桜吹雪に思いが巡る



 貴妃の部屋はさすがというべきか立派も立派過ぎて、小市民たる凡人には息苦しいことこの上ない。
 場違いも甚だしいというか、座り心地が悪いのである。けれどそれでも、ただ後宮にいることや、外朝にほど近い内朝を歩く時の緊張感にも似た不安がないのは、一重に部屋の主のおかげだろう。
 秀麗ねえさんだものね。部屋には持ち主の気質がよく現れるというものだ。つまり、姫様らしくないので雰囲気が親しみを覚えやすい。
 おかげで貴妃の部屋だというのに、第三者(この場合、事情を知らない人達)がいない場合は、ここが1番私にとって落ちつく部屋であった。
 そんな中、傍らに控えている珠翠さまが秀麗ねえさんに微苦笑を零しながらお茶を差し出した。秀麗ねえさんは憂いも憂い抜いた顔で、小さく珠翠さまにお礼を言って溜息を一つ。その横で同じようにお茶を差し出された私は、珠翠さまを見上げて軽く頭を下げながらはにかんだ。

「ありがとうございます」
「いいえ」

 にこりと、きれいな笑顔が返される。胡蝶さんみたいな女らしくかっこよい笑顔というよりも、女性らしいやわらかな笑顔。どちらにしろ美女が浮かべることが大事である。
 そっと、やはり装飾も美しい陶器の器を手に取りながら、水面に息を吹き込んだ。
 広がる波紋、歪んだ自分の顔に、溜息一つ。本来ならば私こそがやらなくてはならないことで、ていうかまかり間違っても筆頭女官様に淹れてもらえるような立場ではないのだが。
 むしろ、私もなんで貴妃の横に座っているんだ、という話が根本にあるんだけど。言い訳が許されるのならば言わせてもらう。秀麗ねえさんからのお達しだからだ。
 つまり、珠翠と私しかいないんだからも遠慮なんかしないで!とのことらしい。
 まだ小さいんだから、気を張りつづけるとその内倒れてしまうと。そんな倒れそうなところに引きずり込んだのはどこの誰だ。と、思わないでもなかったが、躊躇っている私を珠翠さまこそが無理矢理座らせてこの現状。
 まったく、皆これで他の人がここにきたら私どう言い訳すればいいの。そんな内心の葛藤など、他人に筒抜けるはずもなく、秀麗ねえさんの大きな溜息が室内に零れた。

「うぅ・・・今日で5日、5日なのよおぉぉ・・・」
「そうですね。あっという間ですねぇ」

 なんだかんだで結構5日で慣れるものだな。女官の仕事もそれらしくできるようになってきたし(あくまでそれらしく、だ。見かけだけ取り繕ってるようなもんである)落ちついてきたといえるだろう。秀麗ねえさんの貴妃演技も違和感なくすっぱりと切りかえることができるようになってたし・・・人間慣れって大切なんだなあ。しみじみと思っていると、行儀悪くも机の上に頬杖をついて、秀麗ねえさんはまた溜息を零した。幸せが逃げますよ。

「5日も経ってるのに、まだ主上に会えないのよ。どうしよう。これじゃ仕事ができないわ・・」
「まあ、まだ5日ではありませんか」

 宥めるように珠翠さまが微笑むと、秀麗ねえさんは笑うのに失敗したような顔をして、がくぅ、と机に突っ伏した。その様子を横から眺めつつ、珠翠さまを見上げれば、合った視線で苦笑された。私もそっと目を細めて、それから視線を外す。ごめん秀麗ねえさん。私2日ぐらい前に主上に会った。まず限りなく偶然の産物であり、どちらにしても会う意思はなかったのだが・・・こういうのはひたすらに運と機会の問題なんだろう。巡り合わせというものだ。

「金八百両の前に、私自身、王様に会って話してみたいのよね・・・なのに会えないなんて・・・というか普通王様が会いにくるものなんじゃないの?!」
「まあ相手一応男色家という噂ですから・・・女に興味がないのかもしれませんね」

 いや相手実は両刀なんだけどさ。知ってることと、言ってることの相違に違和感を覚えつつ、慰めるように頭を撫でる。そのまま擦り寄る秀麗ねえさんに、立場逆立場逆、と思わないでもない。が、精神年齢はピッタリ当て嵌るので別になんということもなく、よしよし、と頭を撫でつづけた。

「そうなのよねぇ。この際お世継ぎ問題はおいておくにしても、問題は政をするかしないか、なのよね。その為に会いたいのに・・・会わなくちゃいけないのに・・・全く会わないってどうなのよ!!」
「実際行動範囲狭いですからね、女の私達じゃ。かろうじて外朝でいけるところなんて府庫ぐらいなものですし。実際そこだって本当は入っちゃいけない場所ですからねぇ」

 限りなく内朝に近いからこそ、目こぼしされているだけで。けれどあそこも立派な外朝なのだから、本来私達は足を踏み入れてはならない場所なのだ。
 うんうん、と頷くと、秀麗ねえさんは再び溜息を吐いてしまった。だから、幸せが減るというか、溜息を零すと結構ネガティブになりますよ?

「そうよね・・・女の私じゃ、外朝を歩けないのよね」
「秀麗ねえさん?」

 ぽつりと、呟く声は先ほどまでの響きとは異なり、何かもっとこう・・・思い詰めたような。らしくない諦めを感じる声音に首を傾げると、彼女はぶんぶんといきなり首を横に振り、ガバァ、と勢い良く立ちあがった。一瞬仰け反るように離れると、珠翠さまも驚いたように目を見張る。

「ねぇ珠翠!厨房を貸してもらえないかしら?」
「は?ちゅ、厨房ですか?」
「そう。私、何か手を動かしていた方が落ちつくの。駄目かしら?」

 こてり、と小首を傾げて上目遣いに珠翠さまを見つめる秀麗ねえさん。戸惑い気味に頬に手を添えた珠翠さまは、ですが・・・とやや言葉を濁した。私はその様子を椅子に座ったまま見上げ、まあ戸惑うのもわかる、と密かに頷く。いつもなら気にも留めないところだが、ここは後宮である。貴妃が自ら厨房に篭るなんてことしないし、そんな場面見られていいはずもない。まずやらないことであり、ここではしてはいけないことだ。バレたらどうなることか。

「お願い珠翠!」

 けれどぱん、と手を合わせて拝み倒す秀麗ねえさんに、困惑を強くさせて珠翠さまは根負けしたように小さく吐息を零して微笑んだ。

「秀麗様・・・わかりました。なんとかしてみます」
「本当?ありがとう!やったわにも美味しいお饅頭食べさせてあげからねっ」
「え。・・あ、はい。ありがとうございます」

 珠翠さまの手を握って歓声をあげた秀麗ねえさんの突然の振りに一瞬間を空けてからこくりと頷く。そんないきなり話振られても対応に困るんですけども。それにしても秀麗ねえさんの手作りか・・・久しぶりだなぁそれも。ぼんやりと思っていると、そういえば、と秀麗ねえさんが呟いた。泳いでいた視線を戻せば、一本立てた人差し指を頬にあてて、首を傾げる姿が目に映る。

「不思議なのよね。後宮の菜は美味しいのよ。食べた事ないものばかりだし、私の家じゃ手に入らない食材ばっかりで。さすが朝廷って感じなんだけど・・・こう、材料の一つ一つというのかしら。なんだか物足りなくて。食べなれないからかしら?」
「お口に合いませんでしたか?」
「あ、ううん違うのよ。本当に美味しいの。だけど・・・うーん。やっぱり暮らしの違いなのかもしれないわね」

 はしゃいでいた秀麗ねえさんが、腕を組んで首を捻りながらも自己完結をしているのを眺めて、よく味の違いがわかるなぁ、と感心する。そりゃよっぽどの違いがあればわかるけど・・・生憎と私はそこまで敏感ではないので大して違いはわからなかったりする。
 食べ比べとかしても確実にわからないと思うわ。それはやっぱり舌が肥えていないからなのか、それともただ単に鈍いからなのか・・・。果たしてどっちだ。でも後宮の料理は美味しいと思う。ただ、・・・高級過ぎて食べなれないものだから、食べ難いんだよねえ。
 あぁ、町の食べ物が恋しい。きっと私フランス料理とかのフルコースとか、ああいうのは向かないタイプだ。根っからの庶民である。その辺の食堂のご飯が食べたい。
 そんなこんなで、秀麗ねえさんと共にお饅頭作りをする羽目になったことは割愛。





 まふ、とほかほかと暖かいお饅頭を噛み締めると、柔らかい弾力と共に中の熱い餡の甘さににんまりと目を細めた。あぁこれ・・・これだよこれ。この秀麗ねえさんのお饅頭!
 やっぱり落ちつく、と思いながらもくもくと咀嚼して飲み込んだ。ほっこりと胸の奥(実際には胃の中)が暖かくなる気がして、府庫近くの(決して府庫ではない)庭で隠れるようにお饅頭を食べながらも、ほんわか鮮やかな桜並木を見上げた。
 ざわざわ、と揺れるたびにはらりひらりと舞い落ちる薄紅が、緑と青空によく映える。それはとても綺麗な光景で、ほっと安心するような美しさで。懐かしさやら自然美の感動やらに、目を細めて再び饅頭を頬張った。一面桃色の光景は、まるで神泉苑を思い出させる。目を奪われるほどの桜の連なり。
 桃色が一面を覆い、青空と重なる瞬間の堪らないほどの何か。すっと目を細め、無言でお饅頭に齧り付く。
 ちなみに秀麗ねえさんとは仕事があるという理由で厨房から別れたわけなのだが。嘘じゃない。実際仕事はあったわけで、ただそれがちょっと早く終わって余裕ができただけで。今頃は秀麗ねえさんも府庫で邵可さんとお饅頭食べようとしているんじゃないだろうか。一応、時間ができたら一緒にお茶をしようとは誘われているけれど。
 さすがに府庫に行くのは中々、勇気が要った。何故かって?だからあそこは外朝に属しているわけで、私なんかがほいほい足を運んでいい場所じゃないんだって。
 だからこうして、内と外の境目に程近い(つまり府庫近くの庭園)で尻込みしているのだ。
 折角の誘いだけれど、府庫とはいらないイベントが盛りだくさんな気がするので、やっぱりこのまま一人で花見なんかしておくのはどうだろう。
 元々日本人なのだから桜にはそれなりの思い入れというものがある。元の世界でもどこでも、桜は好きだった。
 もっとも桜の季節だ花見だわっほーい!というほど精を出して出かけることはなかったが。
 見かければ綺麗だなぁ、ぐらいで。だってほら花見って人多いじゃん?人込みはあんまり好きじゃないから好んではいかなかったな。あぁでも・・・リズ先生達との花見は静かで、風流だなぁっていう気はしたけど。そして。

「花断ち・・・」

 饅頭を持つ手とは逆の手を伸ばし、風に煽られてひらり、と舞い落ちる花弁を追いかける。
 いや、追いかけなくても、そっと落ちる先に手を伸ばしておけば、それはまるでそうなることが当たり前のようにすんなり掌の上に落ちた。追いかけては駄目。風を感じて、花弁を待つ。花になれ。風になれ。――――一体となって。冷たく、柔らかな花弁の感触を感じながら、そっと握り込む。見上げれば桜。はらりひらり。舞い落ちる桜の花弁。鮮やかな薄紅。
 この中で一体どれだけ剣を振っただろう。頑張って頑張って、無理だできないと思って、何度も諦めて。だけど頑張った。夢だと思って・・・夢だから少しぐらい頑張ろうと思って。
 掌に豆ができて潰れるぐらい。何度だって、何度だって。腕が重たくなって、泣きたくなって、疲れて、励ましてもらって、リズ先生に教えを請うて、九郎さんに諦めろと言われて。
 思えば即行で頭下げて剣の握り方を教えてもらったんだよね。まず始めにそこからのスタートだった。懐かしい。けれどそれは私の記憶?私は経験していない。けれど私は経験している。握り締めた花弁を離して、地面に落としながら溜息を噛み殺すようにお饅頭で口に蓋をする。握った剣こそ、重たくはなかったけれど。剣を振り下ろした時には、どうしようもないほどの重みを知った。――――剣は、人殺しの道具だと、嫌でも実感したのだ。
 最後の一欠けらを口に放り込み、小さく頭を振ってわざと勢いよく立ちあがる。
 思い出した物も、過ぎったものも、全部振り払うように顔をあげて、横に置いてある残りのお饅頭を持ち上げて桜を見上げる。

「・・・この体は経験してないと思うのに、できるのが不思議」

 記憶だけで行えるのだろうか。さすがに刃物は持っていないけれど、とお饅頭を抱えていない方の手で、手刀の形を作る。素手だけど、とぼやきながら動かせば、ぴしりと舞い散る花弁を弾いた。あぁできた。刃物でふれば多分真っ二つになっていたんだろう花弁を見つめて、口元を歪める。九郎さんほど鮮やかじゃない。リズ先生ほど流麗じゃない。
 だけどできる。これが私の花断ち。もう二度と剣でそれを行う事はない。したくもない、と吐き捨てて、ぐるりと踵を返した。―――ここに一人でいると、ひどい懐古の念にかられる。
 憂いにも似ているけれど。忘れるように歩き出せば、視界に入る庭園の美しさに目を奪われた。日本庭園とはまた違うけれど、庭の中を池があり水が流れ、木々がざわめき、休憩所なのだろうか。屋根のついた空間がある。本当に絵に描かれたような光景だった。
 実際に目で見ることができるなんて、感動ものである。自然美は日本人にとって大切な和の心なんだ。(いやここ中華っぽいけど)うっとりと見惚れていれば、不意に絵画の一角が動き出す。自然の動きというよりも明らかに人工的。人がいたのか?と思いつつぐるぅりと首を動かせば、屋根のついた建物に人影三つ。しかもわぁわぁぎゃあぎゃあと騒がしいことこの上ない―――雰囲気ぶち壊しだ。というかあれって。

「・・・・・霄、太師?」

 目を眇めて何やらやたらとがたいのいい老人と言い争っている人物を見つめ、判断するとカッと目を見開く。霄太師?霄太師だ。なんだかやたらと大人気なく見えるが、間違いない。
 ということはその横で言い争っている人と傍観している人は、宋太傳と、茶太保か。
 わぁ、朝廷三師のご老人方、こんな庭の片隅で何やってんですか。傍から見てこれがあの三師か?というほど騒いでいる面子に呆れ半分、笑い半分で眺めてこのまま通り過ぎるかを思案した。ていうか通り過ぎるべし。多少、霄太師に尋ねたいこともあったが、あんなところに行くのはご免被りたい。雲の上の人達と会話する勇気なんざありませんよ。
 まあ、・・・近くで見てみたい気もするが、やっぱり変に関わりを持つべきではないだろうと思うし。決めればさっさと離れよう、とそそくさと踵を返すと、何故か・・・呼びとめられた。

「おぉ、殿じゃないか。そんなところでなにをしておるんじゃ?」

 ぎくりと肩を揺らして振りかえれば、いささか離れているけれどもこちらに三人の視線が向かっているのがわかる。
 ひらりひらりと手までふられ、それが手招きしているようで私は歪みそうになった顔を懸命に押し殺して溜息を零した。あぁ・・・なんでだ。
 頭を抱えたいほどの理不尽を覚えながらも、渋々(逆らえるわけがない)三師の方々に近づけば、にっこりと好好爺めいた笑顔を向けられた。だがしかし。なんか胡散臭い、と思ってしまう私に非はないはずだ。だって相手霄太師だもん。あらゆる人に狸って言われてた人だもん。
 ついでに言えば、何故か私を後宮に放り込みやがった元凶だ。とりあえずお饅頭を持ったまま膝をつき、跪拝する。

「お久しぶりでございます。霄太師」
「ここにきてから初めてかの。顔を合わせるのは」
「はい」
「元気にしておったか?秀麗殿も」
「はい。私も紅貴妃様も恙無く過ごしております。主上とはまだお会いできてはいませんが」
「うーむ。そうか。やはりここはわし等が一肌脱ぐしかないかのう」
「霄太師がですか?」
「うむ。あぁ、もう顔をあげてもいいぞ。ここにいる人間は気にしなくてもよい」
「・・・失礼します」

 いや気にするって普通。そう思いながらそっと顔をあげて正面を見る。微笑んで私を見下ろす霄太師と、その横で興味深そうにしながらも怪訝に眉を潜めた恰幅のいい老人・・・宋太傳は、乱暴な口調で顎をしゃくった。

「おい霄。誰だこの小娘?」
「貴妃付きの女官じゃよ」
「あぁ?お前が紅家の娘と一緒にいれたっていう?」
「そう、それじゃ」

 それ扱いか。居心地悪いなぁ、と変な緊張感を帯びながら頭を下げる。

と申します」
「ほぅ・・・やたら小さいな。まだ十も数えてないだろう。いくつだ」
「八つを数えております」

 皆やっぱりそこが気になるのかねぇ。淡々と答えれば、軽く目を見張られ彼は霄太師を見た。対する霄太師はいたって飄々としており、笑いながらじっと私を見ている。やっぱり居心地が悪い。

「お前・・・こんな餓鬼をいれてどうする気だ」
「別にどうもせんよ。ただ、秀麗殿一人じゃ可哀想だと思っただけじゃ。近くに慣れたものがおれば心も休まろう」
「はぁん?・・・どうだかな。なぁ、鴛洵。お前もそう思うだろう?」

 好好爺然として悪びれた風もない、裏も表もありませんという顔をして言い退けた霄太師を、それはそれは真っ向から胡散臭そうに見て(きっと年月分、彼は誰よりも彼の胡散臭さを熟知しているのだろう)横でじっと沈黙していた茶太保を振りかえった。
 思わず私の肩も揺れる。覚えている数少ない中で、彼が今回の流れでどれほどのことをしでかし、どんな結末になるのか。知っているからこそ動揺する。
 けれど懸命に顔の筋肉に力をこめて、表情を動かさないようにしながら、そっと視線を動かした。思えば接触することなど今後きっとないだろう人達なのだ。
 霄太師とはまた折りを見て、どうにか接触したいものだが、あとのニ人はそれこそ関係ない。
 今後会うことも話すこともないとすれば、これはこれで貴重な体験だと(一名に関しては、今後二度と会うこともないのだろうし)思い、息を詰める。茶太保はじっと私を見て、それからくすりと口角を持ち上げた。

「そうじゃな。霄のやることは胡散臭いからなあ」

 しみじみと答えて、悪戯に輝かせた瞳で霄太師に視線をやる茶太保。にやにやとした笑いが不愉快だったのか、失礼な奴等じゃ、とぼやいて霄太師がふん、と鼻を鳴らした。
 そんなどこか子供っぽい態度にくつくつと喉を震わせ、こちらを向いた茶太保は皺も深い瞼の奥の眼差しを細め、優しく微笑んだ。

「―――殿、といったか」
「はい」
「さっきから何か抱えているようじゃが、それは饅頭か何かかの?」
「え。・・あぁ、はい。えーと、・・と、とあるお方が作ってくださったのを頂いたんです」

 果たして名前を出していいものか。いくら霄太師がいるとはいえ、まさか貴妃自らお饅頭作ったんです、とは言えない。苦し紛れに言葉を濁すと、そうかそうか、と頷かれた。
 そしてその言葉に、更に反応したのは後のニ人だ。なんだこのご老人達は。

「饅頭か。茶請けに丁度いいかもな」
「梅饅頭はあるかのう殿」
「え?梅饅頭ですか?・・・申し訳ありませんが、それは作っていませんね」

 普通の饅頭しか作ってないよ。パチリと瞬いて答えればそれはとても残念そうに霄太師の肩が落ちる。その横で残念じゃったな、と笑っている茶太保。すでにこちらを向いていたはずの体も机に向き直っている状態に、目を丸くさせる。
 え、ていうか食べる気満々この人達?物欲しげというよりも何かすでに決定事項のように食べる気満々な老人達に目を見開き、さっさと持って来い、という態度に物凄い理不尽を覚えた。なんだこの展開。
 というか食い意地張りすぎてるよあんた等!私のお饅頭なのに・・・と思いつつも、相手は偉い身分の朝廷三師。・・・私ごときが逆らえるだろうか。否!!
 とほほ、と肩を落として立ち上がり、食べる準備万端の三人の前に(茶太保まで!)お饅頭を置いて、箱の蓋をあける。
 まだ暖かい饅頭からほっこりとした湯気が立ち上り、私は取り皿にそれぞれお饅頭を乗せて三人の前においていった。

「おぉ。美味そうじゃな」
「どれ、一つ」
「先走るな霄!」

 言いながら自分も手を伸ばしている宋太傳。もふもふと頬張る霄太師とは違い豪快に齧りついた宋太傳の横で、茶太保はマイペースにお饅頭を口に運び始める。
 その更に横で、私はこれはお茶もいれてやらにゃいけないんだろうか、と一時迷い、結局置かれている茶器に手を伸ばして空の器にお茶を注いでいった。敬老精神は忘れちゃいけない。だけどなにか釈然としない。私のお饅頭・・・。こぽぽ、とお茶を注いだ器をそれぞれの前に置いて行けば、枯れたはずの老人達は茶器を手にとって飲み干した。また注ぐ。
 なんで私こんなことやってるんだろう、と一瞬考えてしまった。

「美味い!殿の知り合いは饅頭作りが上手いな」
「ありがとうございます」
「梅饅頭があればもっとよかったんじゃがのう・・・」
「我侭抜かすな。どこの餓鬼だお前」
「梅饅頭と梅茶は必須じゃろうが!!」
「お前だけだそれは!!」
殿、もう一杯茶を頂けるか」
「はい」

 饅頭片手に言い争う元気なニ人の横で、茶太保だけはのほほん、とお茶を差し出してくる。
 食い入るように霄太師と宋太傳の言い争いを見ていたが、かけられた声にはっと首を戻してさっとお茶をいれた。そうするとにっこりと笑って御礼を言われ、私も思わず笑みを返す。
 そうすると、何故か頭をぽんぽんと撫でられた。きょとんとすれば、深くなった皺の奥で、目が緩やかに細まるのを見つける。

「八つだったか、そなたは」
「はい」
「後宮の仕事は大変じゃろう。なんぞ、心配はないか?」
「お気遣いくださりありがとうございます。大変ですが、皆様よくしてくださいます」
「ならいいが・・あぁそうだ。後宮には私が後見をしている者がいるんじゃが、同じ紅貴妃付きのはずじゃ。遠慮せずに頼るといい」
「香鈴さんのことですか?はい。いつも私のことを率先して面倒みてくださいますよ」
「そうか」

 まるで孫と祖父の会話のような。むしろ雰囲気がそんな感じである。昔亡くなった祖父を思い出して和みつつ、果たして後見人を知ってしまっていいんだろうか私は、と思わず内心で首を捻った。後宮じゃそれご法度だった気がするんだけどなぁ。・・・まあいいか。
 言いふらさなければ。深く考えると泥沼に入りそうだし、言ってしまえば考えても仕方ないことだ。さらっとそれを水に流すと、私は池を越えた向こう側を見て。

「・・・あれ?」

 こてん、と首を傾げた。その声につられたように三人が顔をあげる。

「どうした殿」
「いえ・・・あそこにいるのは秀麗ねえさ、じゃなくて。紅貴妃様ではないかと。もう一人いらっしゃいますが」
「ん?あれは・・・主上じゃないか」

 言いながら視線が一気に池の向こうに集中する。桜の木の下で佇むニ人に、不意にそういえば、と思い出す。・・・もしかして今日が秀麗ねえさんと主上が遭遇する日だったのか?
 すっかり忘れていた、と呆然と池の向こう側を見やれば、不意に突風が吹きぬけた。ザアアァァ、と湖面が波紋を広げるようにさざなみだつ。

「わっ」
「おっと」
「むぅ」
「饅頭が!」

 霄太師・・・。思わず突き抜けたなんともいえない沈黙。こんな時に饅頭の心配か。
 風に煽られて乱れた髪を直しつつ、幾分呆れた感情を込めて目を半眼にする。
 更にはじとりと茶太保、宋太傳から冷めた視線が送られたが、本人は饅頭の無事を確認して満足そうだ。食い意地張ってるとかいう問題じゃない。
 なんつー爺様だ、と思いつつも食べ物は大事だよね、うん。と誰にともなく内心でフォローを零して、そっと池の向こう側に目を細めた。
 さっきの突風のせいだろうか。まだ風の名残のある中を、ひらひらと薄紅が舞い踊っている。
 遠めながらなんとも鮮やかで芳しい光景に、その桜の木の下で見合っているニ人は、本当になんだか運命めいて見えた。ザ・ネオロマンス。ベタだな。
 出会いとしてはベタなシュチュエーションに学園物の恋愛を思い浮かべていると、秀麗ねえさんと主上はニ人並んで木の近くにある机に向かっていった。
 あそこでお茶でもするのだろう。ほぅ、と吐息を零してからまだ波立つ水面に舞い散って浮かぶ桜の花弁に視線を落とした。

「・・・よかった」

 原作通りのようだ。ほっと安堵の吐息を零せば、後ろでうんうんと三人が頷く。

「ちゃんと出会えたようだな」
「折角運命の出会いを考えていたというのに無駄になってしまったのう・・・」
「梅饅頭と梅茶でどう運命の出会いになるんだ馬鹿が」
「なにをぅ?!そういうお主こそ剣の稽古を見せてどうするんじゃ筋肉馬鹿めっ」
「運命だろう?!どこからどう見ても!!剣術を見るときの胸の高鳴り!ぶつかり合う金属の響き!風を切るしなやかな動き!あぁこれって恋っ?!素晴らしいじゃないか」

 いやそれはただのマニア。熱弁を奮う宋太傳に内心で突っ込みしつつどん引きする。
 聞いてはいたが、噂以上の武術マニアだ。ちょっと不気味というか某銀髪の武将を思い出す。怖い。非常にこの場にいたくない衝動にかられたが、今更不自然に退出するのもなんだか気が引けて、いやむしろ多分この人達は、人の話聞いてくれそうにない。
 結局、無言で言い争う大人気ない老人達を眺めるしかなかった。泣きたい。溜息を零すと、呆れ果てたように茶太保が切って捨てるように吐き捨てた。

「どっちもどっちじゃ馬鹿共。見てみろ殿が明らかに引いておるぞ」

 のう殿、と話を振られて、私は引き攣った曖昧な笑顔を浮かべるしかできなかった。
 私に振るな!!内心はそれで一杯だった。そんな茶太保に、ギラリ、とニ人の目が不穏に輝く。

「誰が馬鹿だ茶の!お前だってろくな案を出さなかったくせに!」

 ばん!!と宋太傳が机を叩いて立ちあがる。机がぐらぐら、と揺れた。ついでに音も凄まじい。思わずその音と迫力にびくりと肩を揺らして、机が折れないか咄嗟に宋太傳の叩いた部分に視線を向けた。・・・無事のようだ。

「そうじゃそうじゃ!そういうならまともな案を出してからにしろ!」

 同じく霄太師もばん!と机を叩いて立ちあがる。宋太傳ほど派手な音はしなかったが、それでも響く音にびくびく、と体を震わせて目を見張る。
 なんで喧嘩腰ーー!!??と絶句していれば、冷静だと思っていた茶太保が、触発されたようにギラリ、と目を鋭くさせた。

「言わせておけばぬけぬけと!お主達よりははるかにましじゃあ!!」

 ばん!と机は三度叩かれ、茶太保が立ちあがる。机は果たして無事だろうか。思わずちろりと動いた目線には誰も気づかない。三度目となると構えもできるというもので、さして驚くこともなく睨み合う三者に、本気でこれで朝廷三師なのか、と閉口した。
 これが国の頭脳やら剣やら真心やら言われた偉大な人物。その内一人は仙人でもあるというのに・・・なんという・・・なんという大人気なさ・・・・!!というかここに一応第三者いるんだからもう少し取り繕うということをしようよ三人とも?!
 顔を寄せ合いギリギリと睨み合う様は、これで若ければまだましなものを、老人なものだから絵にもならない。
 馬鹿馬鹿しいなぁ、と心底思いながら、溜息を零した。口を挟むのも嫌だというか結構怖い物があるが・・・いつまでもこんな言い争いさせていてもあれである。ていうかいい加減この場を去りたい。そんな一心で、私は溜息混じりに突っ込んだ。

「・・・御三方。もうすでにニ人は出会ってるんですからその会話は無意味だと思うんですが」

 むしろあんた等の考えてた出会いよりもよっぽど運命的だと思うよ。
 桜の木の下で、突風に翻弄されながら出会う。素敵なロマンスじゃないか。呟くように言えば、ピタリと三者の睨み合いが止まる。やがて振り向いた視線に晒されてやや引け腰になりつつ、それよりも、と笑顔を作る。
 うぅ・・・なんで私こんなところにいるんだろう。何度思ったかわからない理不尽さを嘆きながら、首を傾げた。

「これで無事主上が政をなさるといいですね」
「む。・・・そうじゃな。これで主上が政治に興味を持ってくださらなければ意味がないというものだ」
「ここから後の問題はあの紅家の嬢ちゃんが如何に主上の根性を叩きなおすかといったところだろう。上手くいくのか?」
「それもあるが・・・問題は他にもあるだろう」

 落ちついたように椅子に再び腰掛けた三人にほっと胸を撫で下ろすと、先ほどまで馬鹿みたいなことで言い争っていた姿はなりを潜め、真剣な顔でこれからのことを憂いている。
 この落差は一体、と思いつつもこの切り返しが大切なんだろう、と見事なまでのスイッチに、感心したように呆けた。すごい。けどさっきまでの印象が拭えない。微妙。
 むぅ、と眉間に皺を寄せると、真面目な顔で呟いた茶太保に、霄太師が視線を動かし、池の向こう側を眺めて―――笑った。

「王が、あのニ人に花を与えるかどうか。これによって今後大きく変わってくるじゃろうな」

 霄太師の視線につられるように、私達の視線も池の向こう側へと動き・・・別に何も見えなかった。  多分会話から察するに、絳攸と楸瑛のことを指しているのだろうが、生憎と彼等の姿は見えない。てかいないはず。見えるのは暢気にお茶をしている主上と秀麗ねえさんぐらいだ。
 霄太師には彼等の姿が見えているのだろうか、と思いつつ、宋太傳と茶太保が厳しい顔で沈黙するのを、私はただただ、場違いかなぁ、と思いながら眺めていた。
 非常に言い難いが、・・・・・・私って心底関係ないな。というかこんな会話聞いてていいのかしら。首を捻りつつ、彼等が特になんの注意も払っていないのだから、聞かれても困ることじゃないんだろうと思うことにする。まあ、この程度じゃ噂の種にはなってもそれ以上にはならないだろうし。ともかくも、私は如何にしてこの場を辞するかを考えながら、そっと霄太師の器にお茶を注いだ。とことん私はなんの為にここにいるんだろう、という疑問を覚えた瞬間だった。