大人の階段



 ねえさん、事件です。あぁいや。事件はそのねえさんに降りかかっているわけで、ならばねえさん、頑張れ。が言うことであろうか。香鈴さんにガックンガックン振り回され事の次第を把握しつつも、あまりにもシャッフルされ過ぎた頭がぐわんぐわんと視界を回す。
 思わず机に手をついてがっくりと項垂れながら、きゃあきゃあと意中の殿方がやってきたみたいに騒ぐ女官仲間達を見た。

「まあ、ついに、ついに主上が紅貴妃様の元へ?!」
「仲睦まじくあらせられるのに、いつまでも夜のご訪問はなくて心配していたのですけれどこれでやっと人心地つけますわね」
「あら、私はそんな心配していなくてよ?だってあんなに仲睦まじいお二人ですもの。絶対こうなると思っていたわ!」

 握り拳をしていたり、うっとりと恍惚の吐息を零していたり、いっそ感涙に咽び泣きそうな人までいたりと、本当にこういう話しに餓えてたんだなぁ、と傍目に見てもわかるほどの盛り上がりを見せる彼女達の輪から外れて、ぐったりとしながら目を半眼にする。
 まあ、確かにある意味で意中の殿方(=主上)が意中の姫君(=紅貴妃様)の寝所にやってきたのだ。最近の専らの気がかりであるお二人の仲の進展は?!という恋に恋する乙女達の、はっきり言っていらぬ心配はこれで解決、といったところだろうか。ところがどっこい、んな甘ったるいことになんぞなりゃしないだろうけどな!回っていた視界が回復してきたのにほっと胸を撫で下ろしながら、もそもそとその場を後にする。巻き込まれたら堪らない。あのテンションにはついていけないわ、本当。大体ぶっちゃけて貴妃と主上の仲が進展しようがしまいがどうでもいいような私である。ていうかそれ以前の問題に、相手が秀麗ねえさんというのがね・・・。一応貴妃モードでない秀麗ねえさんを知っている側としては、燃えあがるも何もあったもんじゃなかろうというのがよぉっくわかっている。つまり、話題に花咲かせるだけ実情は全くの無駄ということだ。しかしこんな真夜中に訪れて、寝てたらどうするつもりだったんだろうか主上。ふわぁ、と零れそうになる欠伸を噛み殺しながら珠翠さまの元まで行くと、皆話題に花を咲かせているからであろうか、彼女一人しか見当たらない。お盆にお茶を用意していく過程を見ながら、こてりと首を傾げた。

「珠翠さま」
「あら?。どうしたのですか」
「雑談の輪から逃げてまいりました。それは、主上と秀れ、こほん。・・・紅貴妃様に?」

 うおー危ない危ない。こんなところで誰が聞いてるかもわからないのに名指しはいかんよ名指しは。相手が珠翠さまだからいいようなものの、気をつけなくては。咳払いで無理に誤魔化していると、微笑ましいものを見るように目を細められて、そっと柔らかい声音で諭される。

「大丈夫ですよ、今は誰も周りにおりませんから」
「いえ。普段からの意識が大切だと思いますので」
「そうですか・・・それにしても、香鈴は触れ回っているのですか?」
「あぁいえ。そういうわけではなく、偶々私に報告に来た時に周りの女官の方々にも駄々漏れになっただけです。まだ一夜を共にすると決まったわけではありませんし、その辺りは皆様心得ているかと」

 でももしも一夜を共にしてしまった場合、光の速さで話しが出まわると思うけど。
 さっきのテンションの高さを思い出しながら報告すると、困った物ですね、と苦笑しながら彼女はひょい、お盆を抱えた。すっと体を脇に退けて場所を譲りながら、自分では及びもしないほどに洗練された足運び、頭の天辺から爪先までの美しさに状況も忘れて見惚れた。
 美人だけど雰囲気まで美人だなんて、本当にすてきだよねぇ。うっとりしながら、振りかえった珠翠さまが微笑むのに、私もにっこりと微笑み返した。頭を下げて、手を胸の高さまで持ち上げる。

「いってらっしゃいませ」

 えーと、原作だと明日はどうなってたかな・・・あぁ、そうだそうだ。珠翠さまを見送って、ひとりうろ覚えにもほどのある原作を思い出そうと四苦八苦し、ぽくんと片手を打つ。

「私が起こしにいった方がいいのかなぁ・・・」

 起こしにいけるかな?すっかりと更けてしまった夜空を見上げて、ふわぁ、と欠伸を一つ零した。





 結論で言えば、寝ている間に今朝の出来事なんぞすっぱり忘れてて、香鈴さんが起こしにいくのを見送ってしまったのが敗因だった。ごめんねえさん。ニコニコ笑っている主上と、羞恥心なのか怒りなのか判別つかないように、顔を引き攣らせて睨みつける二人の間にお茶を置きながら居たたまれずに視線を伏せる。なんだろう、この対照的な様子。温度差が伺えるようで、空笑いを浮かべたくなりながら半歩下がると、主上は秀麗ねえさんの様子にやっと不思議に思ったのか、幾分か幼い仕草で小首を傾げた。それこそ、不思議なものを見つけてしまった子供のように無垢に。

「秀麗どうしたのだ。変な顔だぞ?」

 ストレートにいったな、この人。微塵にも自分のせいだなんて思ってなさそうに、心配すら込めて問いかける主上に、秀麗ねえさんの口元が引き攣った。ピキッ、と米神にも血管が浮いたような気もする。あえて何も言わずに視線を横にずらすと、ねえさんは低い声でわなわなと肩を震わせた。

「あなたねぇ・・・なんだって枕を越えてこっちにきたのよ!!信じられないっ」

 枕というと、あの馬鹿でかい丸太みたいなものだろうか。ばんばんと机を叩いて叱りつける秀麗ねえさんを横目に、寝台の上にあるそれを思い描いて、よくあれを乗り越えてきたな、と思った。あるいは起きて退かしたのかもしれない。あとで寝台を整えにいかなくては、と思いながらぐらぐらと揺れる茶器の中のお茶を見た。あ、主上のお茶もうないや。
 いそいそと新しいお茶の準備をして注いでいる内に、秀麗ねえさんは額に手をあてて、項垂れながらぶつぶつとぼやいている。よりによって香鈴に。まあ確かに、私や珠翠さまのどちらかであれば、こんな噂広がる事もなかっただろう。運がなかったんだよね。・・・断じて私が忘れていたせいではないよ、うん。だってほら、これが原作の流れ?なんだろうし?多分。どうだったかなぁ・・・。首を傾げていると、主上に無意識に迫られていた秀麗ねえさんが、はっと目を見開いて主上の顎を押し退けて身を乗り出した。ぐき、といい具合に頭を後ろに仰け反り、首が逆エビ状態になっている主上の若干涙目の顔が見える。

「ひ、ひどいのだ秀麗・・・」
「あんたは黙ってなさい!っかか、勘違いしちゃ駄目よ?!」
「はあ」
「あぁでもに理解できてるのかしら?!してなくて全然構わないんだけど、というかむしろ理解なんてしてないほうが望ましいんだけど!!とにかく、私とこれとは何もなかったのよっ」
「はあ」

 理解できてるのかって失礼な。これでも中身は実はねえさんより年上なんだぞ。そういう知識ぐらい普通にある。とはいっても外見が外見だ。如何様にもしがたく、曖昧な返事で言葉を濁すと、秀麗ねえさんはほっと安堵したように椅子に座りなおした。主上は捻った首をこきこきと鳴らしながら、ひどいのだ、とまだぼやいていた。顔を赤くしながら、ギッと睨んで茶器を掴みぶっかけようとする秀麗ねえさんに、ぎょっと目を見開いて慌てて両手を翳す。

「こ、紅貴妃様。もうすぐ朝餉がきますよ!」
「うぅ~~~~」
「本当に、どうしたのだ秀麗?」

 あんたは黙っててくれ!!空気の読めていない主上に頭を抱えたくなりながら、あわあわと秀麗ねえさんを宥めるために四苦八苦する。そうしている間に、本当に朝餉がきたので、秀麗ねえさんは拳を握りながら椅子に座りなおした。思わずほっと胸を撫で下ろし、香鈴さんと珠翠さまが運んできた朝餉を、三人でテキパキと机に並べていく。美味しそうなご飯だ。特に朝粥のあたりがなんとも言えずに食欲をそそる香りを出しており、反射的に唾を飲み込んだ。そういやまだご飯食べてないんだよねぇ。先にこっちの準備するものだし。
 つらつらと食事に意識を囚われていると、並べ終えた香鈴さんが、主上と秀麗ねえさんを見比べてぽっと頬を赤く染めた。そして袖で顔を隠しながら、脱兎のごとく逃げ出していく。
 背中で申し訳ありませんっと叫んで謝る姿はもう完全なる誤解だな、と悟るに十分過ぎて、弁解の余地もなく走り去った香鈴さんに、秀麗ねえさんは呆気にとられたようにポカンと口をあけて呆けた。珠翠さまは若干呆れた様に溜息を零し、けれどどことなく微笑ましげにしているのだから、割りと主上とねえさんの仲を応援している部類に入るのだろう。
 まあ女官が二人の仲を応援しないはずもないのだが。私としても応援してあげたいところだけれども、まあ、なんというか。幅広く無意味だろうと思うので、なるべく中立を守ってみる。
 秀麗ねえさんは走り去った香鈴さんの様子に軽い絶望を浮かべたような顔をして、泣きながら机に突っ伏した。

「あーもう!こんな馬鹿な噂父さまと静蘭が信じちゃったらどうしよーーーー!!」

 安心して、ねえさん。絶対ないからそれ。と、今は言えるはずもなく無難に無言を押しとおした。ぱくぱくとご飯を食べ始めていた主上は、その秀麗ねえさんの嘆きにいささかむっとしたように眉を寄せる。

「なんでそこに静蘭が出てくる」
「乙女心よ!!」

 間髪いれず言い返して、もごもごと口の中で秀麗ねえさんは更に反論した。

「あ、あなたにはわからないでしょうけど・・・ほ、本当になにもなかったのよね?!」

 突っ伏していた顔をあげて、興奮で少し潤んだ目で問い詰める秀麗ねえさんに、乙女心?と首を傾げていた主上がきょとりと瞬く。私はその横で、お腹すいたなー、なんて割りと関係ないことを考えてぼんやりとしていた。基本的に関係ないからな、私。どうなろうがしったこっちゃないし、事実何もなかっただろうことは確信しているし。それよりねえさん、早くご飯食べないと冷めると思うんだけど、などと一人内心でぼやくと、主上は何か一考するように視線を動かし、にやりと笑った。

「そうことになったら何か悪いことでもあるのか?そなたは余の妻だろう」
「~~~~~!!」

 悪い顔してんな、と思いつつもさながら悪戯小僧のような印象しか受けず、この余裕もいずれなくなっていくんだろうなぁ、と思うといささか哀れな気がした。どんどん尻に敷かれて行くんだもんね、主上・・・。

「どう思います?珠翠さま」
「十中八九何もなかったと思うわ」
「ですよねぇ」

 二人の傍で控えながら、色々と口論しているのを傍目に、珠翠さまの台詞に深く頷いた。
 珠翠さまも私も、二人をよく知っているのだ。・・・まあ私は反則技を多々持っているとはいえ、割合と近くで(強制)二人の仲を見せられていた。邪推するところが微塵もないことなどわかりきっていて、はんなりと吐息を零すと睨み合っている二人に眉を下げた。

「そもそも、何かあったのならば体の異変ぐらいわかるでしょうに、紅貴妃様も初心ですよねぇ」
「・・・?」
「はい?」
「・・・・・・・・・食後のお茶の準備をしてきてくれますか」
「わかりました」

 一段落ついたのか、ぱくぱくとご飯を食べ始めたねえさんの様子をみて、珠翠さまの命に一つ頷きながらさっと身を翻した。足音をたてずに室の外に出て、あぁでもキスぐらいじゃわからないか、と一人呟く。それはそれでショックだよなぁ、と思いながらでもまあ、犬に舐められた程度と思えば折り合いもつけれる範囲だろう。それ以上となると頂けないが。
 個人の差があれ、初めてならばそれなりの不調があるものだと思うのだけれども。

「ま、別にいっか」

 どうせ当人達の問題だし。あっさりと自己完結すると、珠翠さまに言われたことをしようと、さっさと裾を捌いて歩き出した。室に残った珠翠さまが、どえらい複雑そうな顔をしながら、溜息を零していたことは想像していなかったけれど。





「申し訳ありません邵可様・・・が計らずも大人の階段を登ってしまっていますわ・・・」

 もっと周りに気を配っておくべきだった。今だ10歳にも満たない子供が達観したように語るには、いささか不釣合いな内容に珠翠はぐっと拳を握り締める。とりあえず、あまりそういった話題は聞かせないように注意を促さなければ、と。