雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲



 昨日は雨だった。酷い雨ではなかったけれど、一晩中降った雨は、草のない地面をぬかるませるのに十分だったし、そこかしこに乾き切らない水溜まりのあとさえ残している。木々に生い茂る葉っぱには露がついて時々揺れては地面に落ちるし、芝生も濡れて座れたものじゃない。ベンチは乾いているのもあるだろうが、湿っているものもある。当然、今日外で食事をする人間は少ないに違いない。全くいない、とまでは断言はしないけれど、もしかしたらそんな変わり者もいるのかもしれない。ひらひらと舞いあがる楽譜を見送りつつ、ぼんやりとそんなことを考えた。





 茶色く変色した楽譜を摘み上げ、端からポタポタと滴り落ちる水滴に眉を潜めながら、迂闊、と小さく舌打ちを打った。突風に煽られた紙はいとも容易く腕の中をすり抜け、成す術もなく風に浚われたのだ。落下地点が水たまりだと予期していたら、もうちょっと急いで追いかけたものを。まぁ落ちてからでいっかー、と行方だけを追いかけたあの時の自分を叱りつけたい。
 しかし、どれだけ後悔しようとも楽譜は水たまりに浸り濡れてしまったし、とりあえず持って帰ってドライヤーにでもかけて乾かすしかないか?
 だが泥の付着した楽譜の音符は水で滲んでしまっているし、正直これはもう諦めてもいいような。やり直しは精神的にきついものがあるが、おおまかにメロディは覚えているので、作業的にはさほどの苦でもない。それにこの状態の楽譜をわざわざ寮まで持って帰るのも手間だ。・・・捨てるしかないか。
 僅かばかりの未練を覚えつつ、泥水の滴る楽譜をぴらりと揺らすと、不意にカタリ、と物音が耳に届いた。反射的に音のした方向に振り向けば、ぱちり、と青い双眸と重なり合う。おや?と瞬きを故意的に繰り返すと、相手は意表を突かれたように少しばかり動きを止め、それから窓を開けた体勢のまま、怪訝そうに眉を潜めた。

「・・・そんなところで何をしている?」
「楽譜が飛ばされたので、回収していたところです」

 問いかける青年・・・さらさらのぱっつんヘアーも麗しい聖川君の問いに簡潔に答えながら、私は彼の背中越しにちらりと教室を覗き見た。

「聖川君は・・・歌の、練習?」
「いや、ピアノを少しな。それよりも、楽譜は集まったのか?足りないのならば手を貸すが」
「あ、大丈夫飛ばされたの一枚だけだから。まぁそれが致命傷だったけど」
「致命傷?」

 ピアノ弾けるんだ、と一つ情報を手に入れながら、へらりと笑って濡れた楽譜を彼に見せる。そうすると、聖川君は目を丸くして、それから痛ましそうに顔を歪めた。

「そうか、それは災難だったな。楽譜は乾かせば大丈夫なのか?」
「微妙かな。泥で汚れてるし、もう捨てちゃおうかと」

 内容は大体覚えてるし、もしかしたらもっといいアイディアが浮かぶかもしれないし。物事は前向きに考えるものですよ、うん。半ば自分に言い聞かせるようにしつつ、ご心配どうも、と聖川君に言えば彼は相好を崩して、微笑んだ。

「いい物ができるといいな」
「えぇ、是が非でも」

 でないと色々大変だからなぁ。いや、大変なのは学校側であって、私ではないかもしれないが。でもとばっちりは嫌だしなぁ。それに学園長の出した条件は正直物凄く美味しいからなぁ。できるならばなんとかしたいが、同じぐらいどうでもいい、とも思っている。さて、戻ろうか、と聖川君に暇乞いをしようと口を開くと、聖川君は少しだけ瞼を伏せて、歯切れ悪く口を開いた。

は・・・」
「はい?」
は、神宮寺と仲が良いのか?」
「それは・・・なんとも言えないなぁ」

 友人同士、といえるほどの関係ではないし、かといって彼の取り巻きのような間柄でもない。臨時のパートナーではあるが、これといって仲を深めるような行為は一切していないので、正直今の私と彼の間を表すのに適切な表現は難しいといえるだろう。しいていうなら知り合い以上友人未満?今後ランクアップする確率はないとは言わないが、できるだけ下げておきたいつもりである。予定としては。
 けれど、どうしていきなりそんなことを聞いてくるのだろう?いくら聖川君と神宮寺君の仲があまりよろしくないとはいえ、そこに私は関係ないだろうに。
 私の曖昧な答えに、どういうことだ?と奇妙な顔をしつつも、聖川君は少しだけ吐息を零し、やたら真剣な表情を浮かべた。え、なにイケメンが真顔になると怖いよ?

「あまり、奴とは関わらない方がいい。あいつはろくでもない男だからな」
「あー女性関係は褒められた経歴はなさそうだよね」
「あのように不誠実な奴など、男の風上にもおけん。そもそも、奴の行動は何もかも不誠実でいい加減だ。人間関係にしろ、普段の行動も、学園内のことについても。あんな奴と共にいたとして、にもあまり良いことにはならないだろう」

 ひどい言われようだな、神宮寺君。真顔でそう告げる聖川君に、私は肯定の言葉を返すわけにもいかず、苦笑を浮かべて明言を避ける。
 これは彼が神宮寺君を嫌いだからこその目線なのか、それとも周囲からの評価なのか。半分半分かな、と思いつつ、何故それをわざわざ私に告げたのか、その真意を探るように一旦聖川君を見やり、恐らくは、と思考を繋げる。

「心配・・・してくれたのかな?」
「・・・友人、だからな。あまり話したことはないが、俺はお前を友人の一人だと思っている」
「それは、なんというか、どうも」

 マジほとんど話した覚えないのにね。どこからがそのラインなんだろう、と思いながら、好意を無碍にする気にはなれないので、多少の照れを見せながらはにかんだ。まぁどうせ接触するこたぁそうそうないんだし、ちょっと離れたクラスの友人、ぐらいならどうとでもなるだろ。・・さすがに四ノ宮君や一十木君並に零距離から友達だよね!とこられると引くが、彼みたいに控えめにこられるとこちらとしてもまだ受け入れやすい。あれだよなぁ、距離感って大切だよねぇ、本当。

「そもそも、どういった経緯で神宮寺と知り合ったんだ?あまり、二人に接点はないように見えるが・・・」
「そうだねぇ。学園長のせいかなー?あるいは日向先生?まぁ、学園側の事情だよ」
「学園がらみなのか?一体何が」
「それはちょっと秘密。機会があったら話すよ」

 話せるとしたらどのような形であれ、結果が出たらになるだろう。それまで聖川君がその話にまだ興味があるか、あるいは覚えていれば、という注釈はつくが。どちらにしろ、現段階で神宮寺君の事情を話すわけにはいかない。
 退学どうこうって、結構重たい話題だし。聖川君もそうだが、神宮寺君にとっても聖川君は決して軽くはない存在なのだと思う。この前のやり取りからもそれは十分、よっぽど察しの悪い天然キャラか空気が読めない人間でなければ、普通なら気づくぐらいには互いが互いを意識しまくっていることは容易に知れる。
 ごめんね、と謝れば彼はいくらか釈然としないものを覚えたのだろうが、それでもわかった、と頷いてくれた。強引に聞き出そうとしないところは大変好感が持てますよ、聖川君。

「しかし、学園長が絡んでいるとなると、関わるなというのは無理そうだな・・・」
「無視しようと思えばいくらでもできるんだけどね。学園長だからといって人の行動まで制限はできないし」
「そうなのか?だが、あの人の言うことはこの学園において絶対だろう?」
「それでも、人の思いや意思までも従わせることは無理だよ。それに、いくらあのぶっ飛んだ学園長だとしても、人の心を無視してまで押し付けるようなことはしないよ。ちゃんと、そこら辺のラインは見極めてる人だから」

 あのタイプの人間って、我を押し通しているように見えてその実ちゃんとその先を見定めているものだ。計算高いというか、恐ろしいまでの先読み体質というか。無茶なんだけど、理に適っている。横暴なんだけど、ちゃんと為になっている。だからこそ、彼は成功者で、ちゃんとついていこうっていう人間がいるわけなのだから。ただの暴君に、人はついてはいかないだろう。暴君には暴君なりのカリスマ性があるのだ。まぁ、しかしやることなすことが無茶ぶりすぎるので、私にしてみたらもうやめてほしい、という思いは消えないが。
 ふっと笑みを浮かべると、聖川君はちょっと目を見開き、それからほわりと微笑んだ。

「すごいな、学園長をそこまでわかっているのか」
「わかってるっていうか・・・あくまで想像の範囲だけどね。どっちにしろ、厄介な人だとは思うよ」

 一筋縄ではいかない人間なのは確かにそうで、それがまた面倒事を台風のごとく巻き起こすのも確実だ。巻き込まれないに越したことはないが、なんかみょーにあの人との接触率が高いので、今後も巻き込まれる可能性は高そうだ。
 どうやったら回避できるかなぁ、と考えつつだからね、と溜息を零す。

「避けようと思えば、神宮寺君なんていつだって避けられるんだよ」
「しない理由は・・・話せないこと、か」
「まぁ故意に接触してるわけでもないけど。でもそれは、相手にも言えることだからなぁ」
「神宮寺にも?」
「そう。彼だって、避けようと思えば避けられるよ。逃げることも、無視することも。こっちが求めても相手が拒否すればそれで終わり。それをしないのは・・・あっちにも考えがあるんだろうね」

 あるいは、迷いなのか。揺れているのならば、学園長の企みも功を奏しているんだろう。掌の上で踊らされているようだが、無駄に抗うと余計ややこしくなりそうなので、素直に踊っておいた方がよさそうだ。
 まぁ当面曲ができないことには神宮寺とも接触しづらいわけだが、と思っていると、聖川君は眉間に皺を寄せて口を開いた。

「そんなに深いことを考えているとは思わないが。あれは、・・・ずるい人間だ」
「ずるい?」
「・・・選べるくせに選ばない。なんにだって手を伸ばせる権利を有しながら、手にしようともしない。やればできるだけの才能を持ちながら、何もしようともしない・・腹が立つぐらい人の神経を逆なでするほど傲慢で、自分勝手な男だ」

 妬ましいぐらいに。そう、言ったわけではないけれど、瞳に嫌悪を浮かべながらも、嫉妬と羨望を揺らめかせる聖川君はひどく複雑そうに顔を歪めた。
 苦虫を噛み潰したように苦々しい顔。相手を罵りながらも、まるでそれすら、羨ましいのだと叫んでいるような。あー・・・うー・・・むーん?

「そっか、それは、ずるいねぇ」

 できるのに、やらないのは、やりたい人からみたら、ずるい人間だねぇ。それはわかる。それは、私も神宮寺君に感じたことだし。彼は才能がある。でもそれを使おうとしない。彼が何を思って何もしないのか。見せびらかすように近づいて、こちらが差し出せば難癖つけてさらりと逃げる。どんな理由があるのか、知らない。それは知らない。けれども。

「それでも、彼には彼の理由があるんだよ。他人は知らないけど、彼がしないような理由が」
「・・・どんな理由があろうと、それは免罪符になどならない」
「うん。正論だ。聖川君は正しいよ」

 でも、神宮寺君も間違ってないよ。言えば、聖川君は信じられないものを見たかのように目を見開き、私を凝視した。一瞬カッとなったかのように口を開きかけたが、思い直したように閉ざして、しかめっ面で眉間に皺を寄せる。

「・・・神宮寺を庇うのか」
「それも間違ってない。一応、それなりに知り合いだからね。別に神宮寺君が嫌いなわけでもないからフォローぐらいはするよ」
「だが、奴は間違ってる。成せることをしないのは、ただの甘えだ」
「そうだね。でもね、聖川君」
「なんだ?」
「逃げちゃいけないなんて、誰にも決められてないし、甘えちゃいけない、なんてことも決められてないよ。環境や状況によっては違うかもしれないけど。でもねぇ、本当は、逃げることも甘えることも、誰かに決められるようなことじゃないんだよ」

 逃げなくさせていたのは誰だろう。甘えさせなくしていたのは誰だろう。それは他人だったのかもしれない。環境だったのかもしれない。周りの状況が、そうさせていたのかもしれない。自分が、そう決めつけていたのかもしれない。
 結局、雁字搦めになっていたのは、誰のせいなんだろう?
 吐息を吐くように。囁いて、目を細める。甘えなかったの誰のせい?逃げなかったのは誰のせい?選んだのは、さて。誰だったのだろう?
 思わず馳せるように細めた目を、頭を振ることで追い出し、聖川君を見ると、彼はひどくショックを受けたような茫然とした顔をしていた。ん?何にそんな愕然としてるんだ?
 予想外にも顔を崩してる聖川君に怪訝に思いつつも、私は半乾きになった楽譜を揺らして、くしゃりと丸めた。ぱりぱり、と乾いた部分が音をたてる。

「・・・っだが、いつまでも、そうしてなどいられないだろう・・・!」
「うん。そうだね」

 悲壮に訴えられて、私は苦笑を浮かべた。同意をすれば、彼は言葉に詰まる。もう、私が何を言うのか、わからない、とでも言わんばかりに。狼狽える目で、私を見る聖川君は、紡ぎかけた口を閉ざして、私を凝視した。
 私は、そんな彼を見つめ返す。痛いぐらいに正論を振りかざす聖川君を見上げる。甘えは許されない。逃げることも許されない。いつかはそれに、立ち向かわなくてはならない。いつか、いつか――終わりを、自分で見つけなければ。

「本当に、そうだね――・・・」

 わかってるよ。狂おしいほどに。