舞い散る桜の奥に鼓動を感じた、4月の協奏曲



 ひらひらと開けた覚えのない窓から入る風にカーテンが煽られる。
 僅かな隙間分空いた窓の向こう側はまだ明るさを残すものの陽も大分落ちていて、夕闇を近づけては庭の木々の陰を濃くしていた。鬱蒼と高く生い茂る庭木がざわざわと葉を擦れ合わせて、黒くなっていく影に複雑な動きを与えている。部屋に満ちる空気に、不快さを覚えて眉を潜めた。僅かな澱みが、どこからともなく漂ってきている。不快さに自分の肩を抱くように引き寄せながら、外の様子から視線を窓の下に設置されているベッドの上に落せば、あまり高くはない枕元で、黒い毛玉が転がっていた。ベッドに毛がつくなーとか、泥とかついちゃわないかなーとか、ふと脳裏を過ぎったが、それよりも何よりもどうしてここに黒い毛玉が、と目を丸くさせる。頭の上のピンとたった三角の耳とか、丸くなった背中とか、ゆらゆらと先の揺れる長い尻尾とか、どこからどうみても枕元で蹲る黒い毛玉は猫にしか見えない。
 何故猫。どこから猫。どうやって入った猫。あれ?ここ二階だったよね?いや猫だから身軽だろうけど、しかし何故あえて一階ではなく二階のしかも私の部屋?
 それに私、窓閉めてなかったっけ。猫一匹が通れそうな僅かな隙間分あいた窓を再び見やり、自力であけたのか?と首を傾げた。あの窓、外から開けられるようなタイプの窓だったっけ。疑問点は数あれど、現実は窓は開いていて尚且つ猫が人様のベッドに我が物顔で寝転んでいるというものだ。いやまぁ猫好きだし可愛いからいいっちゃいいんだけど。
 そう思いつつ、買ってきた荷物を床においてそろそろとベッドに近づいた。逃げるかな。逃げないかな。逃げないならちょっとぐらい触っても平気かな。
 うずうずと小動物を愛でたい気持ちを抑えつつ、寝転ぶ黒猫に近づき、ぴたりと動きを止めた。目も覚めるような鮮やかなターコイズブルーが、二粒。薄っすらと開いた瞼越しに目が合い、咄嗟に息を呑んだ。
 ふるり。三角の耳が動き、力なく投げだれた四肢に薄い瞼が瞬きを繰り返す。隠れては現れるターコイズブルーの双眸に、飲み込まれるように視線が吸い寄せられ、きゅっと眉を寄せた。

「・・・ねこ?」

 疑念が、言葉に宿る。動物にあらざる理性的な目。知性を窺わせるターコイズブルーは、しかし何故か力はなく疲労を訴えていて、ただ寝ているだけなのかと思いきや、弱りきった様子で横たわっていたのだ。けれど、何故かすぐに近づくのは憚られた。もう一歩、近づけば容易く手が届くというのに、何故かそのもう一歩が踏み出せない。躊躇いを見せると、猫は何故かふっと微笑むように目を細めると緩くまた目を閉じてしまった。
 思わずびくりと肩が跳ねる。まさか、という思いと言い知れない違和感が鬩ぎ合いながら、視線を泳がせ、軽く溜息を吐いてそっと一歩を踏み出した。
 容易く埋まる距離に、ぺたりとベッドの横に腰を下ろして視線の高さを猫に合わせる。本来ならばつやつやと綺麗な天使の輪を描くのだろう黒い毛並みはなんだか汚れと、疲労故かぱさついてるようにも見えて、栄養が足りないのだろうか、と少し考える。
 ・・・いや・・・しかし・・・これは・・・。目を細め、浅く早く呼吸を繰り返す猫の上下する腹部を観察しながら全体を見渡してぐっと眉間の皺を深くする。猫の体を覆う違和感。雁字搦めに何かを巻きつけられたような、無理矢理に小さな器に物を押し込められたような、掛け間違えたボタンのようなどうしようもない違和に口元を掌で覆いながらそっと手を伸ばした。
 指先で、そっと毛並みに触れる。ピリリ、と指先に走る僅かな痺れ。拒絶を含んだ抵抗感に、これは、と息を呑んだ。猫もその感覚に気づいたのか、ぱちりと閉じていた目をあけて重たそうな首をもたげた。こちらを見る目が丸く大きくなったところを見るに、驚いているのだろうか。いや、しかし、驚くのはこちらの方だろう、と思わず苦虫を噛み潰したような顔で渋面を作る。・・・この感覚、覚えがある。

「・・・・ご飯、食べられる?」
「・・・なぁう」

 何かを言いかけ、けれど言いたいことを飲み込み私は全く違うことを口にした。猫は私をまじまじと見つめながら、肯定を示すように小さく鳴いた。それからぱたり、と尻尾を振り、きらきらと先ほどよりも少しばかり力の増した目で小首を傾げる。純粋に可愛いな、と小さく微笑を浮かべて、そっとその背中を一撫でしてから立ち上がった。

「寝ていていいよ。疲れてるでしょう?出来たらもってくるから、大人しくね」
「にゃぁ」

 声をかければ、意味を理解しているかのようにまたしても猫は返事を返す。これが本当に意味を理解しての返答なのか、偶々鳴き声をあげているだけなのかはわからない。できれば後者であれば別段気にかけることもないのだが、と思いながら寝転がる猫に背中を向けて床に置いた買い物袋を掴みあげるとキッチンへと向かった。
 調理台の上に買い物袋をどさり、と置いてこちらから猫があまり様子が見えないことをいいことに、うーん、と低くうなりながら溜息を吐いた。

「あれ、多分・・・呪詛、だよ、ね・・」

 多分であって、絶対ではない。というかこの世界に、いやこの時代?なんでもいいが、ここに呪詛なんていう非科学的なものが存在するはずがないと思うのだが・・・あぁでもあの感じ、似てるんだよねぇ。
 腕を組んで顎に手をそえつつ、視線をやや上に固定してもし本気で呪詛、あるいはそれに近い何かだとするならば、何故あんな猫にそんなものがかけられているのだろうかと思考を巡らした。
 誰かを呪うための媒介?猫を使って?犬ならば犬神という呪詛も存在するからわからないでもないが・・・猫を使ってとなるとあんまりないような。それともあの猫は誰かが可愛がってる猫だとか?ならばその繋がりを使って対象を呪詛することも・・・あー!駄目だ!

「そもそも専門じゃないし。景時さんじゃないし。弁慶さんでもないし。わかるわけないっての」

 てか、呪詛だと決まったわけでもないし!いや確かにそれっぽいなとかメッチャ不快だとかなんかもう穢れたもので一杯だったとかあったとしても!この世界に!そんなものがあるわけがない!そう言い聞かせて、思考を投げ捨てるとさて、と食材と睨みあった。

「・・・何食べさせたらいいのかな・・・」

 とりあえず人間と同じ味付けは駄目だよね。・・・・・・・・・・・駄目、だよね?ちら、とキッチンから顔を覗かせてベッドを見れば、猫はぱたぱたと尻尾で枕を叩きながらこっちを見ていた。じぃ、と見つめるターコイズに言い知れない居心地の悪さを覚えつつ、顔を引っ込めて多分、普通の、猫のはずだし、と言い聞かせるように繰り返す。あれは猫だ。猫。呪われてそうとかなんか知性がありそうとかあっても、所詮猫なのだ。・・・猫で、いい、はず!
 吹っ切るように拳を握り、牛乳とお米を取りだして手を洗う。今日はミルクリゾットにしよう。なんか弱ってるみたいだし、胃に優しいものがいいだろう。ついでに自分の晩御飯もそれに決定。味付け、はまぁいくらでも変えれるし。
 そんなことを考えながら、手早く準備をしてことこととリゾットを煮込む段階にまで持っていく。ご飯は部屋の片付け前に炊いていたのでよかった。いや絶対疲れてご飯を最初から炊く準備とかめんどい!って思ってたんだよね。グッジョブ私。
 ぐだぐだ考えつつ、出来上がったリゾットを器・・・人間用しかないんだが、まぁしょうがないか。とりあえず器に盛ってベッドまでもっていく。ちなみに具などは一切いれていない。いっそミルク粥といってもいいような感じだ。だって猫だもの!

「にゃんこー。起きれる?起きれそうだったらベッドから降りようね」
「にゃあ」

 さすがにベッドの上での食事は許しませんよ。零したりしたら泣くからね!まぁ起きなかったら無理矢理下そうと考えていたのだが、やはりこちらの言葉を理解しているかのように体を起こして身軽にベッドから降りた猫になんとも言えない顔を作る。
 利口な猫ちゃんね、と素直に感心できればそれに越したことは無いのだが・・・。覚えた違和感に素直に受け取ることもできず、やはり微妙な心境でいつつも猫に悟られないように器を床の上に置く。猫は先ほどよりもなんだか元気になった様子で、器の前にいくとひくひくと鼻を動かしてリゾットに顔を近づけた。一応冷ましてはいるけど、まだ熱いかな。
 まぁ熱ければ冷めるまで待つだろ、と考えながら踵を返してキッチンに戻る。自分用のリゾットはちゃんとベーコンとかブロッコリーとかいれて味付けもしっかりつけたものを持って部屋に戻り、ローテーブルの上において座布団の上に腰を下ろした。
 猫を見れば、どうやら熱さは問題なかったらしい。はぐはぐと食べていたので、味的にも問題はなかったみたいだな、とほっと胸を撫で下ろした。まぁほぼミルクの味しかしないような薄味のそれだけどね。動物に人間と同じ塩分比率のものって体に悪いんだよ?

「頂きます」

 誰もいないけど、何故かその習慣だけはなくなることはない。手を合わせて挨拶をすれば、猫がにゃぁ、とないた。どうぞ、と言われたような気がして、少しだけ口元が綻ぶ。
 思わず手を伸ばして猫の顎下を擽ればごろごろと喉を鳴らして目を細めた。かーわいーなー。

「・・・久しぶりかな、一人じゃないご飯は」
「なう?」
「君は人じゃないけどね。・・邪魔してごめんね、ご飯食べてていいよ」

 喉を擽っていた手を止めて引っ込めれば、ターコイズブルーの瞳がじっとこちらを見つめる。見透かすような目は苦手だな、と思ったが別段やましいことは何もないので、私は微笑みを返してスプーンでリゾットを掬った。黙々と口に運べば、猫はそれ以上何も言わず(猫なんだから何も言うわけないのだが)またリゾットに向き合う。
 しばらく食器の擦れ合う音と猫の咀嚼する音が室内を満たしていたのだが、やっぱりこう、会話がないと寂しいよね。かといって猫相手に話しかけてもただの寂しい人でしかない。いや、この猫ならば会話が成立しそうな気もするんだが、それを試したいとは思わないので(藪を突いて蛇を出すのは本意ではない)、結局無言で食べ終えると、猫も食べ終わった器を持ってキッチンへ戻る。多めにつくったリゾットは明日の朝食に姿を変えるだろう。そして今日買ったパンと一緒に食すのだ!
 あとは食後のお茶を用意し、再び寝室に戻れば猫はぺろぺろと毛並みを整えていて、なんかすっかり寛ぎモードだった。
 くるくると顔を洗って、首を巡らして背中をぺろぺろ。思わずその行動を凝視すれば、視線に気づいた猫が顔をこちらに向けて、にゃーお、と鳴いた。
 そのまま座っている私の膝に乗ってくるので、とりあえず好きなようにさせておく。相変わらず猫には違和感を覚えてしょうがないのだが、いくらか薄まったようにも感じたので、これぐらいなら問題はないか、とその背中を手持ち無沙汰に撫で付けた。
 猫は膝の上にちょこんと座っていたが、やがて背中を丸めて寝る体勢に入る。ちょっと寝られると身動きとれないんですけど、と思ったが、寛ぐ猫が可愛すぎたので、しょうがないなーと思いながらそれを甘受することにした。猫可愛いよ猫。
 お茶を飲みつつ、猫の乗る膝を崩さないまま上半身だけ伸ばして鞄を引き寄せ、明日からの授業に備えての教科書を取り出していく。専門書みたいなものやっぱ多いなー。
 これマジでついていけんのかな、と思いつつ、明日の時間割などを見比べて教科書とノートを揃え、鞄を脇に退けてからなんとはなしに猫の毛並みを撫で付けた。
 掌を滑る柔らかい黒い毛が気持ちいい。上下するお腹の動きとか、あったかい体温とか、膝にかかる体重とか。落ち着くな、と思いながら猫の背中をじぃ、と見つめる。

「・・・・さすがに、元をどうにかしないと無理か」

 呟きに反応し、猫が顔をあげる。疑問を浮かべるように傾げた小首がベリィキュートです猫素敵。・・いや、まぁ、呪詛なんてないない!とか言ってるわけだけど、なんてか、うん。
 ・・・・・・・・・・・やっぱそれっぽいんだよねーと思うと、気になるもので。遙かにいた頃なら多分、呪詛の種に触れるだけでそれは浄化された、はずなのだが・・まぁここはあの世界ではないし、私にそんな能力が今だ備わっているかなどわからないし。
 多分もうそんな力はないんだと思うんだけど・・・もしもあれば、この猫にかけられたものを解けるかな、とか思う気持ちも少なからずあるわけで。けど、うーん・・なんだろうな。
 それとはまたちょっと違う、のだろうか。縛りつけられている気はするんだけど・・・系統が違う?よくわからないけど・・まぁ、結局。

「・・・ごめんね」
「にゃあ?」
「お腹が空いたらいつでもおいで。ご飯ぐらいならあげられるから」

 微笑み、見上げてきた猫の頭を撫でてこの子の視界から自分を隠す。多分、情けない顔をしていると思うから。口元だけあげて、眉が下がっている申し訳なさそうな顔、見せるわけにはいかない。猫はそんな私の様子など気がつきもしないで、撫でられるがままににゃあ、と鳴き声をあげる。ぱたぱた揺れる尻尾が床を叩き、撫で付けた黒い毛並みに軽く指先で筋を描く。
 結局、この猫が呪われているのだとしても、それをどうにかする術があるのだとしても。
 私は、わざわざそれを探してまでどうにかしようとは思わないし、できるならば知らないふりをしたままでいたいと思っている。このまま、何も気づかないフリで、この猫をただの猫なのだと思わせたままで。
 そうして、平穏に過ごしたいと、思っている。この猫にしてみれば、気がついたならば助けてよ、と非難されそうなことだと思う。だが、それでも、私は、我が身がどうしても可愛いのだと、自嘲を浮かべて顎下を擽った。


 普通でいたいの。平穏でいたいの。特別なんていらないから、だからどうか、見過ごす私に、気がつかないでください。