世界は広く、ちっぽけだ。



 ほんの少し、懐かしい夢を見た。相変わらずストーリー性がないというか、ごちゃ混ぜになっていてわけのわからない夢ではあったけれど。ただ、なんとなく、家族がいて、話していたような気がする。話してた内容も覚えてない、最早夢の中のことはうろ覚えで、曖昧だったけれど。ただ、懐かしいと思い、じんわりと目尻が熱く感じた。それをぐしぐしと手の甲で擦り、瞬きを意識的に何度もする。
 濡れた睫毛を乾かすようにまた指先で擦って、息を吐くとむくりと起きあがった。見回した周りは馴染みのない部屋で、自分の家ではないことを再確認する。
 一瞬の戸惑いもすぐに昨日の記憶が思い出され納得すると、恐る恐る寝台から出て床に立った。素足で立つととても冷たい床と、どこか肌寒い空気にぶるりと震えながら、近くに置いてあった自分の沓を履く。
 そうして突っ立ったまま、さてどうしようかと首を傾けた。着替えようにも服なんて見当たらないし・・・というかそもそも、今着ている服でさえ物凄くぶかぶかで何度も裾を折って着ている代物だ。まぁ寝衣とはいえ、着物の形をしているそれは袖はともかく裾は持ち上げて帯で締めてしまえば丈は合うから問題はないけど。
 この格好のまま出歩くのはどうかと思いながら、むしろ今何時だ、と首を傾げる。
 寝過ごしてたら申し訳ないな、と思いつつしばらく逡巡すると私は意を決して扉に足を向けた。・・・偶には、自分から行動するのもいいだろう。というかいつまでも部屋に1人でいるなんて退屈だし憂鬱になってしまう。扉をあけて、廊下に出ると部屋の空気よりも冷えた空気が頬をさわりと撫でていった。なんというか・・・失礼だが、不気味な廊下である。
 広く長いのに所々壊れかけたところもあり、一応掃除はしているようだが、にしても普通の家を考えるとボロ臭い。これは夜中はちょっとしたホラースポットかな、と思いつつそっと音を立てないように扉を閉めて廊下に立つと、さてどっちに行けばいいのか、と首を傾げた。
 右と左、果たして人がいるところは一体どっちであろう。そういえば紅家長男一家の家は無駄に広い、という設定だったっけ。かなり古い記憶を思い返しながら右左に首を動かして、適当に足を向けた。・・・迷ったらその時はその時で!行き当たりばったり上等である。
 人生そんなもんなんだ。でもなるべく道は記憶しておこう、と壁に手を添えたままてくてくと歩いていく。床に沓が当たるこつこつという音を響かせながら、周りを観察しつつ当てもなく廊下を突き進んだ。時々通り過ぎる扉に興味が引かれたが、勝手に開けることができるはずもなくそのまま見送り、ひたすら歩く。・・・所々壁も罅割れて寒風すら入り込むというのに、無駄に広い屋敷は迷子になるのにはうってつけかもしれないと思った。
 なにせ全く人に会わない。まあ、この馬鹿でかい屋敷にたった3人という少ない人数なのだ。ばらけたらまず遭遇しないだろうなぁと思い、ピタリと足を止めた。

「中庭、かな?」

 渡り廊下ともいうかもしれない。屋敷の中というよりも外、両側を壁に遮られることのない剥き出しの廊下を先に見つけて、とことん台所方面から遠ざかっていたらしいと悟る。
 首を傾げて、まあ外に出てみたら何かわかるかも、と希望的観測を持って私はそのまま進んだ。能天気というなかれ。考え込んでも無意味なんだよ。
 そうして外に出ると、まだ冷たい春先の空気が肌を刺す。ぶるりと震え、腕を擦って薄靄のかかる庭を見まわした。
 ・・・まだきつくない太陽の柔らかな日差しに、どうやらまだ朝の、それなりに早い時間のようだと気がつく。ならば寝過ごしたわけじゃないんだろう、と安堵を零しながらそれにしても、と目を瞬かせた。

「知ってはいたけど・・・」

 なんとも殺風景な庭である。原作のことを思い出しながら、花どころか葉っぱすらろくにつけていない茶色い木肌しか見えない丸裸の木々に溜息を零した。
 雑草は生えているが、植木等に活力はなく、薄ら寂しい光景である。秋や冬ならそれが当然で季節を感じさせるなぁ、というだけで終わるのに春先の生命が息づき始めるその最中、これほど緑のない庭先などそうそうないだろう。
 爪痕がくっきりと残っている、とはこういうことをいうんだ、きっと。なんとはなしに枯れ果てた木に近づいて、幹に手を触れる。カサカサに乾いた幹肌に、緑のない枝を見上げて、これはもう死んでいるんだろうか、と首を傾げた。
 生憎と選別できる目なんて持ち合わせていないので、この木が死んでいるのかまだ生きているのかわからない。・・・ま、生きてたら葉っぱをつけるんだろうし、つけていないということは死んでしまっているのだろう。可哀想に、と呟いてそっと離れた。
 別に木に同情するためにここにきたわけではないのだ。廊下から離れたことで屋敷を外から見上げることができ、私は見上げながらほけぇ、と口を半開きにした。

「・・・でかい」

 中を歩いていてもそう思ったが、ちょっと庶民には考えもつかないような広さですよ。
 外観の悲しいまでの痛み具合はこの際無視して、建物全体を見れば素晴らしく大きく広く立派な家である。細かいところさえ見さえしなければ。本当に、庶民とは縁遠い世界だと、思うのだが・・・。

「これでもっと綺麗だったらねぇ・・・」

 これじゃ、人の気配が薄い分廃墟に近いような。中々失礼だと思いながらそう感想を零し、ことんと首を傾げる。最近この角度が癖になってきたような、と思いつつぶっちゃけ外から見てもただ単に紅家の敷地の広さと家のでかさと荒廃っぷりがわかっただけで、地理的なものは何一つとしてわからずじまいだった。え、あれ、意味ないよね。大人しくしてた方がよかったかなー、と思いながらしかし暇潰しにはなった、とそう自分を慰めて肩の力を抜くと踵を返した。部屋に戻ろう。たぶんきっとその内秀麗とかその辺りが部屋に迎えにくるはず、である。
 予想でしかないけれどほぼ100%の確立で当たりそうな予感がするので、今度は部屋で大人しくしておくべきだ。むしろこれで擦れ違ってたらそれはそれで切ないよね。
 ありそうで嫌だなぁ、と思いつつまた壁に手をあてて、今度は来る時以上に慎重に歩を進める。なにせ記憶を頼りに部屋まで戻らないとならないのだ。曲がり角の度に足を止めて、じっくりと様子を捉えて頭の中の地図とかみ合わせると進んでいく、が。

「・・・わかんない・・・」

 なんていうか、お約束?真っ直ぐに伸びている廊下と左に曲がる廊下にぶち辺り、部屋にはどう行くんだっけ?と首を傾げてむむぅ、と眉間に皺を寄せた。
 元々一発で道を覚えられるほど記憶力はよくないので、迷うのは仕方ない。
 こうなることもある程度予想していた上での出歩きだったので、案の定な結果に吐息を零しながら投げやりに左に曲がった。
 ここからならあとはどう動こうが変わらないのだから、好きなように動くだけである。できるなら誰かに会えたら嬉しいなーと思いつつ、屋敷の中をてくてくと適当に歩いていく自分は、小さいからまだ許されるが大きかったら不審者だよね、とぼやいた。廊下内で反響する沓音を聞きながらまじまじと紅邸を観察する。
 ・・・維持費が大変っていうのも、わかる気がした。大き過ぎるのも難である。
 金持ちはどうしてか大きな家を持ちたくなるものらしいが・・・根っからの小市民である私には全然理解できない思考回路だ。大きくて一体どうするというんだろう。普通の大きさでいいんじゃないか、とか。
 まあ権力を示す為とか有り余るお金の活用方法なのだとか、色々あるのかもしれないけど、やっぱりよくわからない。お金持ちってわからないなぁ、としかしこの家の人達はある意味で庶民だよねぇ、とも思いながら歩くことしばし。

「・・・物音がする・・・」

 廊下の先で何やらカタコトと物音が聞こえ、私はやっと人に会える!という喜びの元、そそくさと駆け出した。とはいっても心持ち早歩き、程度なのでさして物音はたてていない。
 音の発生源たる室まで行くと、ゆっくりと立ち止まりそろそろと入り口から覗き込んでみた。
 どうやら、台所だったらしい。机や大小様々な棚のある室内をぐるりと見渡し、私本当どういう道順辿ったんだろうか、と少し考え込みつつ、台所に立つ後ろ姿に思わず息を洩らした。
 ・・・秀麗さん、だ。入り口から見える背中は、カタコトとどうやら朝食を用意しているらしく忙しなくあっちやこっちを行ったり来たりしている。火にかけている鍋から白い湯気が上がっているのを見ながら、忙しそうな姿に一瞬声をかけるのを躊躇った。朝って、色々と仕事があって大変なんだよね。
 かといって入り口の横で覗き込んでいるのも怪しいし、部屋に戻ることもできやしないし。結局、中の人に声をかけるしか道がないのである。まあ、手伝うのもいいかな、と思いながらそろそろと台所に足を踏み入れ、まだ私に気がついていない秀麗さんに控え目に声をかけた。

「あ、あの」
「え?・・・あ、?」
「おはようございます、秀麗さん」

 振りかえった秀麗さんが驚いたように目を丸くするのに小さく笑むと、秀麗さんは軽く瞬きをしてすぐさま満面の笑顔を浮かべてくれた。

「おはよう、。起きてて大丈夫なの?どこか体調が悪いとか・・・」
「はい。大丈夫です。別に怪我とかがあったわけじゃないんで。それに、目が覚めてしまって・・・あの、何か手伝いましょうか?」

 多少腕が切られてはいたが、その程度別に行動に支障があるわけではない。
 あとは言うなら髪のことだが、それこそ気にすることじゃないし。いや、この国だと髪を切られた事はかなり重要なことなんだろうけれど、何分中身が中身なもので。
 寝っぱなしなんて、逆に体に悪いぐらいだ。倒れたのは単純な疲労だと睨んでいるので、体調なんてもうすっかり万全の状態である。にこにこと笑って、控え目に申し出ると、秀麗さんは安心したように顔を崩してからふるふると首を横に振った。

「いいのよ、手伝いなんて。はまだ病み上がりでしょう?休んでていいわ」
「でも、」
「気にしないで。それにもうすぐご飯もできちゃうの」

 くるくるとお玉でお汁を掻き回している秀麗さんの顔を見上げて、それなら仕方ないか、とこくりと小さく頷いた。方便、ということもあるかもしれないが、あまり無理強いするのもあれだし。そもそも、台所の高さと自分の背丈が合ってないので、手伝いも高が知れるというもの。せいぜいできて出来たものを運ぶぐらいだろうか。
 しかし、・・・部屋の場所がわからないから戻るわけにもいかないしねぇ。まあ、食事をとるところで待っていればいいんだろうが、まずその部屋がどこなのかも知らないし。これだけ広いから、台所と食べるところはたぶん離れてるだろうから、場所がわからないと動けない。・・・あーそういや顔も洗ってないんだ、私。まず井戸の場所でも聞こうかな。

「あの、秀麗さん」
「なぁに」
「井戸って何処にあるんでしょうか。顔を洗いに行きたいんですけど・・・」
「あ、そうね。はまだわからないわよね」
「ついでに食事する部屋も教えて欲しいです」
「わかったわ。ちょっと待ってて」

 別に道順を教えてくれればいけるんだが。と思いつつもテキパキと鍋の火を止めて細細と片付ける秀麗さんの動きをじっと眺めていると、一通り終わったのか手を拭きながら、くるりと振り返った秀麗さんはそれは明るい笑顔を浮かべていた。
 す、とやや前屈みになって何気なく差し出された手を、きょとりと瞬きをして見つめる。そうすると彼女は、にっこりと笑って小首を傾げた。

「案内するわ、。行きましょう」
「えっ・・・あ、はい」

 ようやく手を取れ、という意味だと察して反射的に手を握ると、しっかりと握り返された。
 秀麗さんの手は、少しだけ母の手に似ていた。水仕事などをしていて荒れている手。
 手の皮が堅くなっていて、カサカサしている手。そして自分の手よりも大きなそれを握り返して、彼女を見上げる。でも母親というよりは、どっちかというとやっぱりお姉さんだよねぇ、と思いながら、私は部屋と井戸に、わざわざ連れていってもらったのである。
 台所を出て左に歩き、右に曲がれば食事をするところ、そこから庭に出て、家をぐるりと回る形で井戸に辿りつく。存外簡単な道のりで、これぐらいなら覚えられる、と脳味噌に刻み付けていると、見えてきた井戸の前に人影を見つけて、ぐっと目を細めた。あのシルエットは・・・。

「あら、静蘭」
「お嬢様。おはようございます」
「おはよう。今日は鍛錬でもしていたの?」
「はい。偶には動かないと鈍りますから」

 驚くほど柔らかな微笑で話す静蘭さんを下からまじまじと見上げて、なんていうか、ある意味わかりやすいかも、と思った。彼が秀麗さんを好きだという気持ちが、なんだか穏やかな空気を通じて伝わってくる。その好きがどういう好きかはさすがにわからないが・・・ま、どちらでも構いはしないしどうでもいいことだ。2人で軽やかに会話を交わしているのを頭の上で聞きながら、私はどうすればいいんだ、と少々居た堪れなく視線を泳がせた。
 ・・・顔、洗おう。握っていた手をするりと放すと、気がついたように秀麗さんが顔を動かす。つられて動いた静蘭さんと目が合い、咄嗟に愛想笑いを浮かべた。

「お、おはようございます、静蘭さん」
「おはようございます様。もう体の方はよろしいのですか?」
「はい。もう十二分に。秀麗さんにも言われましたけど・・・怪我も特にはないんで、1日以上寝てたらすっかり」

 ぐ、と握り拳をして元気さをアピールしてみる。そうすると、微笑ましげに目が細められて、それはようございました、と返された。ていうか何故に敬語。てか「様」って。
 敬語はまだいいとして(敬語キャラも向こうにはいたしね!)「様」は正直きっついなぁ、と思いながらにこにこ笑う静蘭さんに私もにこにこと笑い返す。

「・・・ところで、お2人はどうしてここに。水瓶の水が尽きていましたか?」
「ううんそうじゃないのよ。ご飯はもう出来てるの。がね、顔を洗いたいっていうから。まだこの屋敷の中のことわからないでしょう?だから、私は案内」
「あぁ、なるほど。でしたら、様、こちらに」
「あ、はい」

 話を振られて、笑顔で促され近寄ると静蘭さんは桶を井戸の中に放り込んで、水音が響くと引き上げ始めた。ガラガラと上の方で縄を回す音を聞きながら静蘭さんの行動を待っていると、井戸から出てきた桶を縁に置いて、振りかえる。

「どうぞ」
「・・・・・・あ、りがとうございます・・・」

 にっこり笑顔が眩しい。思わず目を細めたく感じながらも、わざわざ桶に水を汲んでくれたことに深く感謝する。・・・水の入った桶ってほんっとう、重たいんだよね。
 しかもそれを引き上げるのは、結構な重労働なのである。というわけで素直に汲んでもらった水で顔を洗いながら、乾いた布で顔を拭いてぷは、と軽く息を吐き出した。うー、サッパリした!

「じゃあ、静蘭も丁度一緒になったことだし、父様を呼んでご飯にしましょう」
「でしたら私が旦那様を呼びに行きますよ」
「そう?ありがとう、静蘭」
「いえ。では失礼します」

 言うな否や、颯爽と行動を起こす静蘭さんの背中を見送って、私は顔を洗うときに濡れた前髪を弄りながら、微妙な居た堪れなさを感じていた。・・・なんかもう、本当に、私あんまりここにいちゃだめだよねー。元々拾ってもらっただけだし、その内出ていく事にはなるだろうけど・・・ここはもうすでに3人という空間が出来あがっているので、いることはなんだか邪魔しているみたいで気が引ける。3人とも優しいからそんなこと気にしてなさそうだけど・・・これは、賃仕事を探すか道寺にでも行くかしないとなぁ・・・。
 まあそれに、下手にここにいて物語に関わる羽目になったら・・・嫌かもしれない。特別危険があるわけじゃないけど、できるならなるべく平穏でいたいよね。まさか自分が、この年で路頭に迷う羽目になるとは全然、思いもしなかったけど。だけど実際そうなるのだろう。扶養してくれる存在はもういないのだ。
 そう思うと、静蘭さんを見送る秀麗さんをぼんやりと見上げながら、胸に何かがぽっかりとあいてしまったような気がした。そわそわと落ちつかない、理由のない不安感。
 そっと胸に手を添えて、ふるふると首を横に振って顔をあげた。まあ、それももう少し落ちついてからだよね、と思いつつ胸に添えていた手を外して、再び秀麗さんと手を握ると(必要性を感じないんだが・・・落ちつくからよし!)台所まで戻っていく。
 出来あがった朝食などを運ぶのを手伝いながら(秀麗さんが、頬を薄っすらと染めてにこにこ笑っていたのがなんだか可愛かった。けどなんでそんなに嬉しそう?)椅子に座り、後はひたすら秀麗さんと雑談混じりに彼等を待つだけで。
 そんな風に当たり前に話している事が、ほんの少し奇妙な気がするのは――自分がやはりズレているからなんだろうなぁ、と麦ご飯を頬張りながら、しみじみと思った。

「なんだか今日のご飯はいつもよりも美味しいね」
「そうですね。また腕を上げましたか、お嬢様」
「やだ、静蘭ったら。そんなことないわよ。はどう?口に合うかしら」
「美味しいですよ。このお汁とか、出汁がよく出ててすごく好きです」

 ていうか全体的に好みな味付けで本当に美味しいよ。にこぉ、と思わず満面の笑みを浮かべだのは・・・一重に、美味しいものを食べているからに他ならない。
 食って大切だよね。それが満たされれば大抵のことはどうにかなる、と思いながらズズ、とお汁を啜ったのである。まさかあの紅秀麗のご飯が食べれるとは思ってなかったよ。
 ていうかまず、紅家の人間にご飯を作ってもらう日がくるだなんて、ねぇ。