気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲



 なんか、とんでもないことになったな・・・。とぼとぼとまだ陽の落ちない明るい廊下を歩きながら、ともすれば零れそうな溜息をぐっと噛み殺した。廊下に響く靴音は、決して私一人分ではない。もう一つ大きめの音がかつんかつんとリノリウムの床を叩く音が、私の靴音と時々重なっては外れて、を繰り返してなんともいえない不協和音を奏でていた。
 ちらりと横を見れば、ピンと猫背とは無縁ですとばかりに綺麗に伸びた背筋が最初に見える。そこから徐々に視線を上に向け、いささかきつい角度で首を動かせば、腕から肩、襟足にかかる髪と、綺麗な首筋が見えて、最後にしっかりと前を見つめて歩く整った横顔が目に入る。文句なしの美形を眼福だと思うには、状況がいささか問題だった。あと男の美形は悲しい事ながら慣れているので、どうせなら美女が望ましい。閑話休題。ともかく、視線に気づかれる前に視線を外し、やや俯き加減に前に向き直ると、ずっしりと両腕に抱えた本を抱き直した。
 放課後もいくらか過ぎたせいか、それともこの廊下が元々人通りが少ないのか、擦れ違う生徒はいない。いたところで別にどうもしないのだが、この微妙に居た堪れない空気を誤魔化すには多少の人の気配ぐらいは欲しかった。そう思いながら、どうしよう、と視線をうろり、と動かすと、横からぽつりと声が聞こえた。

「君も、ここを受験していたんですね」
「はい?」

 この気まずい、とも言い難い空気を破るように、呟きにも等しいそれに俯けていた顔をあげれば、相変わらず真っ直ぐに前を向いていた彼・・・一ノ瀬君は、ゆっくりとこちらを振り返った。正面からみても美形である。綺麗な顔立ち、と思いながら首を大きく反らし、私は一ノ瀬君の言葉を反芻する。君、も?・・・うーんと、これは、やはり、彼と私はどこかで会ったことがある、ということだろうか。気のせいとか勘違い、とかではないんだよね?

「まさか、ここに受験しているとは思っていませんでしたが・・・どうしてここに?」
「・・・・・父の、希望で」

 どこかで会いました?と聞こうかと思うのに、それはさすがに失礼だろ!と日本人根性溢れる私が待ったをかける。いやだって向こうは覚えているのにこっちは覚えてないとか、そんな失礼なことを堂々と聞くわけにはいかない。ほら日本人は協調性を尊ぶからさ。
 そして日本語の便利なところは、曖昧な表現を使って誤魔化せるところだ!というかさっきの私の初めまして証言はなかったことにされたのだろうか・・・。月宮先生対策とでも思われたのか・・・?色々なことが脳裏を駆け巡ったが、とりあえず質問に答えよう、と少し躊躇ってから小さく答えた。いや、すまん。自分の意思じゃなくて。

「そうですか」
「うん、一ノ瀬君はどうし、・・・あ、一ノ瀬君。練習、ここでしない?」

 人気のない渡り廊下に差し掛かったところ、噴水がある中庭が見えてピタリと足を止める。どうせ今日はもうレコーディングルームも楽器教室も大体予約で埋まっているだろうから、あぶれた生徒は各自好きなところで適当に練習するしかないのだ。
 幸いにも人気はないし、開放感もあって気持ちよさそうなそこは、練習するには持ってこい、とまではいかないが、別に不足もないだろう。質問を途中で切り上げ、指をちょい、と指し示しながら問いかければ、一ノ瀬君は中庭を見てからいいですよ、と頷いた。
 ・・まぁ、練習とはいっても一ノ瀬君の歌を聴いて、今後この曲(てか本気でこの曲でいいのか?)を煮詰めていくだけになるとは思うのだが・・あ、あと彼に歌詞も考えて貰わないとダメなんだ。うーん、やることは一杯だなぁ。
 さくさくと芝生を踏みながら噴水近くまでくると、白いベンチも見えて丁度いいや、とそこに腰掛けて本は横に置く。一ノ瀬君は横に立ったままで、座ればいいのにと思いながら日向先生から返してもらった楽譜を取り出した。・・・うーむ。

「・・とりあえず一ノ瀬君、何か歌ってくれる?歌きかないと、これの弄りようもないし」

 楽譜をぴらぴらと揺らしながら、立ったままの一ノ瀬君を見上げれば、彼はわかりました、と頷いた。

「何を歌えばいいですか?」
「なんでも。好きなものを歌ってくれればいいよ」

 こだわりはない。自由に歌ってくれればいいのだ。言えば、一ノ瀬君は難しそうに眉を潜めた。顔が整っているから眉を潜める動作さえなんだか艶めいて見えるというか・・絵になるんだな、と感心してれば、一ノ瀬君は考えるように顎に手をかける。

「好きなもの、ですか・・・」
「歌いやすいものでもいいけど」
「そう、ですね・・・」

 なんか歯切れ悪いな。好きな歌がない、なんてことはないだろうし、歌いやすい歌がない、なんてこともないだろう。彼はアイドル志望の学生で、多分歌だってすごく上手いはず。何も容姿だけでSクラスになれるわけがないのだから、実力は・・いや本当、Sクラスの実力とか間近でみることがないのでちょっと楽しみだったりするわけですが。
 それでもどこか気乗りのしてなさそうな彼に首を傾げると、一ノ瀬君は少し呼吸を整えるように深呼吸をし、すぅ、と深く息を吸った。
 そして、出てきたものは、吃驚するぐらいの声量、遠くまで響くような甘い囁きに、吐息混じりの声が鼓膜を震わせる。甘い、甘いぞこの歌声。なんだこの色気。これヘッドフォンで聞いたら悶絶しそうなんですけどえ、恥ずかしい!さっきまでのクールっぷりはどこいったあまーーーーい!!歌声があまーーーーーーい!!!思わず赤面するぐらい、時折吐息が混ざるそれは高い音も綺麗に出ていて狂うことがない。外れない音程と、しっかりと安定感があってブレがなく、どこまで息が続くんだ、というぐらい伸びる声。え、ちょ、おま。
 目を見開いてポカーンとしていれば、一曲丸々歌い終えた彼は、ふぅ、と吐息を吐いて閉じていた目をあけた。長い睫毛が震えて白い瞼が開けば、そこには理知的なもの静かな目があって、先ほどまでうっかり赤面するんじゃないかというぐらい甘ったるい歌声を響かせていた同一人物とは思えなかった。・・・な、なんというギャップ・・・!てか、お前。

「・・どうでしたか?」
「す、すごく、上手だね・・・」

 待ってください。これと私の曲を合わせろと?いやいやいやいや無理無理無理!!!レベル高!!さすがSクラス!凡人の私でもわかるぐらい超歌上手いねあとこれ向こうで聞いたことある声だよやっとわかったあの声優だーーー!とかごちゃごちゃした思考の中、なんとか感想を返せば、一ノ瀬君は眉を寄せた。あれ、不満ですか。すみませんありきたりなことしかいえなくて。

「君は、HAYATOのことは何も言わないんですね」
「ハヤト?」

 いきなりなんだ?ぽつり、と呟かれて拾った台詞に首を傾げれば、一ノ瀬君はハッと目を見開いてぐっと顔を顰めた。それはひどく苦々しい顔つきで、言ったことを後悔しているような、そんな顔だった。その変化にびくっと肩を揺らせば、彼は嫌そうになんでもありません、と素っ気無く吐き捨てた。・・・あれ、私何もしてなくね?なんでこんな不機嫌になって・・・あぁ。

「そういえば、さっきの曲HAYATOの曲だね。好きなの?」
「嫌いです」

 即答かい。ほんの雑談のつもりが間髪いれず否定されて目を丸くした。一ノ瀬君をみれば、本当に心の底から嫌悪してます、みたいな顔で、その目はいやに冷ややかさを帯びていてちょっと怖い。不機嫌オーラさえ見えたので、私はもしや地雷踏んだのか?と思いながらそっか、と一言答えた。・・・ならなんでHAYATOの曲歌ったんだ?この人。

「・・・君は、HAYATOに興味はないんですか」
「ん?あーそうだねぇ。そんなにはないよ。歌とか上手いし、テレビ出てたら見ることもあるけど、熱中するほどじゃないかな」
「私をみて、何か思うことはないんですか?」

 正直、そこまでアイドルにキャーキャー言わないし。アイドルに興味が、というよりも歌が好きとかで判断することが多くて、アーティスト本人はあまり重要視していないのだ。
 このアーティストが歌うから絶対買う!とか聞く!とかいうことはあまりない。そりゃ好きなアイドルもアーティストもいるけど、HAYATOは・・・まぁそこまでの対象じゃぁないな。うん。
 むしろそれよりアニメとか声優とかに熱あげてる派だし。おたくはどこまでいってもおたくなのだよ。・・しかし、ここまでレベル高いとどうしたらいいものか。どう弄ればいいのかなぁ、これ。うーん、と悩んでいると、一ノ瀬君が割りと真面目な顔でそんな問いかけをしてきて、私は楽譜に落としていた視線をあげて一ノ瀬君を見た。
 じっと、気難しい顔でこちらを見下ろす一ノ瀬君は、今日何度思ったか知れないが、イケメンだ。文句なくカッコイイ。睫毛も長いし肌も白くて木目細かい。美人系の顔で、多分近くでみても落ち度はないんだろうなぁ、と思う。そんなことを考えながら一ノ瀬君の顔を凝視し、正直にイケメンですね、と答えるべきなのだろうか、と思考を巡らし先ほどまでの会話が脳裏を駆け、あ、と口をあけた。

「一ノ瀬君、HAYATOにすごく似てるんだね。そっくりだ」
「今更、ですか」
「いや、うん、ごめん。その、あんまり意識してなかったから・・・」

 それどころじゃなかったしね?うん。そこまで意識を回していられなかったと言うか記憶を掘り返す余裕がなかったというか、だからHAYATOにそこまでの興味はないというか。
 でもほらさ、こんな身近に芸能人がいるなんて誰も考えないから、結構スルーすることもあると思うんだよねぇ。盲点っていうか?そんな感じで。
 あーでも、うん。改めてみれば、というか見なくても、一ノ瀬君はHAYATOと同一人物だというぐらいそっくりだった。テレビの液晶越しに見たことのある顔と全く同じ。
 違うといえばHAYATOはくるくるとよく表情が変わって、笑顔が絶えないのに対して彼は基本無表情で冷めた感じがする、というぐらいだろうか。満面の笑顔など果たして浮かべるのかどうか・・いや人間なんだからそれぐらいするだろうけど。あと目の大きさも違うよね。HAYATOの方がくりっと大きめの目をしてる。もしかしたら化粧とかで変えてるのかもしれないが、あの子犬のような目が今の彼には感じない。
 似てるけど違うんだなぁ、と思いながらで?とばかりに先を促せば、一ノ瀬君はいささか脱力したかのように肩から力を抜いて、力をいれていた眉間を解すように指先をあてた。

「それだけ、ですか」
「・・・兄弟?とか?」
「・・・双子の兄です」
「どっちが」
「HAYATOが」
「へー。兄弟揃ってアイドルとか、やっぱり似るもんなんだねぇ」

 片方がアイドルとか芸能人やってると何故かもう片方も芸能界入りすることが多いよね。双子アイドルってのも面白いと思うけど・・・あれ?なんでHAYATOだけデビューしてるんだろ。あれか、スカウトとかされたのがHAYATOだけだったのかな。偶々一人で町中歩いてたらーって、この美貌ならそれも有り得るだろう。兄に影響されてアイドルを目指したのか、それとも元からアイドル志望だったのか・・・。まぁ、そんなことは個人の事情であって私には関係ないのだが。すごいねぇ、と何がすごいのかわからないが適当に答えれば、一ノ瀬君はなんか変なものを見る目で私をみた。なんだその奇怪なものをみる目線は。

「本当に、HAYATOに興味がないんですね・・・」
「え?でもサインとかくれるなら欲しいよ」
「取り次ぎませんよ」
「くれるならってだけだよ」

 芸能人とかのサインって、特別好きじゃなくても欲しいものじゃないか。あと別にHAYATOのことが嫌いなわけでもないし、そんな徹底的に興味がない!ってわけでもないのだ。
 歌は普通に聞くしテレビに出てたら普通にみるし、普通に好きなだけだ。熱狂的なファンじゃないというだけであって、そんな人間そこかしこにいると思う。

「まーでも気が向いたら貰ってきてくれたら嬉しいな。友達の分と」

 友達はHAYATOファンだからね。おはやっほー!とか笑顔でよく言ってた。というか中学のときクラス中がブーム起こしてた。多分流行語大賞とか取ると思うあれ。
 ・・・まぁ、私は朝はおはやっほーニュースよりもじっぷ派なので、あんまり見てないんだけど。あの白いもふもふわんこは最高の癒しだと思います。超可愛い。触りたい。愛でたい。
 あと最後のプチクッキングタイムは地味に活用させてもらってます。レシピが増えるのはいいことだと思うんだ。
 へらりと表情を崩して軽い調子で言えば、一ノ瀬君はどこか呆れた様子で溜息を吐いた。

「そこまで気のない催促は初めてですよ。・・・気が向いたら言っておきます」
「うん。ありがとう」

 その台詞が学園長が奇抜なことをしでかさないレベルで珍しい発言などとは、勿論私が知るはずもなく。
 ところで、この後この曲をどう弄ればいいのかよくわからないんだが、どうしたらいいと思う?あまりにもレベルが高すぎてどこをどう変えればいいのか要領が掴めず、なんとも気の抜けた、良い言い方をすれば肩の力が抜けた一ノ瀬君に問いかければ、彼はどこか憑き物が落ちたような顔つきで、そうですね、と楽譜を覗き込んできた。
 ・・・・・・・・結構、遠慮なく近づいてくるんだね、君。思ったよりも近い位置で楽譜を覗き込む一ノ瀬君にそんなことを思いながら、ここは、と指された部分に視線を落とした。・・・爪が超つやつやしてて綺麗なんですけど。形も綺麗だし・・・さすがアイドル志望。思わず、自分の手を見下ろして、そこはかとなく負けた感を滲ませて軽く凹んだ。・・・もうちょっと、気を遣うべきなのかな・・・いやでも面倒くさいしな。まぁいいか。
 開き直って、彼の流暢に聞こえる声に、耳を傾けた。・・・しっかし、本当に私と彼で大丈夫なんだろうか、この課題曲。