あの夢を認めるには、まだ実感が湧かない。



 目が覚めたとき、見えた天井に一息零した。あぁ夢だったのかと、安堵の吐息を零し、胸まで下がっている布団を引っ張り首筋まで覆う。
 嫌な夢だった。とても怖い夢だった。久々の悪夢だと、布団の中で噛み締め、ごそりと寝台の上で動き、もう一度寝ようかと思い息を吐き出した後に、むくりと起きあがった。
 見覚えのない寝台だった。パチリと瞬きをして、首を動かす。横に向けば、やはり見なれない部屋であり、一般庶民である私の家とは似ても似つかない何やら立派な部屋である。
 何度か目を瞬くうちに、眠気などどこかに飛んでしまった。忙しなく目を動かして部屋を観察してみるが、私の家にこんな部屋はどこにもない。
 有る意味、梶原邸の一室のように広くはあるのだが、しかし調度品などは中国のそれである。つまりここは私の育ったあの家でもなく、かといって記憶の梶原邸でもない、どこでもない場所なのだ。もしかしてまたトリップ?と思い自身の体を見下ろすが、生憎と体は全く成長してなかった。つまりは、ここで8年間育った体のままである。

「ぇ・・・?」

 口を開いて零れた声が、あまりにも掠れて聞けたものじゃないほど枯れていることに、驚いて咄嗟に喉を手で押えた。そう言えばひどく喉が乾いている。
 あーあー、とまるでマイクのテストをしている時のように何度も声を出して、やっとまともな声が出てくる。どこだここ、とぼやいた時は、声帯が言葉に続かず、やはりどこか掠れてしまったけれど。寝台の上で座り込んだまま、ぼけっと部屋を眺める。
 なんとなく上を向いて、天井を見上げてみるが、とりあえず自分の家じゃねぇ、ということだけはわかったので、私はぎゅっと布団を握り締めた。恐怖というべきか不安というべきか、ともかくも落ちつかない。どきどきと心臓が暴れだし、この部屋から出ていいものか悪いのか、それすら迷い、困惑する。しばらくそうして所在無く寝台の上で小さくなって固まっていると、時間の経過がひどく遅く感じられた。
 この世界に時計なんてものはないから、静かな室内に「チクタク」という秒針の音が響かず、それがまた余計に時間の遅さを感じさせる。
 じりじりと内心で焦れてきて、変な焦りに心臓がざわつく。もう本当嫌だこういうの。
 チキンな性根にわけのわからない現状は負荷にしかならず、しかも悪夢の後だと思えば余計に誰かに会いたかった。その誰かというのはいわずもがな家族であるのだが、とりあえずこの場合誰でもいいから人に会いたい、といったところか。
 もう少し待って誰もこなかったら、勝手に出歩いてやる、とそう心に決めて一度深呼吸をしたところで、ギィ、とドアを開く音がした。びっくぅ!と肩を揺らして、慌てて目を動かして入り口を見る。
 待ちに待っていた変化なのだが、しかしもっとこう、心の準備がね、万全の時にね、きてくれないかなぁ?!
 ちくしょう、誰だ、できるならお母さんで!という願い虚しく、視界に入ったのは母よりもずっと若い少女で、紅い色の服を着ている。・・・・・・・紅い色の服を着た女の子なんぞ私この世界に生まれてから1度も見たことないよ。準じた色はままあるが、それを基本色としている人なんで、市井で見かけることなどほぼ皆無だ。
 向こうでは頻繁に見ていたはずのその色彩も、8年間ここで過ごした私にとってみれば物珍しい、というかものすごく久しぶりな色彩でしかなく、瞬きをして綺麗な黒髪に可愛い顔をした女の子を、じぃっと見た。
 女の子といっても、私の外見年齢よりもずっと年上なんだが、彼女は手にお盆を抱えて、その上にはなんでか桶が置いてある。ついでにコップというか水差しもあり、それを両手で持ちながら驚いたように目を見張っていた。しばし、私と女の子で見詰め合いが生じる。
 異様だ。異様この上ない。沈黙が居た堪れない。ていうかこの女の子の顔どっかで見た事がある気がするというか、うんなんか知ってるぞ?ぱちり、と瞬いてどこで見たっけ、知り合いにいたかなぁ、と首を傾げると、止まっていた女の子はパァ、と顔を明るくさせて慌しく動き始めた。

「よかった!目が覚めたのね」
「ぇ、あ、その、」
「丸1日ずっと目を覚まさないから、心配してたのよ。大丈夫?どこか痛いところはない?」
「え、はあ、丸1日?・・・あぁ、大丈夫、です」

 丸1日?え、待ってなにそれ。どういうこと。寝台近くのテーブルにお盆を置いて、心配そうに額に手を伸ばしてきた女の子にびく、と一瞬後ろに仰け反りながら、パチパチと瞬きをする。なんだ、この展開。いまいちついていけない女の子のテンションと事態に(寝起きにはきついわぁ)、ぎゅう、と布団を握る手に力をこめる。
 さっと額に手を滑らせて前髪に触れた女の子は、ほっと息を零して柔和に微笑んだ。その笑みに呆然と見惚れながら、首を傾げる。
 ・・・なにがなんだか、わからないんですけれども。

「あの・・・お姉さんは、いった・・けほっ」

 一つ息を吸って、吐いて、ひとまずまだ五月蝿い心臓を宥めながら、おずおずと問いかけるが、途中で咽て咳を零す。あー、喉が張りついて痛い。けへけへ、と何度か咳き込みながら喉元を擦ると、女の子はさっとコップに水をいれて私に差し出してきた。
 口元にそれを宛がわれ、ゆっくりと傾けられると飲むしかなく、まあ実際水は欲しかったので、その行動に目を白黒させたが、とりあえずコップの水を口に含んだ。
 こくり、と喉を水が通っていくと、冷たいそれが染み渡るように広がっていく。
 あぁ・・・水が美味しい。ふ、と息を零すと、私を覗き込んで女の子は首を傾げた。
 さらりと、肩で黒髪が波打っている。

「大丈夫?水、まだいるかしら」
「はぃ・・・頂きます」

 女の子の手からコップを受け取り、ごくごくと喉を鳴らして飲みながら、ちらりと女の子を観察する。心配そうにこちらを見てくる美少女、とまではいかないものの中々可愛い女の子に、眉を顰めながらコップの中身を飲み干すと、ふぅと大きく一息零した。

「もっといる?」
「いえ、平気です・・・」

 首を傾げて水差しを掲げる女の子に小さく首をふり(本音はもう少し欲しかったが、今はそれどころではない気がする)、ぎゅっと拳を握り締めた。

「あの、お姉さんは、どちら様でしょうか」

 き、と顔を上げて(しかし緊張で細い声で)問いかけると、女の子はパチリと瞬きをして、あ、と口元を手で覆った。

「あ、そうね、そうよね。ごめんなさい、名乗りもしなくて」
「いや、いいんです、けど」

 状況が状況だから、まあ仕方ないことなんじゃないか?まるで漫画か小説さながらの状態だけども。そう思えばえらく客観的な気持ちになり、私は水を飲んだことも手伝い、先ほどよりもいくらか落ちついた気持ちで女の子を見つめる。
 彼女は、目を細めてにっこりと微笑んだ。

「私は、紅秀麗というの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こう?」

 え、待って。こうって、紅?目を丸くすると、女の子は笑ったまま頷いて、一応紅家だけど、気にしないでいいわ、と言ってくださった。
 いや、まあ、確かにそこんところも驚きではあるんですが。(8年間の中でここが実はあの世界だということはなんとなくわかってたんだけどね)それよか秀麗という名前の方が私的に大事というか、記憶の琴線に引っかかるというか、あぁそういやこんな顔だったなぁ、というか、うん。呆然としている間に女の子はあなたが起きたことを知らせてこなくっちゃ、とか言ってちょっと待ってて、と言い残して颯爽と部屋から出ていってしまった。いや、好都合といえば好都合だが、ちょっと待てよゴルラァ。

「あっれー・・・・」

 紅秀麗って、・・・どこかで聞いたことがあるようなないような?どこだっけ?
 首を傾げ、うんうんと唸りながら記憶をひっくり返して選別して、紅秀麗紅秀麗、と何回も繰り返す。あぁそういえば今の子、朔の声とよく似ていたな。朔、朔?不意に、その瞬間パッと視界が開けたように記憶が逆流してきた。喉元まででかかっていた何かが飛び出たようにすとんと納得して。愕然とした。
 いや、元々彩雲国世界にきたのかもしれないなぁ、とは思ってたけどさ、でもさ、私ものすごい一般庶民だったし、周りに紅家も黄家も藍家もなかったしさ、いやもう普通のご近所様しかなかったわけで。
 もう官吏目指すだとか朝廷に使える人とか周りにもいなかったし、むしろ周りは自分の店だとか農家だとかが基本でさ。
 大体私、夢小説みたく貴族のどこかに生まれたわけでもなければ、拾われたわけでもなくもう本当、縁も縁もなく、それが普通なわけで、そんな風に普通に生きてきただけで。
 うん、だから、だから、なんで私主人公に遭遇してんの?ってことであって。
 なんでここにいるのってことであって。お母さんは、とか、お父さんは、とか、思って、思って、肩から力が抜けた。