気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
時間が流れるのは早いもので、抜き打ちテストの日がもう明日という事実に現実から目を逸らしたい気持ちで一杯です。明日とか。テストが明日とかそんな馬鹿な。
いや、曲自体は大体出来上がっているし一ノ瀬君の歌だって完璧だし、迎えることに異存はない。一ノ瀬君とパートナーを組んで、いや組まされて?実質ほぼ一週間で仕上げたとはいえ、出来の方は悪くはない、と思っている。多分いい点数貰えるだろうし、正直今までで一番いい出来だろうし、点数ももしかしたら上がるかもしれない。それもこれも全て一ノ瀬君のおかげなのだが、いや本当ありがとう一ノ瀬君。君作曲家としてもきっとやっていけるよ。シンガーソングライターにでもなりなよ。あ、それはアイドルじゃないのか。
ただ、それとこれとは別の話で、テストという事実が嫌でしょうがないのだ。始まればなんてことのないそれも、始まる前までは非常に憂鬱なものである。きっと直前が一番緊張するだろうな、と今からキリキリと痛みそうなお腹にそっと手を添えて、憂鬱な溜息を吐いた。
それにどうせならもっと時間をかけたいなぁという気持ちもあったりするので、なんで私いつもこんなギリギリなのかなぁ、と思いつつ、歌い終えた一ノ瀬君にオッケーサインを出した。
今日でこの練習も終わりだ。お互いの事情で時間が取れなかったり一ノ瀬君の鬼のような指摘に偶に挫けそうになりつつ、彼の食事事情にツッコミ入れたりしながらも、なんだかんだ穏やかにやってこれたのではないかと思っている。実力差は最後まで埋められなかったが。まぁそこは諦めているのでもういいんだけど。
それにしても一ノ瀬君の歌はいつ聞いても素晴らしい。正直今日はもう練習を終えて休みをとってもいいぐらいだと思っているのだが、一ノ瀬君は何が納得できないのか、予約時間一杯、あるいは延長も視野にいれてがっつりやる気らしい。
・・・いや、本当、そこまでがっつりやらんでも十分な気がしますよ?それとなく明日に備えたらどうだと進言してみるも、彼はあの冷ややかな目で冷たく跳ね除けるので、私は延々と機材を操作することになっている。今も、オッケーサインを出したにも関わらず、彼はリテイクを自ら出した。
それに思わず眉を寄せて、ブース内の一ノ瀬君に聞こえるように、アナウンススイッチを押すとマイクに向けて声を出した。
「一ノ瀬君。そろそろ休憩をいれた方がいいよ」
「大丈夫です。それよりも曲を流してください」
「一ノ瀬君」
「テストは明日です。私たちは他のペアよりも練習時間が少ないのですから、休憩などいれている暇はないんですよ」
少しイラついたように、汗の光る額に張り付く前髪を乱雑にかきあげて、一ノ瀬君は険しい顔でこちらを見た。眉間にくっきりと刻まれた皺と切れ長の瞳が爛々と輝いて、彼の焦燥感が浮かび上がる。何をそんなに焦っているのか、不安に思っているのか、納得できていないのか。私はそんな一ノ瀬君の心情が全く理解できない。
彼は歌えている。完璧に。リズムもスピードも声の出し方も全部、間違いなく歌えている。これが普通の人なら完成していると喜んでいいぐらいの出来だ。少なくとも私の耳には彼が納得できていない部分など見つからないし、そこまで根を詰める理由も見つからない。
むしろ、この場でこれほど根を詰めて練習することは真逆の効果しか生まないんじゃないかとすら感じているのだ。あぁそういえば、一ノ瀬君は最初からこうだった。
何をどう感じているのは知らないが、歌い始めると一ノ瀬君はこちらが大丈夫だって、上手だって、完璧だって言っても何一つ納得しないで歌い続ける。
さすがにレコーディングルームには時間制限があるから、途中でも強制退場せざるを得ないのだが、それでも時間一杯、一切の休憩をいれずに歌うことに没頭する一ノ瀬君は、少し異常だと思っていた。それ以外は比較的穏やかなのに、歌うとなると彼はストイックを通り越してマゾなんじゃないかというぐらい自分を痛めつけている。
いや本当、その内喉潰れるよと思うけど今だ潰れた様子はないので彼の喉は鋼でできていると密かに私は思っている・・・ではなくて。
今まではまぁ時間もないし、それが彼のスタイルならばと黙認してきたが、今日は違う。なにせ今日はもうテスト前日、ラストとなって他の生徒は基本的にある程度の練習を終わらせると休息タイムに入って明日に備えている者が多いのだ。
そりゃそうだ。そもそも曲自体私たちとは違って速くに出来上がっているし、今更追い詰めるほど練習する必要なんてないのだから、本番に備えて休みを取ることは間違いじゃない。
今ここで我武者羅に練習するものは、私たち同様ペアを組むのが遅すぎて時間がない人とか、よっぽど不安な人間とか、早くに組んでいてもできていないような、とどのつまり不安しかないような人間ばかりで。
そういう人間は決して多くはないので、レコーディングルームにも空きがでる。空きが出ると言うことは時間も多く取れるということで、しかもこのレコーディングルームはもう私たち以外に使う人間がいないということなので、まぁ簡単に言えば時間無制限、使いたい放題やりたい放題なのだ。ってことは、時間規制による強制終了が使えない。使えないということは、この一ノ瀬君のマゾみたいな行為を止められるのは私か、見かねた第三者ぐらいで・・・わぁお、責任重大だな!
「・・・声の出方が最初よりも弱い」
「さん?」
「張りがないし伸びもよくない。掠れ声は似合ってるけど、疲れの方が勝ってて歌に合わない。そんな状態の練習、意味がないよ」
「・・・っ」
冷たいようだが、事実だ。ぶっ続けで歌っていて、最初の頃の勢いはなく、相変わらずリズムとかは完璧なのだが、全体的にそれだけになってきている。悪い意味で力が抜けているし、悪い意味で力が入りすぎている。必死すぎて、なんか微妙。
いい意味でリラックスできるんならいいけど、一ノ瀬君全然そんな様子ないしなぁ。むしろ歌えば歌うほど力が入っていく感じ。うん。やっぱり休憩いれたほうがいいなこれは。
今まであまり口を挟まなかった分、キッパリと言い切った私に僅かに一ノ瀬君は目を見開くと、ぐっと唇を噛んで苦しげな顔をした。体の横で揺れていた手が、きつく握り拳を作ってわなわなと震えている。その様子をみて、ちょっと言い過ぎたかなぁ、と罪悪感がシャーペンの芯を手の甲に刺すようにチクチクと刺さってきたが、ここは心を鬼にして!とぐっと手を握った。
「一ノ瀬君、休憩にしよう。どうせ今日はもう私たちだけだし、休憩した後でも時間は十分取れるよ」
「・・・・・・・・わかりました」
めっちゃ不服そうだったが、それでも搾り出すように聞こえた肯定の返事に、ほっと胸を撫で下ろしてアナウンススイッチを切って機械もとりあえずオフにする。一ノ瀬君は窓の向こうで深呼吸をすると、ヘッドフォンを外して汗で張り付く髪を解すようにぐしゃぐしゃと掻き混ぜてから、思いつめた様子で楽譜を見ていた。
その様子を見ながら、私は後ろに置いてある鞄の前まで歩き、中から購買部で購入したスポーツ飲料を取り出した。
そうしているうちにブース内から出てきた一ノ瀬君は、相変わらず一向に晴れる様子のない曇った険しい顔で、むっつりと口を閉ざしている。わぁお、空気悪いな!
引き起こしたのは自分だが、雰囲気わる!と思いながら、無言で立っている一ノ瀬君を呼び寄せて椅子に座らせた。うふふ、男子の無言は怖いね!
「はい、これ。喉渇いてるでしょ」
「・・・ありがとうございます」
鞄から出したスポーツ飲料を差し出せば、一ノ瀬君は暗い調子でそれを受け取った。何故こんなにも暗いんだこの子は。受け取ったはいいものの、一向に口をつけようとしない様子に、何故ラストでこんな暗い空気にならなきゃいけないんだ!と内心で頭を抱えた。
実際目の前で頭を抱えられたら私の苦悩が彼に伝わるだろうかと思ったが、そんなことできるはずもないので、結局私も無言で一ノ瀬君の隣に座って同じく取り出したスポーツ飲料のキャップを外して口をつけた。機械を使うからか熱の篭る部屋は、空調設備は一応備わっているものの、機械のまん前にいると熱いものは熱い。
いささかの生温さは拭えないが、それでも今の私には十分冷たいと思えるそれを喉に流し込むと、ようやく一ノ瀬君もペットボトルの蓋に手をかけた。キリキリ、ぷしっ。そんな音をたてて捻った白いキャップがころりと一ノ瀬君の手の中に転がる。
少し濁った半透明の液体が、ペットボトルの中でたぷんと揺れると、大きく傾いて一ノ瀬君の口に飲み込まれていく。僅かばかり反った首筋の喉仏がごくりと上下すると、彼はふっと息を吐いて思いつめた顔でじっとあらぬ方向を見つめていた。
焦点が合っているような、合っていないような・・・。しかし、声をかけるにかけられない。
何か全体的に話しかけないでくださいとばかりの拒絶オーラがにじみ出てきている気がして、というかこんな思いつめた無口な男子に話しかけるような話題も持っていないし。
怒っているわけではないのだろうけど、しかしこんな状況の男子と密室で二人っきりという状況は・・・いや、ないわけじゃない、か?けどまぁあんまりないので、どういう対応をすればいいのかわからず、結局無言でいることしか私はできない。
何か話しかけてきてくれれば答えようもあるのだが、とこちらも悶々としたものを抱えながらチビチビとペットボトルに口付けた。・・・こんなことになるなら一ノ瀬の要望通りに曲流してればよかったかなぁ。居た堪れなさにそんなことすら考え始めた頃、あらぬ方向をじっと見つめていた一ノ瀬君が、ぎゅっとペットボトルと両手で包むように持ちながらぽつりと口を開いた。
静かなレコーディングルームの、重たい空気にそったような、酷く強張った声だった。
「・・すみません」
「へ?」
「君の曲を、私は、全く歌えていない・・・明日がテストだというのに、こんな調子では・・」
ちょっと待て。
「一ノ瀬君・・・君の歌えているのレベルはどこまで高いの?」
ちょ、これで歌えてないとか言われたら大半の人間は「歌」のうの字すらできてない状態だと思うよ?言うにこと欠いてそれ。突然謝罪を口にしたと思えば、こちらが呆気に取られるようなある意味的外れとも言える内容に呆れなのかなんなのか、呆然と問い返せば、一ノ瀬君は眉を潜めた。
「事実です。私は君の歌を全く歌いこなせていない。・・・少しでも、追いつきたいのに、全く追いつけていないんです・・・。こんなことでは、君の曲を殺してしまう」
「一ノ瀬君・・・」
落ち込んでいるところ悪いが、全くもって、理解できん。一ノ瀬君が俯いて顔を掌で覆い隠しているのを幸いに、何いってんのこの人、という視線を惜しげもなく向けて、私は才能のある人間と凡人の感性とはここまで違うものなのか・・・と戦いた。
なにをどうして、彼が歌えていないと思っているのか、理解できない。どこがどうなって、私の曲を殺しているのか、理解できない。むしろ彼は完璧に歌いこなしているし、殺すどころが惜しみなく生かしていると思う。むしろ私が彼の歌を生かしきれていない気がしているというのに、どうやら彼は私とは全く逆のことを考えていたようだ。
互いに、互いが相応しくないと思っている。お互いが、相手を潰しあっていると思っている。・・・・・・どんな不毛だこれは。・・・そういえば、日向先生が、一ノ瀬君の歌には心がないとかどうとか言っていたっけな・・・。つまり彼はそれを踏まえて、こんなことを言い出したのだろうか。うーん、うーん・・・心、ねぇ?
「・・・一ノ瀬君は、自分の歌に心がないって、思ってるの?」
「!」
「日向先生からこの前聞いたんだけど・・・一ノ瀬君も、そう思ってるの?」
「それ、は・・・」
とりあえず直球ど真ん中で核心に触れてみると、見るからに肩をびくつかせた一ノ瀬君は、こちらを向いてきゅっと眉を寄せた。苦悶するように歪んだ顔が、場違いながら色っぽい、とそんなことを考えつつじっと彼の藍色の目を見つめる。
揺れる瞳の向こう側の悩みは、私では到底理解できない類のものだろう。それでも彼の言葉を待つように口を閉じていると、やがて観念したように一ノ瀬君はふっと息を吐き出した。
「・・・私の同室者は、とても楽しそうに歌を歌うんです」
「うん」
「技術なんて全然身につけていないし、音程だって外す。彼よりも私の方が上手く歌える自信がある。実際に、私の方が実力は上です。なのに、・・・私の歌は、日向先生には認められなかった」
「うん」
「買うなら私の歌よりも彼の歌を買うんだと・・・私の歌にはハートがないんだと。技術よりも何よりも、そこが大事なんだと、言われて」
「うん」
「わからなく、なりました」
そこで、一旦一ノ瀬君は言葉を切った。細く息が吐き出されて、肩から力が抜けるように下に下がる。一ノ瀬君は私から視線を外すと、手元のペットボトルを見つめて、ぐっと手に力を篭めた。
「先生の言う心が、周囲の言っている心を篭めるということが、理解できなくて」
「うん」
「ただ、歌っているだけの、何がいけないのでしょうか。ただ、歌いだけの、はずだったのに」
「うん」
「私は、ただ、歌を、私の歌を、歌いたい、だけで・・・ただ、それだけの、はずで」
それすら、否定されて、どうすれば。べこり、と。柔らかいペットボトルの素材が音をたてて凹む。歪に歪んだそれは、正に今の一ノ瀬君のようだ。歪で、欠けて、元に戻れない。
元が何かもわからないまま、追い詰められて我武者羅になった彼は、我武者羅になればなるほどわけがわからなくなっているような印象を受けた。これはあれだな。迷走しているというか、悪い意味でドツボに嵌ってるな。こう、同じところをぐるぐると回っているというか、回りすぎて穴あけて底に沈んでいっているというか・・・袋小路?うん、そんな感じ。
私は彼の話を聞くだけ聞きながら、スポーツ飲料を口に含んで、こんな内容の悩み、以前もどこかで、とふと首を傾げた。誰か、同じように、自分の歌を歌いたいって、言っていたような・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!
「あ」
「はい?」
「いや。いやいやいや!なんでもないよ!」
お も い だ し た ! ! !
思わず口から出た間の抜けた声に一ノ瀬君が反応するが、それに勢い良く否定を被せながら、どっと冷や汗を欠いた背中を誤魔化すようににこ、と笑みを浮かべる。シリアスな場面に似つかわしくない笑顔に一ノ瀬君が怪訝そうな顔をしたが、それでも彼は何も言わずにまた私から視線を外した。それにほう、と安堵の息を零して、ぐいっと出てもいない汗を拭うように顎下を手の甲で擦った。なんたる・・・!まさか、まさかこんなところで今更思い出そうとは・・・!
ぐぬぅ、と変な声で唸りそうになりながら、ちらりと彼の横顔を盗み見る。あぁ、そうだ、こんな顔だった。というかこの顔だった。吃驚するぐらい整った顔と切れ長の瞳、憂いを称えた藍色の瞳に、無駄に腰にきそうな美声。こいつ、あの時の青年か・・・!
どうりであの時私の顔みて驚いた顔したはずだよ!覚えてたんだね忘れていて欲しかった!!そしてすっかり忘れていてごめん!今更あの時の、なんて言えないねごめん!
うわぁあぁ、といっそ頭を抱えてゴロゴロ転げまわりたいような、ダッシュで背中を向けて逃げだしたいような羞恥心とも罪悪感ともつかない複雑な心境で思いっきり口元をへの字に引き結ぶ。誤魔化すようにペットボトルにまたしても口をつけながら、まさかこんなところで再び会うことがあろうとは、とごくごくと喉を鳴らした。
ぷは、と口を離して、口元を手の甲で拭う。あれっきりだと思ってたのに、なんでこんなところで。あんな恥ずかしいことしでかして今まで忘れていた自分にいっそ拍手を送りたいところだ。まぁ結構経ってたし、その間に色々あったし、あときっと自分のナニかがこの記憶は封印するべきだと暗示をかけていたのかもしれない。ある意味黒歴史だ、あれは私の。
事実、思い出さないほうが心穏やかでいられたと思う。つぅ、と背中を伝う言い知れない緊張感がどうか横の青年に伝わりませんように、と念じながら、私ははて、と首を捻った。
そういえば、あの時も彼はなんか歌いたいとか言っていたが、今の一ノ瀬君の言い分を聞くと、どうやら上手くいっていない、ということなのだろうか?そもそも何故自分の歌が歌いたいということでこの学園に入ったのかわからないが・・・アイドルになりたかったのか?いやなりたいからこの学園にいるのだとしても、それと自分の歌が歌いたいということはイコールでは結ばれないような気も・・・。
いまいち一ノ瀬君の行動の意図はわからなかったが、多分これは彼なりに、やり直そうとして起こした行動なんだろうな、と察して私は一ノ瀬君を見た。
上手く、形になってはいないとしても、彼は、やり直そうと努力しているのだ。そのまま放っておくこともできただろうし、諦める事だってできただろうに。それでも、前に進もうとしたのだろう。あの時、動けずにいた彼が、ここに、こうやって。
それが私があんな八つ当たり染みたことを言ったからなのか、それとも前々から決心していたからなのかはわからない。自惚れていいならちょっとは私も彼の背中を押したのかしら、とは思うが、それでも最終的に判断をして大変な道を選んだのは彼で。あぁ、なんだ。
「歌えてるよ」
「え?」
「歌えてる。一ノ瀬君、自分の歌を歌ってる。だって、選んだからここにいるんだもの。進んだから、ここにいるんだもの。ちっとも進んでないなんて言わせない。止まったままなんて、誰にも言わせない」
彼は進んでる。彼自身はそう思っていなくても、周りが、日向先生が、それじゃダメだと言っても。―――少なくとも、逃げている人間よりも、彼は遙か前に、立っている。
私は、眩しいものを見る目で一ノ瀬君をみた。私は、今きっと、一ノ瀬君の背中を見ているのだ。彼は、前の彼とは違う歌を、今確かに歌っているのだから。
「心のことは、正直私もよくわからない。日向先生の言うように、一ノ瀬君の歌に心がないのかどうか、聞いていても全然わかってないんだけど」
「そうですか・・・」
あ、今少し呆れられた気がする。わかってないんですか、って目で言われた気がする。わからんよ、そんな繊細なもの!とりあえずごふん、と咳払いで誤魔化して、私は改めて一ノ瀬君に向き合った。
「・・・一ノ瀬君は、今何を考えて歌ってるの?」
「何を、ですか?」
「うん。やっぱり、その心のこと?どうして歌えないんだろうって?どうやったら心を篭めて歌えるんだろうって?今、無いものを考えて、歌ってるの?」
「・・・そう、ですね。それは、感じています。心がわからなくて、焦って、何か、掴もうとして・・・君の曲ならば、なくしたものを見つけられるんじゃないかと、思ったのですが」
どうやら、私には無理らしい。と、どこか諦めたように、寂しそうに微笑む彼に、私はちょっと眉を寄せて、そうかそうかなるほど、と頷いた。うん。・・・やっぱり。
「一ノ瀬君」
「はい」
「私は、一ノ瀬君はそのままでいいと思うよ」
言えば、一ノ瀬君は眉を潜めた。今までの話を聞いていたのかといわんばかりの目だったが、私はそれすら跳ね飛ばして、にこりと笑ってみせる。
「そのままでいこう。それが今の一ノ瀬君だから。一ノ瀬君、全然進んでないみたいに言ってるけど、私よりもずっと前に進んでるよ」
「君は、人の話しを聞いていたんですか?それに、そんな歌では君の曲を生かせない」
「一ノ瀬君」
椅子から立ち上がり、見下ろした一ノ瀬君はくっと唇を噛んだ。唇が白くなるほど噛んではいないが、それでもふっくらとした唇に白い歯が食い込む様はあまりいいものじゃない。
見下ろしながら、私はなんか周りに色々言われて余計頑なになったんじゃないかこの人、と思いながら、ぽん、とその肩に手を置いた。
「曲を作った私が言うよ。今の一ノ瀬君で、歌って欲しい」
「さん・・・?」
「私、一ノ瀬君の歌好きだよ。心の有る無しはともかく、すごく上手で、綺麗な声で、普段のキャラどうしたってぐらい甘い歌声が、私は好き。ずっと聞いていたいぐらい。やっぱりね、上手いに越したことは無いんだよ。心があっても、下手な歌はあんまり聞きたくないもの」
某ガキ大将を考えてもみたまえ。あれにはそれこそ心が一杯篭っているんだろうが、壊滅的に下手すぎて誰からも望まれていないんだぞ?それを考えたら一ノ瀬君の歌といったら!上手だし綺麗だし恥ずかしくなるけど甘い囁き声とかもうほんと女の子が放っておかないって、絶対に。自信を持って言うよ。君の歌は素晴らしい!
「一ノ瀬君は前に進んでる。進んでるから悩んでるんだよ。それはすごいことだよ。だから、今はそのままで歌おう」
「君の曲を、駄目にしてしまうかもしれないのに?」
「いや、なんでそこまで高評価を貰ってるのかわからないから、今更どうこうなっても」
「君は、他人を褒める前に自分の曲にもっと自信を持ったらどうなんですか?」
「そういわれても。でも一ノ瀬君のは純粋にすごいと思ってるし・・・。あぁ、そうだ、はいこれ」
「・・なんですか?」
自分のことが一番わからないのは、誰しも共通のことではないかな、と思いながら、ポケットから小袋を取り出して彼の掌の上に乗せる。呆れた顔から、不思議そうに小袋の口を開いた彼は、きょとんと目を丸くした。あ、この顔なんかHAYATOっぽい。
「・・・飴?」
「それ舐めてから、また練習しようか。アイドル目指してるんだから、喉は大事にしないとね」
散々歌ってカロリーも消費しただろうし、脳みそだって糖分を欲しているだろう。少しの甘いものを摂取して、それからまた頑張ればいい。
飴をみて微動だにしない彼は、そんな私の言葉にはっと顔をあげて、それから、どことなく泣くのを我慢するような、言いたいことが上手くまとまらないようなもどかしいような顔をして、ぐっと飴ごと手を握り締めた。
「・・・太ったら責任を取ってください」
「歌えば取った分のカロリーは消費できるから!」
むしろそれだけで太るとかどんな体質?!てかどこまでカロリー計算してんだよこの子!!憎まれ口を叩く一ノ瀬君にツッコミをいれれば、彼は冗談ですよ、と鼻で笑ってから、飴玉を一粒、口に放り込んだ。
「・・・またレモンキャンディーですか」
「え?嫌い?」
「いいえ。・・・好きですよ」
ころころと、頬をちょっとぽっこり膨らませながらほんの少し口元を緩めた一ノ瀬君は、外見に反してちょっと可愛い、と思った。・・・飴を舐める仕草って、結構幼く見えるんだな。