気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
一ノ瀬君があけたドアの向こう側に立っていたのは、ぴしりとスーツを着こなした日向先生だった。短く切った髪と鷹のように鋭い目でこちらを見た日向先生は、まあ、失礼ながら予想の範囲内といっていいだろう。いや、多分今回の担当試験管、日向先生だろうなぁって半ば確信していたので。前フリというかね、それっぽいなぁというフラグがあちこちにあったものだから・・・。まぁ、ここでいきなり全く知らない教師に担当されても「なんでだよ!」とツッコミをいれずにはいられないだろうから、これはこれでいいのだろう。
レコーディングルームに入る一ノ瀬君の後について入りながら、ドキドキと高鳴る心臓を押さえるようにぎゅっとファイルを抱きしめる。日向先生は一ノ瀬君を一瞥すると、来たか、とぽつりと低く呟いた。
「曲のほうはちゃんと出来たのか?」
「勿論です」
「そーか。まぁ評価は公平に行うからな。いくら時間がなかったからといって、甘く見てもらえるなんて思うんじゃねぇぞ」
「そんな必要はありません。例え時間がなくとも、完璧に仕上げるのがプロですから」
「言ってくれるな。じゃぁ聞かせてみろ、お前の歌を」
あれ、なんですかこの一触即発の空気。顔を合わせた途端挑発するように口角を持ち上げた日向先生に、ピクリともしない無表情で淡々と言い返す一ノ瀬君を交互に見比べ、その言い知れないピリピリとした空気にきゅっと身を小さくさせた。
ちょ、威嚇のやりあいは私のいないところでしてくださいよ!無駄にイケメンとタッパのある男二人が威嚇しあってる光景とかチキンな私には超怖いんですよ!
始まる前から張り詰めた空気に憂鬱な気分になっていると(個人の問題に巻き込まれている感じが否めない)一ノ瀬君は日向先生から顔を逸らすと、無言のままレコーディングルームのブースに向かって歩き出した。あぁ、そんなちょっと待って!慌てて私も一ノ瀬君の後に続いて機材の前に小走りに駆け寄ると、ふと一ノ瀬君の体の横に揺れている手が、硬く握り締められていることに気がついた。
あ、と思わず視線がそこに吸い寄せられると、ブースの扉に手をかけた一ノ瀬君が視線に気がついたようにこちらを見る。
「何か?」
「え、いや・・・あー・・・その・・」
涼しげな表情でこちらを見下ろす一ノ瀬君の、その様子はまるでいつもと変わりないように見える。緊張なんてしているようには見えないし、慇懃なまでの態度も敬語も変わらない。それでも、多分、今の彼は不安で一杯なんだろうなぁ、と握り締められた拳を思い返すと、私は少しだけ視線を泳がせ、まぁいっか、と流すことにした。
「なんでもない。テスト、頑張ってね」
「当たり前です。君も、機材の操作を誤らないように」
「気をつけます」
うん、そこ間違えたらヤバイものね。神妙に頷くと、一ノ瀬君はふっと少しだけ表情を柔らかげ、きっと前を向くとブースの扉をあけた。その広い背中を見送って、私は機材の準備に取りかかる。うわぁ、緊張するなぁ。別に私が歌うわけでもないのに暴れる心臓を持て余しつつ、機材のセットを終えると、顔をあげてガラス越しに一ノ瀬君を見た。一ノ瀬君はヘッドフォンを耳にかけ、楽譜をスタンドの前に置いて歌う体勢を整えている。
うーむ。何度もこの光景を見たけれど、やっぱり様になってんなぁ。うっかり見入りつつ、私は一つ深呼吸をすると、アナウンススイッチに手をかけて・・・。
「」
「うわっはい」
完全に意識の外に追いやっていた日向先生から唐突に声をかけられ、びくっと肩を跳ねさせる。押しかけていたアナウンススイッチから手を放すと、後ろを振り返り日向先生を見上げる。日向先生は厳しい顔つきで、何故か私を見下ろしていた。
「一ノ瀬は、歌えそうなのか?」
その問いに一瞬だけ眉を潜め、それからすぐにあぁ例の件か、と思いつくと私はいささかうんざりした気持ちで肩を竦めた。
「日向先生。前にも言いましたけど、私にはそれはわからないことです。歌えているのか、歌えていないのかは、先生ご自身が今から彼の歌を聞いて判断してください」
私に聞かないでくれと何度いったらわかるんだ。いや一回ぐらいしか言ってないけど、心配する気持ちもどうにかしたい気持ちもわかるけど、それは今ここで私が言ったところでどうにもならないことだろう。本人の歌は本人にしか変えられないし、聞く側だって、自分の耳で聞かなければ何もわかりはしないだから。
日向先生の眉の寄った渋い顔を見上げながら、ブース内の一ノ瀬君はひとまずおいて、と背筋を伸ばして完全に後ろに向き直る。
「先生、心なんてものは、周りがとやかく言ってどうにかなるようなものじゃないんですよ。むしろ一ノ瀬君の場合、周りがやんやん言うから余計にわけがわからなくなってるんじゃないですか?」
「どういうことだ?」
「頭でっかちなんですよ、彼。それに、早くなんとかしてあげたいって気持ちもわかりますけど、ここは学校なんですから、わからないものは時間かけて教えてあげるのも教師の役目ですよ」
急いては事を仕損じるともいうし。こいうのは長い目で見ることも大切なのだ。突きつけるばかりじゃなくてもっとこう、おおらかに見守ってあげましょうよ。というか、何故そんなにも焦って事を解決させようとしているのかがわからない。
「先生も一ノ瀬君も急ぎすぎです。もっとゆっくり生きたって罰はあたりませんよ」
「急ぎすぎ、か」
「そうです。それに、私は今のままの彼でも十分だと思いますしね」
前も言ったな、これ。そう思いながら、日向先生からブース内の一ノ瀬君に視線を戻す。何話してんだ?とばかりに怪訝そうな顔でこちらを見る一ノ瀬君にひらりと手をふって合図を送り、アナウンススイッチをいれた。
「一ノ瀬君ごめん。じゃぁ音流すよ?」
「いつでもどうぞ」
よし、良く言った。内心はともかく、表面上はなんら変わりのない一ノ瀬君に頷くと、そっとスタートボタンを押した。ミュージック、スタート。・・・なんちゃって。
※
彼の歌声は、相変わらず圧倒的だった。喉から迸る声量、甘く掠れる部分とどこまでも届くかのような伸びやかな余韻に、外れることのない音程。余すところ無く見せ付ける実力の高さに、この人と組めたことは私の学生生活で幸運なことだったのだろう、と彼の歌を聴きながら思った。個人的には不運な部分も無きにしもあらずだが、この歌声を間近で聴けたのだから、決して悪いことばかりではない。まぁ実力の違いに二度とは組みたくはないなぁとは思いますけどね。・・・私は自分の実力の吊り合うような相手と今後は組みたいものです。
まぁ、今回が特別だったのだ、と思うことにして、歌い始めれば緊張もなんのその。私は自分の仕事は終わったとばかりに彼の歌に聞き入っていると、横に立っていた日向先生がはっと浅く息を吐く気配にちろりと視線を向けた。
険しい顔でもしてんのかなぁ、いい歌だと思うんだけどなぁ、と思いつつ日向先生を見上げると、私は軽く目を見開いた。・・・あれ?
「日向先生?」
眉間に皺でも寄せて、厳しい顔でもしているのかと思った予想に反し、日向先生は絶句したように目を丸く見開いて唖然としていた顔をしていた。一見間抜け面に見えなくも無いが、基本が整っているのでそこまで間の抜けた顔に見えないところが美形美味しいな、と思うところである。さておき、言葉をなくして・・・あぁ、これは聞き入っていると言うのだろうか。一ノ瀬君の歌に立ち尽くしている日向先生に、これは好反応なのかな?と首を傾げながら呼びかけても聞こえていないようだったので、まぁあえて意識を戻す必要もないかと再び一ノ瀬君に視線を戻した。歌もそろそろ終わりに近づいていて、最後の震えるような掠れた余韻を残して歌が終わり、曲もフェードアウトしていくと、終わりをみて曲もストップをかける。
ブース内で大きく息を吐く一ノ瀬君はしばらく余韻に浸っているだろうし、その間にテキパキと片付けを進めていくと、おい、という低い声で呼びかけられた。
「はい?」
「お前、何をしたんだ?」
「は?」
片付ける手を止めて日向先生を振り返れば、日向先生は険しい顔を復活させていて、その迫力に気圧されるようにびくりと肩を揺らす。何をしたって・・・何が?
先ほどまで一ノ瀬君の歌に聞き惚れていた様子だったのに、いきなりの切り替わりように目を瞬かせると、日向先生はくしゃ、と髪の中に手を突っ込んでふぅ、と体に溜まった熱を吐き出すように長く息を吐いた。
「あいつ、全然違うじゃねぇか」
「え?いつも通りでしたよ?」
「は?いや、違うだろ。全然」
「いや、だからいつも通りですってば」
・・・・・・・んん?顔を見合わせれば、擦れ違う主張に首を傾げる。先生ごめん。何が違うのかわかりません。日向先生自身噛み合わない会話に顔を顰め、だから、と少し語尾を強めた瞬間、きぃ、と扉が開く音がして、はっと二人して振り返った。ブース内から出てきた一ノ瀬君は、無表情ながらどこか強張った顔をしていて、その硬い表情のままこちらを見ると、怪訝そうな顔を浮かべた。
「・・・何をしているんですか?」
「いや、別に何も。あ、一ノ瀬君お疲れさま。よかったよー相変わらず完璧!」
「ありがとうございます」
ぐっと親指をたてて褒めてみたのに、全然嬉しそうじゃないね相変わらず。折角特に失敗もなく歌い終わったっていうのに、全然晴れやかな様子を見せない一ノ瀬君に苦笑を浮かべると、一ノ瀬君はそんな私から視線を外し、日向先生に視線を合わせた。ぐっと再び体の横で握り締められる手に、あぁそっか。ここからが彼にとっての本番なのか、と思い当たって私も緩んだ気持ちを引き締めるように日向先生を見上げる。・・・まぁ、これは最早自分の曲がどうとかいう前に、一ノ瀬君がどう評価されるかにかかっているわけで。私の曲なんぞ二の次だよね!うん。・・・でも私の曲もちょっとぐらいは何かコメントしてくださいね。
下手すれば総スルーされかねない状況にそんな不安もちょっぴり抱きつつ、二人分の視線を受けた日向先生は厳しい目を一ノ瀬君に向けると、ふっとその口元を緩めた。
「よかったぞ。一ノ瀬」
「えっ?」
「前と全然違う。いい歌だった。やればできるじゃねぇか」
「日向、先生・・・」
微笑みを浮かべて、一ノ瀬君の頭に手を置いた日向先生は、そのままぐしゃぐしゃ!と一ノ瀬君の髪をかみ乱すように乱暴に頭を撫でた。勢いがありすぎてがくがくと一ノ瀬君の頭が動いたような気もしたが、一ノ瀬君は常なら嫌そうな顔の一つもしそうなものなのに、ポカンとした顔のまま微動だにしない。日向先生は嬉しそうににぃ、と口角を持ち上げていて、ぽん、と最後に一ノ瀬君の頭を軽く叩くと手を放した。
うわぁ、見事にぼさぼさだな。綺麗にスタイリングされていた髪もぐしゃぐしゃになって、まるで寝起きのようだ。鳥の巣のよう、というか・・・とりあえずポカンとしているのもいいけど、少しぐらい整えたらどうだろうか、一ノ瀬君。日向先生の反応が彼の予想外だったのか、呆然と信じられないものをみるように日向先生を見る様子はまるで褒められなれていない子供みたいにあどけない。つんとすましたところを多く見ていた分、なんだか余計にそのギャップが目について、あぁ十代って若いなぁ、と目を細めた。
そんな一ノ瀬君を日向先生は可愛い生徒を見る目で見つめていて、緩く拳を作るとその胸にとん、と押し当てる。
一ノ瀬君は呆然とした目を軽く瞬かせて、体を揺らすと左胸に押し当てられた日向先生の拳を見下ろした。
「日向先生、私は・・・っ」
「ちゃんと入ってたぞ。気持ち。まぁ、まだまだなところはあったけどな。でも、大した進歩だよ。一体何やったんだ?」
「そんな、私は、何も、変わってなど・・・」
日向先生の言っていることが上手く飲み込めていないのか、それとも信じられないのか。どれだけ褒められなれてないの、この子、とばかりにうろたえる一ノ瀬君に、日向先生はうん?とばかりに首を傾げた。
「一ノ瀬?」
「日向先生・・・私は、なにも、変わってなどいません。心を篭める意味も、篭め方も、まだ、何もわからなくて、だから、そんな・・・どうして」
ぎゅっと胸元のシャツを握り締め、眉根を寄せる一ノ瀬君は何にも納得できていない複雑な顔をしていた。揺れる瞳は自分に自信がない不安に満ちていて、自分で理解も実感もできていないから信じられない。そんな様子だ。でも日向先生がわざわざ嘘を吐くはずもないから、それがわかっているから、余計に混乱している。不安定な一ノ瀬君を、日向先生は怪訝な顔を見やりつつ、安心させるようにまたその頭に手を置いた。
「ちゃんと歌えていたぞ。少なくとも、ただ歌うだけじゃあぁは歌えねぇ」
「ですが!」
「練習中に、何か掴めたんじゃないのか?」
頑なな拒否に、日向先生も何か可笑しいと思ったのか、眉を潜めて一ノ瀬君を見やるが、彼自身何もわかっちゃいないので、小さく首を横にふるしかできていない。
完全に蚊帳の外でそのやり取りを眺めていた私としては、日向先生がよかったって言ってるんだから素直に受け止めればいいのに、とか、ほらやっぱり別に問題なかったじゃん、とか思ったり、他人事のようにとらえて機材にセットしていたCDを取り外した。
いや、思いのほかやり取りが長かったし二人の世界を築いていたので、いつでも退出できるように準備だけはしておこうかと・・・。てかマジ私の存在って、とちょっとした疎外感に落ち込んでいると(曲の評価に一言ぐらい欲しかった・・)、!と声をかけられて私はまたしても後ろを振り返る羽目になった。
「なんですか?」
「お前、こいつとどんな練習してたんだ?」
「普通の練習ですよ?曲作って、それにあわせて歌ってもらって、調節して。別に特別なことは何も。ねぇ、一ノ瀬君」
「そうですね。普段と変わらない練習でした」
同意を求めるように一ノ瀬君に視線を向ければ、まだぼさっている頭のまま、彼はこくりと頷いた。とりあえず、髪整えたら?とさすがに目につくので言ってあげれば、一ノ瀬君は今気がついたようにはっと頭に手をやり、僅かに目元を染めて早く言ってください!と小さく文句を言った。いや、あれだけぐしゃぐしゃにされたんだから言われなくてもわかるでしょうよ。
手櫛で乱れた髪を整えている一ノ瀬君を尻目に、ケースいCDをしまいながら納得できていない顔をしている日向先生に、この人も納得せんのかい、と内心で突っ込む。
あれか、この二人案外似たもの同志なのか。
「何もしないで、あの歌になったっていうのか?」
「知りませんよ。大体、元からあの歌でしたよ、一ノ瀬君は」
「は?」
「え?」
ん?何がそんなに納得できないのか、別に理由などわからなくても、いい歌になってるんならそれでいいんじゃないか、と。半ば投げやりに告げれば、二人してきょとんとした顔をしてこちらを見た。・・・なんなんだ、一体。
「私が聞いたときからあぁでしたよ。それが心が篭ってるっていうんなら、最初からできてたってことじゃないんですか?」
「いや、待て。どういうことだ?」
「さん。あなたは、私の歌に元々心があったと、そういうんですか?」
知らんがな。詰め寄る二人にいっそそういって突き放したい衝動に駆られたが、なんだか必死な顔をしているのでそれも憚られ、私は上背のある二人に囲まれるというちょっとした恐怖体験にびくりと体を跳ねさせた。メッチャ顔怖いよ二人とも。
あと迫るな、囲まれると壁のように感じて圧迫感が半端ないんですよ身長差考えて!
そもそも、私には二人の前提が理解できていないのだから、説明も何もあったものじゃないと思う。最初からこうだった、としか言えないのだから、それ以上の説明も何も・・・。
そもそも気持ちを篭めることに言葉なんて必要ないだろうし、そんなもの感覚的なものであって理論的に展開できるほど弁が立つわけでも・・・あぁ、もう!
「すみませんが、二人ともちょっと離れてください。近いです」
「あ、あぁ、すまん」
「すみません・・・」
掌を二人に向けて詰め寄る二人にストップをかけ、距離を取るように進言してから、開いた距離にほっと息を吐いた。それから、改めて前を見れば食い入るように向けられる視線に、困ったように眉を下げた。・・・いや、そんなさぁ言え、とばかりの目を向けられても困るんですけど・・・。
「えーっと・・・一ノ瀬君」
「はい」
「私、前にも聞いたけど、今回の歌で、何を考えて歌ってた?」
「何を、ですか。・・・・・心の、ことでしょうか」
「うん。そうだよね。ちょっと聞いたけど、どうやったら心を篭めて歌えるんだろう、とか、どうして歌えないんだろう、とか。そういう不安とか焦りとかもどかしさとか、悲しみとか。そういう気持ちで、一ノ瀬君は歌ってたと思う」
まぁ実際のところ本人にしかそこの微細なところはわからないのだが、大体間違っては無いはずだ。私がそういうと、こくりと神妙な顔で一ノ瀬君は頷く。日向先生は黙って私の話を聞いていて、妙な空気に居心地の悪さを覚えながら、だから、そういうことじゃない?と締めくくった。はい、きょとんとしない二人とも。
「今回のテーマは喪失だったし。一ノ瀬君が失くしたものについて考えて歌ってたんなら、そりゃ気持ちも入るでしょうよ」
「え?」
「私のイメージの喪失とは違うかもしれないけど、でも一ノ瀬君なりの喪失は、出来上がっていたんだと思う。歌に、自分の気持ちをぶつけてた。心って、そういうことじゃないの?」
どうして歌えないんだって。心ってなんなんだって。わからないまま、失くしたものへの感情をぶつけていた、と思う多分。いやよくわからんけど。今回、一ノ瀬君は完璧に歌い上げることじゃなくて、そういうことを考えて歌っていて、もどかしさとか一杯抱えていたと思う。
なんか知らないけど私の曲に対して偉い高い評価もしていたしね?それに追いつこう追いつこう必死になってて、その必死さが、今回はちゃんと出てたってことじゃないのかなぁって・・・思うんだけれども。まぁでもこれは個人的な解釈だし、そもそも理屈で説明できるようなものじゃないので、私は困り顔で二人を見比べた。
「心とか、気持ちとか、そういうのって、頭で考えるんじゃないと思うよ。無意識に入るからこそ、気持ちが篭るんじゃないかな。人の心に、理屈はないからね」
以上、何故今回一ノ瀬氏の歌にハートがあったか?の議論でした。最後は内心で締めくくりつつ、これ以上の説明というか解釈は私には無理だぞ、とアピールも篭めて二人を眺めて、ファイルを手に取る。・・・というか、そろそろ戻らないと次のペアがやってくるんじゃないかなー?
「まぁ、今回が偶々そうだっただけで、いつもそれができなきゃ意味はないんでしょうけどね」
しかしそこまでの関わりというか接点はないと思うので、そこからはもう本人とこれからペアになるだろう子に託すしかない。それだけ言い残すと、私は時計を見上げて、やっぱりそろそろ次の生徒が来る頃だ、と把握すると視線を目を丸くして固まっている一ノ瀬君と、そうか、と何かようやく納得できたような日向先生に向けた。
「お前が、今のままの一ノ瀬でいいって言っていたのは、そういうことだったんだな・・・」
いや、別にそこまで深く考えてはいなかったんですけど。単純に、本当に裏表なく、そのままでいいんじゃないかって思ってただけなんですけど。しかし、日向先生はそれで納得しているようなので、あえてここはそのままにしておこう、と口を噤む。あーとりあえず?
「で、日向先生」
「なんだ?」
「私たちの歌は、どうだったんでしょう?」
それ聞かなきゃ、出て行こうにも出て行けないですよ。こてん、と首を傾げて問いかければ、日向先生はあぁ、と一つ頷き、今だ呆然としている一ノ瀬君をちらっと見てから、にやり、と笑みを浮かべた。
「勿論、合格だ。二人とも、な」
それはよかった!先生の合格発言にほっと胸を撫で下ろすと、一ノ瀬君に顔を向ける。
一ノ瀬君はびくりと肩を揺らして、夢から覚めたような顔でぱちぱち、と瞬きをした。長い睫毛が目元を叩くと、動揺する目が私を見る。まるで迷子の子供のように戸惑ったその眼差しに、私はなんだか今日の彼は幼いなぁ、と思いながら微笑ましげに口元を緩めた。
「一ノ瀬君、合格だって」
告げれば、彼は僅かに口元を戦慄かせ、それから、ぐっと唇を引き結んだ。それがちょっと、泣くのを堪えるような歪な顔だったので、私は彼の手を取ってぐいっと引っ張った。
「それじゃぁ先生。そろそろ次のペアもくると思いますので、これで失礼します」
「あぁ、ご苦労さん」
声をかければ、軽い調子でひらりと手が振られる。そんな日向先生の顔もどこか微笑ましさが隠しきれていないような柔らかい表情だったので、あぁ、見守られてるんだなぁ、と実感しながら、私は一ノ瀬君の手を握ったまま、レコーディングルームのドアに手をかけた。
開いたドアの向こうは、廊下の窓から入る陽射しが床のタイルに反射して、きらきらと輝いているように見えた。あぁ、ようやくテスト、終わったんだな。
ほっと息を吐けば、繋いでいた手に、ぎゅっと力が篭ったような気がした。