透明な空に溶け落ちた、1月の前奏曲



 きゅきゅっと音をたてて板張りの床から顔をあげる。古びた床板は年月分の色味を増して、綺麗に雑巾がけしたからといって家屋のフローリングのようなピカピカとした輝きを放つわけではない。それでも心持ち入り口から入る明かりに照らされた床は輝いているようにも見えて、達成感に額に薄っすらと浮かんだ汗を手の甲で拭うと、バケツに張った水に雑巾を放り込んで立ち上がった。
 ちゃぷん、と揺れる水とどっしりと取っ手を掴んだ両手から腕にかけてかかる負荷に重たいなぁ、と背筋を伸ばす。えーと、ご神体もその周りも掃除したし、ろうそくの火立の蝋も取り除いた。床も掃いたし拭いたし、お神酒も新しいのにしたし、お供えものだって新たに備えている。指折り数えて、遣り残したことが無いか最終確認を行うと、よし、と大きく頷いた。

「それでは、失礼致します」

 ちなみにこの神社のご神体はなんだかよくわからないけど青い石である。青い石とはいっても宝石めいた輝きは薄く、まさしく石、という表現が似合うようなそれだ。
 なんらかの加工でもすればまた違うのだろうが、ご神体にそんなご無体をするわけにはいかない。何より、マジでこれに神様宿ってるっぽいし。ご神体を囲む周囲がきらきら白く輝いて、この本殿の中は神気で満ちている。
 無論私が知る神とは比べるまでも無く弱いそれではあったが、それでも確かな神の存在を感じるには十分だ。・・・てか、最早私は白龍とは関係ないはずなのだが何故見えるのだろう・・・。霊感的なものが目覚めてしまったとでもいうのか。
 勿論本殿がそうならばこの神社だって十分神域に相応しい清浄さを保っており、そこらのパワースポットなんか実は目じゃないのだ、ここは。
 それでもここがパワースポットだとかなんだとかで注目をあびないのは、やはり地元の氏神様を祀っている一般的な神社だからだろう。特に観光スポットになっているわけでもないただの住宅街の一部にあるような地元神社だもの。すごく居心地がいいのになぁ・・・。
 つらつらと考えながらも、頭を深く下げて背中を向ける。さすがに本気でそこに神様がいる(と思ってるけどなぁ)のにさっさと退出するのは気が引ける。
 まぁ、しかし私だって遙かの世界になど行かなければ(そして白龍の神子などにならなければ)ここまで神様に対して敬意を払おうとはしなかったかもしれない。
 最早それは私にとって過ぎ去った過去、いや過去といえるのかも曖昧ではあったが、それでも記憶の中に確かに存在していて、瞼の裏にきらきらと浮かぶ白銀に微笑を零すと、さわりと風が肌を撫でた。





「いい歌ですな。ですが、あなたの歌はどこか寂しい」
「・・・どういう意味ですか」
「ふふ・・・それは、ご自身がよくわかっておいでではないかな?」

 幾分か強張った声色で、青年は好々爺然とした老人に向かって問いかける。それを老人はにこやかな顔でするりとかわすと、聞いたことが無いような深い声で瞳を細めた。
 それにぐっと口元を引き結んで、心当たりがあるのか言葉に詰まった青年は老人の眼差しから逃げるように視線を逸らした。老人はその青年の様子を逐一観察するように眺めながらも、一定の距離から近づこうともせず、ふふ、としわがれた声で冷えた空気を震わせる。

「あなたの歌にはまるで穴が開いているように空洞が見える。あなたが何を悩み、苦しんでいるかは私にはわかりませぬが・・・それでは、あなた自身を追い詰めることにしかなりますまい」
「・・・・っ」

 引き攣ったように青年の喉が震え、青年の手袋に包まれてもいない白い手がぎゅっと握り締められた。わなわなと震えるところを見るに、随分と強い力で握り締めているようだ。
 あれでは掌に傷ができてしまうのではないだろうか。そんな心配をちらと浮かべながらも、この状況はなんなんだ?と出るに出られない木の影で肩身も狭く隠れたまま、私は疑問符を浮かべて首を傾げた。
 てか、すごい、気まずい。多分、聞いちゃいけない場面に私は遭遇しているのだろう。多分というか絶対に。触れちゃいけない人の心理、心の奥底、傷跡めいた場所にどうしてこうもタイミング悪くかち合ってしまったのか。いや、そもそもわけのわからないことを意味深に告げ始めた神主さんが悪い。なんだあの人。何者なんだ。意味深すぎるだろそれ。
 ぐるぐるとした思考で、あぁ、歌が聞こえたからと言って近づくんじゃなかった、と今更ながら遅すぎる後悔に溜息を一つ。こんなローカルな神社に聞こえた場違いなそれに、珍しくも興味をもったらこの状況とか、とことんついてない。
 そのままずっと立っているのにも疲れてずるずると座り込みながら、如何にして気づかれないようにこの場を去ろうか、と方法を模索し始めた。地面に広がった緋袴の裾を集めて、衣服が木の影から出ないように体を小さくする。これで見つかったらとんでもなく気まずい状況になるのは深く考えずとも明白だ。
 青年の一番触れて欲しくない柔らかな部分を、あえて突っついた神主さんではなくただそこにいた人間に見られた、という青年にとって屈辱以外の何物でもない状況ができあがるのだから、当然っちゃ当然である。
 ならばこの、やたらと緊張感を伴う、神主さん人の傷を無闇たらに抉るもんじゃありませんよ、な会話が終わったあとに去るのが一番かもしれない。あるいはさも今来たんですよ!を装って神主さんに声をかけるか。ともかく、この居た堪れない空気を早くなんとかして欲しい。
 膝をたて、その膝の上に肘をおいて頬杖の台にしながら、両手に顎を乗せて静かな木立を眺める。木の幹越しの背後では、青年の「あなたにそんなことを言われる筋合いは・・・」とかどうとかの反論が聞こえていた。至極尤もだ。知り合いならともかく全くの他人にいきなり言われることじゃないよね。
 そもそも神主さんも何故いきなりそんなことを多分初対面だろう赤の他人に向かって言い始めたのだろうか。それほど気になったのだろうか。えーと、歌がよくないって話だっけ?あ、違うか。歌が寂しいって内容だっけ?そんな寂しい歌だったかなぁ、と聞こえていた歌声を思い出し、いや半端なく上手かったよな、と思い直す。
 ・・・正直、彼の歌が寂しいだとかそんな内面的なことまで私にはさっぱりわからないのだが、神主さんには違って聞こえたのだろうか。可笑しいな、人生経験ならば神主さんにも負けないと思うのに負けてるよ。
 いやでも私そこまで感受性豊かじゃないし。神主さんは歌で心の良し悪しがわかるのだなぁ、と思うとさすがとしか言いようが無い。あとやっぱり言い方がなんだかもったいぶったというか、うん。気になる言い方してくるよね。
 青年にはこの好々爺然としていながらも老僧な神主さんをかわしきることはできまい。多分、余計にぐるぐるとどん底に落すだけなんじゃないかと思いながら、早く終わればいいのに、と一言一言に追い詰められる青年に哀れみを覚えた。
 嫌な、というか張り詰めた空気にそろそろ無理矢理にでも割って入って青年を助けるべきなのかもしれない、とか思い始めていると、じゃり、と玉砂利を踏みしめる音が聞こえて、ぼんやりとした思考をはっとクリアに戻した。やばい、気を抜いてた。

「何もかも抱え込むには人はあまりにも弱い。捌け口なくして人は立っていられません」

 ぎくり、とする。ひどく近くに、というか私が隠れている木のすぐ近くに立ったのか、先ほどよりも鮮明に聞こえる神主さんの声に、肩を揺らした。それは自身の存在に気づかれる、というよりも、彼が述べた内容に、だろうか。
 ・・・・・・・・・・・・・・・何もかも、抱えなければいけない人間だって、いるんですよ。
 人は独りでは生きていけない。真理を説きながらも、それでも一人で立たなければいけない状況だってあるのだ、と皮肉めいた感情で反論する。そうでなければ、私は。

「この木はもう長いことこの神社とともにあります。生きた年月だけならば私などよりもよほど長い・・・神木にも等しい木です。あなたの全てを受け入れてくれるでしょう」

 それ、ただの木ですよ神主さん。神木にも等しいだけであって神木じゃねぇですよ!セールスする樹木間違えてね?!思わず突っ込みそうになったのをぐっと堪えて、多分にっこりと笑っているんだろうなぁ、と神主さんの笑顔を想像していると、じゃりじゃり、と今度は真横で足音が聞こえた。はっ。まずい。
 しかし今更逃げるなどできるはずもなかった。ほっほっほ、なんて好々爺というよりも確信犯の色味の強い、まぁつまり老僧な笑みを浮かべて去っていく神主が、私の横を通り過ぎるとき、ちらとこちらを見る。まぁ普通に気づかれますよね。目が合うと反射的に愛想笑いを浮かべ、一瞬神主さんは目を見開いたが、何故か益々笑みを深めてみせた。・・・・・・・・・え?

 あ と は ま か せ た よ 。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?
 あれ、今なんか不吉な形で口が動きましたけど?ぱくぱくと声も出さずに動いた唇にぽかんとしていると、茶目っ気たっぷりに神主さんは片目を・・・いやできてないよ、できてないから神主さん。メッチャ引き攣った顔でウインク(らしきもの)を飛ばした神主さんはそのまま行ってしまい、私はぽかんと呆けた状態でその背中を見送った。
 慣れてないのにウインクなんかするもんじゃないよ・・・。いささかの現実逃避も混ぜ込んで去っていく小柄な背中を見送り、え、だから私にどうしろと?と愕然と目を見開いた。
 ・・・・・・・・・読唇術ができるんですよ!とか自慢しなければよかった・・・!あと矢羽もできるんだよ!忍者の必須技能!・・・じゃなくて。
 このまま何も気づかなかったことにして去ってしまおうか、と思った瞬間、じゃりり、とまたしても背後から足音が聞こえて強制的に現実に引き戻される。
 に、逃げられない、だと・・・?!今動けば確実に気づかれる、見つかってしまう。う、動けないとかそんな馬鹿な・・・!一層身を小さくしながら、確実に私が隠れている木に近づいたのだろう青年の気配を敏感に探りつつ、どうしよう、と途方に暮れた。

「・・・・どうしたら、いいんでしょうね・・」

 ・・・・・・・・・・・語り始めたーーーーー!!!え、ちょ、えぇ!?そこ馬鹿正直に神主さんの言うこときいちゃう?!きいちゃうの青年!!予想外にも沈痛に口を開いた青年に、そこはスルーしてどこかに行って欲しかった!と願望を丸出しにしながら、咄嗟に口を両手で覆って声が漏れ出ないよう息を詰めた。内心の動揺が半端ないです。なんなのだろうかこの状況は。あまりにも自分が関係なさすぎて、本当の本気で居た堪れないんですけど。
 そしてごめんなさい青年。よもやここに第三者にもほどがある他人に、自分の内面を曝け出すような目にあっているとは思うまい。本当ごめん。でも私も悪気があったわけではないんだよ。心の中で必死に言い訳を並べ立てて、最早こうなれば青年がこんな羞恥プレイにもほどがある現実を知ることがないよう、全力を尽くすしかあるまい、と拳を握り締めた。
 私だったら多分半泣きになるぐらい恥ずかしくて死ねる。いや、恥ずかしいとかではなくて、隠しておきたい内面を、人に知られるのが、とても恐ろしい。

「私は、ただ、私として、いたいだけなのに・・・」

 低い声。落ち込んだように沈んで、自嘲を孕んで不自然に軽い。さして大きな声ではないのに、木の幹越しにでもよく聞こえるのは、青年の声がよく通って聞こえるからだろうか。
 体を小さく小さく、木の影から出ないように小さくしながらも、膝を抱えて青年の声を聞く。

「ただ、素直に、歌いだけ・・なのに。どうしてこうも、ままならないんでしょうね・・・」

 吐息混じりの声に、なんだかなぁ、となんともいえない気持ちでむっつりと口を閉ざす。
 ・・・何か、歌えない事情でもあるんだろうなぁ。そういえば、さっきも歌を歌ってたんだっけ。それで神主さんに突っ込まれてて、あぁ彼は、歌が、きっととても好きなのだろうな。好きで、好きで、だから、悩んでいるのだろうか。好きだから悩んでしまうなんて、因果なものだよなぁ。不意に、この世界の父の姿が思い出された。歌が好きで、好きで好きで大事だったのに、結果に繋がらなかった人。結果を出そうと足掻いて、結局、手が届かなかった人。もう、いない人。
 思い出されて、堪らない。思わず瞼を閉じて、きゅっと赤い袴を握り締めた。

「・・・・どうしたら、戻れますか。どうしたら、あの頃の、ように・・・ただ、歌を、私の歌を、歌えるのですか・・・?」

 声は、悲痛だ。ただただ願ってやまない声だ。問いかけたって、答えなど返ってくるはずもないとわかっているのに、それでも問わずにはいられない。一人だからこそ、吐き出さずにはいられない。それは弱音だ。ただの弱音。自分の心の柔らかく、硬い外皮に覆われた傷のように膿んだ部分。曝け出すのは恐ろしく、だから人には見せたくない場所。
 人ではないからこそ青年は吐き出している。問うているのに、答えが欲しいのに、それでも人には言えないから答えの返らない無機物に問うしかない、生産性のない行動。


 戻りたい、だなんて。


「時間、を」

 どうして口を開いたのか、後からよくよく考えれば、彼が羨ましかったからかもしれない、とそう思う。見つからないように、気づかれないように。そう思っていたはずなのに、わざわざ自分の存在を教えてしまったのは、神主さんに毒されたか、それとも、自分自身が、言わずにはいられなかったからなのか。戻りたい、なんて。抱えた膝の先、白い足袋に包まれた足先を見つめて、ぎゅっと指を丸める。力を篭めて、何かに耐えるように。

「どうしたって、時間を戻すことは、できないし」

 木の幹の向こう側、息を詰めた気配がする。動揺して、うろたえるように、戸惑う気配が。
 それに気づきながら、私は、今、他人の傷を抉っているのかもしれない、と思った。自分がされたくないことを、人にしている。聞かれたくないことを聞いて、知られたくなかったことを知って。それで口だしをしようとしている、なんとも卑怯でずるい人間だ。
 馬鹿だなぁ、と自嘲を浮かべて、それでも、今更閉じても意味など更になくなるだけなのだと思って、そのまま話し続けた。

「あったことを、なかったことにすることは、無理なことで。後悔したって、どんなにやり直したいと、願ったって、どうにもならないことは、山ほどあって」

 嫌なことも。怖いことも。全部全部。最早、どうにもならないことであって。

「真っ白に、なりたくっても、なれなくて。何も知らなかった頃には、どうやったって、戻れなくて」

 例えば、この手が血に汚れる前に戻りたいと、どれだけ声を嗄らして願っても、そんなことは土台無理な話で。この記憶が全部なくなればいいのに、と、望んでも、今だ記憶は居座ったままで。頭が可笑しくなるようなことは山ほどあって。帰りたいと泣いたことなんて、数え切れないほどあって。それでも、どれだけ泣いたって、そんな願いは叶えてはもらえなくて。

「それでも、やり直しのできることだって、多分あるはずで」

 私にはもう無理だけど。私は、どうやったって、できはしないけれど。
 もう、あの世界にも、あの頃にも帰れはしないのだけれど。
 きりり、と膝に爪をたてた。

「やり直しのきかないことは、たくさんあるけど、本当に、どうしたって、取り戻せないものは、あるんだけど」

 息を、吸った。心臓が、どきどきと跳ねている。思いの一欠けらでも、出すのはひどく勇気がいることで、自分の弱音を僅かに混ぜることはとても緊張を孕んでいて、閉じそうになる口を、僅かに戦慄かせて、それから、薄っすらと微笑んだ。

「だけど、あなたのそれは、本当にやり直せないことですか?」
「・・・っ」

 戻りたいと、願う。やり直したいと、請う。歌を歌いたいのだと、彼は言う。
 ねぇ、それは、諦めなくてはならないほど、どうにもならないことなのでしょうか?

「今は、無理でも。今は、できなくても。でも、それは、今の、話で。これから、もしかしたらやり直せるかもしれない。やり直すことが、可能かもしれない。方法は、まだわからなくても・・・やり直せないことの方が、少ないのだと、思います」

 勿論、私のようにどう足掻いたって無理なことはあるんだけれど。それでも、少なくとも、普通の人はできるはずだ。私のようなのは例外中の例外であって、彼のような多分普通の人ならば、やり直すことなんて、私よりもずっとずっと簡単なことのはずだ。
 自分の歌を歌いたいだなんて、やり直せない、はずがない。羨ましい。羨ましい。私が願うことはできないのに、彼はやろうと思えばできることが。できるはずなのに、尻ごみしている彼が。羨ましくて、妬ましくて、泣きたくなる。

「あなたの願いは、本当に、やり直しも修復もできないほど、どうしようもないことですか?」

 言い切って、ふう、と深く息を吐いた。あぁ、なんだか、責めるような響きを帯びていたかもしれない。どことなく厳しい言い方になっていたように感じて、八つ当たりができるような立場でもないくせに何やらかしてんだろう、と項垂れる。いや本当、勝手に人の悩みを盗み聞いてちょっと物申したいと勝手に話し始めて最終的に八つ当たりとか・・・自分どれだけ心狭いんだというか、うん。人生経験だけは誰よりも濃いものを経験しているはずなのになぁ。
 赤の他人に、なにをしているのだろう。落ち込み半分、目を閉じて空を仰ぐ。太陽は赤く瞼の血管を透かして見せて、真っ赤なそれに眩暈を覚えそうだ。
 あぁ、馬鹿だなぁ・・・自嘲が浮かびかけた刹那、ふと目の前が真っ暗になって、ゆるゆると目をあけた。
 そこには、想像していたような空の青とは裏腹な、濃い群青色が二つ、じっとこちらを見下ろしていた。黒ではなく、青い色。けど青ほど明るくは無く、落ち着いた濃い藍の二粒。まるで月明かりに照らされた海のようなそれを見つめて、次の瞬間にはっと目を見開いた。
 あれ、これ、人の目じゃん?・・・・・・・・・・・あ゛っ。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 お兄さん、とっても美形ですね!でも見慣れてるけどね美形には!・・・・・じゃなくて!!
 一人ツッコミを内心でこなしつつ、真顔でこちらを見下ろす青年に、私は頬が引き攣るのを感じた。・・・・・・・・・・き、気まずい・・・・っ。
 何かを言おうと思うのに、口は僅かに開くだけで言葉にならない。じっと、こちらを見下ろす青年を見つめ返すだけで、地べたに座り込んだまま結構高い位置にある顔を痛いくらい首を反らして見上げていた。そ、そりゃ普通にばれるよね。木の後ろから声が聞こえることなんて明白だし、その気になれば普通に回り込んでこられるもんね。
 うん。でも、できるなら顔とか合わせる前にとんずらしたかったです・・・!
 嫌な沈黙に自然俯きがちになりながら、このまま逃亡しても許されるかしら、と考え始める。いやもうこれは逃亡しかない。目潰しでもして逃げるしかない。勝手に盗み聞き(不本意)して挙句口を挟んで最後に嫉妬とかもう本当、逃げる以外の選択肢がないではないか!思うや否や、私はすくっと立ち上がってくるりと反転した。地べたに座っていたものだから袴に土やら砂利やらがくっついているが、そんなものは後で払えばいいのだ。
 とりあえずこの痛々しい現場から逃走することが私のするべきことだ。というわけでお兄さんすみません本当すみませんこのことは他言しませんので本当もうごめんなさい!!

「す、すみませんでした・・・!」

 顔をみてなどいられない。見たら余計に罪悪感が増す。とにかく言い捨てるようにただそれだけを言うと、相手の反応も見ずに走り出す。・・・が。
 不意に手首をがっ!と掴まれ、反動のように後ろにたたらを踏んで立ち止まった。ていうか一瞬ピンって突っ張った腕が痛い・・!肩が抜けそうだったよ今!

「っい、たぁ・・・!」
「あ、す、すみません」

 反射的に痛みを訴えると、青年は慌てたように掴んだ手首を離した。多分、普通に立ち去るだけならこれほど痛みを覚えることはなかったはずなのだが、私があまりにも勢い良く逃げようしたので反動が大きかったのだろう。でもいきなり人の腕を掴むのは危ないよお兄さん。
 肩に手をあてつつ、眉を痛みに顰めながら振り返れば、青年はいささか動揺した様子で申し訳なさそうに眉を下げていた。・・・とりあえず立ち上がってもやっぱり青年は背が高かった。・・・無言でもう一歩ぐらい離れて距離感を計りつつ、何かをいいたそうにしながらも言葉にしにくいのか、口を閉じて変に強張った顔でこちらを見る、いや睨む?青年に気後れする。なにせ、私は人のプライベートを覗いてしまったようなものなので。
 あぁ、こんな居た堪れない空気が嫌だから早々に逃げたかったのにぃ!

「あの」
「・・・・・・・はい」
「先ほどの、声は」
「・・・・・・・・・・私、です。あの、本当にすみませんでした。盗み聞きをするつもりはなかったんですけど、その、あぁ、いえ。本当に、すみません」

 何を言っても言い訳でしかない。並べ立てようとしたそれが自分でも聞き苦しい、と思って顔を顰めつつ、頭を下げる。もう。どれだけ軽蔑の目で見られても仕方ないというか怒られるのも覚悟というかこの人がそこら辺おおらかな人であったとしても、それでもこれは謝らなければならないことだ。人の心の内を無断で覗くのは、最低な行為であって、決して許されるものではないのだから。
 深く頭を下げると、その頭上で青年はあぁ、とかそうですよね、とかいや、とか何かもごもごと口を動かして、それから軽い溜息を零すと、もういいです、と小さく呟いた。

「頭を上げてください。聞いてしまったことは仕方ありませんから」
「・・・・でも、いや。その。・・・すみません」

 いい人だ。この人いい人だ・・・!多少、呆れも混ざっているような気もしたが、言い募るでもなくそういった青年に密かに感動しつつ、それでも罪悪感は増すばかりで眉を下げて恐る恐る顔をあげる。これで軽蔑の眼差しだったら軽くショックだが、そんなことはなく青年はどこか苦笑めいた微笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。・・・美形はどんな顔も様になるよね、ほんと。

「あなたは、ここの?」
「はい。アルバイトですが」
「そうなんですか。・・・この神社は不思議なところですね。神主といい、・・・あなたといい」
「本当にすみません。神主の方にも無闇たらに人のプライベートに口を出さないように言い含めますので・・・!」

 嫌味か!さらっと嫌味いいおったのかこの青年は!例え本人にその気が無くとも取り方によっては棘があるようなそれに、ぎくぎくぎく、と肩を揺らして視線を泳がせる。
 元はと言えば神主さんが余計な口を突っ込むからこうなるんだよ・・・!何故私がこんな目に!と恨み言を吐き出しそうになりつつも、早口で答えると、彼はちょっと吃驚したように目を見開いて、ふっと口元を緩めた。

「いいんですよ。あの人の言うことは尤もでしたから」
「いえ、でも。・・・・人の触れて欲しくないところに、他人が無闇に触れるのは褒められたことではありません」

 触れて欲しくない部分だってあるのだから、親切心だけで起こしていい行動ではないと思う。ましてや何も知らない赤の他人同士。教会の懺悔室でもなし、こんなところで突っつきまわしていいことではなかっただろう。あぁ本当に、うだうだ考える前に私は立ち去ればよかったのだ。尻ごみなどしている場合ではなかった、と思いながら後悔していると、青年は少し口を閉ざし、それからふるり、と小さく首を横に振った。

「それでも、自分が背けていたことに目を向けさせてくれたのは事実です」
「・・・お強いんですね」

 あれを、感謝するというのか。勝手に土足で踏み入ったあの行為を、自分のためだと受け入れるというのか。その、微笑みすら浮かべて受け入れたような態度に、あぁ、と感嘆の吐息が零れた。
 あぁ、この人は優しくて、そして強い人なのだ。私とは、全く違う。唇を、きゅっと引き結んだ。
 私は、私では、このように受け入れることは難しいだろう。目を逸らしてばかりで、そうしてでしか自分を保てないのに。彼のように感謝など、できそうもない。
 違うなぁ、と小さな自己嫌悪を覚えていると、青年はそんなことは、といいながら、何かものいいたげに唇を震わせると、伏目がちになった。あ、睫毛長い。

「・・・先ほどの、ことなのですが」
「はい?」

 歯切れ悪く、ぽつぽつと話し始める青年に首を傾げる。そういえばこの人マフラーもしてないけど寒くないのだろうか。さすがにコートは着込んでいるが、しかし首元はなんだか寒いような・・・あ、ハイネックだ。じゃぁ大丈夫、か?いやでも服装でいうなら私が一番軽装かもしれない。巫女服だしな。これでも背中とお腹にはカイロを貼り込んでいるのだが。あと腹巻は必須アイテムです。これ重宝するよマジで!
 さておき、青年の話に集中しなくては。じっと見つめれば、青年は視線から逃れるように目線をやや斜め下に向けて、重たそうな口を開いた。

「私は、やり直せるでしょうか」

 弱気な声だった。さきほどのハキハキとした口調からは考えられないぐらい弱弱しい。それこそ、さっきまで樹木越しに聞いていた声のように弱くて、私は瞬きを繰り返すと、ふむ、と少し考えるように一拍の間をあけた。

「もう一度、聞きますけど」
「はい」
「あなたの、自分の歌が歌いたい、という願いは、やり直しがきかないような、諦めなくてはならないような、そんな願いなんですか?」
「・・・それ、は」
「私には、詳しい事情はわかりません。ただあなたが今、思うように歌えていないということしかわからないし、それ以上を聞く気は今のところありません。でも、あなたの悩みは、私にはやり直しがきかないような、そんな無謀な願いだとは思えない」

 生きて、そこにいるのに。死んで、どうにかなったわけでもないのに。行動しないのは、それは自分への甘えでしかないのではないだろうか。もしかしたら、本当にどうしようもないことなのかもしれないんだけど。それすら、私には推し量ることも想像することもできないのだけれど。それでも、少なくとも。
 私よりは、可能性はあるはずなのだ。できないわけでは、ないと思うのだ。ねぇ、本当に、取り返しのつかないことだって、たくさん、たくさん、あるんだから。

「例えば」
「・・・」
「極論、ですけどね。それとこれとはベクトルが違うかもしれないんですけど。例えば、親が離婚するだとか、誰かが、死んでしまっただとか、そういうことは、自分ではどうにもできないことで、やり直したい、時間を戻したいと思ったところで、どうにもならないじゃないですか」
「・・・はい」
「でも、あなたの歌は、あなた自身のことだから。動けば、変わるかもしれない。変えられるかも、しれない。諦めなければ、どうにかなるかもしれない。諦めなくてはならないことは、山ほどありますけど。それでも、あなたは、諦めなければ、・・・・叶うかもしれない」

 私とは違って。最後は飲み込み、微笑めば、彼は逸らしていた視線をこちらにひたと合わせ、ぐっと拳を握った。
 その様子を確認して、私、人様にお説教できるほどできた人間ではないんだけどなぁ、と思いながら眉を下げた。致し方ない。成り行きというものだ。こんなことで迷える若人の悩みが解決できるというのならば、偽善も詭弁も使わせてもらおう。
 言葉はなかった。そうですね、とも頑張ります、とも言われてない。ただ青年の握った拳が、最初に握っていた拳の様子とは違うような気がしたから、多少は前向きになったのかもしれないな、とそう思うだけ。もしかしたらまだまだ葛藤しているのかもしれないが、そこまで私は他人の内面に聡くはないし、神主さんのように突っ込む勇気はない。
 ただ、そろそろこの状況も居た堪れなくなってきたので、私は潮時を感じてそっと視線を外すと少し考えた後、懐にいれたままの飴玉を取り出した。

「手を」
「え?」
「手を、出してください」
「こう、ですか?」

 手を出すように言えば、戸惑い、怪訝そうにしながらも素直に差し出す青年に、この人いい人すぎるんじゃ、と思いつつ自分の手よりもずっと大きいその掌に、飴玉をころりと一つ転がした。きょとん、とした顔が、なんだか青年をいくらか幼くしたように見える。
 というか、この人、実は私と年違わなかったり・・・?いや中身じゃなくて肉体年齢の話だが、なんだか思ったよりも幼い印象になって大人びてんな、と思いつつ(人の事が言えない?私は事実中身があれなんだよ!)そっと距離をとった。

「これは」
「歌、歌うんですよね。なら、喉痛めちゃ駄目ですよ。冬の空気は乾燥しますから」

 それだけ言って、では、と頭を下げる。青年はじぃ、と掌に転がった飴玉を見つめていて、私が背中を向けたことでやっと意識がこちらに向いたのかあ、とかなんとか声が聞こえたけれど、私はあえて振り返らなかった。というか、その頃にはすでに走り出して事務所の方に逃げ出していた。いや、だってもうこれ以上あの空気に耐えられない・・・!私、頑張った。すっごい頑張ったからもう勘弁して!
 事務所の中にどたばたばったーん!駆け込みながら、暢気にお汁粉啜ってる神主さんを、恨めしくねめつけた。
 この、いい人の顔をして(いや実際とってもいい人ではあるんだけど!)存外やり手な神主さんは、息を切らせる私をお汁粉を持ったまま見上げると、にっこりと微笑んだ。

「やっぱり、ちゃんはいい巫女さんになれるよ。うちに就職しないかい?」
「考えておきますけど、神社はお悩み相談室じゃないですよ!」
「いやいや、神頼みがあるぐらいだもの。悩み相談だってあると思うよ」

 けろっとした顔でのほほんと答える神主さんに、思わずがくぅ、と脱力したのは、しょうがないことだと思うんだ・・・。
 この人、本当、いい性格してるよね・・・!