気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
薄っすらと眠っていた意識が浮かび上がる頃、てちてち、とやたらと柔らかくてくすぐったい感触が頬を刺激する。その刺激にまどろんでいた意識もすんなりと浮上すると、連動して開いた瞼に映るのは天井だ。それから首をずらして横を向けば、ターコイズブルーの目がぱっちりとこちらを見下ろしている。視線が合うと、人間臭く細められた目でにゃぁ、と可愛らしい声が鋭く尖った乳白色の歯が並ぶ口から聞こえて、もう一度きれいなピンク色をした肉きゅうが頬にあてられた。ぷにって、ちょっと冷たい感触がいい具合に寝起きの脳みそを刺激する。
なんだこの幸せすぎる目覚まし。ふにふにでぷにぷにでいつまでも弄っていたくなる肉きゅうが頬を押してぷにゅう、と歪む。あぁもう可愛すぎるなんだこの愛らしい生き物。萌え死にさせる気か上等じゃないか悶え死ねるわ。にゃんこ最高肉きゅう最高。超可愛い。
朝からぐあっと上がるテンションに衝動が抑えきれず、黒猫の肉きゅうパンチにへらりと相好を崩して頬に押し当てられる前足をそっと掴むとちゅっと肉きゅうにキスをした。唇ごしの冷たくてぷにぷにな肉きゅうが堪らない。爪を立てることもなく、ざらざらとした舌で舐めてくることもなく、この人を魅了してやまないぷにゅぷにゅの肉きゅうで朝を告げる黒猫はもうすでに癒しだ。癒し以外の何者でもない。
愛猫家なわけじゃないけど、しかしこれは動物好きには堪らないはずだ。しかも肉きゅうに触られるのもこうして腕を捕まれるのも、本来猫は好まないはずなのに嫌がる素振りもせずにされるがまま、むしろ嬉しそうに尻尾をひゅんひゅんと揺らす黒猫に、この子本当人馴れしてるよなぁ、と思いながらむくりと起き上がった。
「おはよう、にゃんこ」
「にゃあ」
出会ってからこの方、朝と夜だけ入り浸る居候はまるで人の言葉を理解しているかのように返事を返す。その様子も慣れたもので、黒猫の頭を撫でてからベッドから足を出し床に下ろすと、すとん、と猫もベッドから飛び降りた。最早飼い猫な勢いだが、今だ私はこの猫に名前をつけていない。・・・まぁ飼っているつもりはないしね。朝夕気がつけば不法侵入を果たす猫だが、本来この寮はペット禁制だ。ばれたら処分は免れまい。それに、まぁ、なんだ。なんか、どの名前もしっくりこないのだ。この子にはもっと別の名前があるようにも思うし、下手に名づけて愛着がわくのもどうかと思うし。いや愛着の問題はすでに無駄な気もするが。足元に擦り寄るにゃんこが歩く邪魔だとは思うが、するりするりと尻尾をピンと立たせてまとわりつく姿は可愛いとしか言いようがない。あれメロメロだな私。
仕方ないよね。こんなに可愛いんだもの。まぁとりあえずそろそろ一ヶ月は立とうかという頃なのに名前をつけていない問題は棚上げして(にゃんこでも十分通じるし)、パジャマのまま簡易キッチンへと向かう。自分の朝食と猫の朝食(最早習慣化している)それから父へのご飯とお茶を用意して、猫と一緒に朝食を食べる。身支度を終えて部屋を出る頃には、猫は部屋の中でちょこんと座って私を見送るのだ。行ってきますを言っても虚しかった部屋に、初めてぬくもりが灯ったようなくすぐったさを覚える。ドア口で振り返れば、にゃんこは小首を傾げてこちらを見ていた。綻ぶ顔を、抑えきれない。
「行ってきます」
「にゃぁお」
いってらっしゃいって、あの子は言ってくれているのだろうか。
※
この学園の学園長のノリは、なんだか忍術学園の学園長のノリを思い出すなぁ。遠い過去というにはいささか近く、けれども壁一枚隔てたような昔に思いを馳せ、一人背の高い草陰に身を潜め雲が転々とまばらに浮かぶ青空を見上げる。
突然の思いつきで色々無茶振りなところとかゴーイングマイウェイなところとか、・・・本当、似すぎてるぐらい似ててちょっと泣ける。
あぁ、学園長の思いつきに振り回された六年間。主に振り回されてたのは忍たまであってくのたまの方への被害は微々たるものだったけれど、会場の設営とかサポートとか地味に忙しかった記憶が脳裏を駆け巡る。
早乙女学園長、ホント無茶ぶりが多いよね。とりあえず、上に立つ人間ってのはどこか常識の螺子が1、2本ほど外れているものなのかもしれない。傍迷惑な。
そんなことを考えながら、目の前をばたばたを駆け去っていく複数の足元を見送ってむくりを体を起こした。草陰から顔を覗かせ、きょろりと目だけを動かして周囲を探る。右よーし、左よーし、前方よーし、背後よーし。
前後左右、人影がないことを確認して立ち上がると草陰から身を乗り出すようにして姿を現す。しばらく寝そべって隠れていたせいか、制服に草やら葉っぱやらがついて汚れてしまったが、ぱたぱたと払い落として腕につけたワッペンの歪みを直した。
作曲家コースの生徒のみにつけられたこのワッペンは、云わば目印だ。そもそも、何故に隠れているのかというと、学園長の突然の思いつきという他ない。
周囲を警戒しながら、そそくさとその場を移動しつつ、溜息を殺しきれずにはぁ、と吐き出した。・・・朝、授業中に、いきなり校内放送がかかって集合したと思ったら、コース対抗かくれんぼ大会、だものなぁ・・・。意味がわからない。唖然とする周囲もなんのその、いつもはクラス対抗だとかが多いので、偶には趣向を変え、また同じコース同士の仲を深め刺激しあうため、アイドルコース作曲家コースに分かれて勝負しよう、とかなんとかとりあえずいきなり事を起こすのはやめてくれ、というようなことを言い出して、この通りかくれんぼに従事する羽目になった。
まぁ、コース同士、ライバルとはいえ仲間意識を持たせることで、意見の交換やら新たな発見などもしやすくなるのかもしれないが。あるいは、将来社会に出たときになんらかの繋がりもこうして増えていくのかもしれない。利点は冷静に考えれば確かにあるようにも思うのだが、かくれんぼの時点で最早個人プレイではないか?とも思う。
・・・まぁ、探す側であるアイドルコースはなんだかんだ交流が盛んなようではあるが。
作曲家コースも、見かけた限りでは個人で動くもの、グループで動くものと色々あったし、学園長の目論見もあながち的外れではないのかもしれないな、と思う。
しかも大層凝ったことに、隠れる範囲はタイムリミットが近づくに連れて狭まり隠れる場所にも限りが出てくるという有様だ。無論見つかれば即アウト、逃げ出すことはルール違反になるので、見つかればスタート地点にある檻の中に収容される手筈になっているらしい。
ちなみに檻は紛うことなく檻だった。普通の学校になるような白線引いた円の中だとか三角コーンを並べた範囲の中だとかいうちゃちぃもんじゃなくて、どでかい鉄製の檻の中に見つかった作曲家コースの生徒は収容されるのだ。あとついでに言えばアイドルコースの生徒はポリスメンに仮装をしての鬼の探索である。・・・無駄に細部に拘っているので、突然の思いつきじゃなくて前々からの計画だったのかもしれないな。
学園長からの発表があったとき、頭を抱えていた日向先生は相変わらず苦労性の匂いがぷんぷんだった。何も聞かされていなかったことは当然として、風の噂で事務所の会計とか事務処理なんかも彼は手がけているそうなので、衣装だとか檻の手配だとか、タイムリミットを知らせるためだけの腕時計やらの経費について頭を悩ませていたのに違いない。
これだからお金に無頓着な金持ちは!日向先生に同情と、学園長のお金の使い方に憤りを覚えつつも、所詮他人事。私にどうこうできるはずもないので、日向先生にはせいぜいお金の遣り繰りに頭を悩ませて貰うしかない。・・・とりあえず、シャイニング事務所の会計にだけはなりたくないよなぁ。年がら年中頭悩ませそうだ。
そう思いながら、前方の地面を見つめて軽く足を乗せる。ぐっと力をこめれば、ぼこぉ、と音をたてて地面が抜けた。・・・・・・・・・・・また、か。
ぽっかりと開いた空洞に溜息を吐いて落とし穴の横を通りながら、その脇の草陰に身を潜めた。・・・どうも、学園長はこういう余計なちょっかいが好きらしい。というか、ただかくれんぼするだけでは飽き足らず、そこかしこにこのような罠を仕掛けているようなのだ。
隠れていると学園長が面白半分にしかけた罠にかかった哀れな生徒達の悲鳴が時折小さく聞こえてくるので、なんとも言えず恐怖感を煽られる。ちなみに罠にかかった生徒は失格なんだそうだ。おかげでアイドルコースにも脱落者が出ているらしい。無差別な罠ほど怖いものはない。こっちはいくらか慣れているから回避のしようもあるが・・・わからないものはほんとわからないからな。でも落とし穴については自信がある。なにせ天才トラパーと有名な某先輩の蛸壺を見続けてきたのだ。そりゃ慣れるってもんだよ。
そうしてわざと晒した落とし穴の横で隠れることしばらく、時計の針もタイムリミットに刻一刻と近づく中、遠くの方から風に乗って何やら騒がしい声が聞こえ始めた。
時計をみてまだ終わらないのか・・・とちょっと残念な気持ちになっていていたので、うん?と緩慢に顔をあげて草の隙間から覗き込めば、何やら少年が顔面を青くさせてこちらに向かって走ってきていた。・・・なんだろう、あのまさに今鬼に追いかけられてますみたいな鬼気迫る様子は。
「馬鹿野郎ーーーー!俺を追いかけるんじゃなくて作曲家コースの奴を探せえええええ!!」
「一緒に探そうよー!翔ちゃーーん!」
走りながらよくまぁそれだけお腹から声出せるな、というほど大声を出して走り去る警察帽を被った少年の後を、金髪の眼鏡をした青年が無駄ににこやかな表情で汗一つかいた様子もなく追いかけている。・・・・これは怖い。逃げてる方の必死さが伝わる分、あの無駄にきらきらした笑顔が無駄に恐怖感を煽っている。お互い警官のコスプレをしているからまた妙な光景だったが、これで逃げる側が別の格好であればある意味で逃げる犯人、追いかける警察、という図式であっただろう。しかし二人とも警官の格好なので、アイドルコースなんだなぁ、と奇妙な追いかけっこを眺めて思考を巡らせる。なんか、交通安全課とかにいそう。それか交番とかにいそうな地域密着型の警察。しかしなんで眼鏡のほうはあんな全開の笑顔なんだ。全く疲れてなさそうなところが余計恐怖感を煽っているよ。
くんなあああああ!!!とドップラー効果を出しながら目の前を全力疾走した少年は、しかし進路上にぽっかりと開いた穴に気がついてげっと声を出して急ブレーキをかける。
その反動に煽られて、ざわざわっと葉っぱが揺れ動き私の前髪も少し乱れた。いやどんだけ凄い勢いなの君。
「なんでこんなとこに落とし穴が・・誰かかかってんのか?」
ぼそっと呟くが、後ろから「翔ちゃーん!」と聞こえた声に、少年ははっと顔をあげてくそ、と舌打ちをした。落とし穴をちらちらと気にかけつつ、誰かいんのか?と一度声をかけてから、反応がないことを確認して落とし穴を避けるように再び走り始めた少年に、私はおぉ、と感心したように息を詰めた。・・・逃げてるくせになんて律儀なんだ、あの人。
へぇ、と、感嘆の声を出しつつ、続いてそれを笑顔で追いかける青年の足元が目の前をにこやかな表情とは裏腹の凄まじいスピードでびゅんと駆け抜けていく様に、そっと目を細めた。
「翔ちゃーーん!どうして逃げるのーー?」
「お前が追いかけるからだああああああ!!!」
遠のく声に、あぁ、あの金髪眼鏡さんは天然なのかな、と思いながら顔をあげる。すでに小さくなった背中に、あれは最早時間まで当初の目的忘れて追いかけっこに興じるんじゃなかろうか、と思って、まぁそれはそれで、と思い直す。うん。なんかよくわからんが、追いかけられている方、色々ガンバレ。あの一瞬で、きっといつもあんな感じなのだろうな、という日常がリアルに思い浮かばれて同情心がわく。関係ないんだけども。
まさか彼もこんな草葉の陰から赤の他人が同情しているとは思うまいなぁ、と思いながら、あえて露出させた落とし穴の意味がなかったことに残念に思いつつ、しかしこれは露出させておいてよかった、とほっとしていた。
だって、あのままじゃ確実にあの子この落とし穴に嵌ってたもの。あの勢いじゃぁ怪我もしていたかもしれないし、事前に怪我の危険を回避できたのは意図したことではないとはいえ純粋によかったと思える。そもそも落とし穴なんぞしかけるなと言いたいところだが、あの学園長には何を言っても無駄なので口はしっかりと閉じておこう。
さておき、ある意味面白い光景をみたな、と草陰に寝そべりつつ支給された腕時計に視線を落として、時間の確認をする。・・・あと四十分か。確かリミットの三十分前になったらまた範囲が狭まる放送がかかるはずだから、そろそろまた移動の時間かな。
またあの爆走している二人が戻ってこないだろうか、とちょっとした懸念もありつつ、あの様子なら逆走はないだろう、と思い直して草陰から立ち上がり、うんと背伸びをした。
「次どこ隠れようかなー」
のんびりと呟きながら、ほてほてと歩き出した。
タイムリミットのアラーム音が鳴り響くまで、あと三十五分。無事隠れ遂せたことは、言うまでもない。だって私、遁術と気配の消し方とかだけは、忍術学園でもトップクラスだったからね!