気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
果たしてこの美形だが不審者でしかない青年に拉致られてどれぐらいの時間が経ったのであろうか。実をいうとそんなに経過はしていないのだろうが、こう、精神的にというか周囲の目だとか、抱き上げられて走っているからこその振動とか、まぁ諸々の苦痛により通常の倍は長く感じている。
いっそ気絶した方が楽なのでは、と思うのにこの程度では気絶もできない自分の耐性が恨めしい。あぁ、この問答無用で連れまわされる感じ、なんだか体育委員会の様子を思い出すわぁ。あと借金取りから逃げる時とか。
恐らく死んだ魚のような虚ろな目になっているだろうそれを半目にすると、人一人抱えているというのに疲れた様子もない青年が、あ!と何かを見つけたように声をあげた。
「翔ちゃ~~~ん!」
「げっ那月!?」
・・・・・・・・どうやら、ようやく目的地に着いたらしい。最早抗う気力もなく為されるがままになりながら、弾んだ声をあげて「翔ちゃん」とやらに駆け寄る青年に、深く安堵の溜息を吐いた。
あぁ、これでやっと開放されるのか・・・。最早思考回路さえもままならないほどに疲れきった状態で、ただただ青年に身を任せたままでいると、不意にがくりと体が揺れた。うお!?
「翔ちゃん可愛い!ぎゅー!」
「だああぁぁぁ!!やめろ那月ーーー!!」
「く、くるし・・っ」
なんなんだ?!拉致られてこの上何が起こったというんだ?!疲れと周囲の視線から逃げるためにも俯いていたために、周囲の状況というものを把握していなかったためか、突如体を横から押し付けられるような、更にきつく抱きしめられたような圧迫感に、顔を顰めた。
しかも丁度横で大声が聞こえるし・・・思わず顔を上げれば、帽子を被った美少年が心底嫌そうな顔をして、私と同じように青年に抱きしめられている。唯一違うといえば、私は完全に足が宙に浮いているが(なにせ抱き上げられたまま拉致られたので)、青年はまだ地面に足がついているということだけだろうか・・・。あんまり動かれるとこちらにも被害がくるのだが少年よ。
しかし、そんな少年の必死の抵抗も、この綿菓子みたいな青年にはそよ風程度の抵抗でしかないのか、にこにこしながらぎゅー!なんて言って更に腕の力を強めて・・・あ、ヤバイ。マジでちょっとヤバイ。
隣が暴れ捲くっているので逆に大人しくせざるをない状態で、更に力が篭められた腕に眉が寄る。ちょっと、本気で、息が。くっと唇を引き締めると、今度は別の方向から慌てたような声が割って入ってきた。
「ちょっと那月も翔も落ち着いて!ストップストーーーップ!!」
「はい?」
「なんだよ音也!」
「なんだもかんだも!那月、その子どうしたのさ!?」
声が慌てて止めたおかげか、一瞬抱きしめる腕の力が弱まり、圧迫された肺が少しだけ余裕を持つ。あぁ、やっと気がついてもらえた・・・!思わず止めていた息をゆっくり吐き出すと、横から「うおぅ?!」とまたしても大きな声が聞こえて顔を顰めた。
「な、那月おま・・・!なにやってんだ?!」
「えーと、図書館で見つけたので、連れてきちゃいました。翔ちゃんたちに紹介したくって。フランソワーズに似てとっても可愛いんですよ!」
「見つけたのでって・・・お前なぁ・・・」
「・・・それよりも、そろそろ開放してください・・・」
にこにこと、相変わらず空気を読んでいるような、それでいて全く読んでいないような、とにかくゴーイングマイウェイな青年に、同じく腕の中で今だ捕獲されたままの少年が呆れたように目を半眼にしていたが、そんな問答の前にいい加減下してくれ、と疲労感の滲む声音で小さく訴える。
腕の力は緩んだものの、今だ足は地面とは遠い。そろそろこの心許ない足元もどうにかしたいのだが・・・。控えめに、というよりも諸々の事情で気力がないといったほうが正しい。
訴えれば、はっと横の少年は大きな目を更に大きく見開き、そうだよ!とまたしても元気良く声を張り上げた。・・元気だなぁ、少年。
「那月、いい加減放せ!そいつも顔色悪いじゃねぇか!」
「えー」
「いやでも本当、翔はともかくそっちの子は下してあげたら?てか図書館で見つけたって、図書館からここまでずっとその状態だったわけ?」
「渋谷!俺はともかくってなんだ俺はともかくって!」
「まぁまぁ翔。落ち着いてよ。なんかマジでその子顔色悪いし・・ね、那月。その子下してあげよう?」
「・・そうですね。ずっと抱っこしてきましたから・・・翔ちゃんだけで我慢します」
「いやだから俺も放せよそこは!」
そうきゃんきゃんと喚く少年を華麗にスルーし、ものすごーく名残惜しそうなのだが、抱き上げられていた腕の力が緩むと、ゆっくりと地面に向かって下された。とん、と爪先が地面につくと、なんともいえない安堵感が全身を包む。あぁ、やっと地に足がついた・・・!何より開放感が半端ない。常に密着していた人肌から開放され、圧迫されていた腕の力もない。反射的にほぅ、と吐息をつくと、不意に目の前が陰り伏せていた目をあけて前をみた。
視界一杯に、鮮烈なほどの赤と紅が目に入る。・・・・・・・・・ん?
「大丈夫?ごめんね、那月も悪気があったわけじゃないんだけど・・・」
「図書館からあの状態だったんでしょ・・・本当、とんだ災難だったわね」
全くです。言いながら、同情心たっぷりに見つめてくる美少女、いやこれは美女の領域に片足突っ込んでいる文句なしの美人さんだ、眼福!と、眉を下げて心配そうな顔をしている美形の青年に眉を動かす。・・・この青年は、確かAクラスの一十木君とやらではなかったか?
以前窓から見た青年の、目に痛いほどの鮮やかな髪色に思わずうわぁ・・と思ったが、顔には出さずにやんわりと首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。ちょっと吃驚しましたけど・・・」
むしろ物凄い吃驚はしたんだけど。途中からそれどころじゃない状況にあったので、すでに最初の驚きなど遠い彼方に放り捨てられている。疲れたように微笑みを浮かべれば、一層同情の視線が集まった気がした。それに苦笑を浮かべると、あぁ!と小さな声が赤い二人組みの後ろから聞こえてきょとんと瞬く。
「あの時の!」
「へ?」
正面に立つ二人の間から、身を乗り出すようにして前に出てきたサーモンピンクの女の子。大人しそうな外見の割に、二人を押しのけて出てきた姿は結構大胆なのかもしれない、とそんなことを考えながら、私の前に立った女の子に私も目を見開いた。・・・この子は。
「え?なに?知り合い?」
「七海の知ってる子?」
「え、えぇっと、知り合いというか、その、私が楽譜が読めなくて悩んでいたときに、助けてくれた人なんです!」
私と女の子・・・七海さん?を見比べて、驚いた様子の二人に七海さんは頬を紅潮させて力んだようにぐっと拳に力をいれた。そこまで力まんでも、と思いつつ、私はあぁやっぱり、と一人頷く。あの時の子だなぁ。そうか、うん。・・・これ、なんのフラグ?
一抹の懸念が過ぎると、一十木君が髪と同じ色の赤い瞳を丸くさせてこの子が!?と声をあげた。美人さんからはなんだかマジマジと見られているのだが、え、なに。どうした。向けられる視線の意図を掴みかねて忙しなく視線を泳がせると、眼前に整った顔がきらきらとした目で覗きこんでくる。ぎょっとして顎を仰け反らせると、一十木君がにこ、と無邪気な笑みを浮かべて見せた。
「そっか!君が七海の恩人なんだね」
「恩人・・?」
「春歌が落ち込んでるときに素敵な曲を弾く人と会ったって、ずっと言ってたのよね。あんただったの」
・・・・・・・・・助けたっけ?いや、悩み相談というか愚痴ぐらいは聞いたし、まぁ成り行き上多少の言葉はかけた。うん。それは確かなのだが、恩人と言われるほどのことではないと思うのだが・・・。あと素敵な曲というか・・・・それパートナーに完全否定された曲なんですけど。いや、感想は個人の自由だからまぁあれとして。しかし素敵と言われるほどのものではないような気がね・・するんですよ。うん。完全否定だからね!
何か大袈裟に伝わっているような気がする、と思わず顔を引き攣らせた。
「いえ、そんな・・・恩人と言われるほどのことはしてませんし・・・曲だって、なんというか、そんな大したものではなくて」
「そんなことないです!」
「うおっ」
やんわりと否定を口にすると、大声で話を遮られて肩が跳ねた。驚いたように目を丸くすれば、はっと気がついたように七海さんがパッと頬に朱を散らせてわたわたと両手を動かした。
「す、すみません。急に大きな声出して・・」
「いや・・・別に」
「でも、本当に、素敵な曲だったんです。それに、あの時あの言葉を聞いたから、私、頑張れたんです。そうじゃなかったら、今こうしてここにはいられなかったかもしれなくて・・・!」
物凄く必死に。なんとかして気持ちを伝えようと。薄っすらと涙目になりながら、懸命に言葉を紡ぐ姿に、ポカンと呆気に取られながら、むず痒い気持ちになって咄嗟に視線を下に下げた。・・・なんだ、この妙な恥ずかしさは・・!そんな大したことしてないってほんとしてないって!そんなすごく感謝してるんです!という純粋な目に耐え切れず、自然熱くなる頬を隠すように俯けば、だああああ!!と後ろから爆発したような雄叫びが聞こえてびくぅ!と肩を跳ねさせた。
「い・い・か・げ・ん・に・し・ろーーーー!!!」
「あぁ、翔ちゃん。そんな大きな声出したら周りの迷惑ですよぉ」
「お前の行動がまず俺の迷惑だーーー!」
後ろを振り返れば、そういや私が開放されてからずっと攻防をしていたのだろうと思われる二人組みの内、帽子の少年の方が我慢しきれなかったように、眼鏡の青年の拘束を振りほどいてぜぃぜぃと息を切らしていた。・・まだやってたんだ、あの二人。
ギンッと荒んだ目を眼鏡の青年に向けてフー!と猫が威嚇しているみたいに肩を怒らせる帽子の少年の様子に、ずっと抱きしめられていればそりゃ威嚇したくもなるわ、と内心で同情する。なんだろう、あの子・・・きっとこの人の被害を一番被ってるんだろうな。
怒っている少年など意に介した様子もなく、ほややーんと笑みを浮かべて何か的外れなことをいっている眼鏡の青年になんとも言えない顔を浮かべつつ、とりあえずこっちに被害さえなければいいんだけど、と心持身構えるように足を引いた。いや、うん。矛先がこっちに向いても回避できるように努力はしないとね!
「大体お前は所構わず抱きつきすぎなんだ!しかも今日に限っては別の人間まで巻き込んでやがるし。なにやってんだよ!」
「だって、とってもちっちゃくって可愛いんですよ?翔ちゃんと並んだらもっと可愛いと思うんです」
ニコッ。ぶちっ。そんな効果音が聞こえてきそうだ。キラキラと輝く無邪気な笑顔で、彼は今帽子の少年の堪忍袋をぶち切った気がする。いやすでに切れているとは思うのだが、わなわなと拳を震わせる姿には何か哀愁を感じた。そろり、と両耳を手でふさいで、スタンバイ。
「っふざけんなあああぁあああ!!!!」
びりびりっと、腹の底から声を出したのだろう。震える空気を感じて眉を潜める。耳ふさいだのに、結構大きいな・・・。距離がやっぱり近いからかな。そんなこと冷静に考えながら、耳を塞いでいた手を放せば、横で七海さんは目を白黒させていて、美人さんは迷惑そうに顔を顰めていた。ぼそりと耳が痛い・・・とぼやく辺り、よっぽど大きな声だったのだろう。
それほどまでに憤っていたのかと思うと、彼の日頃の鬱憤が窺い知れてなんとも言えない気持ちになる。
「わああ!翔、落ち着いて!那月に悪気はないんだから!」
「放せ音也!一発殴らせろーーー!!」
「・・・この場合、那月に悪気がないから余計に性質が悪いってやつよね」
「と、友ちゃんそんな冷静に分析してる場合じゃ・・っ。どどど、どうしましょう・・・!」
今にも殴りかかりそうな少年を、一十木君が背後から慌てて羽交い絞めにしてストップをかけ、その後ろでうんうん、と一人納得をする美人さん、そしておろおろと羽交い絞めにされる少年と、やっぱりにこにこ笑ってる青年を見比べて動揺している七海さん。
カオスって、こんな感じなんだろうな、と思いながら、私はその光景を更に一歩下がって眺めた。とりあえず、青年は「音也君と翔ちゃんは仲良しさんですねぇ」とかのほほんと言ってる場合じゃないと思う。主な原因君だから。諸悪の根源は君だから。
またその的外れにも程が在る発言に、またしても沸点を刺激されたのか少年が「お前のせいだろうがーーー!!」と叫んでじたばたと足を動かしている。まるで吊り上げられた魚のようにびっちびっちと勢い良く動く少年を、体格差があるとはいえ一十木君が抑えるのは中々大変そうだ。
「渋谷も見てないで手伝ってよー!」
「あたしに手伝えるわけないでしょうが!」
「一十木君、なら私が!」
「「いや、それは無理」」
「はう!」
漫才でもしてるのだろうか、というぐらいテンポよく、片手を勢い良くあげて名乗り出た七海さんを二人して否定すると、ガーン!と七海さんの背後にベタフラッシュが光った気がした。
私、役立たずですね・・・とショボーンと落ち込む七海さんは可愛い。可愛いが、二人の否定は当然だと思う。明らかに荒事に向いていない彼女に、暴走している彼を止めることは不可能だろう。しょんぼりと肩を落として泣きそうなほど落ち込んでいる七海さんに、美人さんは慌ててフォローに入っていた。一十木もフォローに入りたそうではあったが、今だ少年を抑え続けているのでそういうわけにもいかず。えーっと。
「・・・・・・・・・・帰ってもいいのかな?」
なんというか、いつまでも付き合っていられないというか、真面目な問題、私図書館の本を貸し出ししないまま持ってきているわけで。図書館に戻って貸し出しすませてしまいたいし、もうちょっと色々見て回りたいし、新しい曲も考えなくちゃいけないし・・・。
そう、つまり、いつまでもこんなところでぐだぐだしている時間はないのである。最早私のことなど頭の中にもないようだし、個人的にこのひどく目立つ面子とこれ以上関わるのは得策ではない、とも思うし。いやだってあの髪の色とか声とか容姿とかなんかもう色々?うん。こう、私にとってあまり望ましくない気配がムンムンというか・・・なんというか・・・。
簡単に言えば、フラグは即行折るべし!と思うわけで。すでにあの拉致の瞬間から何かに巻き込まれている感じは否めないのだが、まだ大丈夫!まだ間に合う!と自分に言い聞かせ、もはや阿鼻叫喚にも近い混沌を形成している一同からそろりと距離を取った。
・・あ、でもいきなりいなくなったらいなくなったでそれはちょっと申し訳ないかな・・・。このまま姿を消してもいいとは思うが、しかし一応助けて?貰ったわけだし、ほんの少しとはいえ関わった子もいるわけだし・・・一声かける・・・いや、あの中に割り込む気力はもうない。
どうしたものか・・・と困ったように視線を泳がせると、不意に鮮やかな青が目に入り、パチリと瞬いた。あれは・・・。
「聖川財閥の・・・」
御曹司とかなんとかという情報を前に貰った気がする。食堂で確かすわ、基、ハーレム男と一緒にいた青い髪の、綺麗な顔をした、美青年。白い肌と目尻の泣き黒子がどこか色っぽい青年は、こちらを見ると、いや、正確には騒いでいる一同を見て、ぴくりと、眉を動かして顔を顰めた。それが騒々しい奴等だな、という嫌悪よりも、何やってるんだ、というような呆れのようなものを見せていて、ピン、と何かに思い当たる。
・・・目立つような青い髪だし、美形だし、あと確か声もなんか聞き覚えがあった気がするし・・・もしかして彼は、この集団の関係者ではなかろうか?有体に言えば、友達関係とかそんな感じの。ほほーう?溜息を一つ吐いて明らかにこちらに向かってくる青年に益々その可能性を強く感じながら、目を細めて少しばかり逡巡すると、そろりと騒ぐ集団から逸れて、聖川君に近寄った。
「あの」
「ん?」
「すみません。少しお聞きしたいんですけど、いいでしょうか?」
「あぁ・・・構わないが・・」
小さく声をかければ、一瞬視線をさ迷わせた聖川君が、ちょい、と視線を下に下げて驚いたような顔を作る。というか今明らかに私の頭よりも上の方向みてたよね。視界にいれてなかったよね?!そこまで小さくないし!いやちっさいけど視界に入らないほど差があるわけでは・・・・いやあるかもしれないけど・・・・でもなんか・・・ちょっと・・・。釈然としないものを感じつつ、顔には出さないで尋ねれば、不思議そうな顔で問いかけられる。それにあそこの人とちょっと、と眼鏡の青年を指し示しつつ、本を抱えなおした。
「あなたは、あちらの方々のお知り合いですか?」
「あぁ。友人だが・・・それが?」
「それはよかった。あの、でしたら伝言をお願いしたいんですけど・・・」
「伝言?」
「はい。黙って消えてすみません。ですが本の貸し出しがまだ終わってないので、失礼かと思いますが先に失礼させて頂きます、と。お伝え願えませんでしょうか?」
とりあえず自分の痕跡は残したくない。できるだけ自分自身の情報は出さないように誤魔化しながら用件だけ口早に伝えると、彼はよく事情が飲み込めていないような釈然としない顔をしんがらもわかった、と頷いてくれた。
「伝えておこう」
「ありがとうございます。それでは、これで」
ぺこ、と頭を軽く下げて聖川君の横をすり抜ける。特に深く追求もせず、見知らぬ女生徒の伝言を受けてくれるとか・・・聖川君はいい人だなぁ。小走りでそそくさと彼らから離れながら、ほう、と吐息を吐いた。あぁ、自分で歩く地面のなんと尊いことか!しっかりと足裏に感じる廊下の硬い感触に密やかな感動を覚え、ぐっと拳を作る。
ずっと不安定に揺れてたからなぁ・・・周囲の目が痛かったからなぁ・・・!まぁでも顔は下向けてたし、あの青年の走る速さも中々だったから多分私だとはわからないと思うけど。
そういえばフランソワーズって結局誰?というか何?だったんだろうか。人名?でいいのかな・・いやでもその割りに扱いが人間じゃなかった気もするが・・・。よくわからないな、と思いながらも、恐らく彼が辿ったであろう道を逆戻りしつつ、例の図書館まで辿り着く。
少し、いやかなり、入るのに勇気がいったが、しかしここに入らなければ本が借りられないし、返せもしない。いくらかの躊躇いの後、恐る恐る扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
中はあの騒動がまるで夢の中の出来事であったかのように、相変わらずの静寂に包まれており、恐らく、この図書館では先ほどの珍事件はなかったことにされたのではないだろうか、とそんなことが脳裏を過ぎった。・・・なかったことにされる事件って・・・!それに巻き込まれた当事者であるだけに、やはり入りづらい。しかし、腕の中でずっと主張を続ける本に、深く溜息を吐いてするりと中に身を滑り込ませた。こうなれば、こちらも何事もなかったかのように振舞うしかない・・・!
とりあえず貸し出しカウンターに近づくと、パソコンを弄っていた司書さんが影に気づいたのか顔をあげ、僅かに目を見開いた。しかし次の瞬間にはにこりと微笑みを浮かべて「貸し出しですか?」と問いかけてきたので、プロすげぇ、と密かに驚嘆した。
この人あれだよ。私がここから拉致られるときにこっち見てた司書さんだよ。なのに一切突っ込まないわ奇妙な顔もしないわすぐに営業スマイル貼り付けて何もなかったですよっていう対応取れるとかすげぇ・・・!普通なら凝視してしまいそうなことだと思うのに、さくさくと自分の仕事をこなす姿に一つの憧れにも似た尊敬を覚える。これがプロというものか・・!
感心しながらピッとバーコードを読み取った本を返却期日を告げると共に手渡され、それを両手で受け取ると、ピンポンパンポーン、と校内放送の合図が図書館の静寂を破るように響き渡った。・・・校内放送の合図だけは普通なんだ・・・。やっぱりこれは定番なんだなぁ、と思いながら反射的に放送が聞こえるのだろう頭上のスピーカーを見上げると、スピーカーから馴染みのある声が聞こえてきた。
『Bクラス。至急第一レコーディングルームまでこい。繰り返すぞ。Bクラス。至急第一レコーディングルームまでこい』
「・・・・・・・・・は?」
え、私?ポカン、と声が聞こえるスピーカーを見つめながら首を捻り、何かしただろうか、と眉間に皺を寄せた。・・・日向先生に呼び出されるようなことをした覚えは全くといっていいほどないんだが・・・あ、でも呼び出し場所はレコーディングルームだっけか。じゃぁお説教とは違うのかな?お説教ならきっと職員室だろうし。うん?じゃぁなんで私が呼び出されるんだ?
校内放送で呼び出されるなどついぞしたことのない体験に戸惑いを覚えながらも、行かないという選択肢は最初から存在しない。まぁ、貸し出し処理は終わったし・・・無視するわけにも普通にいかないし。
なんだろうな、と思いながら、私は爪先を図書館の出口に向けた。
「今日はなんか色々起こるなぁ・・・」
これでまたとんでもないことになってたらどうしようかね。そう思いつつも、私はいくらか足を速めて、指示された教室へと小走りに駆けていった。あ、本、置いてきた方がよかったかな。
腕の中で存在を主張する本に視線を落とし、しかし至急という言葉に、多少は大目に見てもらおう、とこくりと頷く。まぁ、そこまでやかましくもなかろうて!多分。
小走りに廊下を駆け抜けた先、待ち構えるものが何であるか。当然のことながら、私にわかるはずもなかった。