雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲
さくさくさく、と芝生を踏みつけながら、肩よりも長い髪を揺らして神宮寺君は相変わらず薄い微笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。
彼が女性と相対するとき、笑顔でないときはないのだろうか、と思うが笑顔は人付き合いの基本でもあるので、別に不快に思うことはない。例えそれが上っ面の微笑みなのだとしても、愛想笑いとは大概そんなものだ。
それに不愉快だとか、気持ち悪いだとか、そんなことを思うような人間性は生憎と持っていないし、そもそも思う人間も少ないだろう。そう考える人間は、基本的にその人物そのものがあまり気に食わないんだろうな。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ってことだろう。神宮寺さん!?と驚く七海さんに、にっこりと笑みを浮かべる神宮寺君に視線を向けながらも、ざっと視線を周囲に回す。
まぁ、七海さんがいる分抵抗感も少ないが、人目は避けたいなぁ、という個人的考えだ。もともとあまり人気のない場所だったせいか、めぼしい気配も人影もないので取り越し苦労のようだったが。
人知れずほっとしていると、低い声でレディ、と呼びかけられた。
なんかその呼び名も慣れてきたな、と思いつつ緩慢に視線を向ければ、何故か顔を真っ赤にしている七海さんと、微笑みを浮かべる神宮寺君というあまり釣りあいの取れてない状態が視界に飛び込み、思わず首を傾げる。・・・何をした?
「そんな目で見ないでくれよ。別に仔羊ちゃんに手なんかだしてないさ」
「口は出したんだろうけどね。七海さん、神宮寺君の八割はサービス精神でできているから、あんまり過剰に反応することはないよ」
「八割!?」
「はは、ひどいな。どれも本音だよ?」
本音をわざわざ全部口に出すことがサービス精神というものなのだ。つまり店の店員とそんなに違いはない。まぁこんな店員がホスト以外にいたらものすごく嫌だが、それがまかり通る世界なのならばあえて口を噤もう。
頬の赤味の引かない七海さんに、これが普通の反応なのか、それとも規格外なのか、どちらが正しい反応なのだろう、と思いながら落ち着かせるように頭をぽすぽすと叩く。瞬間、丸くなった目で軽く俯いた七海さんから視線を外して、さらさらの髪の感触を楽しむように撫でながら、軽く神宮寺君を睨みつけておいた。
「言葉は相手を選びなよ。わかっててやるのは遊んでるのと同じなんだから」
「可愛いものや綺麗なものを素直に賞賛するのはいけないことかい?でもそうだね。仔羊ちゃんには刺激が強すぎたかな?」
そういって髪をかきあげながら瞳を細める神宮寺君の計算されつくした行動の数々。なぜたったこれだけの会話で色気を放出してくるんだ。開いた胸元がいけないのか。鎖骨超綺麗だな。ごめん正直眼福です。鎖骨色っぽい!
やっぱり観賞用にはもってこいだな、と思いつつ、その内腹筋もみてみたいなぁ、という淡い願望をひた隠しに、私はほらね?と俯く七海さんに話しかけた。
「こういう人なんだから、あんまり素直に受け止めるもんじゃないよ?」
「は、はい。気を付けます」
諭すように言うと、至極真面目な顔でうなずくので、これは今後もからかい、いや、まぁ、素直に受け取めることだろう、と半笑いで七海さんの頭から手をどけた。一瞬名残惜しそうに視線が手を追いかけたように見えたが、同じ年頃の子の頭をいつまでも撫でておくのもどうなんだ、と視線はあえて無視をして、ところで、と神宮寺君を見上げた。
「何か用事でも?」
「いや?偶然レディたちが戯れているのを見かけてね。仔羊ちゃんとレディは知り合いだったのかい?」
「さんは、私の恩人なんです!」
「・・・恩人?」
そのネタまだ引っ張るの?クラスが違う者同士、接点がないように見えたのだろう。疑問を浮かべる神宮寺君に、七海さんは俄然意気込んで両の拳をぐっと握りしめた。神宮寺君が聞きなれない言葉を確認のように繰り返すと、七海さんはこくこくと頷いて頬を緩める。
「私が落ち込んでいるときに、さんが励ましてくれたんです。あ、そういえば、神宮寺さんもさんを探してくれていたんですよね?ありがとうございます」
「礼には及ばないさ。仔羊ちゃんの恩人っていうのも興味があったし、何よりレディのお願いは無視できない性質なんでね。でも、そうか。・・・君が、ね」
待ってそれ初耳なんですけど?え?この人私探してたん?そんな素振り一つもありませんでしたよ?驚愕の事実、というより地味に目立つ面子の中で知れ渡っていたことに密やかに戦く。し、知らぬ間になんか色々フラグが立っていたというのか・・・!?なんでそうなる!?と呆気にとられていると、神宮寺君がちらりと意味深に視線を向けてきた。七海さんは気が付いていないが、向けられた視線が何かを含んでいるようで、軽く眉を動かすが、それ以上の反応はせずに七海さんに視線を流した。
「七海さんと神宮寺君は知り合いなの?」
「はい。えっと、神宮寺さんは受験のときに助けてくださって・・・私、助けられてばかりですね・・・」
そういって苦笑を浮かべる七海さんに、それは助けたくなるような子なんだろうな、と思いながら口角を持ち上げた。
「じゃぁ、これから助けて貰った分を返していけばいいんじゃないかな?よかったね、夢以外にも頑張る理由があることは素敵なことだよ」
「・・・!」
この手の子は気にしやすいからな。まぁ私としては別に助けたつもりもないので恩返しとかどうでもいいのだが、否定したところできっと聞かないので、適当になんかいい感じのこと言って濁しておけばいいだろう。え?ひどい?違うよ、処世術だよ!
人によく見られたい、というのは誰しもある願望だ。とりあえず目を丸くした七海さんの瞳が輝きを増すのに、私は笑みを張り付けて見守った。
「そうですよね・・・!私、みなさんにご恩返しができるように頑張ります!」
「うんうん。頑張ってね」
可愛いなぁ。まるでわが子、は言い過ぎにしても妹を見るような気持ちで微笑ましく七海さんを眺めていると、恩返しっていうと、と神宮寺君が会話に割り込んできた。思わずちっと打ちそうになる舌を寸前で我慢する。可愛い女の子で和んでいたのに、割り込むなよイケメン!顔には出さないけど。
「俺にも何か恩返しをしてくれるのかな?」
「はい!あ、でも、私ができることなんて大したことじゃないですけど・・・」
うわぁ、七海さん。それは明らかにフラグを立てているよ。元気よく返事を返した七海さんに、へぇ、と含んだように笑みを浮かべながら、神宮寺君はするりと七海さんの頬に手を滑らせ、更にごく自然な流れで顎に指をかけた。
そのままくいっと僅かな力で上を向かせ、わざとらしく顔面を近づけてみせる、という行動を、目の前で繰り広げられる現実。・・・まさか客観的に見る日がこようとは。しかも間近で。そういうのは人目のないところでやらないものかな、普通、と思いつつ、ポカンとしている七海さんと蠱惑的に笑う神宮寺君を黙って見ていることにした。割り込むべきか、放置するべきか。・・・まぁ、別に、キスするわけでもないだろうし、ここはあえて静観するのも手だろう。
むしろこんな現場を客観的に見ることなど早々ないと思うので、観察してみたい、という欲求が頭をもたげる。・・・体験したことはあっても、傍から見ることはなかったからな・・。うん?ということは、もしかして七海さんヒロイン的ポジション?いや、ヒロインとかそんなゲームじゃあるまいし。
いやでも、こーいうのがいる時点で、それっぽいと思ってしまうのも仕方ない、よね?うーん・・・実に複雑だ。
「じじ、神宮寺さん!?」
「なら、俺への恩返しは是非仔羊ちゃんとのデートを所望したいね。二人っきりで、誰にも邪魔されないで」
「で、デート!?」
口説いてんなぁ。というかなんの違和感もなく顎もって顔あげさせる、という行為と至近距離に顔を近づけるという行為を行えるその神経がわからない。
美形だからやっぱり許されるんだな。そして相手も美少女だから絵になるんだろうな。・・・見ているだけなら実に眼福な光景である。
慌てる七海さんの、折角引いた顔の赤味がまたしても強くなるのを眺めながら、愉しそうに目を細める神宮寺君はいつか本命に振り回されまくって情けない姿晒せばいいのに、と心の底からそう思う。俺かっこ悪い、ってぐらい情けなさに撃沈すればいいよ。それを私はざまぁみろって笑って眺めるよ。見る機会があればだが。
さてもとにかく、そろそろぷしゅー、と頭から湯気を出しかねない七海さんに、これ以上の刺激は強すぎるだろう、と重い腰をあげて二人に近づき、にゅっと神宮寺君と七海さんの間に手を割り込ませて視界をシャットアウトする。
「はいはいそこまで。やりすぎるとセクハラで訴えますよー」
「さん・・!」
「セクハラ・・・」
顎を解放された七海さんは涙目でこちらに避難してきたので、それを背中で庇いつつ、セクハラ扱いにいささかショックを隠せないのか、ポカンとした神宮寺君ににっこりと笑いかけた。
「過剰な接触はセクハラですよ、神宮寺君」
「・・・相手が嫌がっていたら、だろう?」
「嫌がってない、という証拠もないでしょう。まぁ、どっちにしろ七海さんに対してはやりすぎだと思うよ。免疫ない子にそれはない」
こんな純朴そうな子に、お前みたいな歩くセクシーゾーンが接触したら大抵こうなるわ。あとは普通にドン引きされるか。どっちかだと思うが、まぁどうでもいい。
それが彼の個性とはいえ、あまりやりすぎるものではない、と一言注意を添えると、神宮寺君はふぅん、と一つ頷いて、なら、と今度は私に手を伸ばしてきた。
とりあえず叩き落としておこう。べしん。
「レディは、意外に慣れてるよね」
「あー・・・慣れてるっていうか、なんていうか・・・」
叩き落とされた手をぷらぷらと揺らしながら、苦笑する神宮寺君に複雑な顔をする。慣れてる、というのは正しいのだが、なんていうか、一概に慣れだけともいえない部分があってなんともいえない。それを言葉にするのは難しく、そしてすべてを説明する義理もないのだから、と適当に言葉を濁していると、神宮寺君はそこも君の魅力だね、とかのたまいた。うん。適当に笑って誤魔化しておこう。ははは。
後ろからさんすごいです!とばかりの七海さんのキラキラしいまなざしが注がれているのが気になるが、この程度のことは大抵の人ができるんじゃないか?と思いつつ困っていると、神宮寺君の背中越しに、こちらに向かってくる人影を見咎めて眉を潜めた。あのカラフルカラーは・・・。
私が神宮寺君を通り越して向こう側を見ていることに気が付いたのか、神宮寺君は怪訝な顔をして、後ろを振り返る。瞬間、一気に彼の周りの空気がガラリと様相を変えた。・・・は?
「・・・何をしている、神宮寺」
「なんだ、聖川か。お前に説明する義理はないね」
・・・あれ、なにこの険悪ムード。向こう側からきた彼は、七海さんの友人の聖川君で、なんでこうも集まってくるんだろう、という思考もつかの間、二人が対峙した瞬間に張りつめた糸のように引き絞られた緊張感に、私は目を丸くした。
そもそも神宮寺君の態度の変わりようがすごい。さっきまでのたらしオーラはどこいった。なんでそんなツンケンしてんの?え?
聖川君も聖川君で・・・いやまぁ、よくは知らないけど少なくともこうあからさまに敵意を向けるような人には見えなかったのに、明らかに神宮寺君を見る目は敵を見る目以外の何者でもなく、二人のただならぬ様子に思わず口を閉ざす。
・・・仲、悪いのか・・・。
「そういうお前こそ、一体何の用だ?」
「お前に用などない。七海を探していただけだ」
「生憎だったな、仔羊ちゃんは今俺と話している最中なんだ」
言外に邪魔だからどっか行けってことですね、わかります。え?なに、七海さん巡る戦いなのこれ?すごいね七海さん。美形で金持ちで実力持ってる男なんて将来有望じゃないか!玉の輿だよ!まぁこの学園恋愛禁止だけど。
ふふん、と鼻で笑った神宮寺君に、聖川君は不愉快そうに眉間に皺を寄せて、こちらに視線を向けて、ちょっとだけ目を見開いた。私がいることは予想外だったのかな。まぁ、いるとはあんまり思わないよね。普通。
けれど動揺もすぐに隠すと、聖川君は険しい顔で神宮寺君を睨みつけた。
「またお前はくだらないことをしていたようだな。七海だけでなく、彼女にまで迷惑をかけるつもりか」
「迷惑かどうかはレディが決めることさ。少なくとも、お前に一々言及されることじゃぁない」
「それは違うな。彼女も俺の友人だ。友人がお前のような男の毒牙にかかるのを見過ごせはしない」
・・・え?あれ、私何時の間に聖川君の友人にランクアップ?・・いや、そういえばAクラスの面子は嫌に距離感が近かったな。ポカン、と聖川君を見上げていると、今度は神宮寺君が不愉快そうに顔を顰めて、せせら笑うようにくっと口角を釣り上げた。
「そいつは初耳だな。このレディがお前の友人だって?レディ、友達は選ばないとダメだよ?」
「その言葉、そっくりそのまま返そう。、こんな男と関わり合いになるものではない」
なんか話題がこっちにきた!!一人は笑顔で、もう一人は渋面で見下ろすイケメンに、上からの圧力感半端ない、と戦く。それを直接向けられたわけでもないだろうに、私の後ろの七海さんもぴゃっと肩を跳ねさせたのがわかった。イケメンが凄むとマジ怖いわー。そういえばこいつら金持ちだったな。上から見下ろすのに慣れてるのかね?
てか、そもそも神宮寺君とは関わりたくて関わってるわけじゃないし、聖川君とも正直友達になった覚えはあんまりないというか・・・認識の違いとはさもありなん。二人の喧嘩に他人を巻き込むなよ。
私だって関わる人間を選べるならもっと選んでるっつーの!!!
話題を振られたところで返事に困り、あはは、そうですね、とかなんとか言葉を濁していると、そういえば神宮寺財閥と聖川財閥の確執がどうのこうのとか友人が言っていたような気がするなぁ、と朧げな知識を探り求めてマジ困る、と眉を下げた。・・・目の前で喧嘩されることほど迷惑なものはないよ。
さて、どうこの険悪ムードを解したものか、と思考しながら、バチバチと火花を散らす両者を盗み見て様子を伺っていると、後ろでおろおろとしていた七海さんが、突然何か思いついたかのようにそうです!と声を張り上げた。
突然後ろから大声を出されてびくついた私と同じく、睨み合っていた二人も驚いたように目を丸くして七海さんを振り返る。三人分の注目を集めた七海さんは、視線を泳がせながらも懸命に口を開いた。
「あの、お二人とも、さんの曲にアドバイスを頂けませんか?」
「え?」
「アドバイス?」
わぁお、七海さんいきなり人を渦中に放り込んでくれましたな!可愛い顔して人をこの面倒な渦中に放り込むとは、なんたる鬼畜の所業!
思わずぎょっとして頬をひくつかせた私に、けれど彼女は気づかないままそれがまるで世紀の大発見かのように顔を明るくさせて、パン、と両手を合わせた。
「さん、曲に煮詰まっているらしくて・・・歌い手側の意見も聞いたら、きっともっと素敵な曲になると思うんです」
「へぇ、曲に、ねぇ」
「俺は構わないが・・・作曲中だったのか。邪魔をしてすまない」
「いえ、どうせあまり進んでいませんでしたし・・・」
完全なる善意と、恐らくはこの険悪なムードをどうにかしたい、という苦肉の策での話題転換だったのだろうが、思いのほか乗ってきた二人に思わず渋面を作る。いや、神宮寺君に至ってはその曲が「誰」のものであるかも容易に察しがついている分、より複雑そうな顔をしていた。
聖川君は純粋に作業の邪魔をしたことに申し訳なさそうな顔をしていたが、どうせ大して進みもしていなかった曲だ。気にすることはない、と小さく首を横に振って、溜息を零した。正直あんまり彼らと関わりたいとは思わないのだが、折角七海さんがあのあまりよろしくない雰囲気を打破しようと努力し、尚且つ確かに作り手として有意義となり得る提案には、惹かれるものがある。歌い手と作り手の視点は違うだろうし、アドバイスを貰えるのならばそれに越したことはない。
それに、と聖川君から神宮寺君に視線を滑らせ、これはまたとないチャンスなのではないだろうか、と目を眇めた。
恐らく、滅多に接触できない(しない、ともいう)上に、あまり協力的でも積極的でもない神宮寺君に、曲の感想、あるいは意見を貰えることはほぼないとみていい。それが一番のネックだと実感していたところに、事情を知らないとはいえ・・・いや、知らないからこその七海さんの提案はまさに渡りに船といったところだ。あくまでこれは、私が作った曲に対しての客観的な意見を求められている。神宮寺レンが歌う曲に対して、という視点ではないのだから、彼もまさかこの状況で逃げることはないだろう。そう、純粋に、曲に対しての意見をくれればいいのだ。彼が歌うかも気に入るかも二の次なのだから。
うむ。正直渦中に投げ込まれたのはいい気はしなかったが、結果オーライというやつか。
そう納得すると、私は抱えた五線譜を取り出し、まぁ折角だし、という軽いスタンスで楽譜を聖川君に差し出した。
「聖川君と神宮寺君がよければ、意見を聞かせてくれると助かります」
「俺で手助けになるのなら、一向に構わない。見せてくるか?」
「どうぞ。神宮寺君、よかったら意見聞かせてね」
「・・・」
快く楽譜を受け取った聖川君とは対照的に、神宮寺君は至極冷めた眼差しでこちらを見ている。了承も拒否もしないその様子に、私は迷っているのだろうか、と思っていると、常の様子とは違う神宮寺君に、七海さんが怪訝そうに名前を呼んだ。
「神宮寺さん?」
「・・・俺の意見は、必要かい?」
初めて、彼が七海さんを無視した。笑顔の一つも向けていなすこともせずに、細めた目で私を見つめる神宮寺君に、楽譜に視線を落としていた聖川君も不審に思ったのか顔をあげて眉間に皺を寄せた。
さきほどとは違うただならぬ雰囲気に、私はいくらかの呆れを瞳に浮かべる。
いや、お前。お前がそれを聞くか。よりによって、お前が!
「・・・そうだね。できるなら欲しいよ。神宮寺君は実力があるからね。あぁ、勿論聖川君もだよ。二人とも素晴らしい歌い手だと思う。だから意見が欲しい。別にね、神宮寺君。これを君が必ず歌わないといけない、なんてことはないんだから、何も深く考える必要はないんだよ」
そこまで歌うことを拒否する彼の考えはわからないが、意見を出したところで結局決定権は神宮寺君にあるのだから、構えずにいてくれればいいのに。
僅かに苦笑を浮かべ、口を噤んだ神宮寺君に困ったように眉を下げてから視線を逸らした。振り向いた先には聖川君が私と神宮寺君を見比べ、何か問いたげな眼差しを向けてきたが、軽く肩を竦めることでいなして、私はにこ、と笑みを浮かべた。
「どう?聖川君。何か気になるところとかある?」
「あ、あぁ。そうだな。このサビ前の部分だが、もう少し速度を落としてもいいのではないだろうか?その方がサビの盛り上がりには適しているように思う」
「あーそこね。どうしようかなぁって思ってるんだけど・・・ふむ。ちょっと変えてみようか」
「あ、でしたらここは音を半音あげるとより綺麗に聞こえるのでは?」
「へぇ、そんな方法もあるんだね。なるほどー」
聖川君に返された楽譜に言われたことを書き込みながら、それらを踏まえて作り直してみようか、とくるりとペンを回す。
そうだなぁ、あとは先生にもちょっとアドバイス貰って、そこから練り直して・・・そういえばこれ期限とかあんのかな?何も聞いてないんだけど。
そこ、確認に行った方がいいかな。でも普通伝えてくれるもんじゃないのかな?忘れてるとか?そんなまさかね。・・・まさか、ね?
案外抜けているところがあるからな、日向先生とか。えぇ、評価が貰えなかったことを恨んではいませんよ?恨んでないけど、こんちくしょう、と思うことぐらいは別にいいよね!まぁ、今度聞きにいくかぁ、とぼんやりと考えると、するり、と楽譜が手の中からどこかに連れ去られていく。ぽかん、と突然消え失せた楽譜に呆気にとられつつも、はっと追いかけるようにひらひらと揺れる用紙の行方を仰け反って上を見上げれば、後ろから人の頭の上を通過して神宮寺君が楽譜を手に取っていた。・・・おぉ?
「・・・神宮寺君?」
「・・・俺なら、ここを上げるんじゃなくて、その前を下げてみるのもいいかと思うけどね」
「高さを変えずに、前を下げるってこと?」
「そう。もともと少し高めの音程で作っているだろう?もう少し下げてもいいんじゃないかな」
「・・・ふぅん」
人の頭上で物申す姿に、身長差・・と微妙な気持ちになったが、彼の意見も一理ある。・・・一回弾いてみないことには感覚がわからんしなぁ。ふむ、と思いながら楽譜を受け取るように腕を伸ばすと、それに気が付いたのか、神宮寺君はきょとんとした顔を作ってから、にっこりと笑みを浮かべた。・・・うん?
「・・・・・・神宮寺君?」
「なんだい、レディ」
「楽譜、返してくれないかな?」
「取ったらいいんじゃないかな?ほら」
そういって、神宮寺君は楽譜を高くあげてひらひらと揺らす。えぇ、彼の顔よりもやや高めにあげられて、これみよがしに見せつけるようにひらひら揺らしていますとも。えぇ、私が背伸びしても届かない位置ですよねそれ。・・・・子供か!
「神宮寺・・・何を大人げないことを」
「聖川は黙ってくれないか?これは俺とレディの問題だ」
「いや、そんな大層なもんじゃないでしょうよ。思ったより子供っぽいことするんだね、神宮寺君」
聖川君の呆れた眼差しにふん、と鼻を鳴らし、つっけんどんに言い返す神宮寺君にこちらも呆れたように目を半目に落とす。
神宮寺君はそんな私に軽く肩を竦めると、つれないなぁ、と唇を尖らせた。
「そういうレディの反応はクールすぎてつまらないな。おチビちゃんならもっと反応してくれるのに」
「そう思うなら返してよ。私からかったところでいい反応は返ってこないってわかったんだから」
「んー、もうちょっと必死になってくれたら返してあげてもいいよ?」
「必死って・・・」
言われても、な。どう足掻いても届かないし・・・溜息を零すも、神宮寺君は新しい遊びを見つけた子供のように笑って請け合ってくれない。楽譜を口元に押し当てながら、奪ってごらん?と悪戯に微笑む彼は魅惑的だが、私はうーんと一つ唸り、仕方ない、と溜息を吐いて神宮寺君に近寄る。割と至近距離まで近づくと、彼は少しばかり不思議そうな顔をしてみるものの、油断なく楽譜は上に掲げていて、本当、なにがしたいのやら、と思いつつ私は素早く足を動かした。
スパン。
「え?」
「きゃっ」
「おぉ」
神宮寺君の片足を引っ掛けるように内側から足払いをかけ、彼を芝生の上に尻もちをつかせる。どすん、と割と痛そうな音がしたけれども、まぁ気にしない気にしない。かっこつけてる割に結構あっさり、というか盛大に、というか・・正直かっこ悪い感じで尻もちついちゃってるけど、まぁ、ここには彼がかっこつけるべきレディもそんなにいないわけだし、問題なんてないだろう。
茫然と、何が起こったのかわかっていないような顔をしている彼から、自分の身長でもなんなく届く位置になった楽譜をさっと奪い返すと、ひらひらと目の前で揺らして、ついでにこれみよがしにその楽譜で彼の額を叩いて見せた。
「体幹がなってないね。そんなんじゃ簡単に倒されちゃうよ?」
「・・・は、」
「体の軸は鍛えておくに越したことはないよー。怪我もしにくくなるし。筋肉は実用的につけなくちゃ」
魅せ筋もいいけどね。どうせならほっそりとした実用的な筋肉が素晴らしいと思うよ。まぁ、実用的にする必要性は彼らにはないんだろうけれど。
けろりとして笑いながら、呆気にとられている神宮寺君と、やっぱり驚いている七海さん(・・・神宮寺君、すまん)と、何故かキラキラした目で見てくる聖川君に首を傾げつつ、私は楽譜を揺らして口角を釣り上げた。
「七海さん、アドバイスありがとう」
「い、いえ。そんな。大したことも言えなくて・・・」
「そんなことないよ、すっごく助かった。聖川君もありがとう。色々試してみるね」
「あ、あぁ。役に立てたのならいいが・・・」
「うん?」
「よくやったな」
「・・え?あ、うん。どうも」
・・・・すっごいいい笑顔っていうか、聖川君すごい清々しそうですが。あまりにも彼が満足そうなので、思わず気圧されていると、足元で神宮寺君は尻もちをついたまま、両手で顔を覆っていた。・・・恥ずかしいのかね?恥ずかしいよね、そりゃ。
「・・・レディ、あんまりだ。よりにもよって聖川なんかの前で・・・」
「簡単に倒される方もどうかと思うけど。人をからかうからですよ」
そうか、七海さんの前よりも聖川君の前で尻もちついたことの方が君にとっては大ダメージなのか。まぁ、あれだけ険悪な仲なんだから、自分のかっこ悪いところはそりゃ見せたくないよねぇ。あはは、もう手遅れだけど。むしろざまぁ!
ショックを隠し切れない彼にくすくす、と笑みを零して、さっとスカートを翻した。さて、じゃあ部屋にでも戻って作曲の続きとでもいきますか。
「神宮寺君もアドバイスありがとう。・・・ごめんね、あんまりいい曲ができなくて」
「・・・」
最後の方は、彼に聞こえるだけの声量で囁きかけると、神宮寺君ははっとしたように目を見開いて顔をあげてこちらを凝視した。
それにただ、黙って微笑んで彼から顔を逸らす。多分、この曲は彼の琴線には触れなかったんだろうな、というなんとなくの悟りを開きつつ、七海さん達を視界に収めた。
「じゃ、私部屋に戻ってこれ煮詰めてくるから。ばいばい、七海さん。聖川君」
「はい、頑張ってくださいね、さん!」
「うん。ありがと!」
美少女の応援を受け取り、黙ってしまった神宮寺君の横を通り過ぎる。
振り向きもしなかった神宮寺君に、こちらも視線を向けずに、難問だよなぁ、と地面を蹴とばした。
飛んだ土と芝生が、なんともいえない空しさで、地面に落ちて行った。