雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲
青いマグカップには並々と黒い液体が注がれている。白く煙る湯気と共に独特の芳香が鼻腔を刺激し、たぷりと揺れる黒いそれにぽちゃんと角砂糖が落とされる。一つ、二つ、三つ、四つ・・・あれちょっと多くね?ぼちゃぼちゃぼちゃん。最早ぽちゃんなんて可愛い音ではなく大量に投入される角砂糖に、僅かに頬を引き攣らせたのも束の間、次に取り出されたのは真っ白なミルクで、それがだばだばとマグカップに注がれる。
見る見るうちに黒い液体は白に犯されその色を薄く柔らかいものに変えると、マグカップの縁ギリギリまで押し寄せてぴたりと止まった。その中に差し込まれたのは銀色をしたスプーンで、ぐるぐるとそれがミルクとコーヒーが混ざったぐちゃぐちゃのマーブル模様の液体を混ぜると、綺麗に色は調和してその飲み物は完成した。
コーヒー好きな人間からしてみればそれはコーヒーへの冒涜だ!と声高に訴えそうなほど酷い。別に私はコーヒーマニアではないからどうとも思わないが、いやでもあの砂糖の量はない。
最早それはコーヒーなんていう飲み物ではなかった。しかしカフェオレなんていう洒落た飲み物でもない。それはただのコーヒー牛乳だ。いや牛乳コーヒーだ。その並々とマグカップの縁ギリギリで揺れるそれを、慣れた様子で一滴たりとも零すことはなく口元に近づけて啜る姿はいっそ尊敬に値する。私、そこまで縁ギリギリで揺れる飲み物を平然と口元まで持っていくスキルはさすがに持ち合わせていないよ。そんな密かな、しかしどうでもいい尊敬を向けられているとは露ほどにも知らないで、目の前の人は相変わらず死んだような表情筋を僅かに動かしてじろり、とこちらを半目でみた。ちなみに半目はこの教師の標準装備である。
「納得できませんね」
「はぁ」
「君には力がある。それは確かに証明されているはずなのに普段の出来がこれとはどういうことなんですか。本気を出していないとでもいうんですか」
「いえそんな滅相も無い」
「えぇ、えぇ。そうですね君はとても真面目に課題に取り組んでいますしやることはやっています。知識も技術もずば抜けてはいませんが着実に身につけています。それは正当に評価しますよ」
「ありがとうございます」
「ですがこれは一体どういうことなんです?まぐれであの曲ができたとでも?答えは否。否なんですよ。まぐれで曲などできはしない。あれは君の潜在能力、つまり君自身の力なのです。君はあれだけの曲を作れる力がある。なのにどうして普段はこうも可もなく不可もなく凡庸とした曲しか作らないんですか」
「私にはなんとも・・」
すごいね先生ほとんどノンブレスもいいところだ。こんなに喋る先生見たこと無い。しかし内容は自分へのお説教・・・お説教?とはこれいかに。ノンブレスで喋る先生に感動を覚えたのに、内容がお説教というか愚痴というか不満というか・・とりあえずリアクションに困るもので私は困ったような顔で先生の流れるようなお言葉を聞き流すしかなかった。
どうしてこうなったのか・・私はただ明日提出期限の課題を持ってきただけだというのにこの仕打ち。何が琴線に触れたのかしら・・・?そんなことを考えながらもちらちらと牛乳コーヒーに目が向くのは仕方ない。北原先生の意外な味覚を知ったというか、コーヒーはブラック派☆みたいな顔して甘党なのかこの人。ギャップ萌えでも狙っているのか。いや何も考えてはいないだろうけれど、先生の話す内容よりも彼が飲む飲み物の糖度がどれほどなのか気になって仕方ない。一度試したらその甘さもわかるだろうか。
甘すぎて飲める気がしないそれが排水溝に消えていく姿まで想像して、勿体無いから実行には移すまい、と心の中だけで決意する。その間にも先生からのお説教もどきが延々と続いていたのだが、全く理解できないので何も言えない。
黙って聞いていると、先生の魅惑的なテノールボイスに紛れてがちゃり、というドアの軋む音が職員室内に響いた。北原先生の話し声は相変わらず続いていたが、反射的にちろりと視線を動かせばそこには疲れた様子の日向先生が溜息を吐きながら自分の席まで戻ろうとして、こちらの状態に気がついたのかピタリと足を止めた。相変わらずイケメンの顔が怪訝そうに眉を寄せてこちらを見る。
「・・・なにやってんだ?お前ら」
「おや、戻ってきたんですか日向先生」
説教というにはどこか違う。日向先生もそう思ったのか、怪訝な顔で声をかけてくれたことで牛乳コーヒーを飲みながら延々と話していた北原先生の意識が自分から外れたことにほっと息を吐いた。さすがにずっとあんな話を聞かされるのは精神的苦痛である。
「が何かしたのか?」
「何もしていませんよ。何もしていないことが問題ではありますが」
「は?」
「単純に納得できないだけなんですよ。あぁ全く。あれだけのものを持ちながら生かせないとは、なんという宝の持ち腐れ!」
「・・・どうしたんだ?こいつ」
「私にも何がなんだか」
不満をぶつけるように叫ぶ北原先生に、今までの経緯を知らない分私よりも意味がわからないだろう日向先生が、首を傾げつつ問いかけたが、最初から最後まで聞いていた私でさえよくわからないので答えようなどなく。
肩を竦めて首を横に振ると、二人揃って苛苛した様子の北原先生を見た。先生はまるで糖分を摂取するかのようにマグカップに口をつけて、一口啜ると息を整える。興奮状態で僅かに紅潮した頬を名残のように残しながら、そういえば、とちろりと半目で日向先生を見やった。
「君のほうはどうなんですか?あの問題児」
「あー・・あいつ、な。どうもこうも、本人にやる気が出なきゃなんの意味もねぇよ」
「まぁそうでしょうね。ふむ。やはりやる気ですよね、やる気。さん。やる気を出しなさい」
「出してますよ?」
「もっと出しなさい。死ぬ気で出しなさい。むしろ死んでも出しなさい」
「善処します・・・」
なんか飛び火した。至極真面目な顔で何か鬼なことをのたまった北原先生に曖昧な返事を返すと、日向先生の哀れみ混じりの視線を頂いてこちらも微妙な笑みを返すしかない。
よくわからないが、とりあえず必死でがんばれってことでいいんだろうか?これでも色々必死で頑張ってるんですけどねぇ。
首を捻りたいのを我慢しつつ、そろそろ失礼してもいいだろうか、と半ば現実逃避混じりに思考を飛ばすと、疲れた様子で椅子にどさっと腰掛けた日向先生がデスクに頬杖をついて、私と北原先生を眺める視線を感じて見世物じゃないんですけど、とちろりと視線を向けた。
「あいつも、ぐらい神妙に話しを受け止めてくれればいいんだがな」
「・・・どうも?」
いえ、先生。神妙に聞いているようで半分ぐらいは聞き流してるんですけど。しかしそんな事実を伝える術があるはずもなく、曖昧に笑って受け流すと、北原先生は眉を寄せて椅子の背もたれに体重をかける。ぎし、と先生の重みを受けた背もたれは軋んだ音をたてたが僅かにしなるだけでその動きを止めて、北原先生を支え続けた。
「いいじゃないですか、さっさと退学にさせれば」
「お前なぁ。簡単に言うが、あれだけの才能だ。簡単に切り捨てるには惜しいだろーが」
「それでも意思なき力など無意味ですよ。さっさと切り捨ててあげるのも優しさというものでしょう」
「・・・機会はやったさ。最後のな」
「それが甘いというんですよ。・・・まぁ、どの道今のままではそのチャンスも無駄でしょうけれど」
「先生。そういう会話は生徒のいないところでお願いします」
誰かは知らないがプライバシーを聞かされて私どうすればいいの。いやどうもしないだろうけど。聞きたくて聞いたわけではないけど!なにその見知らぬ誰かの今後の人生相談!
顔を歪めて溜息混じりにぼそりと進言すれば、二人は顔を見合わせてあぁ、という顔をした。
「なんだかさんはそこにいても大した違和感がないんですよね・・・」
「同感だ。なんだかな、聞いていても問題ないだろうっていう漠然とした何かが・・」
「やめてください。私はただの生徒です」
それは空気同然だと言いたいのかそれともなにか、この中身の精神年齢が言葉にならずとも表面から出ていると言うのか。中身の老成は隠せないとでもいうんですか!
確かに中身だけでいうならぶっちゃけあんた方よりも色々経験しちゃってるし過ごした時間もぶっちゃけ長いですけど、それでも私はただの生徒なんですよ!可もなく不可もなくな平凡な生徒なんですよ!だからやめてそんな巻き込まれそうなフラグ立てるの!
顔を歪めて嫌だな、というのを隠しもしないで唸れば、北原先生はそんな顔もできるんですね、なんてのほほんとのたまった。えぇいうるさいわ!
「・・・そうか」
「え?」
「ん?」
多分和やか?な教師との交流をしていると、横で黙っていた日向先生が、何か閃いたようにぽつりと呟いた。その声に会話を止めてきょとんとした顔を向ければ、デスクについてた肘を退かして背筋を伸ばした日向先生が、糞真面目な顔をして私を見つめた。・・・嫌な予感。
「、物は相談なんだが」
「謹んでご辞退申し上げます」
「・・・まだ何も言ってねぇぞ?」
「いや、個人的にとても喜ばしくない提案がなされそうだったので・・・」
そしてそういう勘ほど憎たらしいぐらいあたるので、最早取り付く島もないほどキッパリとお断りしようかと思って。苦笑を浮かべながらしかし請ける気はない、と胸を張って言い切れば、日向先生は眉間に皺を寄せてぐっと目つきを鋭くした。
「せめて内容だけでも・・・」
「遠慮します」
「そういわずに。な?」
「お断りします」
「話ぐらいいいだろうが」
「聞いたら最後な気がします」
「・・・お前、そんな性格だったか?」
「割と」
自己保身のためならばいくらかの抵抗ぐらいしますとも。ていうか人の性格云々いうほど日向先生と私的な交流をした覚えはないのだが・・・まぁいいか。まさしく取り付く島もない。聞く耳持たず、の言葉通りに悉く日向先生の台詞を遮ると、むむ、と寄った眉間の皺が更に深くなった。
鋭い眼光がより一層鋭くなったが、もっと鋭い目を知っている分、それを受け流すことなど私には容易いことだった。とりあえずこれ以上ここにいたら私にとって分が悪いことになる。
即座にそう判断すると、私はもうこうなったら意地か、と思われるほど座った目をし始めた日向先生から視線を外し、北原先生に向き直った。
「では先生。課題の提出が終わりましたのでこれで失礼します」
「ふむ。・・案外図太いんですね、君は」
「人間は皆案外図太いものですよ?それでは」
「あ、おい待て!人の話を聞いていけ!」
「日向先生、そういったお話はえーとご自身のクラスの生徒かあるいはAクラスの生徒にした方がよろしいかと思いますよ?内容は存じ上げませんが、私では力不足かと」
多分すごく面倒そうな内容っぽいし。無理難題ならばそれこそ自分のクラスの生徒のこやしにしてくれたまえ。私は石の少ない道を歩きたい。さっさと踵を返して出て行こうとすれば、日向先生から半ば怒鳴り声に近い声で呼び止められたが、それだけを言い残してさっと職員室から逃亡を図った。恐らく私に目をつけたのは一ノ瀬君関連で何かしらがあったせいだろうが、全く、とんだ迷惑もいいところだ。
!と呼び止める声を故意に無視をして、廊下をパタパタと駆け足で抜けていく。
さすがに全力疾走は気が咎めるのでやらないが、捕まらない程度には早々にあそこから離れてしまいたかった。タタタ、と軽快な足取りで廊下を進み、曲がり角に差し掛かったところではっと目を見開いた。
「おっと」
「わっ」
ぶつかる寸前で殺した勢いのおかげで角から出てきた人影と正面衝突は避けられたが、危ないところだった。寸前で気配に気づかなければそのままぶつかるところだった。
ほっと息を吐いてぶつかりかけた相手の顔を見れば、そこには丹精な顔をしたイケメンが少しばかり見開いた目でこちらを見下ろしていた。相変わらず鬱陶しそうな前髪、ではなくて胸板がいつも通りに全開ですね、でもなくて。あー・・・。
「ちょっと、気をつけなさいよアンタ」
「あ、すみません」
このタイミングで、何故この人と、と思いながら眉を潜めれば、無駄にお色気ムンムンの神宮寺君の腕に絡みつくようにぴっとりと寄り添っていた美人さんが、綺麗に描かれた眉を吊り上げてきつい口調で投げかけてくる。それに咄嗟に謝罪を口にしながら、よくよく神宮寺君以外を見れば、見事に美女と美少女で構成された神宮寺ハーレムがそこにあった。両手に花とかなにそれ羨ましい!おっと本音が。
「まぁまぁレディ。こっちも前を見ていなかったからいけないんだ。その子ばかりを怒るものじゃないよ?大丈夫かい、レディ」
「大丈夫です。どこもぶつかってはいませんから」
好戦的な女子生徒を宥めつつ、微笑みを浮かべて両腕に美女を絡めたまま問いかける神宮寺君に、こちらも笑みを浮かべてさっさとその場から横に道を退ける。
はっきりいって横に広がる神宮寺ハーレムは通行の邪魔なのだが、幸いにも早乙女学園の廊下は通常の学校の廊下よりもいくらか広い設計になっているらしく、横を通る分にはなんら問題はない。笑みとともに道を譲った私を見て神宮寺君は相変わらずの笑みを浮かべたまま、悪いね、といってウインクを一つ飛ばしてきた。そのサービス別にいらない。
「レン、早く行こうよー」
「あぁ、ごめんねレディ。・・・君も、気をつけてね」
「神宮寺君も。横の女の子が危ない場合もあるから、気をつけてね」
「ありがとう」
ぶっちゃけ神宮寺君に人がぶつかろうが彼の体格から考えてさほど影響力はなさそうなのだが、横にいる華奢な女子生徒はそうもいかないだろう。あとぶつかった後が怖そうなので、注意しておくに越したことは無い。そう一言添えて神宮寺君に背中を向ければ、同時に集団が遠ざかる足音も聞こえた。賑やかな話し声が密かに遠ざかる中、ふと漏れ聞こえた会話に思わず足を止める。
「ねぇレン、日向先生に退学宣言されたって話聞いたんだけど、本当なの?」
「え!ちょっとなにそれ。嘘よね?レン!」
「レン様がいない学園なんて、意味ないじゃない!」
「さぁ。どうかな。所詮噂は噂かもしれないよ?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お前か!!くわっと目を見開きながら思わず後ろを振り返れば、囲む女子生徒に意味深な笑みを浮かべつつも明言を避ける神宮寺君の背中と横顔が見えて、私は痛む頭を押さえるように、眉間に指を添えた。まず否定をしないところを見るだに、噂は事実なのだろう。
あの手のタイプはああいった言い回しをするときは大概事実なことが多いものだ。
周囲の女子生徒ははぐらかす神宮寺君に冗談の一つだと思っているようだが、これは退学も時間の問題だと思われる。なるほど、やる気がない。納得せざるを得ない態度である。
・・・・・・・絶対、関わらないでおこう。小さくなっていくその背中を冷めた目で見送りながら、私は溜息を吐いた。当初からあまり関わりたくない人物上位に位置する生徒なだけでなく、諸々の事情から滅茶苦茶面倒そうなことだと容易に察しがついて、彼に向けて背中を再度向ける。
どういった事情かは知らないが、とにかく、日向先生の話を聞かないでよかった。聞いてたら絶対巻き込まれてた。うわぁ、ナイス判断私!
「あーいうのは、それこそ別の人間が相手にするべきだよ」
とにかく、日向先生がAクラスかSクラスの生徒を推して彼にぶつけてくれることを願っておこう。