丑寅
踏み込めば、空気が変わった。淀んだ吏部官吏の部屋から、綺麗で研ぎ澄まされた別空間へと放り出されたようだ。けれど決して落ちつきはしない。穏やかなとはお世辞にもいえない、どこか息詰まるような何かを覚えて、不意に喉を掻き毟りたい衝動にかられる。
寄りそうになった眉に気づいて慌てて眉間の力を緩めながら、打つ鼓動の早さが増し、肩に力が入った。視線が吸い寄せられる。目の前、椅子に座る人。相変わらず、紅の衣服をまとう高潔な。椅子ごと余所を向いていた体で、チラリと、視線だけが寄越される。
切れ長の眼差しから感情の少ない瞳で見られて、居心地の悪さに心臓の音が嫌に耳の奥で響き渡った。横で、すっと李侍郎が前に出たのが空気を介して伝わる。視界の端に、淡い水色の衣の裾が翻る。
「黎深様。連れてきました」
「あぁ・・・お前は下がっていなさい」
「いえ。ここにいさせてください」
気だるい受け答えと共に下がれと振られた扇子に反抗するようにきゅっと顎を引いた李侍郎に、ピクリと黎深さまが眉を動かした。李侍郎を見据え、目を細める。
その目を李侍郎は真っ直ぐに受けとめて、ほんの、少しの間。見合っていた両者は黎深さまがひらりと畳んだ扇を翻し顔を動かしたことで終わった。多分、好きにすればいいということなんだろう。動いた視線が迷うことなく私に向けられ、冷たい双眸が見下ろしてくる。
気圧されるように喉奥が引き攣るような感覚を覚え、息苦しく思いぎゅっと箱を抱える腕に力を篭める。そこで、そういやこれ・・・とぼんやりと視線を下に落とした。
・・・いつ渡そう、これ。早めに渡したほうがいいんだが、と悶々と考え込むと、きし、と僅かな軋み音が聞こえてはっと顔をあげる。椅子から立ちあがった黎深さまが、優雅な仕草で衣の袖を引いた。その仕草に見入られたように視線を奪われながら、緊張にどくどくと動く心臓を宥めすかし、頭を下げる。
「な、何用でございましょうか、紅尚書」
みっともなく震える声。緊張で細かくなる震えにぐっと奥歯を噛み締めると、通りのいい声が空気をぶち切った。
「お前、まだあの家にいるそうだな?」
「・・・っ」
温かみの欠片もない。容赦ない声音に気道が狭まり、息苦しくなる。
ふ、と短い吐息を零して、唇を僅かに噛み締めた。そんな私を、気にする事もなく。淡々と、容赦なく黎深さまの責めたてるような声が届いた。
「私との約束を破るとは良い度胸だ。それとも何か?もとより破るつもりだったと」
「そ、んなことは」
ない、と言いきりたい。けれど咄嗟に顔をあげたときの黎深さまの瞳は冷たく凍えていて、言葉が喉の奥に引っかかって中々出てこない。わなわなと唇を震わせて、きゅっと引き結ぶと眉を寄せた。ぱたぱたと扇子で煽ぎながら、黎深さまはく、と口角を吊り上げる。
まさしく、冷笑。一欠けらも微笑みはしない眼差しの恐ろしさに、ぞっと背筋に怖気が走る。反射的に足が下がりかけるも、まるで恐怖心に床に根が張ったように足が動かない。
李侍郎が黎深様、と小さく声をかけたが、相手は黙っていろと一瞥を向けただけでさっさと相手の口を閉じさせてしまった。
「口ではどう言おうと、破ったことには違いあるまい?どう言い訳するつもりだ?」
「・・・・、し、ません。言い訳など、いたしません。――結果は、これです」
できるはずがない。相手はそんなもの求めていなければ主張を認めてくれるほど甘くもない。紅黎深とはそんな人間なのだろう。詳しく知っているわけではないけれど、この人はきっと、全てをすげなく切り返してくるのだ。何をもってしても返せない、言の刃で。
邵可さんが、そう言えばいいのかもしれない。しかし、突っぱねることが不可能ではなかったのは事実なのだ。例え出来うる限り自分に不利な状況だったのだとしても。
できないことはなかった。我を通せばよかった。あぁ、結局。
「甘えて、しまったんです・・・優しくて、暖かくて・・・嵌められたと思っても、結局、選んだのは、私で、」
選んだのは私。そこにいることを認めてしまったのは私。――――あの時だって。
視線が落ちる。足元を見つめる。選んだのは、私だ。流れが、運命が、そうならないといけないから?あぁ、だとしても、結局は、私自身のせいなのか?全部、私の、。
視線が揺らぐ。胸がぎゅっと苦しくなる。息切れするような――眩暈。李侍郎が話が見えない、と眉を潜めていたが、お互いそんな彼に親切に話すこともなく、ほんの少しの沈黙の後に。
「―――本当ならば」
「え、」
つと、顎下に扇子が差しこまれる。そのままくいっと無理矢理上向かされ、首筋が限界にまで沿った。痛い。顎下の違和感と見下ろされる冷たい眼差しに眉を潜めると、黎深さまはとても面白くなさそうに顔を歪めた。
「宣言通り、貴様などどうとでもしてやるところなのだが――兄上に感謝しろ」
「邵可、さん、に?」
「兄上に言われたからな。お前に手を出すなと。手を出せば・・・・・う゛ぅ゛っ!」
先ほどまで氷の吏部尚書、紅家当主紅黎深。そんな立ち居振舞いで恐ろしさしか覚えなかった人が、何故か顔を泣きそうに歪めて扇子を私の顎から引きぬくとそれで顔を隠して背中を向けた。何やらぶつぶつと「兄上に・・・兄上に絶交される・・・口聞いてくれないだなんて兄上、うぅそんなにこんな小娘が大事なのですか私には兄上と会話しないなんてそんな今にも死にそうだというのに兄上兄上ぇぇぇぇぇ・・・・っ!!」などという嘆きの声が聞こえ、根を張っていたと思っていた足が普通に後ろに下がった。ドン引き。
邵可さんなに言ったのこの人に・・・・・。まあ呟きからおおまかわかるけれど、それでこんなに落ち込むこの人もどうよ。李侍郎の存在も私の存在すらも忘れているかのように、なんかもう一人で鬱に沈んでいっている黎深さまを見て、私は李侍郎を振りかえった。
サッと即行で目を逸らされた。だらだらと流れる汗が見える。その様子を半眼でねめつけた。えーと、私なにしに呼び出されたのかな?極々普通に浮かんだ疑問に首を傾げ、やはりぶつぶつとキノコが生えそうな感じでまだ時期的にはちょっと早い五月病ですか?と問いかけたい黎深さまをじっと見つめる。このまま帰れたらベストなのに。多分無理だけど。
落ち込む姿に、もう1回、はぁ、という溜息を零して首を傾げた。えーと・・・私はどうすればいいのだろうか。このまま帰るにしても後でなにかしら言われたら困る。
かといってこの人をこちらに引き戻す術なんて・・・・・・あぁ。そういえば。ぽん、と手を打とうとしたが、抱えているもののせいでそれはできず終いで、しかしその腕に抱えているものを見下ろすと、うんうんと深く頷いた。これ渡せば早い話だ。
そうと思い出せばあとは実行する度胸だけだ。きゅっと唇を引き締めて、頭を抱えている李侍郎を視界の端に、背中を向けている黎深さまに恐る恐ると声をかける。
「あの、紅尚書」
「兄上・・・兄上大好きですはは私もだよ黎深本当ですか兄上!勿論じゃないかあぁ兄上・・・っ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰っていいですか李侍郎?」
「・・・!気持ちはわかるが帰るのはまずい」
近づいて声をかけると鬱から何か別のパラダイスに飛んでいる(現実逃避か!!)黎深さまの危なさ加減(一人芝居ってイタイこの人!!)に真顔で李侍郎に尋ねた。
というかもう帰らせて。後で何言われてもいい。だけどさすがにこんなどこかに逝ってしまっている人相手は無理だよ!!真剣な目で頼むと李侍郎は首をぶんぶんと横に振って、苦悶の顔をする。
「まだ、一応、話は終わってないようだからな。帰ると後々が大変だろう・・・なんとかしてから帰れ」
「私に押し付けないでください。李侍郎はこの人の補佐官ではないですか。李侍郎こそどうにかしてください」
必死に嫌な役を押しつけあうかのように、ニ人して睨み合う。大体李侍郎守ってくれるって言ったじゃないか!だったら有言実行しようよ。なんで最初と今で微妙に立場逆転しちゃってるのさ!!大体こんなか弱い女の子になにさせてようってのさ人でなし!
息子なら息子らしく親の不始末をつけないか!じとぉ、と睨みあげると、言いたいことが半分は伝わったのかなんなのか、うっと小さく李侍郎が唸り、必死に彼のフォローが入る。
「。今は確かにこんなだが黎深さまは決していつもはこうじゃないんだ。誤解しないでくれ。確かにちょっと邵可様達が絡むとこうなってしまうが、普段は素晴らしい方なんだ多分。有能なお方なんだ能力は。ただ性格的問題というか確かに仕事は滅多にしない上に邵可様達が絡むとこうなってしまうわけで色々と問題はあるといえばあるというかいつも俺も苦労しているわけなんだが関わりたくないのは正直痛いほどわか、・・・・・・とにかくこれが全てではないんだ!」
「必死に言わないでください。涙が出てきます」
途中から私へのフォローというよりも別の感慨を篭め始めた李侍郎に思わず目頭が熱くなる。必死になればなるほど現状が痛ましく思えてくるのが切ない。弁解の余地もないと。
むしろ今目の前の人を見る限り何を言っても無駄だと思われる。そろそろ戻ってくればいいのに李侍郎可哀想。そう思いながら、私は肩から力を抜いた。
「・・・なんだか最早なにをどうすればいいのかわかりませんが、私はなんの為に呼び出されたのでしょうかねぇ?」
「そ、それは・・・」
「最初と今のギャップがすごいですよね。緊張感とか諸々全部瓦解したといいますか。さすが吏部?」
「(に間違った吏部の印象が・・・!!)」
「話を進めたくはないんですけど、進めたほうがいいんですかね、これはやっぱり」
ほぅ、と憂いをこめれば李侍郎は何か物凄く居た堪れない様子で、できるなら、と呟いた。
まさしくできるなら、である。李侍郎はしてくださらないんですか?と問うと真顔でできるものならとっくにやってる、と返された。ちっ使えねぇ。とりあえずなんとかこっちに戻ってきてもらわないといけないので、さっきから浮き沈みの激しい黎深さま(妄想で落ち込んだりムフムフ言っていたりとにかく怖いから近づきたくないのに)にそろりと近づいた。
耳をすませば「でも絶交絶交絶交・・・兄上に口をきいてもらえない顔も合わせてもらえないお話できないいぃぃぃぃぃぃ・・・・」という鬱モードだった。うん。帰りたい。
この状態に声をかけるのは物凄く勇気がいるのですけれども。手段がないわけじゃ、ないと思うん、だが。ちらり、とやはり見下ろすのは抱えている箱である。
「これしかないよねぇ・・・」
多少意図した形とは違うことになってしまったが、結果的にはさして変わらないだろう。
ぽつりと呟き、怪訝な李侍郎の視線を貰いつつ、意を決して顔をあげる。ぎゅっと箱を持つ手に力をこめて。
「紅尚書。そういえば私紅尚書にお土産を持ってきたんです」
「兄上と一緒にお昼寝もご飯もお茶もできないなんて朝廷にいる意味がない・・・」
アンタ何しにここに来てるんだよ。ていうか昼寝はここじゃできないだろうが。
むしろその年で男兄弟が揃ってお昼寝vとかできるわけないだろうが邵可さん笑顔で断ると思うよ。素で突っ込みかけたが、かろうじて堪えて気を取りなおし、すーはっすーはっと深呼吸をして笑みを張りつけた。
別に見られているわけでもないというのに、営業スマイルってなんだかなぁ。とりあえずあちらがこちらを意識してないのなら私も今の黎深さまは無視する。
限りなく噛み合ってなくても無理矢理話を進めてやる。とりあえず静観することにしたのか(こんの野郎)黙って私の行動を見ている李侍郎が非常に憎憎しく思えた。
「紅尚書、お気に召していただけるかわからないのですが、これ中身お饅頭なんですよ。秀麗ねえさんが作った」
「しゅしゅしゅ秀麗のお饅頭だとおぉぉぉ!!!???」
「おっしゃ戻ってきた!!」
勝利!!思わずお饅頭の入った箱片手にガッツポーズを決めて、兄上モードから姪モードになった黎深様ににこにこと笑顔を浮かべた。何か最早最初の議論から大きく外れている気がしたが、今はそれどころではない。むしろこのまま有耶無耶にしたいぐらいだ。
とりあえず、頬を紅潮させてあわあわとうろたえている黎深さまを見据えて、にっこりと笑いながら小首を傾げる。ふっふっふっ。もしも何かがあった時の邵可さん保険の次の秀麗ねえさん保険である。多分これがあればなんとかなるだろう、という希望的観測から、今日の勉強会のおやつとして持っていくお饅頭を余分に作ってもらって、それを貰っておいたのだ。よもやこんな使い方をする羽目になるとは思わなかったが、いいのさ別に!
ぱか、と蓋をあけて中身を見せながら、笑顔を薄っすら浮かべる。
「はい。秀麗ねえさんのお饅頭は周りの方々にもとても好評でして、是非とも紅尚書にも食べていただきたく。貰っていただけるでしょうか?」
「当たり前だ!!しゅしゅ、秀麗の手作り饅頭だぞ?!さっさとそれをよこせ!!」
わきわきと手を動かしながら触れようか触れまいか迷いながらも、お饅頭を凝視している黎深さまにこの人馬鹿だなぁ、と思いながら蓋をして(アァ残念そうな顔)どうぞ、と差し出すその前に、と口を開いて腕を引っ込める。あぁ!と叫びながら黎深さまの視線は秀麗ねえさんのお饅頭に釘付けで、そわそわしながら(挙動不審)なんだ?早くしろ!!と声を荒げた。落ちつけ三十路男。
「はい。あの、紅尚書。私はなんの為にここに呼び出されたのでしょうか?以前のお咎めかと思っていたのですが、なにやら違うようですし」
邵可さんが釘を刺していてくれたおかげでどうこう、ということもなくなったし。
本気でなんの為に呼び出したんだこの人?こちとらストレスで胃痛を起こしそうだったというのに、今現在こんな状態だし。何がしたいんだ。疑問に首を傾げると、黎深さまはわきわきと動かしていた手を止めて、ちっと舌打ち混じりに背筋を伸ばした。今更取り繕われてもな、と思いながら黙って言葉を待っていると、ひらひらと扇子を動かして黎深さまはそっぽを向く。
「・・・・兄上、が」
「はい」
「・・・・・・・・・・・お前を許したら、絶交を考えないこともない、とおっしゃったんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか」
頬を染めて邵可さんに思いを馳せている黎深さまに、ずるぅ!と横で李侍郎がずっこける。
私もなんだかずっこけたい気分になったが、とりあえず半笑いで留めておいた。許してやるって・・・明らかに最初許すつもりもないような態度だった気が。
ていうか考えないこともないという時点で邵可さんの策略が見えた気がするんですけど・・。お、恐るべし紅邵可!!そして気づかない黎深さまは盲目だ。一瞬もう本当にどうしてやろうかと思ったが、処世術ともいうべきか、自己処理の早くなった私はまあいいや。害なさそうだし。ということで完結しておいた。私の基本は「自分の平穏」である。
切実に、真っ当に、真っ正直に、それが切に願うことなのだ。だから、藪を突ついて蛇を出す真似などしない。
「では今回のことは、許してくださるのですね」
「ふん。まあ、条件はあるがな」
「は?条件?」
なんですと?流れからそのまま終わり、さぁ帰ろう!という心意気だったというのに、予想外の台詞に目を丸くする。じょ、条件・・・?なんか無体なことじゃなかろうな?!ていうか私ができることなんぞたかが知れてるぞ!!動揺に視線を揺らし、さきほどまで呆れて面倒だという気持ちが一杯だったそれが一瞬にして緊張感に変わる。ドキドキという心臓と共に眉を寄せて黎深さまを見上げると、彼は手に持った扇子をびしぃ!と突きつけてきた。
「私に協力しろ」
「・・・・・・はあ?」
ごめん今素だった。いきなり主語もなく宣言され、眉間に皺を刻んで首を傾げる。
なにに協力するんでしょう?パチパチと瞬けば、鼻歌を歌いだしそうなほどの様子で、黎深さまはニマニマと笑みを浮かべて扇子を仰いだ。
「ふふん。光栄に思うがいい。この私の計画に協力できる上に、たったそれだけで今回のことは見逃してやるんだ」
「はぁ・・・あの、ですからなんの計画・・・?」
「そんなもの決まっているだろう。しゅ、秀麗におじさんと呼んでもらうための計画だ」
決まっているのか、と思ったが思えば相手は紅黎深。決まってたな、と思わず納得する。
ぽっ、と頬を染めながら悦っている黎深さまはさておき、協力ねぇ、と一人ぼやいた。
まあ別に、それは構わないんだけど(それで平穏が築けるというのならば!)。
「なにをすればいいんですか?」
「それをお前が考えるんだろう」
「理不尽な!!」
思わず突っ込み返してしまった。どこが理不尽だ当然だろう、と言い返されたがいやいや理不尽だよこれは!!
「えーっと・・・考えろと申されましても。紅尚書のことを秀麗ねえさんに紹介すればよろしいのですか?(違うんだろうけどなー)」
「ば、馬鹿かお前!!秀麗の紅家当主への印象は最悪なんだぞ!!それを払拭せずに名乗って嫌われたらどうする?!なんの為にお前がいると思っているんだ」
「(少なくともこの為じゃないとは言いきれる)いや秀麗ねえさん基本的に紅家にあんまり興味はないと思いますけど・・・ってれーしんさまー?」
物心つく頃にはすでに紅本家と断絶していた邵可一家である。紅家のどうこうという認識を育む以前に色々とやらなくてはいけないことが大量に起こってしまい、秀麗ねえさんにとって紅家は自分の家だが関係ないものとみなしている節がある。つまり悪い言い方をすれば興味がない。庶民と同じように育っていたからか、感性も貴族のそれではないし、性格もあるのだろう。恨み辛みを覚えるよりも明日のご飯の心配の方が切実らしい。
そんなことをつらつら考えながら口にしたのだが、秀麗に嫌われたらどうしよう、とまたしてもトリップしてしまった黎深さまに、溜息が禁じえない。・・・・・・・・・・はぁ。
「・・・とりあえず、紅尚書に対する秀麗ねえさんの印象を向上させればいいのですね?」
させるもなにも存在すらいまいち認識してない相手をどう向上させればいいのか、と思わないでもなかったが。言ったら落ち込みそうなのであえて言わない。こてんと、ずんと重たい頭を傾げて言うと、黎深さまははっと我に帰ったように瞬きをして、こくりと重々しく頷いた。
「そうだ。私が「優しく強くてカッコイイ素敵なおじさん」だという印象を秀麗に与えるんだ!!」
メラメラ、燃え滾る炎がなんともいえない。「優しく強くてカッコイイ素敵なおじさん」、か。
うんまあ別に嘘じゃないんじゃない?ただ「優しい」という部分が一部限定なだけであって。
しかし何かこう、・・・この人の口から出ると違和感しか残らないのが切ないね黎深さま。
「善処します」
「善処しろ。そしていい加減それをよこせ」
「・・・・あぁ。どうぞ」
びし、と扇子で示された箱(お饅頭)に緩慢に頷き、微量の脱力感と共にそれを大人しく差し出す。そうすると目にもとまらぬ早さでシュバッとお饅頭の入った箱を取り上げ、黎深さまはムフムフ言いながら顔をしまりなく緩めた。
そのままお饅頭に頬擦りして一生眺めまわしていそうなほどの様子である。むしろ本気でそれやるんじゃなかろうか。
本当にしまりのない顔だ。緩み過ぎというか整っている分、なんて見たくない顔なんだ・・・!と思わず袖でさっと目許を押えて顔を背ける。
「・・・痛々しい・・・」
「言うな、」
ぽつりと呟いた言葉は今まで懸命にも沈黙を貫いていた李侍郎に、万感の思いと共に止められた。
思わず遠い目をして、そっとクルクルと今にも小躍りしそうな黎深さまから視線を外して李侍郎を見上げる。こちらを向いた李侍郎と視線が合い、お互いどちらということもなく微妙な笑みを浮かべて。
「もういい加減帰ってもよろしいですか?」
「すまん。本当にすまん」
「いいですよ、謝罪なんて。今更ですから。えぇ今更ですから!」
「本っっっ当に、すまん・・・!しかし、これでまた仕事はして貰えないんだろうな・・・」
ぽつりと万感の思いで零された李侍郎の切実な呟きに生ぬるい笑みを浮かべる。
確かに、お饅頭を延々と眺めているばかりで仕事は手につかないかもしれない。
だがしかし、そんなことは私には関係ないのだ!それは外朝のお仕事なのだから。
ていうかこれ以上の不穏はご免だぞ?あーもーと小さく唸りながらお腹に手をあててキリキリしそうなそれに眉間に皺を寄せる。うぅ・・・本当に胃薬もらいにいくべきか・・・。心なしか頭も痛いというか・・・気分もよくないというか・・・。
李侍郎もよもやこんなことになるとは思っていなかったのか(もっとシリアスな話になるかと思ったら黎深さまが一人で色々と暴走してくれやがった)、色んな脱力感と共に沈黙している。・・・・帰ろう。ここにいてももう意味ないし。
「では、失礼します」
「あぁ。秀麗の件は必ず成功させろ」
お饅頭を眺めながらにへにへ笑っていた黎深さまは私の適当な辞意の言葉が聞こえたのか(ちょっと意外)そんな一言を述べてちらりと視線を向けた。
あまり優しい視線ではないけれども、冷たすぎるということもなく。ただやはり興味関心は薄いけれど。いや薄い方が色々と面倒事が少ないと思うから別にいいんだけど。
早く戻らないと。藍将軍はまだ待っていてくれるのかな。待っててくれないと後宮まで戻るのは結構難しいんだよね。李侍郎は当てにしちゃいけないし。くらくらする頭でそう考えながら、あぁそういえば・・・とぼんやりと呟いた。
「今日のことねえさんに話したらヤバイだろうなぁ・・・」
特に深い意味はこめてはいなかったのだが。というかぼんやりとしていたからか、口に出していたことすら曖昧である。とりあえずさっさと帰ろ、う?
「・・・黎深、さま?」
前に動こうとした瞬間、肩に加わる重みに動きを制限され、怪訝に思いながら振りかえる。
視界に入った人物に意外性を感じ、戸惑い気味に名前を呼ぶ。やたらと強張った顔で、がっしりと肩を掴んでいる黎深さまに瞬きながら首を傾げ、おろおろと李侍郎に視線を向ける。そんな李侍郎も黎深さまの行いに驚いているのか、無言で息を飲んでいた。なんだろう・・・?
「ヤバイとはどういう意味だ」
「はい?」
「だから!・・・秀麗に話すと何がまずいんだ?!」
鬼気迫った形相で募られ、近寄った顔に咄嗟に後ろに仰け反りながらえぇと?と鈍い頭を懸命に動かす。えーとえーと、なんで私秀麗ねえさんに話したらまずいと思ったんだっけ・・・?!えっとえっと、・・・・・・・あーあーあー。そうだそうだ。
「いや、多分今日のことは問い詰められるだろうなぁ、と思ったので話すとなると吏部のことを話すことになるかもしれないというだけなのですが」
「それの何がヤバイんだ」
「うーん。・・・秀麗ねえさんはとても真面目で、国のことをよく考えている人です。ですから、・・・仕事をしてないっていうのは、悪印象かもしれないと思っただけですよ。まあ話さないように誤魔化そうとは思いますけど」
どこまで誤魔化せるかはわからないけど、今の吏部の様子じゃ、あんまりいい印象はもってくれそうにないよね。仕事ができるのにやらないのは、秀麗ねえさんあんまり好きじゃないし。困ったなぁ、と思いながら少し飛ばしていた意識を黎深さまに向ける、が。
わなわなと黎深さまの扇子を握る手が震えている。ひどくショックを受けたような顔をしているのに驚いて咄嗟に口を閉ざすと、黎深さまはカタカタと震えながら、唐突にカッと目を見開いた。思わずびくっと肩も跳ねる。
「絳攸!」
「は、はいっ」
突然の鋭い一喝に、李侍郎の肩が跳ねて背筋がピンと伸びる。そして引き締まる顔に、私は瞬きをして口を噤んでいた。そんな私達を無視して、黎深さまは自分のペースでさっと袖を翻して扇子を李侍郎につきつける。そしてそのまま、慣れた様子で命令を下した。
「さっさと書簡を持って来い。片付けるぞ」
「わかりました。・・・て、え・・・?えぇっ?!れ、黎深様、今なんと・・・っ」
条件反射だったのだろうか。承諾したあとで、信じられない物を聞いたかのように目を見開いてあからさまにうろたえる李侍郎。鉄壁の理性ってなんだろう。思わずそう思ったが、黎深さまはただ眉間に皺を寄せて、苛立たしく(焦っているのかもしれない)目を細める。
「私に二度も言わせる気か?さっさと持って来い」
「・・・・・っ!!ただいま持ってきますっ。、すまないがそこにいてくれ!」
「え、あ、ちょっと李侍郎・・・!」
ばらり、と扇子を広げてそれで口元を煽ぎながら面倒そうに言った黎深さまに、パッと顔を明るくさせて李侍郎が私の横を慌しく駆け抜けて行く。その様子に慌てて声をかけたが、李侍郎は凄い勢いで尚書室から出ていってしまった。呆然と取り残された私はこんな場所に一人にしないでーーー!と内心で絶叫したが、力なく持ち上げた腕を降ろして、がくりと額に手をあてた。
「なんなのさ、一体・・・」
目まぐるしいよ・・・。ずっしりと重たい、重力というものを嫌に実感しながら、溜息を零して私も尚書室から出ようとして・・・びしりと何か固いもので頭を叩かれた。
「いたっ・・・え、な、なに・・・っ?」
「何処に行くつもりだ」
驚いてぼんやりとしていた頭もはっきりする。叩かれた部分を手で押えながら振り向けば、あまり機嫌のよろしくなさそうな顔で黎深さまが見下ろしている。もしかしてあの扇子で叩かれたのだろうか?黎深さまちょっと酷い!!
「どこにって・・・帰るつもりですが。え、だってもう用事は終わりました、よね?」
黎深さまの印象を向上させてこいって話でまとまりましたよね?他に何かあったか?と首を傾げれば、馬鹿にした様子で鼻で笑われた。・・・何故!?
「お前がここにいなければ秀麗に「おじさんは立派に仕事をしています」と報告できないだろうが」
「・・・え、あれ?・・・どういうことですか・・・?」
うん?と眉間に皺を寄せて尋ね返せば、今度は馬鹿にしたというよりも明らかに面倒くさい、という呆れた目をもらう羽目になった。ねぇなんで私こんな扱いされなきゃならんの?!
溜息をわざとらしく吐かれ、む、としつつも口を閉ざして説明を待つと、黎深さまはびしっとまた扇子で額を小突いた。あの、それ地味に痛いんですけど・・・!
「今から仕事をする。そこでお前は私の素晴らしい仕事ぶりをみて秀麗に「紅尚書は素晴らしい」ということを話せばいいだけだ。ふっふっふっ。私の姿をしっかりと目に焼き付けて秀麗に語るんだぞ」
ふふふふふ、と何を妄想しているのか、扇子で口元を隠しながらもにんまりと笑っているのがありありとわかる黎深さまに心持ち引いて、そんな!と内心で声をあげた。
こんな居心地の悪いところにまだいろと?!そりゃいなけりゃ報告も何もないですけど、外に藍将軍だって待たせてて・・・!!
「そんな奴はどうでもいい。待たせるだけ待たせればいいだろう、むしろ待たせておけ」
「ひどっ!」
反射的に言い返しても鼻で笑うだけで取り合ってくれない。あーそんな、これ確定なんですか?!どうにかしようと思っても口はパクパクと動くだけで、言葉になってくれない。
言う事が見つからないのだ。そうしている内に黎深さまは踵を返して机に向かい、そしてばんっと扉が大きく開く。びくんと体を跳ねればすぐ横を大量の書類を持った李侍郎が早足で抜けていき、黎深さまの机にばんっと乗せる。
音にやや顔を顰めたが、両腕一杯の書類自体はどうでもいいのか、筆を手に持ってさっさと始めてしまう。
唖然としていれば、李侍郎は再び尚書室から出ていき、また書類を抱えて戻ってくる、と言う事を繰り返していて・・・私は邪魔かも、と思うと急いで脇に寄ったが、次から次へと積み重なる書類に、この人一体どれだけ・・・と絶句した。そして李侍郎はこの書類は礼部でこれが工部で云々と細かい書類の説明をしていたりで・・・待って待って待って!
「私放置プレイかよ・・・!」
ガーン、と微妙なショックを覚える。瞬く間に尚書室も書類で一杯になったのに呆然としながら、くらくらとする頭で私はどうすれば・・・ってここにいるしかないのか。と重たい溜息を零した。
どうしよう。まいった。李侍郎ひどい。悪態をつけば、くるりと李侍郎が振り向いた。ギクリと思わず顔が強張る。内心がバレることはないだろうが、それでもタイミングがよすぎるとびくびくしてしまうのだ。視線がばっちり合うと、咄嗟に愛想笑いをへらりと浮かべる。
李侍郎は一瞬眉を潜めて、それから少し眉を下げるとこちらに歩み寄ってきた。
「すまないな、。黎深様の仕事が終わるまで、そうだな・・・椅子を持ってくるからそこにでも座って待っていてくれないか」
「李侍郎、でも藍将軍が・・・」
「あぁ、楸瑛か・・・一言言っておけばいいだろう。それに、すぐに終わる」
「すぐって・・・あの量をどうするっていうんですか」
すぐっていうほどすぐは無理だと思う。そして藍将軍の扱いひでぇ。心から藍将軍に同情を覚えつつ、黎深さまをちらりと見やって、顔を顰める。本当に大量なのだ。さすがの黎深さまでも無理なんじゃないだろうか。あの量は何日もかけてやるものだと思うんだ、貫徹しているらしい吏部官吏のごとく。まああの人が徹夜はないだろうけど。
「心配する必要はない。黎深様が本気になれば問題ないからな・・・そうだ。言い忘れていた」
「・・・なんですか?」
問題ないって、李侍郎それはどうなのさ。そう思いながら(真っ当な感覚で言うのならば、不可能な事柄のはずである)きょとりと首を傾げる。首を逸らして上を見上げ、視線を合わせると李侍郎はしゃがみこみ、視点の高さを合わせてくる。・・・微妙な気分になるな。
神妙な顔をして黙り込むと、李侍郎はふっと口角を持ち上げて頭にぽん、と手を置いた。
「お前のおかげで黎深様が仕事をしてくださった。吏部一同、感謝する。・・・本当に助かった・・・」
「李侍郎・・・」
感情篭り過ぎです。もしもこれで感情表現豊かな人であれば涙を浮かべていたかもしれない。
そう思えほどに力強く、心底からそう思っているというのがわかるほど真摯な謝礼に、私は言葉に窮して眉をハの字にしながら曖昧に微笑んだ。いや、なんていうか。
こういうのに心が篭れば篭るほど、日頃の吏部って・・・と思わずにはいられない。まあ、すでにどんなものかはリアルに想像できるようになってしまったけどね!!
しかし、まだ帰れないんだなぁ、と思うとやる気というか気力というものが根こそぎ奪われていく気持ちがして、頭痛すら覚えた。あー・・・なんだかなぁ、もう。
「お礼なんていいです(それより帰して欲しいし)。私、というよりも、この場合は秀麗ねえさん効果でしょうから・・・李侍郎、藍将軍に話をつけてきます。帰る時は吏部から一人、案内役を頂いてもよろしいでしょうか?」
「案内ならば俺がしても構わないが・・・」
「いいえ。李侍郎以外でお願いします」
この後に及んで精神的に疲れた後に肉体的疲労も溜めろと?あははは面白くない冗談ですね李侍郎!さすがに、そんなこと口には出さないけど迷子にはなりたくないのでキッパリと断る。本当はね、藍将軍がいてくれればいいんだけど。さすがにいつ終わるともわからないのに、延々とここにいてもらっちゃ相手に申し訳が立たない。藍将軍だってきっと仕事があるはずなのだ。というか無為に人を待たせちゃいけない。薄っすらと微笑んで、では、と頭を下げる。会話を聞いていたのかは知らないが、紅尚書から引き止めの言葉はなかった。でも一応確認のために振りかえると、
「・・・!!」
机の上においてあった書類が何故かすでに半分ほどなくなってるんですけど。
え、待ってまだ始まってそんなに経ってないよね?!なにあれなにあれ幻覚ですかっ。
ぎょっと目を剥いて絶句すると、不思議そうに振りかえった李侍郎が、慌てて黎深さまのところまで歩いて・・・終わらせたと思われる書類を抱えてこちらに戻ってきた。
「李侍郎・・それは・・・」
「あぁ、これから別の部署に持っていくものだ」
事も無げに言いますけどなんですかその量は。今さっきまで未処理だったものですよね。
大体一枚の書類を片付けるのにもそれなりに時間はかかるかと思うのですが。
あぁうんそこが有能ってこと?あははいいなぁ頭のいい人って!・・・でもこれは早過ぎると思うの・・・!!
「私の常識が可笑しいのかそれともここの人間が頭がよすぎるのかどっち、どっちなの・・・っていうか私の周りに「普通」はいないの・・・っ?!」
しいていうなら女官さんだけが普通でまともだよ!時々女の怨念は怖いけどね!!
頬を両手で包んでぶつぶつとぼやいてると、李侍郎が怪訝な顔をしながらも行くぞ、と声をかけてくれる。はっと顔をあげて慌ててその後ろについていく。あぁとりあえず今は目先のことで、藍将軍にお詫び申し上げなければ。長いこと待たせてしまっている藍家四男を思いだし、本当に申し訳ない、と少し落ち込んだ。しかもこの上待っていてもらったのに先に帰ってくれといわなければならないのだ。あああぁぁぁぁ・・・・居た堪れない・・・。
うぅ、と唸りながら思わずキリキリと痛みそうにになった胃に手を置いて、李侍郎が心配するほど深く、深く。私は溜息を零した。・・・吏部は鬼門かもしれない。主に一人のせいで。
そう思い、疲れ果てた私は疲労回復に紙に包んで懐にいれていた、貰ったお饅頭をもそりと頬張った。結構美味しい。
正直、この後尚書室を出ると益々吏部は鬼門だと思う羽目になるのだが、そんな未来は知りたくもない。