気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲



 ガラス窓越しに見えるヘッドフォンをつけてマイクに向かって歌っている一ノ瀬君はなんだか一つの絵のように整っていて綺麗だった。けれども彼の肉声は確かに聞こえるし、時折掠れる語尾だとか、喉仏の上下する動き、腹筋の微細な動きや、制服の皺が細かに変わるところ。それらを見ると、それは絵などではなくて、確かにそこにいる人間で生きている光景で現実で生身なんだなぁ、と変なことを考えながら甘く囁くように溶けていく声に視線を反らす。
 ブレザーを脱いで白いワイシャツ一枚になった一ノ瀬君の、脱ぎっぱなしのブレザーがかかった椅子の背もたれが視界に入る。皺にはならないだろうが、大きいなぁ、と真剣に歌っている彼を尻目にそんなこと考える私は不真面目なのかもしれない。
 だがしかし、言わせて貰えば彼の歌は、相変わらず修正をかける必要が無いほど完璧なのだ。楽譜どおりに歌っているそれに、あえて注意する点は今のところ感じない。あぁでもちょっと歌い方が違うのかなぁ、と思うとさらりと走り書きをして一ノ瀬君に伝えて。そうして細かい修正の後、出来上がったものはほぼ完成といっても過言ではないだろう。
 目を閉じて歌う彼の睫毛の長さを観察しながら、反り返るように伸びた首筋の歪なラインに目を細める。くるりとシャーペンを指の間で回して、綺麗に高くなった声に、どうやってこんな綺麗に高音が出せるんだか、と疑問が湧いた。努力したんだろうなぁ。
 私の曲がこれほど完成度の高いものになるとは思わなかった。これほど思うように歌いこなしてくれるとは思っていなかった。自分の曲が、なんだかすごいいいものになったように聞こえるから、Sクラストップってすごいなぁ、としみじみと実感する。
 多分、これほど自分ですごい、いい曲になったんじゃないか、なんて思えるのは、歌い手が一ノ瀬君だからだ。彼ほどの実力がなければ、これほど完成度高く仕上がることは無かっただろう。元パートナーには悪いけれど、やはり、実力が違う。私に合っているわけではないけれど、それでも未熟な曲をこれほど精度をあげることができるのだから、彼の実力とピッタリ噛みあう作り手がいたらどれほど素晴らしいものになるのか・・・。いやー一ノ瀬君早くいいパートナー見つけないかな。普通に卒業オーディションとか参加者じゃなくて観客になって見ていたいんだけど。
 そんな先だけど、多分すぐにやってくるだろう未来をつらつらと考えながら、まだ何度か一ノ瀬君から指摘があったり、自分からも指摘をすることはままあるが、それでもこのまま出しても結構いい成績いくんじゃないか、と自惚れてしまいそうなほどには、出来上がっている曲に笑みが浮かぶ。すごいなぁ、一ノ瀬君。凡人の曲をここまで高められるとは。

「・・・やっぱりどこも問題なんてないよなぁ」

 日向先生、凡人には彼の何がダメなのか、さっぱりわかりませんよ。ここに来る前の会話を思い出して、サビを歌い終わってちらとこちらを見た一ノ瀬君に、親指と人差し指で丸を作って、オッケーのサインを送った。プロの感性は、私にはさっぱりわからんなぁ。





 針の筵状態だった廊下から抜け出して、日向先生の後ろをひょこひょことついていく。途中、気がついてゆっくりとした速さになった歩みに感謝しつつ、職員室の扉を開けた日向先生はそのままズンズンと自分のデスクまで行くと小脇に抱えていた資料をどさりとデスクに投げ出した。山こそ崩れはしないが、多少斜めった書類の束にちらりと視線をやりつつ、椅子を引いて腰を下ろした日向先生に視線を戻した。日向先生はふう、と疲れたように一息吐くと、くるりと椅子を半回転させて私と向き合う。そうして猛禽類を思わせる鋭い目を少しばかり和ませて、口諸に薄く笑みを浮かべた。

「急に悪かったな。予約時間までには終わらせるからよ」
「いえ、大丈夫です。それで、何のお話でしょうか?」

 謝罪を口にする日向先生に小さく首を横に振って否定しながら、先を促すように切欠を作る。まぁ、日向先生が私に話しがある、だなんて内容は限られているというかむしろ一つしかない気はするが・・。大方の内容は察しながらも、口にすることはなく相手から明かされるのを待っていると、日向先生が一ノ瀬のことなんだが、と口を開いた。あぁ、やっぱりな。むしろそれ以外で話題があったら逆に吃驚するけど。
 想像に違わない話題に、どれだけ一ノ瀬君先生達から心配されているんだろう、と逆に心配になった。・・そんな問題があるような感じには見えないのだが・・・。とっつきにくいところは多少あるが、課題には真面目に取り組んでいるし、言い方こそ結構きついけど言ってることは尤もなことばかりだし、実力も技術もあって非の打ち所はないように思うのに、どうして彼はここまで教師から問題視されているのだろうか。彼の何がそこまで心配になのだろうか。思い当たる理由がないだけに、疑問に思いながら私は首を傾げた。

「一ノ瀬君がどうかしましたか?」
「いや、・・・単刀直入に聞く。お前から見て、一ノ瀬はどうだ?」

 すっと、射抜くように目を細めた日向先生に、軽く目を見開いた。ぱちぱち、と瞬きをして私は困ったように眉を下げる。日向先生は浮かべていた笑みを消してこちらを探るように見つめてきていて、その真剣な目に鼻白んだが、言葉の意味を咀嚼するように少しだけ顎を引いて俯いた。先生の目が怖かったと言うのもあるが。どうだ、と言われても・・・。

「課題には真面目に取り組んでいますし練習も欠かしていません。ちょっと時間が合わないことがままありますが、それを補おうと努力もしているようですし・・。多少一ノ瀬君の態度というか言い方というか、コミュニケーションの取りづらいところはありますが、さほど問題視するほどでもないので、今のところ順調だと思います。提出日までにはなんとかなりそうですよ」

 とりあえず現状報告?をすればいいのだろうか。まぁこのペアは先生が作ったようなものだし、曲の進み具合とか関係とかが気になるのかもしれないなぁ、と思いながら報告をすれば(一ノ瀬君本人に聞けばいいんじゃないかと思いつつ)、日向先生はなんだか微妙な顔をしてひらひらと手を振った。

「あぁいや、そういうことじゃねぇ。いや、それも気になるっちゃ気になるが、そうじゃなくてな」

 上手くいってるようなのは喜ばしい限りなんだが、と言葉を濁す日向先生に他に何が聞きたいんだろう、と思考を巡らせる。別に問題行動なんて取ってないけどなぁ。
 一ノ瀬君はストイックな性格そのまま、優等生の傾向にあるようだし別に素行に問題があるわけでもあるまい。実は持病持ちとか?それで先生心配してるのかな。一ノ瀬君そういうのとことん隠しそうだもんね。弱味を他人に見せたくないし、悟らせたくも無いっていう、プライドが高そう。・・まぁ、今のところ上手いこと隠されているのか知らないが、私がわかる範囲でそんな兆候はなかったけど。つらつらと自己分析を重ねていると、日向先生ははぁ、と溜息を吐いてガシガシと短い髪をかき乱すように乱暴に手を突っ込んだ。それから眉間にくっきりと皺を寄せて、薄い唇を薄っすらを開く。

「一ノ瀬の歌のことだ。お前から見て、一ノ瀬の歌はどう思う?」
「上手ですよ。さすがSクラスの生徒ですね。実力技術ともに申し分ないです」

 自分と組んでるのが申し訳ないぐらい実力が高すぎて逆に困惑しておりますとも。即答で答えれば、日向先生はまたしてもしかめっ面をした。そういうことじゃない、とばかりの否定的な顔に、私は間違った返答をしただろうか・・?と思わず不安に視線を泳がせた。
 どう思うって聞かれたから素直に答えたのに・・・!いや声が甘いとかギャップ!普段のキャラは?!とかは言ってませんけど、さすがにこれを言うのもどうかと思うし。
 とりあえず日向先生は一ノ瀬君の歌が気になっているようだ、とようやく聞きたいことの要点が掴めて私は練習を思い出しながら、うーん、と首を捻った。

「楽譜どおりに歌っていますし、こちらの要望にも応えてくれますし、心配されるような不安要素はないように思いますが・・・」
「そこだ」
「はい?」

 どこだ?すかさず割って入った日向先生の合いの手に語尾をあげてきょとんとした顔を作れば、日向先生はとんとんと椅子の肘置きを指で叩いて、目を半眼にした。なんか彼がそういう顔をすると妙な迫力があって怖いな・・・。別に悪いことなどしたわけではないのに、ぞくぞくと居た堪れなさが背筋を這い上がるように全身に走ってなんともいえない心地になる。居心地の悪さを感じたが、逃げられるわけも無いので、私は諦めて溜息を吐いた。

「何か引っかかるところが?」
「だから、あいつ、楽譜どおりにしか歌わないだろう」
「そうですね」

 見事なまでに楽譜通りに歌ってくれるものだから、指摘する箇所がなくて困るぐらいだよ。意見を述べよと言われても完璧ですとしか言えないんだよ。日向先生の指摘にこくりと頷けば、先生は眉間にぐっと力を篭めて、だから、と少し語尾を強めた。

「それを、お前はどう思ってるんだ?」
「助かります。しいていうなら完璧すぎて指摘のしようがないことが難点ですか」
「いや、まぁ、確かに、そうなんだろうが・・・」

 楽譜通りに中々歌えない子だっているんだよ?ていうか大半そんな子ばかりだと思うけど。高い音が出なかったり高音と低音の切り替えができなかったりスピード間違えたり音程間違えたり。そういうことがないのって、本当すごいことなんだけど。
 間違いがないというだけで、少ない時間でも曲の精度をあげられるしその修正に裂く時間を精度をあげる練習に持っていけるし、いい事尽くめなんですけど。しいて問題をあげるなら、やっぱりさっき言ったように意見を求められても私じゃ指摘しきれないということか。
 凡人にはちょっと厳しい分野だね。真顔で答えると、日向先生は一瞬ポカンとして、それからどこか歯切れ悪くもごもごと口の中で何かを言うと、はあぁ、と溜息を吐いて額に手を置いた。・・・どうして頭を抱えられなければいけないのかな?そんな変なことをいった覚えはないんだけど・・・と困惑気味に日向先生を見れば、彼は気を取り直すように頭を振ってから顔をあげた。

「あいつの歌には、足りないものがある」

 先ほどの気の抜けた空気を払拭するように、日向先生は唐突にそう切り出した。それに、私はこてん、と首を傾げる。

「足りないもの、ですか?」

 彼に?どこが?疑問を浮かべれば、日向先生は厳しい目つきで私を見た。睨んだ、と思いそうなほど鋭い眼だったが、本人に睨んでいる意識はなさそうだから元もとの目つきのせいなんだろうな、きっと。

「わからないか?」
「・・・すみません。私にはちょっと・・・」
「本当に、わからないのか?」

 ちょ、そんな問い詰めるように聞かれても、わからないものはわからないんですよ!!
 私に何を期待しているんだ、というか彼の中で私の評価がどの程度のものになっているのか・・・。薄ら寒さを覚えつつ、申し訳なさそうに眉を下げれば、日向先生は眉をピクリと動かして、落胆したように息を吐いた。・・・何故私に失望の目が向けられるんでしょうかね?え、理不尽。なんだこの理不尽な感じ。何を期待されていたのかサッパリわからないが、人のわからないところで勝手に失望するとはこれ如何に?釈然としないものを感じながらちょっと失礼じゃね?と思いつつ日向先生を見れば、先生はゆっくりと口を開いた。

「あいつの歌には、心がない」
「・・・はぁ」
「どんなに上手かろうが実力があろうが、心のない歌なんて誰にも響きはしない。わかるだろ?」
「そうです、ね」

 ・・・それでも上手なら普通に聞くけどな。そう思いつつ、否定する要素もないので肯定の意味をこめて頷いた。うんまぁ、言ってることに間違いはない。心のないものに、本当の意味で誰かを感動させることはできないだろうし、誰の心にも響くことは無いだろう。
 それはわかる。わかるが・・・。

「先生は、一ノ瀬君の歌には心がないと言うんですか?」
「あぁ。あいつの歌は正確だ。間違いなく完璧に歌えるだろう。実際、楽譜通りに完璧、なんだろ?」
「そうですけど・・・そうですか、心、ですか」
「お前の曲で、あいつも足りないものをはっきりと自覚したみたいなんだがな・・・。あいつに心を篭めた歌が歌えるか、そこが問題なんだ。それができなければ、今後のあいつに先はない」
「それは」

 ・・退学も視野にいれている、ということだろうか。それとも単純に、卒業オーディションに受かっても、先がないという意味なんだろうか。ところで何故私の曲で彼が足りないものを自覚したんだ?ちょっと疑問を覚えたが、そこは今問い詰めるところじゃないな、と思いなおして日向先生の懸念の理由がわかってなるほどなぁ、と納得する。うむ、しかしながら。

「すみません先生。私には、その一ノ瀬君の「心」の部分はわかりません」
「・・・・」
「私にわかるのは彼の技術が優れていること、彼が類稀なる努力家だということだけです。それに、その心という部分は、彼自身がどうにかしなければならないことで、そこに他人が介入する隙はあまりないように思います。・・・なにやら私を随分と買って頂けているようですが、ご期待に添えられず申し訳ありません」

 何がそんなにも私が日向先生の中で高く評価していただけたのか本当にわからないのだが・・・いや多分あの曲のおかげなんだろうけど、しかし自分の中で何がそこまで?と思うのでやっぱり明確な理由はわからない。それでも裏切ったことは疑いようも無く、ぶっちゃけ自分に非があるようなないような・・・個人的にはないような気もするが、人生ってこういうことの繰り返しだよ、と思いながら頭を下げる。日向先生はむっつりと黙っていて、その居心地の悪さに出て行きたいな、と思いながら困ったように眉を下げた。

「でも、先生」
「・・・なんだ?」
「心がない人間なんてもの、存在しないんですよ」

 僅かに、日向先生の目が見開かれる。私はそれにただ微笑みを浮かべて、気難しそうに眉をよせている一ノ瀬君を思い浮かべてみた。真剣に楽譜と睨み合いながら、歌を歌っていた彼を思い出す。時折苦しげに眉が寄せられていたのは、もしかしたら彼自身このことについて悩んでいたのかもしれない。まぁ、私に言えることなんてほぼないんだけど。

「いっそなければ楽なのにって、思うこともありますけどね」
?」
「なんでもないです。では日向先生。ご期待に添えられず申し訳ありませんが、そろそろ時間も近くなりましたのでこれで」
「あ、あぁ。・・・引き止めて悪かったな」
「いいえー。でも、私も少し気にかけてみますね。何かできるかは微妙ですけど」

 凡人にそんな繊細な仕事を期待しないで欲しいなぁ、と思いつつ、しかし一ノ瀬君の歌を聞いていても心がないなんて思わなかったけどなぁ、と首を捻る。これがプロと凡人の差というものなのか・・・。皆様感性鋭すぎて私ついていけませんわ。
 溜息混じりに、まぁ今度はもうちょっと意識して聞いてみようかな、と考えていると、後ろを向いた私の背中に、日向先生がぽつりと呼びかけた。


「はい?」
「・・・一ノ瀬は、取り戻せると思うか?」
「私には、なんとも。ただ、個人的に言わせて貰えば」

 日向先生は一瞬何かに言いよどみ、けれどそれを摩り替えるように、椅子に深く腰掛け、複雑な色を乗せた目でこちらを見ながら頼りなく問いかけた。私はそれに、聞かれても困るんだが、と思いつつへらりと笑みを浮かべる。

「今の一ノ瀬君のままでも、私はいいと思いますよ」

 個人的には、なんの問題もないと思ってるからね。それでもやっぱり日向先生とか月宮先生からしてみれば、ダメなのかなぁ、と思いながら。今度こそ、呼び止められることも無く、職員室を出て行った。