真実の名
府庫という一種の閉鎖された空間。資料を取りに来る人間もまばらにいれば、一切誰もこないときもある。静かな威圧感すら覚える大量の本に囲まれて、二人の男が物静かに対峙していた。向かい合わせの椅子に腰掛け、片や笑顔で、片や顔面蒼白にさせて。
あまりにも対照的といえば対照的な様子に、第三者がいれば何事だろう、と思うに違いない。
そしてその第三者がどちらか一方でも知っていれば驚愕か、あるいは恐怖に慄くことだろう。しかし生憎と、いや、幸運なことに、その場には彼等以外誰もいないのだから、どことなく張り詰めた空気は崩れることなく維持されている。口火を切ったのは、さて府庫の主たる邵可だった。
「黎深、に手を出したそうだね?」
「ああああ兄上、わ、私は手など、」
「口でも同じだよ。それと、私が知っているのはあの子から聞いたわけではなくて、目撃していた人達からだからね。あんな往来で何をやってるんだい、君は」
だからあの子を怒るのは筋違いだよ、とやんわりと窘める邵可にしゅーん、と黎深の肩が落ちる。傍から見ればいい年した男がなにをそんなに、と言いたくもなるがこの二人の間ではこれが当たり前なのだから突っ込むことは野暮である。こくりとお茶を飲み、一呼吸置く。
「黎深、は普通の子供だよ。何も特別なところなんてない、極々真っ当な。君だって素性は調べたんだろう?」
多少、大人びてはいるけれど。そう呟いて首を傾げた邵可に、落ち込んでいた黎深は顔を上げて眉宇を潜めた。柳眉が寄り、ぱらりと開いた扇子で僅かに口元を隠しながら、黎深は低く唸る。
「・・・調べましたとも。どこをどう探っても何も出てこない極々平凡な素性でしたよ。特出して取りたてるところもない、馬鹿みたいに呆れるほど何もなくて拍子抜けしました」
「なら、どうしてわざわざに釘を刺しになんて行ったんだい」
彼女自身も、可笑しなところなんて何も無いのだ。よしんば何かあるとしても邵可も静蘭もいる。よほど裏を欠かれない限り何もないはずである。しかも相手はまだ10歳にも満たない子供だ。特殊な訓練でも受けていればまた別だったかもしれないが、邵可の目から見た限り彼女は・・・何かを習っていたとしても、邵可や静蘭をどうこうできるほどの腕ではない。
要するにその心配は杞憂にしか過ぎず、また何もないというのならわざわざ往来で拉致紛いのことをする必要もないはずなのだ。いくら彼が兄一家大好き過ぎて、ちょっと頭の螺子が数本飛んでしまうような人間だとしても、やる意味があるものとそうでないもの、それぐらいの分別はつくはずである。だから解せない。わざわざ動いた黎深が。微笑みながらも鋭く見据える邵可に、黎深は瞳を眇めて視線を逸らした。
「・・・兄上、あれの名前について、どう思いますか?」
「名前?あぁ、という名前だね。聞いたことのない韻で、変わっているなとは思うけれど」
問いかけられ、きょとりとしたあと反芻する。名乗りあげた小さな子供、変わった名前だと思った。彩雲国ではあまり、いや聞いた事も無い名前。独特の韻であると思ったが、それだけだ。多少気になるといえば気になったが、あくまでも名前である。そこまで気にすることもないだろう、とそれに変わっているが、なんとなく彼女にはよく似合っているように思えたので、邵可としてはいい名前だとすら認識している。それがどうした、と視線を向ければ、僅かな吐息と共に黎深の口唇が震えた。
「変わった名前も当然です。それは、あの子供の本当の名ではありません」
「・・・なんだって?」
僅かに邵可の瞳が開かれる。細い糸目が僅かに開かれると、黎深は苦々しく顔を顰めた。
ぱしん、と乾いた音をたてて扇子が閉じられ、乱暴に、けれど気品が損なわれる事無く茶器を手に取り、口に含む。
邵可自ら淹れたお茶は、彼の娘曰く、此の世の物とは思えないほどに苦いお茶・・・通称父茶であるのだが、黎深はその柳眉を潜めることなく飲んでいく。
普通なら一口飲めばあまりの苦さに顔が引き攣るだろうし、二口め、と進むこともないお茶である。けれど平然と、内心はどうあれ飲めるあたり黎深の愛の深さが伺えた。
もっともその愛がどれほど報われているのかはわからないが。さらっと父茶を飲んで、器を置けば注がれる邵可の視線に淡々と続きを口にする。
「調べましたが、あの子供にはちゃんと別の名前が存在しています。という名前、あれは偽名です」
「偽名・・・」
「えぇ。ですから不自然なんです。出自も家柄も何もかもそこらにあるものと変わりません。不自然なところなど何一つとしてない。ただ、家族は突然押し入った賊に皆殺しにされたそうですが。・・・それ以外は特に何も。なのに、偽名など使っている。不自然でしょう?」
「そうだね・・・」
こくりと頷き、邵可は思案深く顎に指を添える。その様子を見ながら、黎深は閉じた扇子を開いてパタパタと自身を扇いだ。
「偽名を使う理由が見つかりません。裏に何かあるのかと思いましたが、巧妙に隠されているのか、それとも本当に何もないのか・・・紅家の力を使ってもわからないままです。そもそも、欺くにしても稚拙すぎますね。あんな聞いた事も無い奇妙な名前を、わざわざ自分につけるのも可笑しな話しです」
「偽名である必要がない、ということだね」
「はい」
こくりと頷く、その瞳は鋭い。何もかも見通す天つ才の持ち主でも、この事はあまりにも不可解過ぎた。理解のできない事象、理由の見つからない少女の言動。不信感を持つには十分で、けれど実際に手を出すには、何もなさ過ぎる。危険要素があるのか、ないのか。
わからないまま、結局ああするしか方法が見つからなかった。普通過ぎることが可笑しい。
そんな、奇妙なズレと共に持ちあがった疑問は、解決する余地がないかのように鎮座している。けれど、と邵可は思う。眉間に皺を寄せて不可解だ、と全面に押し出す弟を見つめて、思い出す。
稚拙な嘘をついた少女。酷く大人びて、一歩も二歩も遠慮している・・・子供の癖にと言いたくなるほどに、どこか遠くを見つめる、小さな子供。いや、大人びている、というのは正しくないのだろう。受ける印象は8歳の子供のそれではない。遠慮したように控え目に笑う顔ばかりが思い浮かぶ。思えば、あの子が心から浮かべた笑顔を、見たことなど無い。そう思うと、邵可の顔に自然と苦笑が零れた。心から微笑まない、それは彼女がまだ彼等を信頼していない証拠のようなものだ。信用されてはいるだろう。
けれど、頼ってなどくれないのだ。そう―――それは、最初から。
「・・・黎深」
「はい」
「それを、あの子に言ってはならないよ」
低く、静かに。庇うように、守るように。告げた邵可に、黎深の顔が顰められた。
何故、と目で問えば、視線をそらして邵可は窓の外を見る。抜けるような冷たい青空を見つめて、ふ、と薄い唇から吐息を零した。
「私はね、黎深。「」という名前が偽名だとは思えないんだよ」
「兄上?何を・・・。現に、あれには別の名前が、」
「うん。そうなんだろうけどね。ただ、そう・・・あの子が名乗ったとき。決して偽名が咄嗟に出るような心情ではなかったはずなんだ。なにせ道端で血塗れで倒れていたところを拾ったのだからね。なにがなんだかわかっていない、という顔をしていたよ」
思い出すのは、まるで死んでいるのではないかと思うほどに生気のない顔色。
あどけない寝顔にはすとん、と色というものが抜け落ちて、変わりに服を、手足を、髪を、頬を、彩るのは黒ずんでこびりついた、血という忌まわしい物。死んでいるのかと思った。
まるでボロ雑巾のような有り様で、道端で倒れ伏していた少女は・・・あまりにも、儚い。
あれが演技だとするのならば、それは大した役者だと思う。己や静蘭、そして秀麗の観察眼から逃れるとは、そうそう行える事柄ではないはずだ。目覚めたあとのこともそうだ。
そもそも、嘘を吐くにはやはり多少の違和感が生じる。自分はそういうのに敏感だと自負しているからこそ、あれは自信を持って「彼女のありのまま」だと言えた。それを考慮するからこそ、偽名だなどとは思わずにいたのである。外に向けていた顔を戻し、邵可が黎深に顔を向ければ憮然としながらも、黎深は黙って邵可の言い分を聞いている。
それでも腑に落ちない、という顔をしているのは、性分なのだろう。苦笑しながら、お茶を一口含み、邵可は呟く。
「それにね」
「まだ、何か?」
「・・・「」と名乗ったとき、彼女は何かを諦めた顔をしていたよ」
「諦めた?」
何を、とそう問いたそうに語尾をあげる。邵可は肩の力を抜きながら、それこそ何か寂しげに、眉を下げた。
「そう。何かを。「」と名乗ることで、何かを切り捨てていたように思う。寂しげに、諦めたように・・・子供がするにはなんて似合わない表情だろう、と思ったよ。彼女は何かを奪われて、そして何かを諦めて生きている。ねぇ、黎深。あんな幼子が、どうして「何か」を諦めなくてはならないんだろうね・・・」
憂いを篭めて呟かれたそれに、黎深の目尻がピクリと動く。そしてそれは気に食わない、とでも言いたそうに顔を背け、そんな黎深に邵可は瞳を細めるとじっと揺れるお茶を見つめた。あの日あの時、初めて言葉を交わしたとき。名乗りかけた一瞬の、見開いた目、戦慄いた唇――そうして、まるで疲れたように悲しげに、微笑んだ少女。
まるで、そう。名前を名乗ることによって、決別を決めたように。確かな線引きがされた向こう側で、幼子は、果たして何処を見て生きているのだろう。呟くように神妙に、やるせなささえ篭めた邵可に黎深は黙し、煽ぐ手を止めた。父だからこその思う心。
小さな庇護対象に対しての絶大なる愛情。紛れもなく父の顔でつむぐ邵可を、黎深は複雑な思いで見つめた。―――兄上は、あれを娘として見ているのか。
「だからね、黎深。彼女に問うてはいけないよ。問えば、彼女はとても傷つく――傷ついて、諦めるように笑うんだ。私は、あの子のそんな顔など見たくない」
問えば――彼女の心は罅割れ、砕けるのだろう。いや、かろうじて原型を保つのかもしれない。けれども傷つき、幾筋もの皹が入った硝子はいつか、粉々に割れてしまうだろう。
その日がこないに越したことはないけれど、いや。その日をこないようにしているからこそ、あの子供は、いつか誰の手も必要としない孤独に身を浸すかもしれない。
今はまだ伸ばそうか迷っている手を、作り上げた笑みと共に引っ込めて、たった、独り。見たいのは、諦め、疲れた笑みではない。何かを抱えて悲愴に歪む顔ではない。ただ、心から微笑んで欲しいだけだ。なんの憂いもなく、子供のように。
誰が、庇護する子の悲しい顔など見たいと思うだろう。問うてはいけない。彼女に、その言葉だけは言ってはいけない。言えば崩れる。彼女の中で、何かが崩れ、そうして彼女は独りぼっちになってしまう。狂うことなく、けれど確かに――傷つき疲れ果てて。諦めて、微笑む。それだけは避けなくてはならない。守りたいから、守ろうと思うものに、入ってしまったから。だから、その問いだけは胸の奥に秘めておくのだ。決して、告げぬように。
「けれど、兄上。背後関係があればどうするのです」
「それこそ杞憂だね。紅家の力を使っても何も出なかった、それだけで十分な理由になるし、それができるのは紅家と同等の力がある家に限られるだろう?そうだとしても、隠し事ほど、隠しおおせにくいものはないよ」
真理である。人間、隠したいことほど露見しやすいものはない。隠そうとするから不自然に際立つのである。全容は見えずとも、少なからずならばどんな秘め事でもしっぽの先程度は見え隠れするものだ。気づかないならばそれまでの話しで、気づき調べて、それすらないということは――巧妙に隠しているというよりも、何もないと考えたほうが妥当である。
その真理を黎深もわかっているのか、邵可の反論に口を噤むと一度目を伏せ、茶器の中の水面を見つめた。
「黎深。私はね、を本当に自分の娘のように思っているんだ。秀麗と同じように」
「赤の他人ではないですか」
「そうだね。赤の他人だけれど・・・君だって、絳攸殿を実の子のように思っているだろう?」
にこにことした笑顔を崩さないまま、ね?と言われ、黎深はむっつりと黙り込んで口元を扇で隠した。
その様子が不機嫌に見えようともただの照れ隠しであることは承知の上で、何より黎深の天邪鬼な性格など熟知している。たいして気にもせずに邵可はお茶を啜った。
「だから、黎深」
「はい」
「今回みたいなことがあったら、しばらく口をきいてはあげないから」
「あ、兄上ーーーーーっ!!」
ガアァァァァン!!!!!!と愛しい愛しい兄上からの突然の絶交宣言に、黎深の顔が此の世の終わりを迎えたような悲愴な顔になる。
思わずボトリと扇子も落とすというものだ。蒼白になった顔でそれだけは、それだけは兄上えぇぇっっ!!と、泣いて縋るも、邵可はにっこりと微笑んで取りあってくれない。
割りと怒っていたらしい。まあ確かに、あんな子供に大の大人が大人気なく脅しをかけたとなれば、不愉快にもなるだろう。その辺りの常識がどうしてこうも欠けてるんだろうねぇ、とえぐえぐと泣く黎深を見ながら邵可はぼやいた。この後仕事に支障をきたすかもしれないが、割りといつものことなので邵可も最早気にしない。今回ばかりは絳攸殿達に泣きつかれても、撤回をしようとは思わないから。ずるずると落ち込んでいく黎深をさらっと無視して、邵可はいそいそと残り少なくなったお茶を茶器にもう一度注いで、それからそっと目を細めた。