接線の行方
甚だ、不本意どころか不条理極まりない。
ずるずると重たい足を引きずり、荒荒しい呼吸音の煩わしさに胸元の服を掴む手に血管が浮かぶ。ぎゅっと高価な布で作られているのだろう衣服に皺ができたが、気にしていられるほどの余裕は最早皆無だ。頭がガンガンする。吐き気がする。気持ち悪い。体が熱い。
眩暈がする―――はっきりいって、最悪のコンディションだ。眉間の皺をこれでもかというほど深く刻みながら、人気のない庭園まで歩く。人のいる場所は危険だ。自然に囲まれていた方が、多分ましのはず。
「・・・、ハッ、・・・ッ」
体内の熱を逃がすために、焼け石に水だとはわかっていても、大きく息を吐く。
案の定全く効果などなかったが、緑風の新鮮な空気を取り入れることで霞みかける視界を、必死の思いで繋ぎとめた。ずりずりとほとんどすり足の状態で、前に進みながら目に力をこめる。なんで、こんなことに―――ともすれば吹っ飛びそうな意識を繋ぎとめる為に、恨み言であろうとも私は無理矢理脳を動かした。原因は明白だ。要するに吏部の空気が悪かった。長時間居過ぎたのだ。とはいってもたかが一刻半程度の話だけれど。
けれどもそれが致命的であったのは、今の状態を考えれば考えずともわかること。まったく、迷惑この上ない。苦笑に口元を歪めかけた瞬間、目の前が一瞬の暗闇に覆われた。立ち眩み。咄嗟にすぐ傍にあった木の幹に手をつき体を支える。縋るように幹に抱きついて、ひんやりとした樹皮に額を押しつけた。ぐっと込み上げてくる吐き気を堪えるように奥歯を噛み締めて、じんわりと目尻に涙が浮かぶ。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「・・・ヤバイな・・・、」
こんなことなら藍将軍に後宮まで抱き上げてもらうなりなんなりして貰った方がよかったかもしれない。口元を手で覆い、ずるずると幹を伝って座り込む。足がガクガクと震えて、立っていられないのだ。頭がぼんやりする。頭痛がする、とガンガンと痛みを訴える頭に目を眇め、ぎゅっと胸元の握り締めを強くした。少しでもこの気分の悪さから意識を外そうと、無理矢理に別のことを考える。なんだっけ、あぁそうだ藍将軍に、いやだめだ。
こんな状況で戻ると弊害が起きる。まず皆に心配をかけさせてしまうだろう。李侍郎にも藍将軍にも気づかれかけていたのを必死に誤魔化して、府庫近くで別れたというのに。それに、人の傍にはいない方がいい。
穢れを受けた身が、相手に影響を及ぼさないとも限らない。
まさかここでこんなもの受けるとは思わなかった。ぜぃぜぃ、と荒く呼吸をして必死に空気を取り入れながら、ぎゅっと目を瞑って自分の体の内に溜まっていく重く淀んだ沈殿物に口角を吊り上げた。懐かしい感覚とでもいうのか。
回数はさほど多くなかったけれど、偶に、本当に偶に。穢れにあたったことがある。3の時代は戦があったし、物忌みなんていうものは廃れていっていた。そんなことやっていたら戦ができないし。時代の流れに沿って、神子の能力にも違いが出たのだろう。ゲームの考えなんてよくは知らないが、そう解釈しておく。
だからこそ、滅多に穢れになどあたらなかった。耐性があったのだ。1と2とは比べ物にならないほどの穢れへの耐性。寝込むことなど普通はなかったはずである。
ゲームの中では、せいぜい十六夜記での龍脈の穢れがダイレクト、といった程度か。
それ以外では特にそういった描写はなかったはずなのだが・・・私は何度か寝込んだよなぁ。体が弱いわけでもなかったはずだが、穢れに侵されやすいと。白龍との繋がりが強いから、とかなんとか聞いた気がするけれど、よく覚えてない。ある意味あれが物忌みだったのかもしれないなぁ。その度にこんな苦痛を味わったものだと、幹に背を預けて頬を一筋、汗が伝い落ちた。普通は人から人へと移ることはあまりない。人間には耐性というものがあるのである。けれども、必ずしもというわけではない。
なんらかの影響は出るかもしれないのだ。触れたことにより、穢れが移る可能性がないわけではないことが、心配なのだ。
そうなったら、どうなってしまうのか。せいぜい風邪ぐらいの症状が出るのだとは思うが(死にはしないだろう。この穢れはそこまで悪質じゃない)彩雲国と京は違う。
どういう勝手なのか皆目わからない。可笑しなことになってしまっては、面目も立たないというものだ。騒がれても困る。あぁ結局、こうして一人で耐え忍ぶしかないのか。一人で、波が過ぎるまで。
「ハハッ・・・疲れてた、からなぁ・・・最近、」
穢れを受けやすかったのかもしれない。疲労が溜まれば免疫力が低下する。
よくある当たり前の話だ。自嘲を刻み、薄っすらと目をあけた。ぼんやりとした視界に、緑が潤んだように滲む。苦痛と吐き気に、涙の膜が目に張ってしまったからだろう。
パチリと瞬くと、ぽろり。一滴、落ちていった。あぁでも、そんなこと、どうでもいい。
そんなことは、どうでもいいのだ。要するに、今はどうすればこの最悪な状態を乗り越えられるかというのが問題なのである。気を紛らわせるはずが、全く功を奏しない体たらくに、若干の自己嫌悪を覚えつつ溜息を零した。アァ誰かこの状態から変わってほしい。
誰でもいい。誰かが変わってくれればいい。我が身にふりかかるものを、誰かが代わりに受け取ってくれれば良いのに、と。知り合いは抜きで赤の他人が望ましいけれど。
中々に人でなしなことを考えつつ、熱を持て余すように低く唸った。
「・・・やっぱり、吏部は鬼門だ・・・っ」
悪態の一つは吐かせてもらわないと、割に合わない。自分を抱きしめるように蹲り、原因を思い浮かべて涙した。
熱い。熱い。体が熱い。頭がぼぅっとする。ガンガン痛む。気持ち悪い。吐き気がする。むかむか、吐きたい。口の中に、酸っぱい味がする。眩暈がする。目の前が霞む、ぼやける。いっそ閉じてしまえば楽だろうか。
嗚呼。
苦しい――――。
いっそ意識を手放してしまおうか、そんな選択肢すら浮かび、そうなればどれだけ楽だろうと思うと、それはあまりにも甘美で。こんなところで意識を手放したら、見つかったときに騒ぎになる、その程度の常識すら、浮かばないままで。見つからなくても大層大変なことになっているとは思うが。幹に全てを預けたまま、ゆるりと苦痛に瞼を下ろして―――かさりと、風の音ではない明らかに体重のかかった、草を踏む音にのろのろと閉じかけた瞼を押し上げた。
正直やっと寝ようと(俗に気絶に近いかもしれなくとも)思ったところに、とんだ邪魔だ。見つかったら厄介なことになるな、だけどこの状態じゃ誤魔化すのも一苦労・・・いやむしろ無理だろう。そんな余裕は、藍将軍の時で打ち止めだ。どうなるかなぁ、とぼんやりと濁る視界にひたすら足元近くの草を映していると、かさり、かさり、と足音ともに視界に誰かの沓が見えた。長い裳裾が半ば隠すように沓を覆い、その様子からぼんやり、文官だなぁと考える。・・・誰だろう?そこでやっと、面倒ながらも顔をあげることにして、緩慢な仕草で顔をあげ・・・目を見開いた。
「しょう、たいし・・・?」
ぽろりと溜まっていた生理的な涙を零してから、パチパチと幾度か瞬きを繰り返す。
目の前に、思慮深く目を眇め、ただただ見下ろしてくる老人――会うことはほぼないだろうと思っていた相手に、私は息を飲んで固まった。なんでここに、出そうとした声は何処か掠れて、言葉になりにくい。眉を寄せると、霄太師は僅かな吐息と共に低く呟いた。
「気が乱れたと思ってきてみれば、大分難儀なことになっているようじゃの」
「霄太師・・・ど、して・・・」
「お前の気はわかりやすい。乱れれば朝廷の中じゃ。どこにいてもわかる」
「気、・・・わかるの、ですか・・・?」
「あぁ、わかるとも。お前がわしに気づいたようにな」
刹那、目を見開く。にぃ、と釣りあがった口角に息を飲むと、霄太師はくつくつと笑いながらそっと手を伸ばしてきた。深い英知の浮かぶ眼差しが細められ、大きな掌が、薄靄がかかったように輪郭がぼやけた風に見えた。果たしてそれは、私の視界自体が霞んでいるからか、それとも、それは。・・・・考えが結ばれる前に、ひやりと冷えた手が触れる。
その瞬間びくりと肩を震わせた。数瞬前までしわくちゃで骨と皮ばかりだったはずの、枯れ木のような老人の手は――何故か、触れたその瞬間だけ張りを取り戻していたからだ。
滑らかに、両の目をその若若しい大きな掌が覆い隠す。真っ暗になった視界で、私は唇を戦慄かせた。
「・・・、」
「案ずるな。浄化はできないが、お前の体から穢れを除くことぐらいならばできる」
「・・・手、が。声、も」
「驚いたか?」
「・・・少し」
瞳を覆う手も、鼓膜に届く声も、全てが若若しい。体全てを変えてしまっているのか、それとも部分的に変えているのか、それはわからないけれど。けれど私が感じる物は全て変わってしまっているから、霄太師を前にしているようにはあまり思えなかった。
驚かなかったのは、単に事前知識があったからに他ならない。そうでなければ一体何が起こったのだろうと、疑問符ばかりが頭に浮かんでいた。視界を閉ざされているから、よく理解できないだけで疑問だけで終わるけれど。もしも視界が開けていたら、私は絶句どころではなかっただろう。とにかく、信じられるはずがなかったはずだ。
知っていたから、こんなにもあっさりと色んなことを受け入れて、また口ずさんでいる。
戸惑いぎみに、はふ、と息を吐いて肩から力を抜いた。熱をもった顔に、霄太師の人並み以下の体温が心地いい。とくとくと荒れていた心臓も平常を取り戻し始め、何度か深呼吸をすると、最初よりもずっと、呼吸が楽になったことがわかった。
体の中から淀んだものが出ていくのがわかる。そっと霄太師の手に触れると、くつりと笑い声が聞こえた。
「お前も困った性質を持ってしまったな。これほどの穢れ、どこで受けてきた」
「・・・吏部、で。私、絶対外朝とは相性悪いです・・・」
「あぁ、吏部か。あそこは確かに危険だな。陰の気配が色濃い・・・まあ全部紅黎深のせいなんだろうが。お前に朝廷が合わないのは無理もなかろう。お前は、きれいすぎる」
疲れたように吐息を混ぜて、掠れた声でぼやけば納得した、というように低く若い霄太師の返答が返される。わかってるんならなんで、と思ったが、口を開く前にするりと冷たい手は離れてしまった。あ、と名残惜しく遠ざかる掌を見つめる。熱を持った体に冷たい手は心地よかったのだ。少しパリパリと乾く目許を擦り、何度か瞬けば霞みかけていた視界は割りとクリアに映った。体はまだ熱いし、体も重たくだるいけれど。あの吐きそうなほどの気持ち悪さも頭痛もなりを潜めて、当初に比べれば驚くほどの快調っぷりだ。
おぉ、と少し感動して顔をあげれば、お爺さん姿の霄太師の掌に、何か黒い淀みがある。
あれが穢れだなんて明白で、私は嫌な物を見る目でそれを見てから、折角だから若霄太師みたかったなぁ、と視線を逸らした。黒髪キューティクル、拝見したかった。
「普段ならば例え吏部ほどの穢れといっても、ここまで侵されることはなかったはずだが・・・さすがに後宮の環境には疲れが溜まったのかの」
「なれない場所ですから当然ですよ。まあそれに、黎深さまの相手は精神を疲弊します」
若い声から徐々にしわがれた声に変わっていくその変化に、腹話術師を思い浮かべた。
これで口さえ動かさなければバッチリである。それはともかく。立ちあがろうかと思ったが、まだ倦怠感の残る体ではその動きでさえも億劫で、結局溜息と共に座り込んだままでいることにした。
もうしばらくすればまた今よりも楽になるだろう、そうすれば動けばいい。
溜息を吐いて俯くと、不意に霄太師が地面に片膝をつき、掌に穢れを留めたままそれを差し伸べた。近づけないでそんなもん。思わず嫌そうに顔を顰めると、霄太師はくつりと喉奥で笑ってから、ずい、と鼻先にそれを突きつける。
「やってみるがいい」
「・・・何をですか」
「お主なら、できるだろう?」
意味がわからず一瞬眉根を寄せたが、突き出されている穢れに、ふとまさか、という思いが過ぎった。
そんなことは、と思いながら探るように霄太師を上目に見やると、彼は口角を吊り上げながら顎先で促す。
やってみろ―――できるわけがない!刹那、怒りとも似つかない激情にも似たものが喉元から競りあがってきたが、瞬時に押さえ込むと力なく首を振った。
「あなたが何をどこまで知っているのか、私は知りませんができませんよ。ここは、あそことは違いますから」
「さて。どうであろうな。一つ、やってみるのも面白かろう?」
にやにやと笑いながら嘯く霄太師を睨んで、できるわけがない、と吐き捨てた。
この世界に白龍はいない。私は神子ではない。例え穢れを受けたとしても、なんらかの形で異質さを視ることができても。ここは京ではないのだ。彩雲国なのだ。私はただの一般人で、選ばれた存在でもない。
何を馬鹿なことを言い出すのだろうかこの仙人は、と思いながらも、鼻先に突きつけられるそれが鬱陶しくて、溜息と共に手を差し伸べた。
そっと、触れるか触れないかというぐらいの距離で、包むように穢れを両手で囲う。できるわけがない。できるはずがない。私は私であって私ではないのだから。
ここは彩雲国なのだから。ここに、白龍も、神子という役職も、何もないのだから――そう思いながら、口を開く。
「巡れ天の声・・・響け地の声。―――彼のものを、封ぜよ」
紡ぐと同時に、柔らかに光が増していった。その反応に驚愕に目を見開く。
ぽぅ、と輝く光――馬鹿な!!唇を戦慄かせる間に、それは呪を唱え終わると同時に一瞬強く煌き、次いでプリズムのように天へと昇っていった。
しゅわ、と跡形もなく消えたそれに愕然とする私とは対照的に、霄太師は関心したようにほぅ、と吐息を零した。
「なるほど。これがお前の力か・・・人が持つには稀有な力だ」
「・・・」
黙り込む私をちら、と霄太師は見て、それから何もなくなった掌を返すと甲で頬に触れてきた。
張りのあった若若しいそれではなく、皺のたくさん寄ったなんとなく懐かしい気持ちにさせる老人の手ではあったが。無言で顔を見返せば、意外なことに優しい目を向けられた。
軽くパチパチと故意に瞬くと、霄太師は微笑んで問いかける。
「どうする。ひとまずわしの室にでも来るか」
「・・・なんでですか?」
「穢れを除いたとはいえ、まだ動くには辛かろう。庭園にいるよりはよほどましだと思うが?それに、わしの室じゃ。十分に清浄じゃぞ?」
そう言われてしまえば、断る理由がない。確かに、庭園にいつまでも蹲っていたら今度は別の意味で体調を崩しかねない。
人に見つかっても困る。そうなれば、事情もわかっている上に、実は色々と尋ねたい霄太師のお誘いは私にとってはラッキーな話だ。
それに、確かに一応この人こんな腹黒でも仙人なんだし、室は綺麗そうだ。(片付いているとかいう意味じゃなく、空気の方面で)悩むように瞳を伏せてから、こくりと頷くと、霄太師は満足そうに頷いてから、ひょいと私を抱き上げた。何か微妙なショックを覚えてしまうのはなんでだ。つーか抱っこ?抱っこなの?この人が?私を?・・・・・・・何故に?!
「ほっほっほっは軽いのー」
「子供ですからねぇ。肥満児でもないですからねぇ。ものすっごく気持ち的には微妙ですけどねぇ・・・!」
「しょうがあるまい。歩けないのじゃから」
「・・・わかってます」
宥めるようにぽんぽんと頭を叩かれると、どうにも言い返せなくて結局ふてくされたように投げやりに言い返す。そうしてぎゅっと霄太師の首に腕を回して肩口に頬を押しつけた。
これじゃ本当にお子様だ。いや、今抱き上げている相手にしてみれば大半はお子様である。例え中身がどうであれ、だ。しかしこう、色んなプライドというかなんというか。
・・・・なんで、浄化ができてしまったのだろう。霄太師の肩に頬を押しつけ、沈黙する。
なんで、どうして。ここは彩雲国でしょう。京ではないでしょう。私は、神子ではないでしょう?わからない、迷い子のように頼りなく呟き、瞼を閉じる。もたれかかるように力を抜くと、霄太師は軽く背中を撫でてから歩き出す。
ゆらゆらと揺れる心地は、なんとも言えず懐かしい。滅多にこういうことをしない分(したくもなかったし)、懐かしさが際立って。
ついでに言うと、やはり本調子でないことにまた重たく溜息が零れる。顔を隠すように霄太師の肩口に埋めながら、しばらく歩く振動を感じる。
・・・・・・・これじゃまんまお爺さんとその孫だよ。別にいいけど。傍目からの自分達の構図を思い描き、微妙なダメージを受けながら、ぼんやりと揺られるまま、口を開いた。
「・・・・・霄太師」
「ん?」
「あなたは、どうして私を後宮に、入れたのですか」
ぎゅっと、首に回している腕に力を篭める。問いかけたいことはたくさんある。
何度問いかけようと思ったことだろう。そんな暇がない上に会えることさえもなかったのだから、ずっと聞けないものかと思っていたけれど。思わぬチャンス。どうして私が、ここに。
何度考えても理由の見つからない事柄。利用価値すらないだろう私。どうして、何故。疑問符ばかりが浮かんでいた。霄太師に悪態を吐いた事も何度もある。
だってわからない。なんの意味があるのか。私になんの意味が?例え普通の子供ではなかろうと、私は平凡な人間であるはずなのに。
たったいま判明した浄化の力など、彩雲国では正直なんの意味もない。どうして浄化できたのか、それは今は置いておく。問題はどうしてここに、ということだ。正直、―――関わりたくなどなかった。近くになどいたくなかった。
思い出したくもない。自覚もしたくない。自分の掌を見つめる。浄化の光。そんなものが今だ私にあるだなんて!!ここにこなければきっと知らないままでいられた。
気づかないままでいられはずだ。貴陽が清浄だからこそ、きっと一生ないものだと思っていたのに。こんなところにきたから。眉間に皺を寄せると、霄太師はくつくつと喉奥を鳴らして笑う。その笑いに目尻をピクリと動かすと、彼は笑いながら言った。
「知り合いがいた方が、秀麗殿も安心するじゃろう?」
「霄太師。いくらなんでも、そんな理由で私のような外見子供を、ここに入れるのは無茶だと思います。これが真っ当な子供だったらやってけませんよ」
中身がこれだからこそやっていけるだけであって、そうでなければ後宮でやっていける子供などそうはいない。天才でもあるまいに。つーか大人でもやってくのは結構大変だぞ?
じとり、と霄太師の横顔を見ればカカカッ、と笑って彼は口角をにぃ、と吊り上げた。横目で見られた瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走る。
「真っ当な子供だったら、か。そうじゃのぅ。普通であれば意味はなかったの」
あっさりと、同意する。その真意を、私が悟ることなどできるはずもなく。
けれどもどことなく含みのある言い方に、眉間に皺を寄せると、彼は深く、深く微笑んだ。
「普通であれば意味がなかったのだから、普通でないことに意味がある。ただ、それだけのことだろう――?」
「え・・・?」
こてん、と首を傾げる。間近の霄太師の横顔を見つめると、不意に彼はこちらを振り向いた。そして、皺の寄った掌で頬を包むと・・・ひんやりと冷たい。ピクリと肩が動き、息を詰める。
硬直したように視線も外せないまま、薄っすらと笑う―――美丈夫の、唇が震えた。
「だから、お前はなにもせずともいい。ただ、そこにいればいいのだから―――」
唇が耳元に寄せられる。低い声が、鼓膜を揺さぶる。含むように、嘲るように、感謝するように。
囁き。掠れた声、けれどはっきり脳髄に届くかのように響き。言葉もなく、呆然と頬を辿る冷たい指先の感触を感じて。
ザァ、と木々の合間を吹き抜けていく風に、長い黒髪が踊るのが視界の端に映った。
「時は、巡った」
愉快そうに、くっと笑う顔は、一体どれほどの年輪を重ねているのだろう。
一瞬後には、もうすでにあの姿ではなくなり、飄々とした老人の姿に戻っていたけれど。
ぎゅっと、胸元を握り締め、霄太師から顔を逸らす。縋りつくのは不本意だが、そうするしか術がないので、肩口に顔を押し付けて震えた。くく、という笑い声。揶揄するかのように響く声が、飄々となんとも軽い調子で「だから、気にせんでもいいんじゃよ」などとのたまう。
いや普通無理。気になる、気になる、けど。
多分一生、私はその真意を知ることはない。