笹竜胆に思いを浮かべて
「あーーーもう!!イライラする~~~~ッ!!!」
内に溜まる発散できないものを少しでも出すように、秀麗ねえさんの苛立ちの篭った悪態が元気よく口から飛び出した。
眉間に皺を寄せて「不機嫌です!!」とばかりに、まるで親の仇のように布に向けてぶっすぶっすと乱暴に針が刺さる。桜色の刺繍糸を閃かせながら、いつも家でしていたストレス発散方法を熱望している様子は、周りから「紅貴妃様」と呼ばれ慕われている存在だとは思えなかった。まあ取り繕うべく存在が周りにいないからこそ素を出しているのだろうが、素晴らしい勢いで針を扱うさまは見ていてそこはかとなく怖い。指を刺さないかとか、それで主上刺しちゃわないかとか、色々と。
けれども、とても乱暴にストレス発散のために針仕事をしている割に、作り上げられる刺繍の形は見事だ。白い布地に徐々に形作られていく花模様は、本人の苛立ちを他所に繊細で可愛らしく、また鮮やかだった。この調子なら一日とかかるまい。すごいな、あれだけの刺繍を一日足らずでやってしまうとは。秀麗ねえさんってなんだかんだですごいオールマイティな人だよねぇ、とぼやきながら、それもこれも全て主上への鬱憤故だと思うと、微妙に切ないものが残る。
傍らで佇みながら、まあしょうがないかと吐息を零した。なにせ今日も今日とて朝っぱらから秀麗ねえさんの動揺も露にした声が響き渡っていたのだ。またしても寝台に連れ込まれていたらしい。仕方ないよね、年頃の男女が一つ屋根の下ならぬ、一つ寝台の上で密着してたら誰でも動揺するってもんだ。ねえさん曰く抱きしめられていたらしいし。そりゃ朝起きたらびっくりするって。幸いなのは、主上がねえさんに対して特に手を出す思考をしていない、ということだろうか。無垢なのだ、恐ろしいほどに。そういうことには精通しているとは思うのだが、なにかこう、性格とか滲み出る雰囲気からはそんな艶やか且つ生々しいものは連想できない。これが藍将軍だったらリアルに想像できそうだけれども。
確か主上って男色、いや実は両刀なんだかともかく、どっちにしろ他人とやったことがあるんだよね。そーいうことに、結構な経験があるように思うんだが(それこそ、ねえさんなんかよりも)なんであんなにもそういう匂いがしないのだろうか。雰囲気かなあ、やっぱり。そうやってぼんやりと物思いにふけっていると、キィ、と微かな扉の音が聞こえ、はっと視線を向ける。秀麗ねえさんは刺繍に力をいれているために気づいていないようだったが、香鈴さんが中に入ってくるようだった。
「紅貴妃さま?」
香鈴さんの声はいつも可憐だ。可愛らしい声だと思う。刺繍に没頭(鬼気迫る勢いで)していた秀麗ねえさんに向けて、控えめにかけられた声を聞きながらそう思う。そしてその声にやっと近くまで香鈴さんがきていたのに気づいたのか、ねえさんの肩が面白いほどに跳ねた。けれどそれを感じさせないほどに素早く表情を作りながら振り向く秀麗ねえさんは、女優の才能があるのではないか?
「な、なんですか?香鈴」
あぁ、しかし少しどもったのが残念。けれどしっかりと「紅貴妃」の仮面をつけるところはさすがだろう。心配そうな香鈴さんとのやり取りを聞きながら、実際は単純に意味深な笑顔を向けてくる周りから逃げてるんだよねぇ、と明後日の方向を向いた。当たり前だろう。年頃の女の子が、なんとも思ってない相手と、事実無根の噂をたてられれば。しかも寝た寝ない赤様が云々。物凄く居た堪れない。主上に対しては可哀想に、と思ってしまうが、いかんせん本人は全く、全然、これっぽっちもそういう感情が芽生えていないだけに、どうしようもない。いやまあ、悪い気もしていないし、嫌いなわけでもまるっきるそういう対象に見ていない、というわけでもないと思うんだけれど・・・結ばれるかどうかははなはだ怪しいだろうな。
「、そこの傷薬を取ってくださいな」
「・・・畏まりました」
あれだけ好意を向けていても、報われないのかもしれない。そんな思考に辿りついたとき、不意に名前を呼ばれて瞬きをした。傷薬?と一瞬首を傾げそうになったが、さすがに表に出すわけにも行かず珠翠さまと秀麗ねえさんを見やる。・・・どうやら、私が考え事をしている間に、ねえさんが針を指に刺してしまったらしい。刺繍に血がついていないといいが、と思いながら薬箱から傷薬を取り出し、そっと珠翠さまの掌に乗せる。珠翠さまは手早く秀麗ねえさんの指先に薬を塗りつけて、細い包帯らしきものを巻きつけるとふっと笑みを零した。
「お気をつけくださいませ、紅貴妃さま」
「えぇ。ありがとう、珠翠」
指先にこじんまりとした治療を受けたねえさんが、少し恥ずかしそうに照れた顔ではにかむ。私は後ろに控えながらその様子を見て、まるで母と子供のような、姉と妹のような、そんな少し暖かくて和やかな風景に目を和ませた。元々妹ではなく姉気質な秀麗ねえさんが、女の人にこんな風に甘えた雰囲気をかもし出すのは胡蝶さんぐらいしかいなかった。
いい傾向だよねぇ、と思っていると、秀麗ねえさんの指先を心配しながらも、その膝の上に乗っていた刺繍に気づいた香鈴さんが、まあ、と小さな声をあげた。
「なんて美しいお刺繍でしょう・・・手に取ってみてもよろしいでしょうか」
「えぇ、構いませんよ」
控えめに許可を貰った香鈴さんが、そろそろと膝の上から刺繍を取り上げる。そうして眺めた刺繍に、ほぅ、と吐息を零した。
「素敵ですわ・・・本当に紅貴妃さまはなんでもおできになるんですね。わたくしお針はとっても苦手なんです」
「そうかしら?刺繍なんて久しぶりなのだけど」
ていうか一切してなかったよね。刺繍をする時間よりも賃仕事、あるいは塾に走り回っていたねえさんだ。久しぶりといったら、かーなーりー昔のことなんだろうと思う。ニコニコ笑いながら香鈴さんを刺繍に誘っている秀麗ねえさんを見守りながら、刺繍か・・・とちら、と裁縫道具を取り出して香鈴さんの分の準備をしている様子に視線を細めた。真剣に布地に向かう香鈴さんの横で、微笑ましげにしている秀麗ねえさんを眺めて、気づかれないように溜息を零すと、秀麗ねえさんと主上の仲を語っていた香鈴さんの声が、俄かに変わった。
「明日も・・・その明日も」
少しだけ、落ちたトーン。気がついて、思わず俯けていた顔をあげて香鈴さんを凝視する。視線は刺繍に固定され、彼女はこちらの視線には気づいていないようだったが、切なげに、揺れる眼差しに気づいた。
「本当に、お羨ましい・・・」
赤い唇から、悩ましげに吐息が零れる。羨望と恋慕。その向かう先を、卑怯な手段だが知っていた。茶太保を思って、いるのだろう。彼女の心には太保が住んでいる。
そう、刺繍を送るのは彼で、彼を想って彼女はこんなにも思いを募らせていて、―――そして、彼は。
「ね、ねぇ、も一緒に刺繍はどう!?珠翠も、こっちにきて座って座って!」
「へ?」
「私も、ですか?」
きょとり、と突然に振られた話題に瞬きをする。香鈴さんが薮蛇を突付いたことは察していたが、そんなあからさまにしなくても、と苦笑を浮かべると、珠翠さまは私は針が苦手で、と言葉を濁していた。その様子に、秀麗ねえさんが意外そうに目を瞬く。
「珠翠にも苦手なものがあったのね・・・ならなおさら克服しないと。ささ、座って座って。もよ。・・・あ、ももしかして、刺繍は苦手?」
「いえ、そんなことありませんよ」
趣味でよくやってたから、苦手ってことはないなぁ。すすめられた椅子に、言われるがままに腰を下ろしながら、押し付けるように手渡された刺繍道具に視線を落とす。珠翠さまは戸惑うように秀麗ねえさんと布とを見比べていたが、やがて観念したようにきゅっと唇を引き結んで針を持った。なんでそんな戦場向かうような顔をしてるんですか、珠翠さま。緊張した面持ち針と糸を使う珠翠さまの様子に、本当に苦手なんだなぁ、と思いながらさて、私はどうしようか、とたくさんの色の糸を見下ろした。最初に図案がないとどうにもこうにもなぁ。
縫いながら考える、なんて器用なことはできないし。そこまでセンスがあるわけでもなし。
どちらかというと、苛立ちまぎれにぶすぶすやってたくせにあれだけのものができる秀麗ねえさんが異常だ。うーむ。考え込みながら、縁を握り締めた。・・・思えば、刺繍は久しぶりだ。まだ何も縫われていない布地を見つめながら思い返す。やったのは何時ごろだっただろうか。私がまだ父母のところにいた頃だろう。一ヶ月、二ヶ月前に近い。まだ彼らが生きていた頃。殺されなかった頃。中身がこれなもんだから、同年代といわれる子供と遊ぶことなんかできなくて、逃げるように家の中に引きこもっていた。やることといったら家事手伝いか、勉強、それに刺繍ぐらい。それもこの時代の女子は馬鹿がいいと言われるぐらい、学問なんてそんなに必要ではないから「頑張らなくていいのよ」と言われるぐらいだ。だとしたらやることなんて刺繍ぐらいしか見つけられなくて。日々チマチマと、布に針を通していた。そういう時間は、もっと前にもあった。あの頃はさほど暇ではなくて、やることはたくさんあって、やらなくちゃいけないことばかりで。だけど息抜きのように、現実から逃げるように、時折出来た時間を潰すように。手に取った、針と糸。揺さぶる記憶に、離れられない現実を知る。諦めたように溜息を零して、悲しくなりながら眉を潜めて、懐かしいから、口元に笑みを浮かべた。伸ばした指先が、糸を取る。針の穴に糸を通して、ぷすりと、差し込んだ。
「あら、巧いのね」
「時間があるときに、よくしていましたから」
「そうなの?あ、は誰かにあげるのかしら?」
「んー考えていませんねぇ」
するすると糸を通す仕草に、経験者だとわかったのか秀麗ねえさんが興味深げに覗きこむ。香鈴さんと珠翠さまは、そんな私達のやり取りを他所に物凄く真剣に、必至に刺繍に向かっているから、会話に参加はしてこない。その様子にちら、と視線を向けて、本気モードだなぁ、と微笑ましく口角を持ち上げた。
「皆様真剣ですねぇ」
「そうね。やっぱり大切な人がいるとやる気が違うわ」
本当にね。私にもそんな対象ができるのかなぁ、と思いながら、とりあえず当分はないだろうなと自分で断じる。いやだって、そんな余裕ない上に、そういう対象になれる人がいないからね真面目に!かといって作ったものを自分で使うのもあれな気がする。いや構わないといえば構わないんだけど、全員誰かにあげるとして、私一人だけ自分にって・・・切なくないか?だがしかし。相手がいないのにどうしたものか。考えながらちくちくぬいぬい、と無言で糸を滑らせた。時折「あっ」とか「いたっ」とか何か失敗をしたらしい声も聞きつつ、私は順調に針を動かす。ぷっくりと浮かぶ糸の絵に、寂しく、懐かしく、瞳を細めながら、そっと布地を引っ張った。まだ完成には遠かったが、それでもゆっくりと形ができていくものに、楽しさは隠しきれない。同様に、どこか締め付けられるような心地もしたけれど。
「ねぇ、はどんな図柄にしたの?」
黄緑色の糸を垂らして、首を傾げる秀麗ねえさんに顔をあげる。彼女の模様は桜、香鈴さんは菊花、珠翠さまは・・・一応花らしいが、さておき。言われて刺繍を見下ろし、青い糸で縫い上げられたそれに唇を戦慄かせる。眇めた目で、思い出すのは、どこまでも真っ直ぐで、強くて、短気だけど優しくて、盲目なまでに、愛情深かった、ひと。鮮やかな、長い長いオレンジが瞼の裏で翻る。あの人を、象徴する、もの。
「・・・笹竜胆、です」
あの人が誇りに想ってた、あの家紋。笹竜胆?と首を傾げたねえさんに、にっこりと微笑んで、できたら見せますよ、と吐息を零した。白に青。朧な記憶。だけど忘れられない記憶の、あの人の笹竜胆。切なくなるとわかってるくせに、時折小出しにする自分が、妙に滑稽に思えて仕方ないなんて、馬鹿みたいな話だな。