爪痕、を残して



 よく構ってくれる女官さんに頂いた香に火を焚きつけ吹き消して、かぽっと、香炉の蓋をあけて中に仕込む。煙が立ち昇るのに多少目を眇め、蓋を閉じれば穴から微かに白い煙が筋を描く様が見えた。鼻腔を擽る香りは多少甘いが、いい匂い。私としてはもう少し爽やかな方が好みだけど・・・別にこれは秀麗ねえさんのためのものなんだから、私の好みなんてどうでもいいのだ。その香炉を脇に置いて、今度は香鈴さんから頂いた花を花瓶に生けていく。紅貴妃様の部屋に彩りを、と息巻いていた香鈴さんは残念ながら別のお仕事を今任されてここにはいないから私がやっているのだが。ふんふふーん、と軽い鼻歌混じりにやっていると、不意にきぃ、と室の扉が開く音が聞こえ、はっと振り向いた。見えたのが秀麗ねえさんだけだと確認すると、笑みを口端に浮かべて体全体で振りかえる。

「おかえりなさい、秀麗ねえさん。主上の様子はどうでした?」
「うん・・・ただいま、

 花も生け終えて裳裾を引きずりながら傍まで行くと、多少暗い面持ちで秀麗ねえさんが微笑む。
 そのいつもの快活さとはかけ離れた物静かな様子に首を傾げ、何か上手く行かなかったのだろうか、と考える。主上とは・・・確かまだ彼は「主上」としては、挨拶を交わしていなかったように思う。まだ政治的な方向に持っていけなくて悩んでいるのだろうか?
 いや、それにしても秀麗ねえさんのことだ。今更それぐらいで落ち込む要素はないだろう。それに、今回の落ち込みようはそんなものではなく、もっと別の・・・しんみりとした何かだ。
 足取りは大袈裟なほど重たいものではなく、ある程度いつも通りなのだ。
 けれど雰囲気が何か重たい。いつも通りに振舞いつつも、心ここにあらず、といった様子だ。椅子に腰掛け、府庫から借りてきたのだろうか、持っていた本を広げる秀麗ねえさんの背中を見つめて、ふと踵を返す。
 そっと室から出ると、音をたてないように扉を慎重に閉めて、くるりと前を向いた。・・・・って。

「せ、静蘭さん?!」

 正面を向いた途端、今までほぼ接触していなかった美貌の家人がでーんと立っていた。
 思わず後ろに仰け反って驚き、パチパチと瞬きをしつこく繰り返せば、いつものように柔和な笑みがふわり、と浮かべられる。

「あぁ、。久しぶりですね」
「あ、はい。お久しぶりです。なんだかんだで会っていませんでしたからねぇ」
「活動する場所が違いますから、それも当然でしょうね。お嬢様のように府庫にまで足を運ぶこともないようですし」

 頬に手を添えておっとりと答えれば、線の細い美貌を緩めて、物腰柔らかく言葉を重ねる。
 その姿は中々武官とも思いにくく、まず容姿ですでに一般的「武官」あるいは「武人」の容貌からは外れているので、誰もこの麗人がかなりの腕の持ち主だなどとは思わないだろう。
 どちらかというと、武官というよりも文官並の線の細さで。これで実は「脱いだらすごいんです」とかだったら・・・あ、ちょっとキモイ?(この顔で筋肉ムキムキだったらちょっとなー引き締まった形なら理想だが)割りとくだらないことを考えつつ、そっと体勢を整えて首を傾げる。府庫から帰ってきた秀麗ねえさんを送ってきた、というのならここにいる理由はわかるが・・・すぐに帰らないのは可笑しいような?

「・・・何か、あったんですか?」
「え?」
「いえ、秀麗ねえさんも何か様子が可笑しい気がしていたんで・・・静蘭さんも、送り届けてすぐこの場を離れないのは珍しいかな、と」

 そもそも後宮は王の為の場所だ。一般の武官やら文官が出入りしていい場所ではない。
 つまり、外朝が女の出入りを禁ずる場なのならば、後宮、つまり内朝は男の出入りを禁ずる場だ。基本的に、ではあって例外は数多もあるだろうし、何より堂々と入り浸ってやがる男もいるそうだが。(某藍家の人ね)幸いにもまだ全然接触していないのが幸運だ。
 さておき、そんな場所では目的を果たせばさっさと去るのが普通。例えそれが紅貴妃・・・秀麗ねえさんと知己としても、だ。今の立場上は大分身分も違う。そもそも周りには関係者だとは知られていないのだから、長居は無用というもの。それを弁えている静蘭さんが秀麗ねえさんを送り届けて尚この場に留まることは、ハッキリ言って今までなかったといってもいい。なのにいる。ということは、それなりにやっぱり何かあったのかもしれない。
 くるりと目を動かして見上げれば、静蘭さんは躊躇ったように視線を逸らし、それから軽い吐息を洩らした。

「まいりましたね。・・・お嬢様、そんなに気落ちしていましたか?」
「気落ちしているというか・・・いつもの様子ではないなと」
「そうですか・・・。そういえばはこれからどこに?」
「給湯室に。元気がないようですから何か暖かいお茶でもと思いまして」

 上手い具合に原因を話すこともなくさらっと話題を流されたのはわかったが、そうするということはあんまり話したくないことか、私には必要のないことか、あるいは彼の口からでは話せないことなのか。どれかなのだろう。だとするのならば、まあ積極的に聞くのもあれかなぁ、と思い外に出た本来の理由を口にする。そうすると、申し訳なさそうに、だけど嬉しそうに、顔を綻ばせて静蘭さんは腰を屈めた。・・・視線を合わせてもらえるのは嬉しいけど、ちょっと、ねぇ?

「心配をかけてしまいましたね。ありがとうございます。大丈夫ですよ、お嬢様ならきっとすぐに元気になりますから」
「だといいですけど。静蘭さんも、あまり気落ちしないでくださいね」

 にっこりと満面の笑みを浮かべられ、僅かな苦笑と共にさっと言い返す。すると結構予想外だったのか、珍しくもきょとん目を瞬き、静蘭さんは自分の頬に手を添えて首を傾げた。

「・・・私も、気落ちしていますか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど。秀麗ねえさんが落ち込むと周りにも伝染しますから。それに、静蘭さんは顔に出し難いだけで内心落ち込んでる可能性もありそうですし。別になにもないならないでいいんですよ」

 逆に秀麗ねえさんが元気だと周りも結構明るくなる。遙か風に言えば陽の気が強いのかもしれないなあ。ただ単にそういう気持ちは他に伝染しやすいというのもあるだろうけど。
 ま、彩雲国物語の主人公だし?影響も出やすいというものさきっと。しかし静蘭さんは本当に顔に出にくい。秀麗ねえさんや邵可さんほど付き合いが長かったり人の機敏に敏かったりすればこの人の表情も割りとわかるのかもしれないが、まだまだ私じゃ無理だな。
 とりあえずあははー、と笑いながら軽く手をパタパタとおばさんのごとく振って、それでは、と頭を下げる。

「失礼しますね」
「あぁ、はい。・・・
「はい?」
「・・・お嬢様を、元気付けてあげてくださいね」
「はぁ・・・出きる限りはさせて頂きます」

 できなかったらごめんなさい。内心でそう付け足して、さっと踵を返して給湯室まで行き、手早くお茶をいれて、お茶菓子も考えたが恐らく府庫でも食べただろうとは思うので持って行くことはやめておいた。お茶だけお盆にのせて、零さないように気を付けながら、でもなるべく急いで貴妃の部屋まで歩いていく。そっと室の扉をあけて入れば、出ていったときと同じように椅子に座って本に没頭しているように思う。実際はどうかはわからない。
 何かに悩んでいるのかもしれないし、ただ落ち込んでいるのかもしれない。どうなのか、私には計り知れないけれど近づいてそっと横にお茶を置いた。
 気がついたように視線をこちらに向けた秀麗ねえさんが、お茶と私を一瞬見比べて、薄っすらと小さく微笑む。

「ありがとう、
「いえ・・・秀麗ねえさん、何かありました?」

 突っ込んでいいものか少し迷ったが、気になるものは気になる。静蘭さんに聞いても得られなかった回答は、秀麗ねえさん自身の口からは得られるのではないか、と。
 所詮好奇心。猫をも殺す羽目にならなければいいが。上目に見上げ、小首を傾げて問いかけると、秀麗ねえさんは目を丸くしてから、苦笑を零すように苦く口端を歪めた。
 そして開いた本を閉じて、きしりと背もたれに背中を預ける。少し背筋を伸ばすようにのけぞると、大きく溜息を零した。

「あーあ。そんなにわかりやすい?私」
「そう、ですね。なんとなく、気落ちしてるなぁとはわかります」
「そう・・・」

 眉尻を下げて笑った秀麗ねえさんの問いかけに、躊躇いがちに頷く。私でも気づく程度には、わかりやすい気落ちの仕方だった。
 まあ、多分故意に隠すつもりもなかったんだろうし、何より隠せないほどに動揺が大きかったのかもしれない。どちらか、の追求はどうでもいい。ただ、何かあったのだ、とそれだけはわかるのでじっと見つめた。
 話したくないのならば適当に誤魔化すだろう、静蘭さんみたいに。気になるし本当なら聞きたいところだが、そうなればさっきみたいに煙に巻かれるのもやぶさかではない。そうですか、と一言返して終わりだ。けれど話すというのならば、ちゃんと聞かなくては。
 そんな気持ちで見上げると、秀麗ねえさんは体を私の方に向けて、そっと手を伸ばした。
 さらり、と私の前髪に触れて横に流すように手を動かしながら、秀麗ねえさんの紅の刷かれた唇からとつとつと言葉が綴られる。

「今日、主上に話したわ」
「・・何をですか?」
「8年前のことよ。は知らないかもしれないわね。8年前、大規模な飢饉が起こったの」
「飢饉、ですか」

 言われて、ピン、とくる。あの頃のことだ。覚えている。
 中身が真っ当な子供であれば朧な記憶であろうと、私は中身はこれである。明確にはっきりと、餓えを覚えた日々。
 日々出にくくなる母の母乳。やつれていく父親。呪詛を撒き散らしながら恨み、悲しみ、脅え、やがて諦めて死んでいく人達。どうしようもない怒り、死が近い恐怖、誰も助けてなどくれない絶望。
 大きくなっても余波というか名残というものはまだあるもので、町は荒れていたのだ。あまり裕福な暮らしではなかった。それでも、昔よりはマシだと亡き父母は言っていたけれど。
 私はその時からちゃんと赤ん坊の時の意識があり、だが記憶があったとはいえ、所詮赤ん坊。周りの様子が明確にわかるでもないし、完全なる庇護対象だった。
 ああでもやっぱり空腹だった。母の母乳も少なく、あまり栄養は万全とは言えなかっただろう。おかげでちょっと今の体でさえ同年代に比べて体格が小さいのだ。切ない。
 一番その時期暮らしやすかったのは紅州と藍州だったそうだけど。首都は無論、その二つを覗いた州もそれはそれは盛大な余波はあったとのことらしいが・・・。
 でも、王都よりはマシだ。だって各州はそれぞれ七家が収めていて、そこで結構管理されている。貴陽に何かあっても、それぞれ独立してなんとかやっていけるぐらいには、かなり別個の繁栄をしているのだ。厳しいのは厳しいけど、だからこそ、紅家と藍家、二つの家の納める州はその飢饉の影響を受け難かったと聞いている。―――その話しをしたということは、物語が序盤の終幕、中盤に入ってきたということだ。

「それは、人災が起こしたものだったんだけど・・・あぁ、人災ってのは、わかる?」
「はい。人が起こした災害ですよね。両親に聞いたことがあります。その時は王家の争いで、城下が荒れに荒れたって」

 聞いたことと元から知っていることと。半分半分で頷くと、そうなのよ、と秀麗ねえさんは微笑んで頷いた。その顔がどこか辛そうに、眉が下がっているのに目を細める。
 とても、それはとても悲しい、記憶なのだろう。忘れたくても忘れられない、それは私の記憶のように―――とても辛くて、悲しい、記憶の一片。思い当たればぎゅっと胸元を握り締め、眉を潜める。ズキッと、傷痕のない傷が疼くような感覚に唇を戦慄かせ、そっと彼女の膝に置かれた手に手を重ねた。遠くを見るように細くなっていた秀麗ねえさんの眼差しが、その時驚いたように見張られる。見上げて、少しだけ微笑んだ。

「ねえさん、いいよ。話さなくて」
「え・・・?」
「辛いなら話さなくていいです。私にはそれは必要なことじゃないから。私に話す必要は、ないんでしょう?なら、いいから・・・お茶を飲みましょう、秀麗ねえさん」

 主上には必要だと思ったから話しただけで。でもそうでなければ話したくないことで。
 なら、聞かなくてもいいことだ。わざわざ辛い記憶をもう一度語らせるなんて、そんなことやりたくない。何故なら、私がして欲しくないからだ。私だってわざわざ傷を抉るように呼び起こしたりなどしたくない。忘れてはいなくても、けれど無理に表面に出したいとは思わない。
 嫌な事を思い出すのは本当に嫌な事で、それはとても重たい気分になるから。
 さっともう一つ、自分の分の茶器(実は用意してた)にお茶を注いで、両手で包むように持つとにっこりと笑う。多少作った笑顔だったかもしれないが、気にしない気にしない。
 そのままもう聞かない、という態度でぐびっとお茶を飲むと、ちょっと呆気に取られていた秀麗ねえさんがぼんやりと瞬きをして、くしゃりと顔を歪めた。俯く秀麗ねえさんを横目で見て、茶器を置けば伸びた腕が私の体を捕まえる。そのままぎゅっと縋るように抱きしめられて、私は彼女の背中に腕を回すと軽くぽんぽん、と背中を叩いた。泣くのを堪えているかのように、微かに震える彼女の体が、その記憶の重たさを物語っている。

「怖かったのよ、・・・」
「はい」
「怖かったの。いつも誰かが死んでいく。毎日、毎日・・・いつか、1人になってしまうんじゃないかって、ただそれだけが怖かった・・・」
「はい」
「1人になるのはいや。父様や静蘭が死ぬのはいや―――大切な人がいなくなるのは、もういや」
「・・・はい」

 ぎゅっと抱きしめる。か細い声で、震える声で。独白のように零す秀麗ねえさんの肩口に顔を埋めながら、そっと目を細めた。
 誰かが死んでいく恐怖。覚えがある。身近な人が死ぬかもしれない恐ろしさ、知っている。
 けれど、それ以上に、私は。秀麗ねえさんの肩口に顔の半分を押しつけて、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「あんな思い、もう二度としたくないわ」

 ぐっと一際強く抱きしめられて、その強さが決意にも似て。背中を撫でる手を止めないまま、そっと目を閉じる。抱きしめられる暖かさ、背中に回された腕の力強さ。
 縋るように、守るように、強く強く、抱きしめられた、痛いほどの、優しさ。
 ―――涙が、零れそうになった。


おかあさん。


 零れそうになるそれを我慢して、秀麗ねえさんに縋りつく。縋りつかれたそれを、逆に私が縋り返して。気がついたようにふと抱きしめられていた腕の力が緩むと、今度は私が強く抱きついた。離れると、泣きそうな顔に気づかれそうだったからかもしれない。ただ単純に、今は何かにそうしていないと、崩れそうだったからかもしれない。逆転した立場に自嘲を覚えながら、それでも、そうしていることで安心と、どうしようもない悲しみを、噛み締めた。
 抱きしめられると思い出す。強く守られると思い出す。お母さん、お母さん。お父さん、お父さん。もういない。もうどこにもいない。私の2人目の両親。
 死を思うと思い出す。ただ怖いと思い出す。自分が死んだ日。みんな、みんな。全部、全部。もういない。もうどこにも私はいない。私であって私ではない、私。
 あぁ、どうしてこんなにも。


・・・」


 小さな声。それは私に向けての呼びかけのようで、ただ秀麗ねえさんの確認のようでもあって。彼女の肩に顔を押し付けて、強く目を瞑りながら私は、声にならない言葉を、ずっと噛み殺していた。
 やがて緩やかにまた抱きしめ返されて、そうしてしばらく、縋り合うように私達は、互いの体温を感じていた。それは、背負うには重た過ぎる記憶たちの重みに、潰されないよう支え合うかのように。