気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
午後の授業が始まる少し前、慌てて教室に飛び込めば何か普段のざわつきとは違う教室の浮き足立つような空気に少し違和感を覚える。けれども、まぁ気のせいだろ、と気にせずに自分の席に走りよりファイルと筆箱を置けば、唐突に横からの衝撃が加わった。
「う、わっ」
「聞いてーーー!さっき超すごいことが起きたのーーー!」
僅かによろめくも体勢を持ち直せば首に腕が回りぎゅうぎゅうと抱きつかれる。あーなんか先輩たち思い出すわぁ。よく突撃されたっけ、と思いながらはいはい、とばかりに首に回った腕をぺしぺしと叩いた。まぁそんな苦しくもないのだけれど、密着されるとふくよかな胸部が二の腕辺りに押し付けられて、うん。女の子って柔らかい、としみじみと実感した。
着やせするタイプなのね。羨ましい。そう思いながら、耳元で興奮したようにプリンスが!プリンスさまが!と叫ぶクラスメイトにうん?と相槌を打った。
「Aクラスのプリンスさま達がね、ここにきたのよー!」
「へー」
あぁ、なるほど。だからなんかクラスが微妙に浮き足立ってんのか。特に女子生徒ら辺りが。抱きつかれたまま視線を固まっている女子グループに向ければ、薄っすらと頬を染めてきゃいきゃいと話している花のある光景が見える。無論あまり興味がなさそうにしている子もいるが、それでも通常のクラスからは考えられないほどにそわそわしているのは確かだ。
そしてこのクラスメイトの興奮度合いもわかる。ミーハーだからなぁ。あとイケメン好き。イケメン嫌いはまぁあんまりいないだろうけど。
とりあえずそろそろ離れませんか友人よ。プリンスさま云々よりも昼休み中に打ち合わせをした曲やら一ノ瀬君からの痛い指摘とか、優先するべきことは山のようにある。
一ノ瀬君案外毒舌だったからなぁ・・・表情もまた硬いものだから怖いのなんのって。
「もう、ノリ悪い!」
「ごめんごめん」
体を離し、正面に見えた顔は頬をぷっくりと膨らませて不機嫌を表している。それに軽い調子で謝ればしょうがないなぁ、と肩を竦められて、ガタガタと椅子を引いて席に腰掛けた。
私も次の授業の準備を机の中から引っ張り出しつつ、話を聞く体勢になる。
「そのAクラスのプリンスさまがなんでBクラスにきたの?」
「えーと、なんか人探してるっぽかったよ。背がちっちゃくてツインテールの女子生徒探してるんだって」
「ふぅん?わざわざBクラスまでくるなんて、そんな大切なことだったのかね」
「さぁ?でもまぁ目当ての子はいなかったみたい。てかプリンスさまに探してもらえるとか羨ましい・・・私も聖川様に探してもらいたーい」
そういって頬杖をついて悩ましげな溜息を吐く姿はさながら恋する乙女のようだ。実際に恋をしているのではなく、憧れにも等しいものだとは思うのだけど。ここには恋愛禁止とかいうわけのわからん校則が存在しているので、迂闊に憧れ以上の感情を持つことはできないのだ。それでも毎年何かしら校則に触れて退学する生徒は多いと聞く。
無論それは恋愛ばかりが理由ではない、というか恋愛で退学など、実はそんなに多くはないのだ。退学例でいえば、やはり一番多いのは挫折と聞く。夢の道のりに耐え切れなくなって止めたり、自分の力に限界を感じたり、周囲との力の違いに絶望したり。様々な理由で辞めていく生徒は多い。できるならば、目の前の友人は辞めないで夢を掴んで欲しいものだな、と思いながら聖川様というとあの青髪の美青年だよなぁ、と朧に顔を思い出す。
「あ、そういえばもツインテだよね。背もちっちゃいし・・・もしかして、プリンスさまの探し人ってだったりして」
「まっさかー。大体ツインテって、もっと高い位置で結ぶもんでしょ。探される理由もないし」
「ま、そうだよね。うちのクラスで条件に合うというなら・・・藤さんとか?ロリ系アイドル目指してるし」
「この前私服みたらゴスロリだったよ。可愛かった」
「見てる分はねー。でも一度着てみたいかも」
まぁ確かに、一度は着てみたいような気もするが基本は観賞用だ。ゴスロリとか・・・うん。見てるだけで十分だよね。遠めに見るだけでも結構衝撃的だしなぁ。思わず目で追いかけてしまうもの。
ありがちなことだが、プリンスさまの話題から内容は大幅にずれていき、教室内に予鈴が鳴り響く頃にはすでにプリンスさま来訪!の空気はどこかに流れていっていた。
※
そんなことがあってから時々、そのちっさいツインテールの女子生徒を尋ねてAクラスの中で一際目立つ面子がBやCクラスに出没するようになったらしい。
生憎と私は彼らに会うこともないのだが(なんかタイミングがずれてるらしい。クラスメイトからは運が悪いと言われている)、別段なんの支障もないので気にしていない。
しかしわざわざ他クラスに来てまで探してるのに今だ見つからないとか・・・いっそ架空の人物でも探してるんじゃないか、という噂がチラホラ聞こえ始める。ツインテのロリっ娘とはあなたの頭の中の存在ではありませんか?的な。いや、あるいは二次元の住人かもしれん。・・・どっちにしろ痛々しいな・・・。
いやまぁ、さすがに一人で探してるならともかく数人で探しているのならそれはないとは思うが・・・もしかしてもう退学とかしちゃった子だったりして。それなら何処探してもいないよねー。
だがしかし。私にはそんな他人の事情よりも日々一ノ瀬君により改良されていく楽譜と格闘することの方が重要なのである。なんであの人アイドルコースなのにこんな的確にしかも痛いとこばっか指摘できんの。もうお前パートナーいらないだろ。一人でできるだろ。そう思うこともあるが、何も全てが全て否定されるわけではないし、彼は私の意見も取り入れようという柔軟な思考を持っている。
むしろ消極的な私に対してもっと意見を言えだとか反論しなさいとか説教をかましてくるので、別の意味でやりにくかった。うーむ・・・基本的に歌い手の意見を取り入れて編成していくので、自分だけの極端なアレンジを加えることは少ないのだが・・・。
言ったら言ったで眉間に皺が寄りそうだったので、無難にお口にチャックを施す。とりあえず一ノ瀬君は声量もあるし伸びもいい、掠れるような声のところは悶絶するぐらい甘い声質なので、あえて掠れ声を出させるのもいいと思うのだ。そうした方が切なさも出てくることだろう。そんなことを考えながら修正を加えた楽譜をファイルに挟んで、机の横に下げておいたお弁当袋と本を一冊抱えて席を立つ。
「今日もー?」
「うん。いってきまーす」
「いってらー」
教科書をしまっていたクラスメイトが振り返りながら問いかけてきたので、それに返事を返してひらりと片手を振った。答えるようにクラスメイトも片手をひらひらと揺らして、気の抜けた言葉を背中で聞きつつ教室を出る。廊下を小走りを駆けつつ、最近一ノ瀬君との集合場所になりつつあるあの人気のない中庭に到着すると、まだ待ち合わせ相手はきていないようだった。きょろりと辺りを見回してから定位置になりつつある白いベンチに腰掛ける。
お弁当とファイルを横に置き、膝の上に本を置いてしおりを挟んでいるページを開く。縦に並ぶ小さな黒い活字の集合体に目を走らせ始めて数分ぐらい立つと、さん、と美声が聞こえて本に向けていた顔を上げた。
視線の先には片手にサオトメイト印のビニール袋を提げた一ノ瀬君が、長い足を伸ばしてこちらに向かってくる姿が見えた。その姿を認めると読みかけていた本のページにしおりを挟んで、本とお弁当を交換するように持ち替えた。
「先に食べていてくださってよかったんですよ?」
「いや、先に食べるのもなんか食べにくいし」
一ノ瀬君だって、食べずに待っていることが多々あるではないか。遅れたことを気にしているのか少し眉を下げてビニール袋を揺らしながら横に座った一ノ瀬君は、まだ袋から取り出してもいなかったお弁当を見て口を開く。それに私は笑みを小さく浮かべることで答えながら、巾着袋の口を開いてお弁当箱を取り出した。
その様子をみて、それはそうですが、とか言いながらも一ノ瀬君も横に置いたビニール袋からお昼を取り出し・・・・・・・・・・・・・・・・えーっと。
「・・・それ、今日のお昼?」
「そうですが、何か」
何かって、そんな今日の天気は晴れですねばりにすました調子で言われても。
クールというか、なんというか・・・感情の篭らない切り替えしに一瞬言いよどむも、それでも別に、と返すにはどこか抵抗がある。私は一ノ瀬君の大きな手に包まれるようにして膝に置かれたそれを見下ろして、おずおずと口を開いた。
「何かっていうか・・・その、少なくない?サラダと野菜ジュースだけって・・午後大丈夫?」
「サラダの量があるので大丈夫です。それをいうなら、君こそ毎日そんな量で大丈夫なんですか?」
透明なプラに入った彩りも鮮やかなサラダに、市販の野菜ジュースの紙パックのみがビニール袋から出てくる様は、なんともいえない。予想の斜め上を行かれた気分だ。
いやこれで一ノ瀬君ががっつり焼き肉定食みたいなもの出されてもなんか微妙な気もするが、それでもサラダだけというインパクトには敵わないだろう。
これが女子相手ならば少ないな、とは思うけれどさほど違和感には感じないかもしれない。しかし、それを手に食事をしようとしているのは紛れもない男子だ。しかも見た目背丈もすらりと高くて肩幅も結構しっかりしているし、実物こそ見たことはないが、この調子ならいい感じに筋肉をつけていそうなイケメン男子。絶対細マッチョだろうな。うん。ミスマッチ。
それで午後大丈夫なのか成長期の男の子が。いや無理だろ、ダメだろ。肉食えよ肉。人の心配を他所に、一ノ瀬君は余計なお世話です、とばかりに澄ました顔で、ちらりと私の手元をみた。・・・まぁ私も量云々については人のことを言えない感じで少ないのだが、しかし比較対象が隣にいる人だとお前に言われたくないわ!と思うのも正直な話で。
「私もこの量で大丈夫なんだけど・・・いや、まぁ、一ノ瀬君がそれで大丈夫ならいいんだけど・・・」
「バランスは考えているので。心配されるようなことは何もありませんよ」
「そっか・・・うん、そっか・・・」
黙々と割り箸を割ってサラダを口に運び始めた一ノ瀬君に、バランスとかの問題じゃなくね?と思いながらもそれ以上何かを言うことは避けて口を閉ざす。
量的なというか物足りないとか感じないのだろうか。一ノ瀬君ってベジタリアン?そういえば肉系を口にしているところは少なかったような・・まぁまだそんな日も経っていないし、お昼を一緒したのも片手の指で余るぐらいだ。むしろ今日あわせて二回くらい?うん、何も判断できねぇ。でも通常十代の青少年が食べるお昼じゃないことだけは確かだと思う。
うん。サラダだけなのはやっぱりどうかと思う・・・!
「一ノ瀬君って、好き嫌いあったりする?」
「は?・・・特にありませんが」
「食べられないものは?あ、アレルギー的な意味でね」
「ないですよ」
「そっか。・・・これ、あげるよ」
自分のおかずが減るのだが、それでも青少年のこの食事事情は何か涙を誘う。成長期なんだからもっとしっかり食べようよ。何を意識してそんなヘルシー志向なんだよ。ヘルシーにも程があるわダイエット中の女子じゃあるまいし。など諸々のことはぐっと飲み込み、相手の拒否も聞かずにそっとサラダの上に乗せた。
そんな私の行動に、一ノ瀬君はむっと眉を寄せてじろりと私を見る。
「気遣いは不要です。これでカロリー計算をしているので、余計なものをいれないでください」
「カロリー計算?!」
待て。お前のどこにダイエット要素が。思わず全身を見回すように視線を動かすが、服の上から見た限り、どこにも必要そうな要素が見当たらない。これはあれか、拒食症にありがちな自分は太ってるんだという強烈な思い込みか・・!?ダメだ、ダメだよ一ノ瀬君。君はむしろスレンダーだよ・・・!世のぽっちゃり系男子が嫉妬するぐらいのスレンダーさんなんだよ。それ以上痩せたら逆にバランス悪いよ適度に肉はつけようねできれば筋肉を。
「何を考えているか手に取るようにわかりますが、ダイエットではありませんよ」
「え、違うの?」
「アイドルを目指すものとして自分の体調管理は当然のことです。どれだけベストな体型を維持するかも。カロリー計算もその一つですから」
だからそんなじろじろ見んなってことですね。私の眺め回すような視線が嫌だったのか、一層眉を寄せた一ノ瀬君に、私は彼の顔に目線を固定しながらそうなんだ、と相槌を打つ。うん、今からどんだけ意識してんだよこの人すげぇよでも体型維持云々の前に成長期ということも考慮するべきだと思うな!
あとカロリー計算なんかしてる男子初めて見た。・・・いや、身近にそんな細かいこと考えてる人いなかったからさ・・・。てか女子でさえそんなきっちりやってる子は少ないのではないだろうか。よほどダイエットしてる子じゃない限り、カロリーなんてそんな気にしてない。と、思う。・・私が気にしてないだけ・・・?
そう思いつつ、割り箸を逆さまにしてサラダの上に置いたそれを返そうとする一ノ瀬君に、私ははっと気がついて慌てて掌を前に押し出した。
「いや、一ノ瀬君。カロリー計算も大事だとは思うけど、その前に自分成長期の男子だということを自覚しよう」
「必要な分の栄養は取っています」
「うん。そういう問題じゃないよね?普通にお腹すくよ、それ。カロリーもそうだけど、午後に自分がどれだけ動くかを考えての量も計算しなくちゃ逆に体に悪いよ」
てか見ていてこっちがお腹がすく。この人サプリメントで十分でしょうとか言いそうで怖いよ。違うからね。それは補助食品なだけであって栄養はちゃんと食事から取るものだからね。
「・・・どうしても気になるなら、それ、鶏肉だし蒸したものだからカロリーはそんなに高くないよ。あとおにぎりも一個あげる。それは雑穀混ぜてるから健康にいいし・・・中身は梅干だから」
ていうか、これぐらい食べたところでそんな急激に変わるわけもないだろう。食べた分運動すればいいし、この年の、それにいい感じに筋肉ついていそうな男子は新陳代謝もよいはずだ。・・・太る要素が見当たらないのだが、まぁ油断は禁物というし、それぐらい気にしていた方がいいのかもしれない。うっかりお腹出ちゃいました☆とかになったらルックスがいい分泣けてくるよね。・・・イケメンも大変だなぁ。
思わず同情の視線を向けそうになったが、慌てて僅かに視線をずらすことで悟られることを回避し、私は有無を言わせずお弁当に箸をつけた。まぁ、実をいうとこれでも全然足りているようには見えないのだが、これ以上あげると私のお昼がなくなるので致し方なし。
食べ始めれば一ノ瀬君はこれみよがしにはぁ、と溜息を吐いて、おにぎりを割り箸で挟んだ。
「お節介だと言われたことはありませんか」
「うーん。あんまり?・・・というか、世話を焼かせるような食事を取る方もいかがなもんかと」
私とてさすがにこんなことしょっちゅうやりはしないよ。ただ成長期の男子高校生の食事事情がサラダのみとか本当見てられないだけなんだよ。お願いだからもうちょっとマシな食事にしようよ。カロリー計算は夕飯だけにしようよ。むしろ今朝とかどんだけ食べたんだよ。サラダのみとか・・むしろ夕飯を大量に摂取する予定なのか?それとも間食したの?
呆れに呆れを返せば、むっと眉を寄せられる。一ノ瀬君は気にしなければいいことです、と突き放すように言うと、おにぎりを頬張った。・・まぁ、なんだかんだ文句・・・文句?を言いながらも食べたので好意は受け取る方らしい。ここで突っ返されても逆に空気読めない子!みたいなことになるので懸命な判断だ。
「ところで歌なんだけど、ここからここまでブレスいれない方がいいかなって思うんだけどどう?いけそう?」
「これは、大分・・・わかりました、やりましょう」
「そっか。無理そうならもうちょっと考えるから一回歌って様子みさせて」
「なら早く食べてしまいましょう。昼はさほど長くないですから」
「そうだね」
一旦箸を止めて半透明のファイルごしに楽譜を見せながら打診し、一ノ瀬君の言い分に頷くとファイルを横に置いて再び箸を動かした。・・・とりあえず一ノ瀬君から味に関しての文句が出てこないことに密やかに安心していたことはないしょだ。いや、押し付けてまずかったらさすがに申し訳ないので。・・・不味くはないとは思うけど、味覚が合わないことはあるからなぁ。