さぁ、扉を開くアイテムは持ったかい?



 いつもの勉強会。この場に来る事すら稀だが(しかし来ると秀麗ねえさんと主上が喜ぶ)勉強自体に参加することはもっと稀。というかまず参加しないので、私はきてもいつも通り、一人集団から離れての読書に勤しんでいた。
 そもそも、今回府庫についてきたのは別件故なのだから、出来うる限り自分の精神を安定させておきたい。
 そんな至っていつもと変わらない短調な時間が過ぎ、戻る頃には適当に言い訳を述べて秀麗ねえさんのことは静蘭さんと主上に任せ、一人残った府庫。
 訝しげな視線は多数貰ってしまったが、あえて用事がある、としか言わなかった。嘘じゃないし。・・・まあ、あとで静蘭さん辺りに問い詰められそうな雰囲気ではあったけれど。
 まいったなぁ、と思いながらも私は片付けも終わって佇む李侍郎と藍将軍を見上げて、吏部尚書への手土産(別名賄賂)を抱えなおしてこてりと首を傾げた。

「・・・何故藍将軍もおられるのですか?」

 純粋にどうしているのだろう、という視線を向ける。なにせ今から向かうところは吏部だ。しかも紅黎深さまのところ。目の前の藍家四男坊には全く関係ない話だろう。
 好奇心か?と訝しく眉を潜めると、李侍郎はちっと舌打ちをして横を向き、藍将軍はにっこりと笑みを浮かべる。対照的なニ人である。

「それはね、君にこれ以上負担をかけさせたくないからだよ」
「は?」
「ただでさえ今から向かうところは悪鬼巣窟といわれるほどの吏部だからね。辿りつく前にいらぬ苦労はご免だろう?」
「はぁ、まあそうですけど・・・」

 それと藍将軍となんの関係が。いまいちよくわからないけれど、まあ私を心配しての行動なのだと解釈してそれ以上突っ込まないことにする。
 けれど顔にはまだ理解しきれていないことが出ていたのか、藍将軍は微笑ましく口角を持ち上げて、茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に沿え、ウインクを飛ばした。一瞬ウインクから逃げようかと体がびくりと反応したが、かろうじて持ち応える。・・・・・・ウインクなんか飛ばすなヒノエで十分だこんちくしょう。

「まあ、しばらくすればわかるよ。私がどれだけ必要か」
「・・・・そうですか」

 突っ込むまい。なにも突っ込むまい。一々言い方がなんだかなーと思うけれども、そんなものだと思えば嫌な事は別段意識するほどのことでもない。
 けれどもやっぱり性質故か、思わず逃げる視線は仕方ないというもの。さっさと終わらせて楽になりたい・・・。よいしょ、と箱を持ちなおすと、苛々と李侍郎が踵を返した。

「無駄口はいい。さっさと行くぞっ」
「はいはい。じゃあ行こうか、殿」
「はい」

 すい、と無意識なのか意識的なのか知らないが、伸ばされた腕はさらっと無視して(一応お饅頭持ってるんで握れませーん、というアピールはしてみた)とことこと歩き出す。
 だが、私は即行で何故藍将軍があんな言い方をしたのか、そして何故この場にいるのか、正確に間違うことなく把握した。歩き出した途端、明らかに府庫の出入り口とは真逆の方向に突き進む李侍郎の背中に、あ、止めなくては、と思った瞬間、藍将軍が絶妙なタイミングで引きとめる。

「絳攸、そっちに行っても本棚と壁しかないよ。出口はこっち」

 スマイルゼロ円を実施しながら指差す藍将軍の呼びかけに、びたりと突き進んでいた李侍郎の足が止まる。しばしの沈黙。両肩をあげてフルフルと震えている李侍郎の背中をまじまじと見つめて、なるほどなぁ、と思う。その内李侍郎は物凄い形相で振りかえると顔を真っ赤にして叫んだ。

「同じような本棚ばかりあるのがいけないんだ!!!なんでこんなに似たような棚ばかりがあるんだ府庫というのはっ」
「そりゃそういう用途の場所だからねぇ。あまり変化もつけられないと思うよ?」
「ぐぬぬ・・・っ!」

 ひょい、と肩を竦めた藍将軍に、肩を怒らせて拳を握り締め、三白眼になる李侍郎の顔が怖い。形相がすごい。そして同時に納得する。なるほど。李侍郎の案内に任せたら今日中に吏部につくのは至難の技かもしれん。
 つまり、迷子防止として藍将軍がお供を名乗り上げたと。私も吏部までの道を知っているわけではないので(外朝なんて行かないんだから知るわけがない)、ニ人だけだと路頭に迷っていた事だろう。
 ・・・黎深さまに出会う前に歩きっぱなしで疲労蓄積っていうのも嫌だしな。しかもその場合李侍郎の雰囲気がおどろおどろしくなりそうで嫌だし。というかあんまり長いこと女官が外朝うろついていてもあれだろうし。
 できるならばパッと行ってパッと終わらせて帰りたいのだ。どこまでそれが叶うかはわからないけれども、できる限りいたくはない。
 となると、藍将軍は実はとっても必要な人だったんだな。納得納得。しかしそう一人で納得している間にもニ人の一方的な睨み合いは続いていて、李侍郎の怒声が響くのがなんともいえない。おいおい自称鉄壁の理性。
 そろそろ落ちつこうよ。やや呆れ混じりに、私は気の抜けたなんとも言えない声音で口を開いた。

「・・・あーでも、その。本の種類や区切りをわかりやすくする為に本棚などに変化をつけるのも探しやすくて良い方法かもしれませんね」

 とりあえずその話終わらせませんか?という思いで適当に会話に割って入ると、ピタリと言い合いが止まる。お、効果あり?と少し嬉しくなっていると、何故かやたらと真剣な顔で李侍郎が顎に手を添えた。

「・・・それはいい考えかもしれないな」
「え?」
「確かに。府庫の棚自体に変化をつけて判りやすくする。・・・悪くないね」
「えぇっ?」

 何故か真面目に検討しやがるニ人においおいちょっと待てそんな戯言を!!と言いたくなったが、ぱくぱくと口が動くだけで中々言葉にならない。  待って待って。そんな適当に言ったものを真面目に捉えないでよおニ人さん!!

「元々府庫の蔵書量は多い。目当てのものを見つけ出すのも苦労するだろう?」
「そうだね。さすがに全部が全部どこにあるか把握しているわけではないし、探す手間がある程度省けたら仕事の能率もあがるだろう」
「今度邵可様にも尋ねてみよう」

 ちょ、おま・・・っ!呆然と、適当に言っただけのことが真面目な議論内容に早変わりしてしまった事実に慄く私を尻目に、ニ人だけで会話を完結すると視線がこちらに向く。
 思わずぎっく、と肩が揺れ、内心できょどきょどしていると、李侍郎が珍しく口角を吊り上げて・・・多分、笑ったのだ。笑った。笑った。あの李侍郎が。(思えば彼の笑顔などこれが初めて)

「いい案だった。礼を言うぞ」
「え、・・・い、いいえーお役に立てたなら嬉しい、です・・・」

 何がなんだかわかりませんけどね!へらり、と愛想笑いを浮かべながら、下手な発言は控えよう、と真剣に思った。・・・変に大袈裟なことになるなんて、私耐えられない。
 しかもちゃんと考えていたわけでもないのにね・・・居た堪れないっての。微妙な気持ちで、私は歩き出す彼等の後ろをとぼとぼとついていった。





 正直本気で藍将軍がいて助かった。まじ助かった。ありがとう藍将軍。ありがとう・・!
 府庫からの長い道のりの中、やっとのことで辿りついた悪鬼巣窟とまでいわれる吏部を目の前にして、私は深く、深く藍将軍に感謝した。今まで李侍郎が順路を外れること34回。
 曲がり角で方向間違えること23回。その度にからかい混じりの藍将軍の修正が入ること合計57回。その度に時間は食うわ、微笑ましいのか呆れるのか、なんともいえない心地で遣り取りを眺めることも57回。回数多過ぎだ。李侍郎の方向音痴っぷりは、本当に壊滅的だな。藍将軍がいなければ、これの倍以上の時間をかけてひたすら迷子になっていただけだろう・・・。たたでさえたまーに擦れ違う官吏の方々からは奇異の視線で見られていたというのに。しかもちょっと誰かに尋ねたいが、果たしてここは本当に清らかなる貴陽の一部なのだろうか。物凄く疑問を覚える。なにせ吏部から何やらこう・・不穏な空気?というか陰の気配というかがおどろおどろしく流れ込んでくるのだ。え、なにこれ穢れ?思わず一歩後退り、鳥肌の立ちそうな悪寒にごくりと唾を飲み込んだ。こ、こわ・・・っ!
 あぁ・・・早くあの煌びやかだけど穏やかな秀麗ねえさんの室に帰りたい。香鈴さん・・・珠翠さま・・・!!誰か、ヘルプ・ミー!今からこれ以上のものを味わうことになるだろうに、私はもうすでに帰りたい気持ちで一杯だった。俯き加減にじっとしていると、不意に頭の上に重みが加わる。それがなんなのか、すぐさま理解すると恐る恐る顔をあげて、目の前でしゃがんでいる藍将軍に瞬いた。

「大丈夫だよ。さすがに私まではこの中に入れないけれど(というか入ったら機嫌が悪くなりそうだからねあの方は)、ここでずっと待っているから」
「え。・・・主上の傍には・・・?」
「しばらく時間を貰ったから平気だ。それに、帰るにも道案内は必要だろう?絳攸じゃまず無理だからね」
「黙れ。・・・そう心配するな。俺も傍にいてやるから」

 からかい混じりの藍将軍、至って真面目な李侍郎。けれど言葉は優しさに満ちていて、しかも李侍郎の台詞はなんというか・・・口説かれているような?いや、本人にそんな意識もないし私もそういう意味で捉えることはないが、他の女性に言うと何か勘違いされそうな台詞回しである。むしろこのノリはネオロマを思い出した。別名八葉絆の関。恋愛イベント。
 うっわ懐かしー・・・。ぽけっと間の抜けた顔をさらしながら不意に浮かんだ彼等を思い、目の前の優しい気遣いを思い、やんわりと口角を持ち上げた。

「ありがとうございます・・・頑張りますね」

 なにをどう頑張るのか皆目見当もつかないが、そこはそれ。心意気の問題である。大体邵可さんという保険は生きているのだし、近くには彼等もいるという。
 そもそも、別に殺されるわけじゃなし。ここまでびくびくしているのもなんだか馬鹿な話だ。精神的なものがきついというか普通にあの人と対峙するのは、胃痛がしそうだけどね。
 しかしこんなところで深く思い悩んでいてもあれだ。あと一応ここまで脅えるのも失礼な話である。吏部の気配も、そう別に害はないさ。うん。にこ、と笑えばつられたように彼等の表情も緩まり、よしよし、とでもいうように頭を撫でられる。大きな掌だなぁ、と思いながらよいしょ、と箱を抱えて(ほらちゃんと保険第二弾も用意してるし)きゅっと顔を引き締める。
 その様子にもう大丈夫だと思ったのか、藍将軍は一歩下がり、李侍郎は私の前に立ち、颯爽と吏部の中へと入っていった。



吏部の中は地獄絵図でした。



 入ってそうそう、一瞬にして色んなものが挫かれた気がする。呆然と、なにここ異空間?それとも弁慶さんの私室?と今自分がいるところに何かの疑いを持つほどに、そこは色々と可哀想な空間だった。山なりに、あらゆるところに積み上げられた書簡資料諸々。
 机にへばりつく背筋の丸まった官吏の数々は鬱々としたオーラが駄々漏れになり、時折発狂したように頭を掻き毟り書簡をばらまく人。そしてばらまいた端から周りに天誅を食らわされ、そして自分も泣く泣く片付けている。一部あれは生きているのだろうかというほどピクリとも動かない人もいれば、まだましだと思われる人もいる。部屋自体は大きな明かり取りの窓から入ってくる光や私の後ろの入り口からの光によってまだ明るいのだが、いかんせん空気が悪い。ちょっと換気しませんか?と提案したくなるほどに悪い。私の目には、おどろおどろしく渦巻く陰気が見えたような錯覚すら覚えた。果たしてそれが本当に錯覚なのかは、あえて何も考えまい。呆然と立っていると、佇んでいる李侍郎に気づいたのか慌しく書簡を運んでいた下っ端と思わしき人が、やつれこけた顔に涙を浮かべて駆け寄ってきた。

「李侍郎おおぉぉぉぉぉぉ!!!何処に行っておられたんですかあぁぁぁっっ」
「主上の勉強を見ていただけだ・・・どうした?」
「そんなことよりこっち、こっちですよなんとかしてくださいっ。あのお方を早くなんとかああぁ!!!仕事が、仕事が回らないわつい先ほど羽官吏と曹官吏がぶっ倒れて仮眠室行きになるわでもう手が回らないんです!!これじゃ今日も皆貫徹ですうぅぅぅ最高記録更新しちゃいますよおぉぉぉ・・・あ、幻覚が

 それは酷い。えんえんというよりもうおおぉぉん、と男泣きに泣き崩れて李侍郎に縋りつく官吏はなんというか・・見ていて痛ましい。痛まし過ぎて気持ち悪い。
 そして主上の勉強より吏部の現状か。うん、でも・・・。ちらり、と縋りついて泣き叫ぶ官吏をそれは鬱陶しく引き攣った顔で(内心で泣くな鬱陶しい!!泣くぐらいなら仕事を進めろ!!ぐらい思ってそうだ)うんざりしている李侍郎を尻目に吏部に視線を走らせる。
 その姿、まさしく怨霊のごとく。悪鬼巣窟も全然間違いじゃない。そりゃ縋りたくなるだろう多分唯一の人材に。しかしだからといって黎深さまを李侍郎がどうこうできる保証など皆無なのだが。しっかし。

「人間睡眠を取らないと発狂するとは聞いたことがありますが、本当なんですねぇ・・・」
「アァ李侍郎!女の子の声が聞こえますこれって天女様のお導き?!」
「落ちつけしっかりと目ん玉ひん剥いて認識しろ。これは人間だ」

 べりっと音がしそうな勢いで縋りついていた(のはもしかしてそうでもしないと立てなかったのか?)官吏を引き剥がして私を示す。ていうかこれ扱いかよ!!虚ろな目がさ迷い、ピッタリと私に合わさったところで目を見開き・・・・

「李侍郎が幼女趣味にいぃぃぃぃ!!!」

 ムンクの叫びのごとく、何やら物凄く失礼なことをのたまいた。ヒクリ、と李侍郎の口元が引き攣りぷっくりと額に青筋がはっきりと浮かんだのが見えた。怒鳴らないのは、一応鉄壁の理性を自負しているからか。これが藍将軍とかなら迷わず怒鳴り散らしていたことだろう。
 その若き官吏の叫びに、周りで半死半生だった方々が、のろりと幽鬼のごとき振り向いて目を丸くしている。益々李侍郎の不機嫌度がアップした。入り口の向こう側からぶほっという吹き出す声まで聞こえる。あれは藍将軍に間違いない。今頃お腹抱えて笑ってるんだろうなぁ。

「侍郎・・・!女性に興味はないと豪語していて実は男色?!という噂まであったけれど実はそっち方面だったから女性に興味がなかったんですか!??」
「まてコラ男色とはなんだ男色とは!!それと俺は幼女趣味でもないっ不名誉なもん勝手に付けるな貴様ら!!この女官は黎深様が用があるからつれてきただけだ!!」

 さすがに色々と聞き捨てならないものが含まれていては、反論しないわけにはいかなかったのか、李侍郎が額に青筋をたてて捲くし立てる。果てして、何が効果があったのか。
 言いきった瞬間しん・・・と辺りが静まりかえり、その水面を打ったかのような静まり方に、私は空恐ろしい気持ちで体に力をいれた。なに、なんなのこの異常な空気。
 おろおろと視線を泳がせ、李侍郎を見上げる。侍郎も侍郎でいきなりの静けさに少々気圧されたように鼻白んでいると、官吏の一人が、恐る恐る口を開いた。

「紅尚書が、この子供を・・・?」
「あぁ」
「あの人に、こんな子供を・・・?」
「そうだ」

 どことなく生気が抜けたように呟く官吏に頷いてはっきりと肯定する李侍郎。
 その様子を私は黙って見守りながら、一斉に向けられた官吏の視線にびくっと肩を跳ねさせ、強張った顔でへらりと笑った。え、なにこの人達物凄く怖いんですけど。
 異様な雰囲気に飲まれていると、官吏一同、唐突にくっ・・・!と目頭を押えて顔をそらしやがった。そして最初に李侍郎に飛びついた官吏が、再び飛びついて泣きながら嘆願している。

「李侍郎、あんまりです・・・・!こんな、こんな子供を紅尚書に引き合わせるんですか?!まだこんなにも小さい女の子をおぉぉぉぉぉ!!!」
「くそぅまだ俺の娘と同い年ぐらいじゃねぇかよ・・・!」
「お嬢ちゃん、お饅頭あげようね。こんなことぐらいじゃ慰めにもならないだろうけど」
「無事帰ってきたらもう一個やるからな。頑張れよ・・・」

 ぽん、掌にお饅頭が乗せられてよしよしと頭を撫でられる。おいおいと泣く人は俺の娘があぁぁ!!と咽び泣き(私はあんたの娘じゃない)周りは周りで同情哀れみ憐憫を篭めた目で見つめてくる。
 あぁこんなまだまだ未来のある子供があの人の餌食に・・・と言わんばかりの視線である。痛い。痛すぎる。居心地が悪い・・・!ていうか。

「李侍郎」
「なんだ」
「私は今から死にに行くのでしょうか」
「・・・・・」

 ノーコメントかよ!!ふい、と顔を逸らされ、えぇなにさっき傍にいてやるって言った癖にぃぃぃ!!と内心で地団駄を踏みながら、深く、深く溜息を零した。・・・帰りたい・・・・。
 切実にそう思いながら、吏部官吏一同の励まし(やめてくれ)を受けて、私は戦地に赴く日本兵の気持ちさながらに、尚書室へと足を進めた。もう本当に、なんだ吏部って。
 変な空間、としみじみと思いながら、やはり全ての元凶であろう彼の人を思い浮かべ、あの部屋の扉が、魔王の前門に見えて仕方なかった。