涙の海を越えるまで。
家を空けて、どれぐらい経っていたのだろう・・・せいぜい2日やそこらのはずである。
記憶が飛んでいるせいで時間の経過が曖昧だが、そう間違ってはいないはずだ。
静蘭さんに外出の許可を貰い(行く場所は言えなかった。まともに動き始めてそうそう遠出はさせて貰えないかもしれないし)戻ってきた我が家を見つめて、私は顔を歪ませる。
家の周りには兵士の人が多数居て、家の中には入れそうもなかった。・・・まあ、殺人事件があった家なのだから、現場検証やらなにやらがあるんだろう。彩雲国でもそういうことをするんだな、と思ったが、地域密着型ではないとはいえ、取り締まる場所があるのだからそれも当然かと思いなおす。
・・・しかし、現代のような捜査は見込めないだろうな、とどこか達観した面持ちで厳しい雰囲気で動き回る兵士の人達を遠くから眺めて、私はぎゅっと自分の血塗れの服を抱きしめた。
自覚していた。認識をしていた。けれど、実際我が家を前にして、そしてその前にいる兵士を見て、心臓が震える。家の中はどうなっているのだろう。
父と母は、2人の遺体は、どうしてしまったのだろう。疑問が次々と溢れ頭の中を占めていき、唇を噛み締めて食い入るように我が家を見つめる。我が家なのに、我が家だったはずなのに、見知らぬ兵士に我が物顔で立ち入られてる様が、なんともいえない。
私の家だったのに、私は入れる様子もなく遠くからしか眺められないのが、苛立たしいと共に悲しかった。いや、入ろうと思えば入れるだろう・・・この家の娘だと言えば、きっと。
しかし、恐らく私は行方不明、あるいは両親と同じく死亡したと見なされているのかもしれない。というか、あの中に割って入る度胸がない、というなんとも情けない話なのではあるが。
だって怖い。見知らぬ人、見知らぬ兵士。見慣れた我が家なのに、まるで別の家のよう。
近所の人達も、あんなことがあった家を遠巻きに見ているばかりで、ひそひそと噂話に興じている――まるでそこだけポッカリと別世界になったかのように切り離されているような錯覚を感じ、地面に根が張ったように佇んだまま、私は眉間に皺を寄せた。
しかし、ここでぼけっと突っ立っているだけだなんて、なんの為に渋る静蘭さんを拝み倒してここまで来たかわからない。(やっぱり過保護だよあの人達。大体、子供とはいえ見知らぬ赤の他人をあそこまで過保護に扱うのも中々できることではないと思う)正直言って、並々ならぬ雰囲気と、いけば嫌でも孤独を突きつけられるだろうことがわかっていて、行きたくはないのだけれど。しかし、ここに来ると決めたのは私だ。ここに行かなくてはならないと、思ったのは私だ――父母のいた、ここに、きて。
お父さんとお母さんに、会わなくてはならないと(会う、という表現は可笑しいかもしれないが)思ったのだ。ぼんやりと考えながら、パチリと瞬きを一つした。
「あら・・・」
ふと、聞こえた声に鈍い動作で振り向く。相変わらず突っ立ったまま、戸惑いを浮かべた顔で後ろを振り向くと、僅かに目を見開いて口を半開きにした。あ、という一音が零れると、相手もまた目を丸くして、それから信じられないものを見たかのように何度か瞬きを行う。
そうして少し間をあけて、佇む中年女性がそんなまさか、というようにびくびくとした態度で、軽く眉間に皺を寄せた。
「ねぇ、あなた、もしかして―――」
戸惑うような問いかけに、私は息を飲み込んでぎゅっと強く服を握り締めた。
※
思えば私はさぞかし子供らしくなかっただろう。私の子供の基準と彩雲国の子供の基準が当てはまるのならば、だが。まあでも、たぶん私の彩雲国の子供のイメージはあれだ、原作の素晴らしい個性的な面々のあれなので、庶民階級の普通の子供はきっと現代と変わらないはずである。というか変わらなかった。無邪気に元気で、時に子供らしく残酷で、素直と捻くれが半々に混ざり合った子供。分別はつくがまだまだ無邪気で遊び盛りな、悪戯とか危険なこととかも一杯してみたくなるそんな成長段階な、子供らしい子供のはずである。
大人の階段なんてまだもうちょっと先の話で、そんな中で私はきっと異質だったことだろう。
なにせ精神年齢がもうすでにあれである。普通の子供と遊ぶにしてもどこか世話をしている感じが否めず、家に戻れば親に幼子らしく甘えることもできず、どこか淡々と接していたんだろう。
客観的に見るのは中々難しく、ただ多分子供らしくないんだろうなぁ、ぐらいにしか思っていなかったけれど。まあしかし、それでも別に敬遠されていたわけでもなく、腫れ物のように扱われることもなく、割合普通の家族としてなりたっていたのは確かだ。
考え方や根本的な知識はともかく、彩雲国の人間としては子供レベルだったので、それがきっといい具合に働いたんだと思う。もしここでそれすらも完璧にこなせるような人間だったら、私は天才児扱いされていたかもしれなかったから。まあ、大器晩成型ではなく体が知識に追いつくほど成長する頃にはそこらの凡人と変わらなくなっていることだろうが。つまり出世とかしないタイプ。でも子供の頃は確かに「異端」であるのだから、下手なことにならなくてよかったと心底思った。きっとそういう部分が、周りに私は「子供」なのだと、思い込ませていたに違いない。実際勉強は物凄く苦労したからね・・・!日本語じゃないもんだから本気で泣きたくなった。純粋にただの子供だった方が頭の中に入ったのに、下手に記憶とか知識があるから全然できないでやんの。落ちこぼれも甚だしかったさ。子供が一から常識を覚えていくことと、大人が新しく何かを行うことは同じようで同じではない。簡単に言えば子供が母国語を覚えるのは簡単だが、そこから異国語を覚えるのは大変難しいという話だ。学校の英語と同じ。
喋る言葉は日本語の癖に、なんで字だけ違うんだこの野郎。私に喧嘩売ってんのか、と思ったことは一度や二度ではない。ひーひー言いながら必死に勉強しましたとも。学校の英語の授業なんかとは比べ物にならないぐらい真面目に勉強したね。
なにせここではそれは異国語ではなく、母国語なんだから。できなけりゃただの馬鹿である。必死こいてやったとも!算数については数字が漢数字なことに戸惑いがあったが、表記の仕方が違うだけで計算式に大差があるはずもなく。
算盤なことが多少面倒だったが、現役高校生(だった過去)を舐めんなよ!ということで、ぶっちゃけ算数の方が珍しくも得意になっていったさ!本当に楽だった。
暗算ぐらいお手の物だし。会計処理、懐かしいなぁ。そんな勉強事情のおかげで親子仲はそこまで悪くはならなかったのだから、ある意味助かったといえるだろう。
まあそれを差し引いても、こんなどこかズレてしまっている娘をずっと愛して慈しんでくれていたのだから、父母は偉大である。自分が死ぬ間際まで、親としての責任を果たそうとしていたのも、泣きたくなるほどに、悲しいほどに、愛しいまでに、素晴らしい親だったといえるだろう――現代の児童虐待に走る親に見せてやりたいぐらいだ。
つらつらと色んなことを思いだし、考えながらそっと腕を伸ばす。小さな――小さ過ぎる手が、冷たい石に触れる。
ひんやりと指先から伝わる石の冷たさに、ぺたりと掌全体をくっつけて、くしゃりと顔を歪めた。
「お父さん、お母さん」
呼びかけても、物言わぬ石がそこにあるだけだ。返事を返してくれる声はなく、伸ばされる腕もなく、振りかえる顔もなく。冷たい、ただ冷たい墓標が、静かに佇むだけで。
つ、と、視線を下に落とした。この墓石の下に、2人は眠っている。ほんの数日前まで、それはとても身近な記憶の中で、彼等は笑ってそこにいるというのに。声も、行動も、仕草も、全部、全部全部鮮明に思い出させるというのに、彼等はもうすでにいないのだという。
この墓の下で、永劫覚める事のない眠りに、ついたのだと。それも、老衰だとかそういう平和な死に方じゃなくて、あまりにも惨い、死に様で。ざらざらと石を撫でて、きゅっと眉を寄せて眉間に皺を刻んだ。僅かに熱くなる目の奥を、ぐっと堪えて鼻を啜る。
教えられた墓はそこらにある墓と同じで、刻まれた字が違うことが、唯一の違い。
教えてくれたのは、偶然にも近所に住んでいたよく遊んでいた子供の母親である。
つまり顔見知りというわけで、あの時私を見つけて驚いた顔をしていたのは、私が死んだものだと思っていたからだったそうだ。当然だ。
よしんば死んだとまでは思ってなくとも、まさかこんなすぐに私が姿を表すなんて考えてもいなかっただろうから。ついでに言えば腰までずっと長く伸ばしていた髪がばっさり肩上にまでなっているのだから、ぱっと見印象が変わるのは仕方ない。
何よりこの時代の常識からも逸脱していることだし。(髪が長いのが男も女も常識だ)まあそれでも、お墓を教えてもらえてよかった。
ちゃんと埋葬して貰えていてよかった。行ってくれた人達に深い感謝を捧げ、同時に今度こそ確実に受け入れなくてはならない事実なのだと、私は深く息を吸い込んだ。今まで、理解はしていた。受け入れようと思っていた。
けれど全ては自分しか知らない事であり、主観的には思っていなくて、夢のように思いたい気持ちが強くて、受け入れきれなかった、ものを。周りが認識している。
周りが突きつけてくれる。私の親は「死んだ」のだと。教えられた墓、教えられたとおりに存在しているお墓。周りはもう受け入れて認識してしまっている。父母の死を。
客観的な他者の視点から、情け遠慮なく突きつけられた両親の死を、私は強く噛み締めた。じっと睨むように、目から涙が零れないように我慢しながら(我慢する必要はないんだけど、気分的に)墓石を見つめて、私はひどくゆっくりと口を動かした。
「・・・ただい、ま。お父さん、お母さん」
ここは家ではない。けれど帰る場所は家ではなく親の元なのだと、私は思っていた。
一度、たった一度。引き離された家族、もう二度と会えないもうひとつの家族。
もう、記憶の中でしか存在し得ない、それ。帰りたかったのは、家ではなかった。
家は家でも、「家族のいる家」に帰りたかった。私の居場所に、私が元居たところに、帰りたかったのだ。―――それは、私なのか私でないのか、今だ迷って抜け出せなくなるのだけれど。一度で十分だと思っていたのに。強制的に離れ離れになって、会えなくなるのなんて、一度だけでも嫌になるほど十分だと、思っていたのに、またこんな形で別れる羽目になるなんて・・・神様に、私は何か不興でも買ったのだろうか。平凡に生きていたはずなのに。好きだった。大好きだった。愛していた。親は親でも自分の中では曖昧な立場の人達だったが、それでも私は彼等が好きだった。お父さんが大好きだった。お母さんが大好きだった。8年間もずっと、生まれてからずっと一緒にいたのだ。よっぽどがない限り、愛するのは当然のことだ。ああだから、だからこんなにも。
「・・・あの、ね。私、無事だよ。生きて、るよ。お母さんが守ってくれたから・・ありがとう、お母さん」
墓石の前でポツポツ呟く私はさぞかし変なことだろう。というか、まさか自分が父母の墓前でこんなことすることになろうとは、思ってなかった。無言で拝むだけにしようかと思っていたのに、話かけたい気分になるなんて。まあそれは、周りに人がいないからだし。
さすがに人がいたら堂々と独り言は言えない。しかし、伝えたい事はこれではないと、思うのだ。思うけれど、何を伝えたいのか自分でもわからないまま、私は墓前の前で座り込んで来る途中で摘んだ花を見つめた。花束にもならない数本の花は見栄えが悪いが、ないよりマシ。
お供え物もあればよかったけど、さすがにそこまで気が回るはずもなかった。ていうか花すら偶々見つけてそういえば、と思い出したぐらいなのだ。正直手ぶらで来てもなんら可笑しくはない。あぁ、でも、そういえば私この服持ってきたんだっけ。今だ抱えているあの日の服をそっと墓前に置いた。
「なんだか、吃驚した。この服、すごい血塗れでもう着れないんだよ、お母さん。むしろ血塗れになる時点でなんかもう色々とあれだよね。たぶんね、家の中のものってもうないと思うんだ。兵士の人が一杯いてね、どうなってるのかよくわからないんだけど、たぶん私帰れないんだろうなぁ。元々こんな子供が1人で生きてくのには、ちょっと無理があるし。浮浪者になるか、道寺にいくか・・・どっちになるだろうね。一般的に考えれば道寺だと思うけど。浮浪者はさすがに私でも嫌だし。できないことは、なさそうだけど。あぁでもたぶん無理。そう思うよね、お父さん。あぁそうだ、聞いてよ。なんかもうこんなことがあって色々信じられないけど更に信じられないことになってるんだよ。もうマジ聞いて2人共」
つらつらと言葉を並べて重ねていく。最早何を言おうとしているのかすら定かではないが、それでも何かを言わずにはいられない気持ちだった。とりあえず何かを伝えたかった。
返答など貰える術はないけれど、私の口は関を切ったように止まらず言葉を重ねていった。
「私ねー運がいいのかなんなのか、あの紅家に今ちょっと居候させてもらってるんだよ。信じられる?紅家だよこ・う・け!いや、まあなんか紅家の癖にものそい貧乏なんだけどね。うんうん。信じられないよね。でも紅家なんだよ。あの彩七家筆頭名家の紅家!あははまず関わり合いになるはずもないってのになんだこの運は!・・・てまあ、そこもそうなんだけどね、これだけでも一般人にしてみたら天上の花みたいな話なんだけども、個人的に驚くポイントはそこじゃないのだよ母上父上」
いやもう本当、個人的に伝えたいのはここではなく。うん。卑怯だとは思うけど、死んでもういないから、例え聞こえていても彼等が生きている人達に話すことはないし、そして私が気味の悪い目で見られる心配もないから、だから暴露する。とっても卑怯だね。
でも勘弁して2人共。さすがの私も頭いかれたか、という目で見られるのは嫌なのですよ。元々ね、誰にも話すことのない話だと思ってるし。話さないよ、こんなこと。話したって意味ないから。でもね、話したいなって思う願望もあるんだよ。色々ね、口に出してしまいたんだ。だからごめんなさい2人共。少しだけ付き合ってください。
ふぅ、と吹いた風に衣服の裾が翻るのを感じながらぼそぼそとそれでも聞こえ難いように声を潜めて呟いた。
「実はね、私ね、前世?の記憶っぽいのがあるんだ。いや本当だよ本当。だから精神年齢二十歳過ぎててさーだからあんまし子供っぽくなかったわけ。の割りにまだどこか子供っぽいんだからなんとも言えないよね。たぶん大人同士の付き合いがあんまりなかったからだとは思うけど。しかも前世っていうよりまるで昔の私がそのまま幼児化してトリップしたみたいな、あぁトリップってのは旅行とかそういう意味でさ、現在の状況でいうなら元居たところとは別の場所に突如飛ばされたってところかな。そう私の意思なんて皆無なのだよ。んで、そのミラクルな体験した私はね、お2人の子供に転生してしまったわけですよ。ちなみに前世では殺されたわけね。戦に出てたのよ私。神子とか呼ばれてちょっと化け物と戦ったりとかしてたのよ。うふふ怖かった。ものすごく怖かった。嫌だった逃げたかった。でもちょーっと頑張って頑張って、でも殺されちゃったわけ。んーでもラスボス戦だったし一応相打ち?っぽくなってたから私も死んじゃったけどあっちも死んだし、物語的には万事オッケーだと思うよ。いや、結末どうなったか知らないけど。で、本題」
これだけでも本当に変な人生過ごしてんな、と思う。言葉にしただけで随分と奇妙なことになってることが明確にわかり、ちょっぴり愕然としつつ。
「んで、前世の私の元々住んでいた場所はですね、さっき神子として、とか言ってたところの世界じゃなくまた異世界なのですよ。んで変なことに私は飛ばされた異世界先を知ってまして。物語のあらすじ知ってたわけですよーおかげで現実と認めるのに1週間以上かかったわ。んでんで、なんと、私はこの世界のことも事前に知ってたのですよお父さんお母さん。私のいたところではねー小説になっててね。アニメ化も漫画化もしてた人気小説だったんですよ。あーまあちょっと純粋とは言い難い分野でも人気でしたがそこは置いといて、んで、だ。その主人公がね、さっき居候しているって言ってた紅家の娘さんなんだよ。うふふわかるー?物語の主要人物の近くにいんの今。やってらんないね!なんだってこう、変なことに巻き込まれ易いのかなー波乱万丈のーせんきゅう!もしかしたらこれから先、私が知ってるとおりの物語が、起こるのかもしれない。起こらないかも、しれない。とりあえずここが私の知ってるとおりの世界だったら、私は知ってるだけだけど朝廷にいる人物とかその裏事情とか知ってることになるんだよ。あはーちょっと余所に知られたら命危ないよね!
まあ知られることも今後関わることもないとは思うけど・・・最近私変な星の下に生まれたっぽいから、どうなるかわかんねー。あははーたーすーけーてー」
冗談めかして笑い混じりに全てをぶちまけて、言った言った、大暴露した、と口元を笑みの形に歪めてから、ふと表情を消した。こんなに色々と有り得ないお前馬鹿?って言われるようなことは暴露してみたのに、返事は当然ながらなくて、風の音だけが聞こえてくる。
口の前で両手を組んで、口元を隠しながらじっと墓石を見つめる。さら、さら、と肩の上で揺れる髪をそのままに、私はことりと首を傾げた。
「・・・だから、ね。私、昔の記憶があってね。そこでね、お父さんとお母さん、いたんだ。2人とは違う、両親。だからなのかな、本当に本当に申し訳ないんだけど、2人の事、心の底から親!て思えてなかった、んだよね。でもね、心の底からじゃなくても、2人は私のお父さんとお母さんなんだってわかってたし、思ってたし、それに、大好き、だったよ。ううん。大好きだよ。愛してる。2人のこと、本当に本当に、大切だと思ってた。思ってる。 ――死ぬなんて、考えてなかった。離れ離れになるなんて、思ってなかった。あの時みたいに、いきなり切り離されるなんて、考えてなかった・・・私が、大きくなるまで、ずっと一緒だって、思ってたのになぁ・・・」
大好き。愛してる。お父さんお母さん。大好き、大好き、大好き。
だからね、本当に悲しい。苦しい。辛い。嘘だって思いたい。こんなの夢だって思いたい。
悲しいよ、苦しいよ、辛いんだ。目の奥が熱い。ひたすら熱くて熱くて、なのに、薄らと膜を張るそれが、零れ落ちることはなくて。
ただ不規則な息だけが断続的に零れ出て、ぎゅう、と襟元を鷲掴んだ。息苦しい。顔が熱くて、鼻の奥がつんとする。なのに、涙も出ないなんて。
「あと、・・・ねぇ・・っ2人に、ね、謝らな、っく・ちゃ、いけなっいこ、こと、あるん、だぁ・・・ふた、り、おいて、いっちゃっ・た、こ、こと、とか・・・っじぶんのこと、し、しかかんがえ、かんがえて、なか、なかったこと、とかぁ・・・あとねぇ、あとねぇ・・・せっかく、せっかく、わたしの、わたしのなまえ、つけて、くれた、のに・・・ふたりが、かんがえて、つけて、くれたのに・・・!」
ズビ、と鼻を啜る。少しだけ落ちつくように深呼吸を繰り返して、ひくひくと嗚咽が混ざってブツ切れの言葉の羅列を重ねていく。馬鹿だね、精神年齢二十歳過ぎとかいってるくせに、子供みたいだ、今の私。息を吸って、吐いて、気を落ち着けさせようとしながら、震える声で、ごめんなさい、と呟いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ふたりがつけてくれたなまえ、なまえ、ね・・・っわたし、わたしじぶんの、も、ものっに、できなか、ったのぉ・・・おとうさんと、おかあさんが、つけてくれたのに・・・っわたしね、「」ってむかしのなまえ、すてられなかった・・・これが、じぶんのなまえだって、おもっちゃった・・・だからもう、わたし、ふたりのこどもとしての、なまえ、つかえない。つかわ、ない。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん、おかあさん・・・おとうさん・・・!」
今の私は昔の私じゃないのに、なのに昔の自分しか認めてないみたいで、それが嫌だった。ちゃんと2人が大好きなのに、2人がつけてくれた名前を捨てようとしてるのがただ申し訳なかった。最初、彼女達に自分の名前を名乗ったとき、出てきたのが「」で、馬鹿みたいだと思ったのだ。この名前こそ捨てるものなのに、捨てられなかった自分が。でもどうしても切り離せなかった。18年は、短いようで、長かった。
「おとうさ、・・・おかあさん・・・っ」
ごめんなさい。ごめんなさい。一緒に逝けなくてごめんなさい。2人だけ置いて逃げてごめんなさい。2人のことを顧みなくてごめんなさい。私は2人の子供だったのに、間違いなく2人の娘だったのに、自分のことしか考えられなくてごめんなさい。だけど好きだった。
それでも大好きだった。2人が一緒にいてくれて嬉しかった。幸せだった。なくした家族が戻ってきたみたいでうれしかったの、しあわせだったの。お父さんとお母さんが、大好きだったの。もう、喋ることがなくなったみたいに、ただ嗚咽しか出てこなくなってくる。喉が震えて、心臓がばくばく稼動して、気持ちがどんどん高ぶってくる。
それでも声を懸命に押し殺しながら、だけどやっぱり悲しい気持ちが強くて、理不尽が腹立たしくて、1人が寂しくて、もういない事実が、ただどうしようなく、辛かった。
「おとう、さん、おかあっ、さん、おとうさん・・おかあさぁん・・・!」
嫌だ、嫌だ。なんでなんで。なんで死んだの。どうして死ななくちゃいけなかったの。
まだ早いよ。だって私まだこんなに小さいんだよ?そりゃ中身は老成してるけどさ、でも私まだここでは10歳にもなってないんだよ。まだずっと一緒にいるんだと思ってた。
いくら私が2人のこと心の底から両親だって思えてなくても、まだまだ一緒だと思ってた。
こんなに急にいなくなるなんて思ってなかった。考えてなかった。変わらずにずっと一緒だと思ってたよ。3人で過ごす「明日」が当たり前だって思ってたよ。私が大人になって、仕事して、誰かと結婚したとして、それでもまだいると思ってたのに。
死ぬなんてまだまだ遠いことだと思ってたのに。なのにどうして。どうして私達だったのかなぁ?他にも家は一杯あったのに、どうして私達の家だったのかなぁ?なんでこんな別れ方になっちゃったのかな。
関係ないって、そんなことあるはずがないって思ってたのに・・・あぁ、馬鹿だね私。
日常なんて、存外あっさりと崩れるなんて身を持って知っていたのに。
この毎日が何より尊いなんて、そんなの痛いほどわかっていたから。
息が苦しい。呼吸が不自然に途切れて、口元を手で覆った。震える手で鼻と口を覆い、必死に呼吸を整える。それでも震える身体を、荒くなる息を抑えることはできなかった。
「な、っんで、なんで、・・・わたしたち、なのかなぁ。なんっで、お、お、おとうさん、と、お、おか、おかあさんだったの、か、なぁ・・っなんで、・・・っな、なの、・・・かなぁ・・・っ」
理由なんてないんだろう。ただそうなってしまっただけなんだろう。運が悪かったのだと、そういうしかないんだろう。叩きつけられた理不尽が、堪らなく憎たらしい。
知ってた。わかってた。日常なんて脆いんだと。当たり前は当たり前過ぎて明日に続くと思うけど、だけどそれは同じぐらい崩れるものなんだと知ってた。知ってたから、あの頃は思わなかったぐらいに、私は家族が好きだと思ったし家が好きだったし、今が好きだった。
私は私がわけがわからなくてよくわからないことになってて自分で自分が気味が悪かったけど、でも私の周りは平和で平凡で、あの頃みたいに毎日が続くと思えるような毎日だったから。
だから忘れてた。考えなかった。だけど、こんなことに、巻き込まれてしまった。
まるであの頃、ニュースで見ていた事件が自分の身に降りかかってしまって、呆然とするように。自分には関係ないことだと思ってたことが、突如襲いかかってきたあの時のように。
起こるはずがないと、高を括って、そうして身の上にふりかかった、現実。1人になってしまったと、寂しくて悲しくて辛くて、ただ涙が溢れて止まらない。
2人を惜しんで恋しんで、なんでなの、と馬鹿みたいに繰り返す。叫べはしないけど、ただ引き攣った嗚咽を零して蹲り震えた。全部全部押し込めるように、溢れ出してくる感情を収める為に、蹲った膝に間に顔を埋め、う~、と唸りながら肩を跳ねさせる。
悲しい。悲しい。悲しい。死なないで欲しかった。まだもっとずっと一緒にいて欲しかった。ひとりにしないでほしかった。私の居場所、私の家族。もう、二度と会えない。
「おと、う、さっ・・・おかぁさぁん・・・っっ!」
ただの子供のように親を呼ぶ。馬鹿の1つ覚えのように、まるで幼気な子供のように。精神年齢とか実年齢とか関係ない。ただ悲しいのだ、苦しいのだ。悲しさに年齢など、無意味だ。
荒れ狂う感情を外に出す為に、膝頭に額を擦りつけて、じっと息を潜めてやり過ごす。落ちつくまで、この気持ちに整理がつくまで、私はひたすら、父と母の墓前で座り続けた。