始めまして、で手を切りたい。
「なんだかの顔を見るのはとても久しぶりな気がするよ。後宮は大丈夫だったかい?」
「確かに、邵可さんと顔を合わせるのは何日ぶりですかねぇ。後宮の方は、えぇ割りと大丈夫ですよ」
多少やっかみがないわけでもないが。子供の癖に、身分もない癖に。卑しい身の上、汚らわしい、紅貴妃付きだなんて分不相応。エトセトラ。
こんな子供にまで嫌味をネチネチ言う奴は心が狭いとかいう以前の問題だ、多少呆れもある。しかし、その嫌味を全く気にしない、といえるほど神経太くもなければ、自分に真っ当な自信があるわけでもなく。
まぁうん。・・・結構心情的に辛かったりするんだけど。だけど、まあ、頑張れるだけ頑張れるのはちゃんと優しくしてくれる人もいるからで、自分だって前向きになろうと思っているからだ。
ていうか、そんなチマチマした嫌味ぐらいでへたこれていたら、私は人生というもの自体に絶望している自信がある!お前等私ほど波乱万丈の理不尽に遭った事はあるまい!!
そう思えば嫌味なんて、傷ついても泣くほどのものじゃないし、次第に馬鹿だなーと思えてくるから不思議である。人間、日々の歩き方如何によって考え方なんてどうとでも変わっていけるのだ。
人生経験は偉大である。・・・うん。本当、今までの自分を思えばあんな嫌味鼻で笑うのもわけないな。実質的な嫌がらせまでにはまだ発展していないところがまだ良心的なのかもしれないし。実質的なものでついてくると、さすがに結構厳しいものがあるけど。そういう場合、子供だろうがなんだろうが関係ないのだろう、やっかみというものは。
うわぁ、怖い怖い。言いながら邵可さんの手から茶器を引っ手繰ってお茶を淹れていく。
手持ち無沙汰になった邵可さんは私と茶器を交互に見てから首を傾げて、後宮に入ってから会ってないよね、と呟いた。まあそりゃ、家にも帰っていなければ府庫にも近づいていなかったからな。外朝に来ようとしなければ、邵可さんと会う事など滅多にない。
いやむしろ皆無。ついでにいえば静蘭さんと会う事も滅多にないが・・・こっちは秀麗ねえさんの近くで時折見かけることもままある。邵可さんよりも動きやすいからだろう。
そう思えば本気で接触していなかったな、と思う。まあしょうがない。一介の女官が外朝をうろうろできるはずもないし。むしろ近づこうとしていなかったのだから、会わないのも当然だ。今回こそが稀であり不本意。・・・・府庫は無駄に色んなことが起こりそうであんまり近づきたくないっていうのに・・・!!
「それにしても・・・府庫って初めてきましたけど、本当にたくさん本があるんですね」
「あぁ。そりゃ国中の蔵書を集めているといっても過言ではないからね。何か読みたいものがあれば貸すよ」
「いや、いいです」
わざわざ返しにここまでくるのに精神が疲弊する。引きこもり万歳。スパッと切り返してきっちりお茶の時間を計ってから、さっさとお盆にのせていく。ちょっと邵可さんが残念そうというか、寂しそうなのに気がついて、さすがに切り返しが厳しかったかと思った。
なんだかんだで可愛がってもらってるからなぁ。ただ、本当に、府庫はねぇ、ほら・・・現在進行形でいるから。奴等が。彼等が来る前にそそくさとこちらに避難していたけれど、今からこれを運ぶのならあんまり意味がなかった。くっ。結局ここにいる限り接触せねばならんのかと思うと、溜息も零れそうになる。
「・・・邵可さん」
「ん?なんだい?」
「私でも読めそうな本、数冊お願いしてもいいですか?」
「あぁ、勿論だよ」
ニコォ、と彼の笑顔になんだか覇気が戻った。(気がする)その様子に薄く微笑み、よいしょ、とお盆を抱えて顔を引き締める。ああ何故秀麗ねえさん私をここに強制連行したの。
物凄く遠慮したのに。行きませんって言ったのに。・・・あれから主上と一緒の勉強会が始まって、誘われても誘われても頑張って敬遠していたというのに・・・なのにお願い、と言われると抵抗できない、押しの弱い我が身がなんだか物悲しい・・・。ていうか今までそんなことなかったのに、どうして今頃無理矢理?不思議に思いつつ、じゃお願いします、と一言残してそっと足を踏み出す。裳裾の長さには慣れたが、今でも時々踏みそうになるので物を持っているときは気をつけなくては。軽く俯き加減でお茶を運び、ある程度近づくとそっと声をかける。
「紅貴妃様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
その声に反応して顔を上げれば、注がれる視線視線視線視線。思わず怯みそうになったが、ぐっとこらえて平静を装いつつ、お茶を置く。視界に入った主上が何か居心地悪そうにもぞもぞとしていたが、よくわからないのでとりあえず無視。その主上を秀麗ねえさんはじと目で、そして彼の双花菖蒲は胡乱気に見やるのを視界の端に捉えつつ、非常に居辛い居た堪れない緊張する、といった三重苦に内心心臓がばくばくである。
なにせ目の前に李絳攸と藍楸瑛。主上についてはすでに面識有りだからいいとして、何が嫌だってこの人達の聡明さ加減が物凄く嫌。値踏みされるようにじろじろと見られるのって・・・物凄く居心地悪いんだよぉっ。内心びくびくしながらお茶をいれて、最初に主上、次に秀麗ねえさん、そして次に李絳攸と藍楸瑛、と一応身分を考慮して置いていく。
お茶を受け取った主上が何か物凄く物言いたそうに唇を動かしたが、声が零れる前に私がさっさと側近の方に向いたので結局言葉は聞けず終いで。むしろ振り向いた瞬間盛大に不機嫌というか不愉快そうな顔をしている李侍郎のしかめっ面が見えて本気でびびった。
え、私なにかした?!と本気で不手際があったか心配したぐらいだ。それでも頑張って表情を殺してお茶を淹れた私を誰か褒めて。差し出したお茶を真っ先に受け取ったのは、案の定というか・・・藍将軍だった。
「ありがとう。ところで、君はもしかして後宮最年少の女官殿かな?」
にっこり。わざわざ視線を近づけてまで優雅に微笑む手腕に脱帽する。その笑顔に多少気圧されつつ、あぁなんか物凄く見なれた笑顔だぞ、と私も思わず笑みを浮かべ返した。
ふふ・・・たらしだ。たらし属性のあの笑顔だ。なんか懐かしいけど近づきたくないな!
「はい。紅貴妃様付き女官をさせていただいております。と申します。あなたは、藍将軍ですよね」
「おや、ご存知でしたか。こんなにお小さく可愛らしい方に知っていてもらえるなんて、嬉しいよ」
「こ、紅貴妃様によくお話は伺っていますので」
言いながら一歩下がる。通称逃げる。こんな見た目子供にまで賛辞を怠らないとは、さすが藍楸瑛!
後宮ハンター、もしくは花街の貴公子!!ヒノエと弁慶さん思い出すじゃねぇかこの野郎。にっこりとした笑顔に多少引け腰になっていると、横から不機嫌も露わの怒声が響いた。
「この常春!!こんな子供にまで色目使うとはどこまで無節操なんだっっ」
「いやだね絳攸。色目ではなく素直な感想と言って欲しいな。それに殿はとても可愛らしいじゃないか。あぁ殿。これは李絳攸。吏部侍郎だ」
「はい。存じ上げています。宮廷一の才人で、とても優秀なお方だとか」
あと物凄い方向音痴だとかね。にこ、と笑顔を浮かべつつ言えばふん、と鼻息荒くそっぽを向かれた。照れているのではなく、あまり私に興味感心好意がないんだろう。
まあ子供だし、女だし、初対面だし。当たり前といえば当たり前である。
初対面にしてはあまりいい態度とは言えないが、まあそんなものだと知っている、あるいは思えばさして気にするほどのことじゃない。
気を持ちなおして睨み合っている(一方的)ニ人を遠巻きにして秀麗ねえさんの傍に行くと、さっさと辞去すること述べて、奥に引っ込んでしまおうと思った。さすがに帰るのはあれだから、勉強会が終わるまでここにいればいい。
その為に邵可さんに本をお願いしていたわけだし。というわけで顔をあげると、やはり何やらじぃ、と見てくる主上の目とばっちり合った。物言いたげというかむしろ気まずそうというか。なんだ?
「・・・何か?」
「い、いや。その、・・・、余は、その・・・」
きょとんと、首を傾げて口を開けば、やっぱりしどろもどろである。
私何かしたっけ主上に?と思いつつじっと見ていれば今まで側近ニ人の言い争い(やっぱり一方的)を呆然と眺めていた秀麗ねえさんが、はっと自失が戻ったように顔を引き締めた。
「そうよ!ねぇ、あなた主上に会った事があったんですってね?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「主上に聞いたのよ。私本当かと思って今日つれてきたんだけど、会った事があるなら教えてくれてもよかったじゃないっ」
「・・・えーっと・・・?」
すごい剣幕で捲くし立てる秀麗ねえさんに目を見開きつつ、その声に反応して言い争いを止めた二人の視線も加算されちょっと居心地が悪い。しかし、うん?うん。確かに主上と遭遇したことはあったけど・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁ!!
「そ、そうですね。言えばよろしかったのかもしれませんが、その時は主上とは存じ上げませんでしたから!内密でとのお話でしたし!!」
そうだそうだ、私一応この人と遭遇してて、その時は主上とは知らない設定で話したんだった!
なるほど。さっきまで何か言いたそうだった主上の態度もこれで納得というものだ。再会してどう言えばいいのか迷っていたのねきっと。そして私があまりにも気にしてないようだったからどうしたらいいのかわからなかったんだ。
ごめん主上。そんな話しすっかり忘れてた。慌てて言い繕えば、全くもう、と言い残して秀麗ねえさんが頬を膨らませる。
それに微苦笑を零して、おずおずと主上を見れば、こちらもこちらで何か居心地が悪そうだった。えーと、こういう場合どうしたら・・・?
悩んでいるうちに、主上が意を決したように顔を引き締め、苦渋の顔を浮かべると苦く口を開いた。
「すまぬ、。騙すつもりはなかったのだが、言えなかったのだ」
「え、あぁ・・・そんな、気にしていませんから。おおっぴらに動けないのも十分わかっているつもりですので」
それに忘れ去っていたぐらいですから。そこは言わずに内心にだけ留めておいて、ゆっくりと笑みを浮かべる。するとほっと安心したように主上が表情を緩め、もう一度すまなかった、と謝る。
気にしてません、と同じ台詞を繰り返してにこっと笑えば、割と穏やかな空気が流れたものだった。がしかし、そういう場合横から突っ込まれるのは当然というもので。
不思議そうな、というか怪訝そうな藍将軍の質問が、和やかな空気をスッパリと切った。
「主上は殿にお会いしたことがあるんですか?」
「うむ。秀麗が後宮に入って3日目のことだ。後宮近くの庭先で・・・あー、庭先にいたと会って少し話しをしたのだ」
「話しとは?」
「うっそれは・・・」
もごもごと言い難そうに口を動かす主上に片眉を動かして、藍将軍の顔がこちらに向く。
げっと思ったのも束の間、矛先はしっかりとこっちに向いたようだった。そしてヤッパリ他の方々の視線も貰う羽目になるんですね・・・!
「何を話していたのかな?」
「えっーっと・・・その、・・・・・・・・紅貴妃様について、です」
ごめん主上。この微妙な視線の集まり具合と圧力には勝てない。がく、と肩を落としてぽつりと言えば、私?と秀麗ねえさんが自分を指差して首を傾げる。そしてじとりと主上を睨む辺りに、迫力を感じた。あーあ。
「紅貴妃とはどのような方か、というのを尋ねられました」
「へぇ。興味がないようなふりして、存外あったんじゃないですか主上」
「・・・余とて、少しは気になるのだ。なにせあの霄太師が入れた貴妃だからな」
「確かに」
深く頷いた李侍郎に、まああの人が関係してたら気になるわなぁ、と私も視線を外して遠くを見た。秀麗ねえさんだけは微妙についていけてなかったようだが、気になるんなら会いにきてくれればあんなに無駄な時間も食わなかったのに、とぶつぶつぼやいている。
「それで、お前はなんて答えたんだ」
「え?・・・そうですね。とりあえずご自分の目で見るのが一番でしょうと」
いきなり藍将軍から李侍郎へと会話の主導権が移って問いかけられたのに一拍間を置いて、あの日のことを思い出しつつそう答える。すると多少意外そうに眉がピクリと動き、ほぅ、と呟かれた。なんだ一体。
「自分の目で、か?」
「はい。人伝手に聞いても所詮他人の主観でしょうから、自分の目で見て感じた方が確実ですよと。良いも悪いも、自分の価値観の問題だと思いますので」
あと下手なこと言って流れが捻じ曲がったら怖いから。むしろこれが一番の理由かもしれん。
しかしそんなことが言えるはずもないので無難な言葉を選び、そしてちら、と主上と秀麗ねえさんを見る。うん。
「・・・どうやら、それで無事知り合えたようですし」
「そうだな。の言う通りだった。誰かに聞くよりも、自分の目で見て、話したほうがずっと秀麗が素晴らしい人だと知ることができたからな」
にこ、と開けっぴろげな笑みを見せられて私も頬を緩める。いや本当、ちゃんと原作の流れに乗っかってて安心したよ私は。ちなみにふっつーにベタ褒めされた秀麗ねえさんはなにいってんのよ!!と恥ずかしそうにしていた。うん・・・こういう見た目だけなら初々しいカップルのようなのになぁ。主上、可哀想。さて、そんなことより。
「そろそろ講義の時間なのではないでしょうか、皆様。私は奥にいますので、何かご入用がありましたらどうぞ遠慮なく声をおかけください」
「あら、も一緒に勉強をしたらどう?絳攸様の勉強はすごく為になるわよ。・・・どうでしょうか?絳攸様」
「・・・俺は構わん。もっとも、子供だからといって容赦はしないぞ」
「こらこら絳攸。少しは手加減してあげなよ」
「も一緒に勉強するといいぞ。絳攸は厳しいが、とても有意義な時間なのだ」
いやなに普通に混ざること前提で話してるんだアンタ等。主上のニコニコ笑顔に若干引き攣った微笑になるのを隠し切れず、私はふるふると首を横に振る。ここだけは譲れない。
「いえ。光栄ですが、主上と肩を並べるなど恐れ多くございます。私のことは気にせずに、ゆるりと勉学にお励みください」
言いながら頭を下げ、引き合いに出された主上は少しさびしそうな顔をした。
でも、身分のことも考えれば当然の結果だ。何より私がこの人達の勉強についていけるとは思わない。メインはついていけることを前提とした主上と秀麗ねえさんである。
私が理解するよりも、ニ人が理解したと思ったら進むものだろうし・・・進む中心はあくまで二人であり主上だ。(まあこの人あんまり必要ないんだが)そんな勉強、私がついていけるわけがないだろう。そもそも政治とか苦手なのに。そりゃ一度講義を受けただけで理解できるものではなく、復習やら自習やらは必要だが、それにしたってある程度理解できること前提で授業とは受けるものだ。自分を置いてさくさく進められる勉強が為になるとも、また楽しいとも思えない。そんな勉強は、はっきり言って無意味だ。どうせ学ぶなら邵可さんにお願いするよ。そうした方がまだ遣り甲斐も出るというものだ。そもそも官吏になりたいわけじゃないし。というわけで、この勉強会に参加するつもりは毛頭なく、言うだけ言うと残念そうながらも特別引き止めようとはしないのを幸いに、さっさと奥に引っ込む。
その場にいるのも本来ならば不相応。あと本命でいえば、そんなずっと気を張っていなくちゃいけないようなところにいつまでもいたくない。さっと本棚の影に回り込み、ほぅ、と大きな息を吐いてぐい、て額を拭った。
「・・・どきどきした・・・」
「お疲れ様です」
「ぅわっ・・・・え、あ、せ、静蘭さん・・・っ。お、驚かせないでくださいよ!」
いきなり横からかかった声に飛びあがりながら、振り向いて声をかけてきた人物に講義する。そうするとくすくすと笑い混じりにすみません、と謝られてもう、と小さく呟いた。
「それにしても、主上と会っていたんですね、は」
「・・・はい。偶々偶然」
「昨日、主上が言っていたんですよ。という女官はいないか?と。なんで知っているのかと思いましたが、あんな会話をしていたとは」
「あははー・・・私としてもまさか会うとは思ってなかったんです。えぇ、本当に」
力をこめて真顔で言えば、やや怪訝そうに静蘭さんが首を傾げる。あえて追求を避けるようにふ、っと口端を歪めて視線を逸らし、遠い目をした。ふふ・・・本気で主要人物とあんな遭遇するとは思わなかったのさ・・・。なんの呪いかと疑ったねあの時は。でもその後の朝廷三師との遭遇も呪いの一端かと思ったけどねー。いやあれは本当に対処に困った。
「こほん。とりあえず、はこれからどうするんです?府庫にはいるのでしょう?」
「あぁ、邵可さんに私でも読める本を、とお願いしておいたので近くで本でも読んでおきます。頃合を見て茶菓子なりお茶なり出していきますよ」
「すっかり女官の仕事にも慣れたようですね。安心しました。・・・ですが、何かあればちゃんと言ってくださいね」
「大丈夫ですけど、はい。なるべく」
「絶対ですよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
にっこり、と笑みを深めた静蘭さんに思わずギクリと肩を揺らす。な、なんか今笑顔に迫力があったような・・・!びくびくしつつ伺えば、不思議なことにいつも通りの柔和な笑顔である。今のなんだったんだ、と思い首を傾げつつ、じゃあ、と口を開く。
「静蘭さんは主上の傍にいるんですよね?」
「えぇ。護衛ですから」
「わかりました。お仕事頑張ってくださいね」
「えぇ、も」
「はい」
こくりと頷いてさっとその場から離れ、邵可さんの元まで行く。とりあえずこれで無難な接触になったかなぁ?と思いつつ、これからが問題だよな、と首を傾げた。
まあ、府庫にさえ近づかなければ滅多に関わることはないだろうから、別に心配するほどのことでもないと思うけど・・・最近よく遭遇するというか、私はとある時期から変な星の巡りに鉢合わせたのではないか、と思うぐらい色んなことが起こるので、実はちょっと心配だったりする。・・・・・・うわぁ、マジでなんか不安なんですけど。あんまり変なことになりませんように、と結構無駄っぽい願掛けをした。実は私が去った後でにょっきりと静蘭さんの元に藍将軍が顔を出していたらしいが、まあんなことは知らないままである。
※
あの小さな女官の背中が去るのを見届けて、じっと見送っていた静蘭の前にさっと楸瑛は顔を出した。僅かに驚いたように目を見張った静蘭に、楸瑛は笑みを湛えて口元に手をあてる。
「・・・どうやら、君だけでなくてあの子も秀麗殿と関わりのある子のようだね?」
「盗み聞きですか。性質の悪い」
「人聞きの悪い言い方はしないでくれないか?偶々だよ」
驚いたのも束の間、すぐに持ちなおすとにっこりとどこか毒気のある笑顔を浮かべる静蘭に、楸瑛の顔が僅かに引き攣った。顔が綺麗な分、含みのある笑顔はぞっとしない。
怖いな、と内心で思いながらも表面は大して答えた風もなく微笑みを浮かべると、すっと目を細めて静蘭を見やった。
「で、どこの子だい?まさか本当に邵可殿の娘ではないだろう?」
そんな情報はどこからも入っていない。間違いなく見知らぬ子であるはずだが、あの年で家人として働くのも少し無理がある。働けない事はないだろうが、あまり役に立たないのも事実であるだろうし、わざわざ後宮に放り込むのも、それこそ変な話だ。真偽を計るかのように眇めた目に眉宇を潜めつつ、僅かな溜息と共に静蘭はふいと視線を府庫の奥に向けた。その先はが消えた先である。
「旦那様のご友人の御子ですよ。あちらの両親が不幸にあったらしく、こちらで引き取ることになったんです」
ちなみに邵可が作った嘘八百である。しかし近所周りがすでにそれで浸透してしまっているので、嘘は割りと本当に近くなっているのは事実だ。そして追求するほど不自然な理由でもなく、楸瑛はふぅん、と一旦は納得したように生返事を返した。例え嘘だとしても、それで彼のデメリットが生まれるわけではない。そう思えばこれ以上の追求はある意味無駄と捉え、楸瑛はあっさりと話題を転換させた。
「なるほど。それでかな。やたらと大人びた子だったね。いや、しっかりしているといった方がいいかな。8歳の子が後宮に入ったと聞いて、何が起こったのかと我が耳を疑ったけれど。あの子なら特に問題はなさそうだ」
「そうですね。しっかりしていますよ、子供らしくはありませんが。女官の仕事ももう慣れているようでしたしね」
こくりと同意するように頷いた静蘭に、本当にね、と楸瑛も頷く。8歳と聞いて本当に驚いたのだ。いくらなんでもそんな小さな子供が後宮に放り込まれることはまずない。
怪しむ前にちゃんと仕事ができるのだろうかと思ったものだが、どうだ。心配が杞憂なほどに順応していた。あれなら女官の仕事もさして問題なくこなせそうものだとは、楸瑛の見解である。無論簡単な仕事しか任せられはしないだろうが、見る目には厳しい自負がある楸瑛がそれを差し引いても大丈夫だと思えるのだから、中々のものだ。
元々女官になるには官吏以上に厳しい試験を受けなくてはならないのだから、当然といえば当然だが。
なんらかのコネがあったにしても、さすがに10歳にも満たない幼女が放り込まれる事例など滅多にない。しかしあれならばあるいは、と思ってしまうところに、だからこその不自然であり不審な点がある。何かあるのではないか、と勘繰っても可笑しくはない。それが紅貴妃関連、ひいては霄太師関連だと思えばなるほど納得、というものだ。けれど、後宮に入れた経緯は理解できた。しかし、放り込まれた理由は不明であり不自然なままだ。それこそが本題だ、とでもいうように、楸瑛の眼差しが鋭利さを浮かべる。
「霄太師が君達に要請してここに入れたのだろう?あの子も、かい?」
「・・・えぇ」
「可笑しくはないかい。秀麗殿は今回の話しの中心だ。君にしても護衛として入るのに不自然な点はない。けれど、彼女はまだ8歳の子供だ。いくらなんでも後宮に放り込むには不適切だと思うけれど?」
いくらしっかりとしていて、傍目には驚くほど順応していようと、だ。反応を伺う様に静蘭を見据える瞳に隙はない。どんな些細なことでも見逃すまいと、柔和な笑顔の奥で研ぎ澄まされるものに、常人ならばゴクリと息を飲むところだ。けれど静蘭はその視線を真っ向から受けとめつつも気後れした様子もなく、ふ、と形良い唇から吐息を零して肩を竦めた。
「そんなものは、私達こそ霄太師にお聞きしたいぐらいです。私達も、何故までもが今回のことに巻き込まれたのか、わからないんですよ」
「霄太師は理由は言わなかったのかい?」
「聞きましたよ。お嬢様一人だけでは心細いだろうから、後宮にも一人ぐらい見知った者がいるといいだろう、と」
「それは・・・」
もっともな理由のようで、非常に不自然だ。眉宇を寄せて顔を顰めた楸瑛に同意するように溜息を零し、静蘭の目が眇められる。お互い思い浮かべるのは笑う霄太師であり狸爺の姿だ。そう、あの狸がたったそれだけの理由で不向きだと思われるあんな子供を後宮に送り込むというのだろうか?何かもっと意味があるのではないか?しかし、何の。
「・・・殿が、実は天つ才だとかいう話しは」
「ないですね。あの子は敏くて年の割りに落ち着いてしっかりした子ですが、根っこは凡人ですよ。ただ、・・・呆れるぐらい子供らしくないだけです」
顰めた顔は何を思い出しているのか。呆れるぐらい子供らしくない、と称された子供を思い浮かべて、しかし楸瑛はなんとなく納得した。確かに、子供らしくなかった。
分別がしっかりとしていたのは教育が行き届いたゆえの早熟な精神というよりも、もっと根本的な何かのような自然さがある。かといって、幼少の苦労故の早熟というのも違う。
何かもっと根本を見逃しているような、不自然な相違があの子供にはあったような印象を覚えたのだ。それほどまでに、雰囲気が違って見えたのだ。外見が子供なだけにその違いは鮮やかなほどの不自然さを見せつける。しかしそれでも、天つ才ではないという。
そういうものではないのだと。ではなんだと、眉間に皺を寄せて考えるが、思い当たるものが出てこない。ぐっと刻んだ皺を解す様に眉間に指を添え、溜息を深く零すと楸瑛は肩を竦めた。
「お手上げだね。霄太師自身に真意を尋ねるしかなさそうだ」
「素直に答えてくれる方でもないでしょうけどね」
「まったく、・・・何を考えているのか、あの方は」
言いながら皮肉気に吊り上げた口角で外を見つめる楸瑛には、いつもの花の咲いたような雰囲気はなりを潜めた鋭利さがある。藍家の者として、鋭い眼差しで先を見通そうとしているかのように。その様子を眺めて、静蘭も吐息を零した。自体に理由でもあるのか。
けれどあの子自体はどこまでも普通なのだ。ただ中身の早熟さが不自然なだけで。
しかし、あの子が合った事件を考えればあながちないともいいきれない。ただそれを通り越えるほどに、大人びた様子が不自然に見えるだけであり、その聡さが、霄太師の琴線に触れたのか。あるいはもっと背景に何かあるのかもしれない。もしも害為すものだとするのならば――いや、そうであるのならば真っ先にあの方が手を出しているはずである。
今まで何もしてこないということは、本当に「何もない」か、あるいはまだ「不明瞭」なのか。どちらにしろ、彼女自身に嘘があるようには見えない。不自然なのはあくまで霄太師だ。
そもそもは後宮行きをそれはそれは億劫そうにしていたものだし、何故私が?とありありと語っていた。あの姿は演技ではない、絶対に。考えても考えても、可笑しな程に繋がる糸の先がない。絡み合いもつれ合った糸は、まるで元々繋がっているものですらないかのように。お互い同時に零れた溜息が、絡み合いもつれた糸が解ける様子がないことを、雄弁に語っていた。
実は自分以上にそんな風に不審に思っている人がいるとも思わずに、彼女は邵可に借りた本にひたすら没頭していた。