雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲
気まずい、とは言い難いがそれでも仏頂面をする聖川君とそれ以上会話する気にもなれず、へらりと笑みを浮かべてその場を後にする。
引き止められることもなくその場を離れて、改めて生乾きの楽譜を見下ろして眉を潜めた。茶色い染みのついた楽譜に書かれた音符はましなものもあるが、大半が滲んでしまって見れたものじゃない。もともと捨てる他ないだろうなぁ、とは思っていたがやっぱり実際ゴミ箱行きとなると少しばかり残念な気持ちが涌き上がる。
溜息を吐いてぐしゃりと楽譜を丸めながら、肩を落としてとぼとぼと廊下を歩いた。この学園が無駄に広いせいなのか、人気のない廊下に影が伸びる。
元々人が集まりやすい場所というのは決まっているし、今は放課後だから学園に残っている生徒も少ないのかもしれないが、それにしても静かだ。
よくわからないが芸術性の高そうな石膏像の横を通り抜け、そうだ、あの楽器室に行こう、とふと思いつく。あそこに溢れかえる数々の楽器には色々興味をそそられるものがあるし、あれらの音を取り入れるのに生の音ほど有意義なものはない。惜しむべきは私が全部扱えるわけじゃないことだが、色々と掻き鳴らすのも楽しいだろうなぁ、とダメになった楽譜に少し落ちていた気持ちを盛り上げてるん、と足先を速めると、曲がり角から唐突に飛び出してきた人影に、ぎょっと目を見開いた。咄嗟に身を捻り横に避けたが、相手の片手とぶつかってしまい、僅かに重心がぶれる。よろめくほど大した衝撃ではないが、油断していたことも重なってぶつけた肩はちょっと痛かった。僅かに眉を潜めるが、がちゃん、と物が落ちる音にはっとして、音のした方を見やると革靴の前に黒い携帯電話が落ちており、私はおやまぁ、と目を瞬いてしゃがみこんでその携帯に手を伸ばした。と、同時に、別の手も同じように携帯に伸びてお互いの手が携帯を挟んで動きを止める。
いや、止めたのは、前かがみになった際に見えた相手の顔のせい、だろうか。
「神宮寺君」
「・・・やぁ、レディ」
・・・・・・・なんでこうも続け様に遭遇するかな。いっそその遭遇率に作為的なものを感じつつ、明かりが消えて冷たく光を反射する携帯を手に取り体勢を戻しながら神宮寺君にはい、と差し出す。同じように屈みこんでいた体勢を戻していた神宮寺君は、常になくけだるげな様子で口元に笑みを浮かべて携帯を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
長く綺麗な指先と大きな掌の中にすっぽりと収まった携帯に、そういえばそろそろ自分も考えないといけないよな、と思いながらなんとはなしに神宮寺君を見上げれば、彼は無表情に手の中の携帯を見下ろしていた。
整った顔の人間が無表情になると妙に怖いよな、と思いつつ、その冷ややかな眼差しに首を傾げる。・・・なんか、いつもより空気堅くない?この人。
まぁ、いつもの感じも柔らかい、というわけじゃないけどこんなにピリピリとした感じじゃなかった。ひょうひょうとした掴みどころのない彼の空気が、張りつめた糸のように引き絞られて危うい。どこかでぷっつんしそう、と思いながらもそんなちょっと機嫌がよくなさそうな相手は放っておくに限る、と私はじゃぁ、と控えめに暇乞いの声をかけた。特に男子ってのは、自分が不機嫌な理由を話したりしないものだ。一人になりたい願望というか、こういうときはあんまり関わってほしくなさそうなんだよな。突っ込んだら余計不機嫌になるかもしれない。
まぁ、あからさまに不機嫌です、みたいな態度を取る神宮寺君は想像しにくいが、無駄に愛想を振りまかせるのも可哀そうだ。一人になりたいならなればいい、と彼の横を抜けようとするとねぇレディ、と彼にしては随分と平坦な声が私を呼び止めた。・・・・あんまり振り向きたくないなぁ、と思うが、呼び止められて無視するわけにもいかない。渋々振り返れば、神宮寺君は携帯を手持無沙汰に揺らしながら、薄い微笑みを張り付けていた。うん。張り付けた笑顔って、こういう感じ。と思わず納得できるほど見本的な微笑みに眉を潜める。え、私なんの地雷踏んだの?
「なに?」
「さっき、聖川と何を話してたんだい?」
「え?見てたの?」
どこで見てたんだろう、と思わずきょとんと瞬いて小首を傾げる。まさか人に、いやこの場合神宮寺君に見られているとは思わなかった。内容を尋ねるぐらいだから会話までは聞こえちゃいなかったのだろうが、それにしてもわざわざ何故その話題を選ぶのか・・・。てか話してたことなんて神宮寺君のことだし。あれ、これって話していい内容なのかな・・・?
「偶々窓から見えてね。レディは随分と聖川と仲良くなったみたいだね」
「いや、そうでもないと思うけど」
だってまだ片手で数えられるぐらいしか会話したことない上に、二人っきりでした話題があれだぜ?全然仲良くないだろ、これ。君の目は節穴か、と言いたかったが、神宮寺君の薄ら笑いが怖すぎて何も言えない。え、なんでこの人こんなに今目が笑ってないの・・・?マジで私何かした?聖川君と会話すんのそんなに嫌なの?
「さしずめ、俺のことで何か聖川に吹き込まれた、ってところかな?」
にっこりと笑みを浮かべて、携帯をスラックスのポケットにいれた神宮寺君は前髪を掻き上げつつ流し目を送ってくる。その当たらずとも遠からずというか、吹き込まれた、というには適切じゃないけどもまぁ似たようなもんだよなぁ、という思考が先行し、肯定も否定もできずに口を閉ざす。その沈黙を正しく理解したのか、神宮寺君はやっぱりね、と呟いて私を見下ろした。
「何を吹き込まれたのかな、レディは。俺が不真面目な人間だってこと?それともレディ達に対してのこと?まぁ、なんにせよ奴の評価なんてわかりきってるけどね」
嘲笑うかのように酷薄に口角を釣り上げた神宮寺君に、常になく辛辣な物言い、と思いながら、困ったように眉を下げる。いやわざわざお互いの仲をより悪化させるようなことを間接的にとはいえいうのは気が引けるというか・・・。何故こんな遠隔的にこやつ等のいざこざに巻き込まれてるの私?
「最低で不真面目でやる気のない昼行燈。そう言ってたんだろう?ふふ、俺にしてみればあんな堅物がここにいることの方が気が知れないよ」
自分から言うか。なんていったらいいものか、と答えあぐねる私を置いて、好き勝手に話し始める神宮寺君は、最後に吐き捨てるような言い方で、しかしひどく綺麗な笑みを浮かべて見せた。それはもう相手のことが大っ嫌いなんだ、と告げるときのような素晴らしい毒の籠った笑顔で・・・いやぁ、今日は神宮寺君の暗黒面がよく見えるなぁ。
「求められている癖に、自分の役割が、立場が、居場所がある癖に。それを捨ててこんなところにくるなんて、本当に、愚かなことだと思わないかい?」
「え?」
「必要としている手を振り払って、アイドルになろうだなんて・・・最高に身勝手で、我儘で・・・本当に、気に食わない男だよ。あっちも同じだろうけどね」
そういって、視線を外した神宮寺君の横顔を眺めて、何か似たようなこと向こうも言ってたな、とぼんやりと記憶を巻き戻す。あっちはなんだっけ。なんでもできるくせに何もしない、だっけ?あー・・なんていうか、こう、個人的解釈でいきますと。
「隣の芝生は青いってことですね」
「は?」
「いや、なんでも」
うん。なんてか、子供かお前ら!と内心で突っ込み、いや子供だった、と思い直す。だってまだ成人もしてない学生の身分ですもんね。絶賛親の庇護が必要な年代ですもんね。どれだけ見た目が大人っぽかろうと思考が大人びてようと、青臭い若造なことには違いない。多分さぁ、もっとこう、お互いに広い視野をもって見つめ直せればさ、どっちもどっちなんだってことに気付けると思うんだよね。言ってることは真反対ではあるけれど、根本はどっちも同じだと、他人だからこそ容易く理解できる。
結局のところ、互いに羨ましくて妬ましいだけなのだ。自分が欲しいと思ってるものを相手が持っていると思い込んで、それをないがしろにしてるように見えるから苛々してる。だけど、自分が相手を羨んでるなんてプライドが許さない。だからお互い腫物のように扱っているのだろう。うん。これを青臭いと言わずなんというのか。
いやぁ、神宮寺君もやっぱり子供なんだなぁ。全然感情と理性が追い付いてないでやんの。
いやむしろ、彼らは財閥の人間ということで、無理に大人にならざるを得なかったが故の弊害、というものなのかもしれない。だとするならば、これはきっと年相応の悩みである葛藤であり、すごく大切で、尊く、必要なものなのだろう。何故か奴当たられてる私にしてみれば知ったことか、と言いたいですが。そんなもんお互いでやるかもうちょっと仲のいい人としておけよ。なんでそこにあんまり接触してない私持ってきてんだよ。青春するならもっと別のところでしておくれ・・・。私自分のことで手一杯なんですけど。つらつらとそう考えながらも、結局のところ私が言えることなんて何もないよね、と一つの結論に行き着く。
傍から見たら青臭い悩みだなぁ青少年!ってやつだけど、本人たちにしてみたらきっと自分を成り立たせるとても深くて重たいことで、何も知らない人間に踏み荒らされるなんてもっての外だろう。
それこそ、彼らがこういう悩みがあるんだ、って自ら曝け出すような相手でもない限り、口を挟むべきじゃないと思う。いや、あんましそういう重苦しいことに関わりたくないなぁ、という本心もちらっとはあるけれども・・・。
困ったな。本当、反応に困る。そうですね、とも相槌なんて打てないしかといって神宮寺君に共感できます、とかも言えるわけじゃないし・・・。だから全く事情を知らない相手に愚痴零されても対処に困るんですが、と言えるはずもなく。
口を閉ざしたままでいると、神宮寺君ははぁ、と溜息を吐いて、何かを切り替えるかのように横に垂れた髪を耳にかけながら、ふっと笑みを浮かべた。
「それで?レディはどうするのかな?」
「どう、って?」
「聖川の助言通りにするかい?それとも、まだこの茶番を続ける気つもり?」
「茶番って・・・あぁ。いや、うん。とりあえず続行するつもりだけど」
なんだろう、この突き放すような言い方。もともと彼は乗り気じゃなかったし、最初の内なんてこの話から降りてくれっていうぐらいだから、別にこの態度も不思議ではないんだが、それにしてもいきなりである。さっきまで勝手に愚痴ったかと思ったらこの態度。こうもあからさまに突き放されると、困り者だな。
「・・・とりあえず、上から期限切れを言われるまではやるつもりだよ。聖川君がどう言おうとも、それは私には関係のないことだし」
「何故?もともと君だってこんなことやる気はなかったじゃないか。別にレディになにかあるわけでもなし、もう諦めてもいいと思うけど?レディの曲を、俺は歌う気なんてないからね」
「そうだね。正直考慮して貰えるレベルにもいってないからね」
遠回しに君じゃ無理だよ、と言われているようだが、まぁ事実なので肯定しておこう。真顔で頷けば、彼は苦々しく顔を歪めて、溜息混じりにこちらを見やった。うーん。本当、今日は調子がよくないんだろうな、神宮寺君。ここまで取り繕うことをしない彼はある意味希少価値ものだろう。見たいわけじゃないが。
「君は、本当に・・・」
「神宮寺君?」
伸びてきた腕が、頬を捉える。ぐっと体が迫ってきて、後ろに下がればそれ以上は詰めてこない。けれども、頬に触れてきた手はそのままに、彼は長い前髪の間から、苛立ちの混じった目で私を見つめてきた。
「そこまで理解しておきながら、逃げないのは何故だい?ボスのいった特典がそんなに惜しい?あれぐらいなら、俺だって用意してあげるよ?あぁ、そうだね。俺が代わりに用意してあげようか。それなら、もうこんなことする必要はないよね」
「・・・ねぇ、神宮寺君」
「なんだい?レディ」
感情の籠らない笑みをにこりと向けられる。その顔、普通の女の子にしたらびびるだろうな、と思いながら、私はこれを言っていいものか、と迷いつつぱしりと頬を包む手を払いのけた。乾いた音をたてて離れた手を、さして惜しくもなさそうに引っ込める彼に、溜息を零す。これを言ったら、多分地雷だろうなぁ、とは思うけれど。
いい加減、さっきから、ぐちぐちと一方的に色々言われて、しかも答えなんて求めちゃいなくて、こっちも答える気なんてないんだけど、てか答えようがないことばっかりなんだけど、それなのにこの態度。お前、本当に、さすがの私でも、ちょっと、いや、かなり、
「何に苛ついてるのか知らないけど、八つ当たりはやめて欲しい」
鬱陶しいなぁ、って思うんですよ?
「・・・っ」
「とりあえず、今回のテストの件についてだけ言わせてもらうけど・・・まぁ確かに学園長の提示した条件はすごく美味しい。ぶっちゃけそれが名残惜しい大半の理由だよ。でもね、神宮寺君に曲を提供することは、私にとっても為になることがあるんだよ。特典とか関係なしに、作曲家としてね。だから、今のところ辞めるつもりはない。でも、それは私の事情だから、神宮寺君は神宮寺君の事情で動いたらいいよ。私はね、曲を作るだけ。それをどうするかは、君次第。・・・決めてごらんよ。どうするのか、どうしたいのか」
私はね、準備をして待ってるだけ。手を伸ばしたり、掴んだり、声をかけたり。そんなことはしないよ。選択肢を用意をして、君の判断を待つだけだ。だから、例えばそれが、君をここから去らせてしまうことなのだとしても。
「逃げたっていい。目を逸らしたって構わない。やりたくないならやらなくてもいい。どんな結果であれ、それは君が考えて決めたことだから」
私は、もしかしたら彼にとってひどく辛いことを押し付けているのかもしれない。言い切った瞬間、ひどく頼りなく、置いて行かれた子供のように目を揺らめかせた神宮寺君にそう思ったが、それでも出てしまった言葉は戻らない。戻せない。
何かを自己で決定するというのは、ひどく難しく、面倒で、重たいことだ。他人任せが一番楽。そんなことは知っている。流されて生きることは、ひどく楽で、簡単で、でも。
「私には、決めることはできないんだよ、神宮寺君」
手を伸ばして、迷い子のような彼の頬をそっと撫でる。子供らしさをなくした、柔らか味の乏しい頬に、つんと軽く、指先だけを埋めるように辿って、肩から力を抜いた。
「ま、曲ができなきゃどうしようもないんだけどね。これからまた頑張るから、もうちょっと待ってて」
それだけいって、彼の胸をとんを押す。突き放すように、後押しをするように。言葉を失くして、立ち尽くす彼に微笑みを浮かべて。
佇めば、神宮寺君はきゅっと眉を寄せて、それからくるりと背中を向けた。今の顔を見られたくないと言わんばかりに、声をかけることもなく、足早に去っていく背中を見つめて、荒れなきゃいいけど、とこてりと小首を傾げる。
去り際の一言もなく、繕うことすら忘れた様子も。彼の動揺のほどが知れたが、それをどうこうするつもりはない。結局のところ、彼の悩みも葛藤も私が手出しできることなんて何一つとして存在はしないのだから。
「てか、どうしてこう、あ奴らは私に絡むのかね」
もうちょっと人を選んだ方が、互いの精神安定のためにはいいと思うんだが、どうなんだろうか?疑問に思いつつも、踵を返す。かつん、と、冷たい靴音が静かな廊下に、小さく、小さく、反響して、消えていった。