気紛れな夜と朝の温もりに孕んだ、5月の狂想曲
結局、行き着くところは慣れた場所なんだなぁ。一ノ瀬君の手を握ったまま、教室に真っ直ぐに帰るのも憚られて当てもなく歩いた結果、行き着いた先はよく集合場所に使っていた件の中庭だった。テスト中だし、元から人通りの少ない中庭は相変わらず綺麗な風景を壊さないかのような人気の無さで、静かな木漏れ日の差す木陰に一ノ瀬君を誘導する。
さわさわと緑の葉っぱが揺れて、時折陽射しの入る位置をずらしていく。揺れる影に視線を落としたところで、握っていた手を放そうと力を緩めたが、そこで逆に強く握り返されていたことに気づく。そういえば、レコーディングルームから出るときに、握り返されていたような?意識していなかったのでそのままだったが、力を緩めたときにするりと外れない手に思わず視線を向ければ、それまで引かれるがままだった一ノ瀬君が、はっと気がついたように瞬きをした。
「っすみません」
ぱっと、大きな手が放されると同時に一ノ瀬君は一歩後ろに下がった。別に距離まで取らなくても、と思ったが、手で顔を隠すようにして横を向く一ノ瀬君のちらりと見えた頬が薄っすらと紅潮していたので、案外純情?と首を捻る。百戦錬磨とまではいかずとも、それなりに耐性がありそうに見えたが、案外彼はこの手のことに疎いのかもしれない。
とはいってもたかが手を繋いだ程度。恐らく男女のどうこうというよりも、行動そのものが彼にとって羞恥を煽られるものだったのだろう。日頃、少なくともこの一週間余り見ていた彼は自制心に長けていたし冷静で物事を理性的に見据えることができる真面目な人物だ。
それが先ほどから日頃見ていた彼とは思えない様子ばかりを見せられていれば、彼の動揺の程も窺い知れるというものだ。それほどまでに今回のテスト内容は彼にとって平静ではいられないほどに重要なことだったのだろうか。まぁ、そうだったんだろうな。
まだ羞恥が消えていないのか、眉間にぐっと皺を寄せたしかめっ面で、頬の紅潮を隠すようにしながらも視線を一向に合わせようとしない一ノ瀬君を黙って見上げつつ、私はふっと笑みを口元に浮かべた。
「合格おめでとう」
「・・・え?」
「だから、合格。さっきから一ノ瀬君全く実感してない顔してるけど、合格したんだよ?しかも先生を見る限り結構な高評価。これは順位もかなり期待できるね」
まぁ、私の方は一切触れられなかったのでどうなるのかサッパリですが。・・・いいんですよ、可もなく不可もなくな平均点が取れればそれで!
ちくしょう一ノ瀬君の歌ばかりに感けてて私の評価は無しかよ!これでも頑張ったんだよ?!Sクラストップにつりあうように必死になってやったのにこの仕打ち・・・いいよ寮に帰ったらにゃんこに癒して貰うもの・・・!ちょっとした嫉妬心のようなものも浮かんだが、それ以上に今回のテストに不安しか覚えていなかっただろう一ノ瀬君にはこれで少しは気を楽にしてもらいたいと思う。思えば最初から最後まで、彼の気の張った顔しか見ていないような、あるいはちょっと情けないような、子供のように不安定なそれしか見ていない気がする。いや他にも見ているはずなんだけど、印象がより強い方に傾いてしまうのは当然のことで、今だって一ノ瀬君はどこか夢心地のような、現実を見れていないような、ふわふわとしたおぼつかない雰囲気を醸し出していて、丸くなった目がよりそのあどけない印象を植え付ける。
その目を見返せば、一ノ瀬君はまた少しだけ、目元をきつくさせた。それはまるでどこか泣くのを堪えるようなきつい顔つきで、睨まれているようだ、とも思う。
一ノ瀬君は浅く息を吐くと、唇を動かして僅かに震える声で話し始めた。
「ありがとうございます」
「うん?」
「まだ、私自身納得のいっていない部分もありますが・・・それでも、君のおかげで、少し心というものがわかったように思います」
「うーん。それは元々一ノ瀬君が持ってるものだから、私はあまり関係ない気がするけどなぁ」
自覚させるようなことを言った覚えもないし?むしろ放置していたような。そもそも心なんて実際あるのかとかないのかとかすら、人の手では証明できない形のないものだし。
感謝されても困るなぁ、と眉を下げれば、一ノ瀬君はふっと強張っていた表情を崩した。
「君のおかげですよ。・・・君の曲のおかげともいいますけどね」
「今だにその評価の高さがよくわからないんだけど・・・まぁ、それでいいならいいんだけど」
一ノ瀬君の歌云々の前に、私はそこが納得できないよ。微妙な顔をすれば一ノ瀬君は少しばかり呆れたような顔をしたが、すぐに目元を和らげた。しょうがない、と言わんばかりの表情に何か釈然としないものを感じたが、諦めて溜息を零す。
いや、まぁ、何はともあれ、今後このような場違いな目にはあいたくはないですけどね。それでも彼ほどの歌い手と組めたことは良いことだったのだろう。純粋に、曲を作る側として。
微笑みを浮かべると、一ノ瀬君も薄っすらと口元に笑みを浮かべた。それはとても小さな微笑みだったけれど、笑えるほどに落ち着いたのだと思えばいい表情だろう。
無表情を貼り付けたような愛想のない顔だとか、厳しい強張った顔だとか、不安に揺れる子供のような顔だとか。そんなものよりも、穏やかに微笑んでいられる方がきっといい。
「合格、実感した?」
「・・・えぇ。すみません。らしくもなく動揺してしまって」
「まぁ、今回一ノ瀬君切羽詰ってたみたいだからねぇ。まだ五月なのに、そんなに焦るのも珍しいっていうか・・・日向先生もだけど。まだまだ時間はあるんだから、そんな切り詰めなくたっていいのに」
「そんなことを言ってる間に時間というものは流れていくものなんですよ。・・あぁ、いえ。それでも、確かに、焦りすぎではあったのかもしれません」
そういって、苦笑を浮かべた一ノ瀬君は、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出していた。焦っていた何かから開放されて、余裕を取り戻したような。あぁ、テストからの開放感?わかるわかる、あの開放感は本当気を楽にしてくれるよね。どうせまた課題のラッシュに合うのだとしても。次の課題は是非とももっと余裕を持って取り組みたいな、と思いながら私は楽譜とCDを納めたファイルを片手に持ち、ぐっと背伸びをするように腕を伸ばすと、ふっと吐息を零した。
「まぁでも、よかった。無事に終わって。一ノ瀬君も、これからは次のパートナーの人と頑張ってね」
「えっ」
「今回は偶々テーマと一ノ瀬君の心情が重なってただけかもしれないし・・・まぁ、ちゃんと歌えるかもしれないけど。一ノ瀬君自身が納得してない部分があるっていうんなら、次回も頑張らないとね」
私としては十分だと思うし、次だって大丈夫なんじゃないかとは思うが、まぁそれは一ノ瀬君次第なので知りようも関わりようもないし。それでも多分、私は一ノ瀬君の歌が好きなままだろうけれど。そう思いながら見上げれば、一ノ瀬君は何故か目を丸く見開いていた。
それが予想外のことを言われたような顔をしていたので、私もうん?と疑問符を浮かべて首を傾げた。
「一ノ瀬君?」
「あ、・・いえ。そうですね。・・・さんとは、これで終わりなんですね」
「そうだね。結構短かったね、一週間。いい勉強させてもらいました」
なんだか今初めてその事実に思い当たったような気の抜けた様子の一ノ瀬君が、口元に手を重ねて感慨深そうに呟く。それに同意しながら、いや本当に、作曲家コースの相手が必要なのかな?というぐらい的確なことしか言わなかった一ノ瀬君には、いい勉強をさせてもらったと深く頷く。むしろこちらがありがとうと言うべきではないのだろうか。
「君には、助けてもらってばかりですね・・・あの時から」
「うん?」
あの時?こてりと首を傾げると、一ノ瀬君はくすっと笑い、穏やかに目を細めた。その柔らかい表情にイケメン度合いが上がったな、と思わずしげしげと見つめる。
「いえ、・・・なんでもありません」
「そう?」
微笑みを消して、すました顔を作った一ノ瀬君に、瞬きを数度こなしてふぅん?と語尾をあげる。意味深というか何かあったと思うのだが、本人が語る気がないのならばあえて突っ込む必要もないだろう。何か満足そうな顔もしているし。元気になったのならばよかったと思う。私は一ノ瀬君を一瞥すると、まぁいいか、と目を細めた。
「じゃぁ、私もう教室に戻るね。一ノ瀬君もそろそろ戻った方がいいよ」
今日は一日テストで潰れるとはいえ、何時までも外で話していていいわけではない。いい加減教室に帰らなければ不審に思われるだろう。そう思い、何より彼からはあのおぼつかない様子はもう窺えず、しっかりと地に足がついたような印象を受けた。これ以上話すこともないだろう。そして、これから先、あまり話すこともなくなるだろう。クラスの違いというものは存外に大きい。そう思いながらひらりと片手をあげて踵を返すと、ぱしっとその手が捕まれた。え?と目を見開いて振り返ると、一ノ瀬君は私以上に目を丸くしていて、しかし目が合うときゅっと目元をきつくさせた。
「君は、携帯はもっていませんでしたね」
「え?あ、うん。いい加減買おうかなとは思ってるけど・・・」
「そうですか。・・・少し、待ってください。紙とペンはありますか?」
「あるけど・・」
「すみませんが、少し借りても?」
「いいよ。はい」
別に個人的にはいらないかなとは思うが、まぁ今後社会人になるとして、そうなると携帯は必要になってくるだろうし、そろそろ考えなくてはならないなぁとは思っている。
しかし面倒だ。そう思いながら、言われるままにメモ帳とペンを手渡す。彼はそれを受け取るとさらさらと紙に何か書きつけ、ずいっと私に差し出した。首を傾げつつ、受け取れば白い紙にはいくつかの数字とアルファベットが几帳面な字面で並んでいる。これは・・・。
「・・・・え?」
「携帯を買ったら登録をしておいてください。それから連絡を」
「え?」
「君はどうにも無自覚ですが、君の曲は誰にも真似できない素晴らしいものです。・・・今はまだ、私はあの曲を完全には歌えません。一生、歌えないかもしれない。それでも、いつか、必ず、あの曲を歌いきって見せます。だから、・・・それだけです」
勘違いしないでくださいね、と言われて何を?と思いつつ私はメモ帳に描かれたアドレスと携帯番号をマジマジと見つめ、あれぇ?と内心で首を捻った。・・・これで終わりじゃないの?
「えーっと・・・うん。携帯を買ったら、登録しておくよ・・・」
「必ずですよ。・・それでは、私はこれで」
「あ、うん。ばいばい」
人を引き止めておいてさらっと踵を返すその潔さに呆気に取られて思わず見送ってしまった。大きな背中が悠然と去っていく様子に、私は中庭にぽつんと取り残された状態で手の中で異様な存在感を示すメモ帳を握り締め、今度は口に出してあれぇ?と首を捻った。
「・・・まぁ、いっか・・・?」
登録したところで、連絡を取り合うようなことはそうそうないだろうし。それに何時買うかとか決めてないし。そもそもクラス違うし。連絡先を知ったところで、そうそう何も変わりはしないだろう。お互い、用事がない限り連絡など取りそうもないし・・・しかもその用事すら滅多にないだろうし。
というか、何が変わるというのか。しいていうならなんか騒がしいことになりそう、という程度で、まぁ別に、そこまで困ったことにはならないはず。・・・いや、騒がしい時点で私にとっては嫌な予感になるのか?女子の嫉妬フラグは是非ともブチ折っておきたいところだが・・・まぁ、なんとでもなるか。
とりあえず、メモ帳をポケットに突っ込み、楽譜を持ち直すと私は抜けるような青空を見上げた。晴れやかな空が、そこにはただ広がっていた。
あぁ、とりあえず、一段落ついたんだな。ほっと一息つくと、一ノ瀬君とは反対の方向に、くるりと背中を向けた。さぁ、教室に戻ろうか。