憶を蘇らせる。
 見慣れた、それは人を殺す為の輝きだった。見開いたままそれが振り下ろされる軌跡を見つめていれば、どっという大きな音が聞こえると同時にびくんと私を抱きしめる母の体が跳ねた。
 しかし抱き込む腕の力は衰えず、それよりも一層強く、背骨が軋み、悲鳴をあげるほどきつく力をこめて抱きしめられ、息苦しさにきゅっと眉を寄せた。
 その時、耳元に母が唇を寄せて、吐息のように掠れた声でそっと囁きかけてくる。
 優しい優しい声で、腕の力を緩めないままで。大丈夫。大丈夫だよ、と。
 優しく甘い母親の声に、私は唇を戦慄かせ、母と自分の体に挟まれていた腕を動かし、必死に母の服を握り締めた。きつく、きつく。抱きしめる母の腕に応えるために、きつく。
 母の声は、泣きたいほどに優しかった。言葉は下卑た笑い声に重なり、より一層その優しさを際立たせるほどに。握る手の力が強まる。目を見開いたまま、笑いながら母の肩越しに再び剣を振り上げた男を見つめていた。視界に、背に突き立てた剣を乱暴に抜く男の、荒荒しい動きが否応なく入る。男が蹴りつけながらずるりと引き抜いた反動で、母の背から噴き出た血が月明かりにきらりと輝いた。真っ暗な中で、びちゃっとそれが落ちる音がする。
 母の背筋は鮮やかに反りかえり、見えた白い喉元から、甲高い引きつった悲鳴が零れた。
 優しく大丈夫と囁いた声が、苦悶にガラリと様相を変えて、耳に届く。
 男の荒荒しい動きに乱れた母の髪が滑り落ちて頬を掠め、床で私の髪と混ざり合う。
 男は笑いながら何度も、何度も、何度も、何度も、刃を母に突きたてた。
 母の声がその度にどんどん小さくなり、私を抱きしめる腕の力がなくなっていくのが、わかりたくもないのにわかってしまう。私が母の服を強く握り締めても、大丈夫と囁く声も、庇護するかのような腕の力も、なくなっていく。不意に、母の白い首筋から、ぽたりと何かが頬に落ちてきた。ぽたぽた、と幾度もまるで雨滴のように降り注ぐそれは頬に落ちると、表面張力に耐えられないように伝い滑り落ちていく。色も何もわからなかったけれど、それがなんなのか、私ははっきりと理解した。1年間の記憶。忘れたいと願うほどに、忘れさせてくれと懇願したくなるほどに、それはひどく辛い記憶に直結しているからだ。―――どんなに平穏な時にあろうと、私は一生それを忘れる事が出来ない。そんなことは知っていた。
 けれど忘れなくとも、再び見ることなど、きっとないだろうと、思っていた、のに。
 なのに、今私の頬を伝うものも、母の首筋から、髪から、伝い落ちるものも―――恐らくは私と母を中心に広がっていっているだろうそれは、記憶を刺激してやまない。
 理解した途端、ぞわりと背筋を悪寒が駆け巡り、喉がきゅっと萎んだ。
 張り上げたい悲鳴が喉奥で潰れ、ひしゃげ、ひゅぅ、という呼吸音だけが外に漏れ出る。
 つん、と鼻腔の粘膜を刺激する咽かえるような錆びた臭いなど、ずっと久しく忘れていたというのに。終に母がなんの反応も示さなくなった。何度も繰り返し、男が背中に刃をつきたてても、衝撃こそ母の体を介して私に伝わったが、母自身はピクリとも動かなくなった。
 ずっしりと、母の体の重みを感じる。今だ小さな体に成人女性の力のない体はひどく重く、圧迫感に息を詰めた。恐らく僅かな時間なのだと思う。夢中で母に刃を突きたてていた男が、ようやく母の様子に気づいたのかその動きを止めた。月明かりにぼぅ、と体を浮かばせながら、笑いつかれたように荒荒しい息をあげて、母を見下ろしていた男はちっと舌打ちをして母を蹴り上げた。

「なんだぁ?もう終わりかよ・・・あぁっ?!」

 蹴られた衝撃で、母の体が私の上から僅かにずれた。抱え込んでいた腕が力なく崩れて、母の黒髪が乱れて私の上にかぶさったまま、僅かにずれると圧迫感が少しだけなくなる。
 その代わり、母の下にいた私は男の前に曝け出された。男は母を刺すことに夢中だったからか、その下に私がいることなど記憶の片隅にも置いていなかったのだろう。
 呆然と目を見開いている私に驚いたように僅かに目を瞬くと、にやりとひどく不快感を煽る笑みを浮かべた。まるで新しい獲物、いやこの場合、玩具を見つけたように、男が舌なめずりをする。その瞬間ぞくりと背筋を何かが走り、心臓が激しい音をたて始めた。
 母の下に居た時はただ呆然と動いていただけのそれが、ここにきて嫌な速度で激しく動き始める。どっどっどっどっ、と鼓動が耳の奥にやけに響く。ピクリと肩が動いて、指先を床に這わせて力をこめた。  ぬるりと、指先になにかが纏わりついたけれど、私は食い入るように男を見つめていた。

「ははっ・・・なんだ、まだいるじゃねぇか」

 瞳を細め、微笑んだ男の顔の半分が、明るい月明かりに照らされる。
 母に突きたてられていただろう剣もまた月に照らされ、ぬらりと光を跳ね返す。
 切っ先から、ぽたぽたと落ちるそれが、母の首筋から垂れたそれと同じく、私の顔の横に落ちて。同時に、男が大きく腕を振り被り――咄嗟に、私は体を捻らせて転がった。
 ガツンッ、と剣は堅い音をたてて床に突き刺さり、はらりと私の髪が零れ落ちる。
 腕が熱かった。避けきれなかった刃に、僅か切られたらしい。切られた部分を反射的にもう片手で押えて、驚いたように止まった男の横顔を一瞥すると、すっと一度息を吸い込む。
 どくどくと心臓が忙しなく動くが、私は眉を寄せてキッと眦を決して男を見つめた。
 男の動きを見落とさないように、すぐにも対応できるように――それは、かつての世界で、教えられた事だった。反射的にでも、避けられてよかった。幾度も、幾度も、彼等の剣を、誰かの剣を、受けていた、反射のようなものなのだろうか。体に刻まれない、記憶だけのそれなのに。動揺する内を唇を噛み締めることで押し殺し、男がゆっくりと振り向いた瞬間に、私はもうほとんど反射的にその場から転がるように立ちあがり、走り出した。
 びしゃっと足元で水音がたったが、気にする暇もなく、ただここから逃げなくてはいけないと、それだけを思った。死にたくなかった。あのままあそこにいれば確実に私は死ぬ。
 死にたくなかった。死ぬのは怖かった。―――あの恐怖を、二度も味わいたくなんてなかった。後ろから男の野太い、怒りに満ちた声が聞こえたが、そんなものに身を竦ませている余裕などない。
 家の中を駆け抜け、視界に倒れている人が映った。咄嗟にびくりと足を止めて魅入る。仰向けに寝転がれ、開ききった瞳孔で虚空を見つめる男。お父さん、と声無き声で呟いた。  引き攣れたように喉が動き、足が父に向く。手を伸ばしかけて、背後の足音に大きく心臓が跳ねた。―――だめだ。
 父に向いていた足を出口に向ける。視界から息絶えている父を消すと、飛ぶように家の外に出た。立ち止まってなど、いられなかった。
 そこに、ただそこに、すぐ近くに、父が絶命していたというのに!!月明かりに照らされた静寂に不似合いな荒荒しさで、私は外を走った。子供の足なんてたかが知れているが、それでも私は少しでも男から逃げる為に(殺されない為に)走った。走って走って走って、恐怖からなのか走ったせいだからか知らないが、爆発しそうな心臓を抱えて、カラカラに乾き痛みを訴える喉を抱えて、ただひたすらに走った。逃げた。逃げて逃げて逃げた。
 何度も服の裾に足を絡ませ、土に足をとられ、石に躓いて転げながら、それでも逃げた。男が迫っているのか、諦めたのか、そんなこと知りもせずに、そんなこと確認もせずに。ただ、迷いなく私は逃げた。行く当てなんてどこにもないけど、どこにいくかなんて何も考えてなかったけれど、ただ走った。
 走っている間は自分は生きているのだと思って、ただ無我夢中で走った。
 止まってしまったら、私は死ぬんじゃないかと、ただそれだけが、怖かった。