六花が全てを埋め尽くした、2月の譚詩曲



 寒空の下、極度の疲労感を覚えながらずるずると足を引きずって辿り着いた我が家のドアに鍵を差し込む。がちゃり、と施錠解除の音を聞きながら、ノブを回して家の中に入ると薄暗い玄関が私を出迎えた。なんの音も聞こえない家の中。ただただ室内の寒さだけが身に染みる。ほんのちょっと前までは、確かに音が溢れていたというのに。
 その空虚な様子に、疲れた体を芯まで凍えさせるような玄関の冷たさに、ほんの少しだけ侘しさを覚えてずるりと鞄を肩からずり落とした。
 だらんと垂れ下がった鞄はかろうじて床にはつかなかったが、それでもぶらぶらと足元で前後に揺れる。玄関から続く廊下の先の暗い室内を見つめながら、小さな溜息を零すとのろのろとした動作で靴を脱ぎ、鞄を引きずるようにリビングに入った。手探りで壁に手を這わせ、天井の電灯のスイッチをパチリと押す。チカチカ、と明滅した後、パァ、と明るくなった部屋に僅かに目を細め、一人で使うには大きいダイニングテーブルの上にスクールバックを置くとリビングから一続きの和室に進んだ。
 和室も暗かったが、リビングの明かりがついているのでさほど問題はない。ぺたぺたと畳みの上を歩きながら、壁際にひっそりと飾ってある写真と位牌の前に腰を下ろした。
 仏壇はない。買う余裕がなかったからだ。小さい仏壇でもなんでもいいから欲しいところだが、これからの学費やら生活費やらを考えると仏壇を揃える余裕がなく、位牌と遺影、それから簡単な仏具だけしか揃っていないそれはどこか申し訳なく、小さな机の上で簡素な祀られ方をしているそれに、いつかちゃんとした仏壇を買おうと誓いを改めた。

「・・・ただいま、お父さん」

 写真の中の笑顔の父にそう声をかける。あの聞きなれた低い声が、おかえりと返してくれることはなかったけれど、穏やかに微笑む父の顔を見ればいくらか癒されたような心地がしてほっと表情を緩めた。
 朝に火を消したままの蝋燭に再びマッチで火をつけ、線香に一本火をつけて立てる。
 小さなリンを軽く叩いて高い音をたてながら、手を合わせて静かに目を閉じた。煙が立ち上る線香の匂いが部屋中に広がっていく。しばらくそうして手を合わせてから、今日あったことを話すようにとつとつと口を開いた。昔から、作曲をしていた父は修羅場になればなるほど人の話をせがんでいたものだ。多分現実逃避だったのだろうが、その分勢いに乗ればちぃっとも人のことなんか気にかけない人で。
 それでも仕事が終われば、いつだって満面の笑みで私を呼んだ父へ話しをすることは嫌いじゃなかった。だからこれは習慣のようなものだろう。
 今日、早乙女学園に受験しにいったよ。学園長が規格外すぎて正直受かりたくないな。あとやっぱり芸能専門だけあって人間の顔のレベルが高かったよ。教師も現役アイドルらしい。すごいよね。

「それと、学科試験がなくなったのを喜べばいいのか、悲しめばいいのか・・・」

 あれだけ勉強した意味はなんだったのか。本来は学科実技込みのはずだったのだが、学園長の気まぐれか思いつきか、学科は省いて実技込みの面接しかなかったのだ。
 この辺り、大川学園長を思い出してなんともいえず顔を顰めた。突然の思いつきで振り回された経験はいかほどか。久しぶりの非常識に様々なことが脳裏を駆け巡ったが溜息一つでそれらを断ち切った。・・・私はまだ耐性があったからマシなものの、他の子達は大丈夫だったのだろうか・・・。なんだかんだ予想外の展開に流されるだけだった受験のことを思い返しつつ、それにしてもあの面接は鬼畜だった、と項垂れた。
 面接ついでに即興でピアノ弾けとか鬼すぎる。せめて楽譜ぐらい欲しかった。もうボッロボロだ。あれはセンスを求められていたのだろうか。作曲コース志望だから?

「だとしたら、私落ちたよねー」

 いや本当、普通に既存の曲を弾いたからね。選曲も普通だったし。技術も別にプロ目指してるわけでもないから並程度のものだったし。うん。・・・まぁ、正直受かりたいとは思ってないのでこれはこれでよかったのかもしれない。あそこでやっていける自信が私にはないよ、お父さん。

「ごめんね。お父さんは学園に行って欲しいんだろうけど。無理だよ、私には」

 作曲家に、なって欲しかったのだろう。あるいは、アイドルだったのかもしれない。どちらにしろ、叶えられなかった夢を私に見ていたのは間違いないはずだ。父がみた夢。母が見限った夢。へにょ、と眉を下げて、笑顔のまま時が止まった父をみる。
 父の夢を、私は支えるだけでよかった。私がなりたかったものじゃなかった。それでも父が望むなら。少しぐらい目指そうかと思った。でも、ちょっと、無理そうだ。
 実力的にも、あの学園の校風的にも。多分、ついていけない。色んな意味で。そもそも、面接時点で色々とあれだった。他の子もあんな無茶振りされたのだろうか。あぁ、ピアノの件ではなくて、なんていうか。

「まさか面接で料理する羽目になるとは思わなんだ・・・」

 そもそもの発端は私が履歴書の特技の欄に料理・読唇術とか書いたからで、読唇術にくいついてきた月宮先生(あの女装アイドルだとまたしても遅れて認識した)から何故か早乙女学園長(え、あんたも面接官かよ!)まで交えて読唇術を披露する羽目になって。
 そうしたら学園長が何故か出汁巻き食べたいとか言っていて、それを読んだら何故かそのまま料理する羽目になったのだ。いや、全くわけがわからなかった。何故そこで出汁巻き。何故実践。驚きなのは学園長が指一つ鳴らしただけで即座に教室にキッチンが出現したことだろうか。兵太夫達がとても喜びそうなカラクリ仕掛けの学園である。
 おかげで拒否権など存在しているはずもなく、流されるままに料理をする羽目になって。まぁ喜んでもらえたみたいなのでそれはそれでいいんだが、これは面接に関係あったのだろうか・・・?多分今日一番の疲労の原因はこれだな、と思いながら、ぽとりと線香の灰が落ちたのを合図にすくっと立ち上がった。

「そろそろバイトに行かなきゃ」

 呟き、父にまたね、と一声かけてから、制服を着替える為に和室を後にした。