雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲



 緑の迷路の奥から現れた人影は、はっと息を呑むほどに隙がない動作で歩を進めた。それは、私が過去にみてきた人々のそれと通じるものがある、武を嗜んだ者の動き。しかも、ただ格闘技に通じてるだとか、そういうものじゃない。
 それはきっと、日向先生とも違う―――もっと私と近いものだ。そのぞわりと警戒心を起こさせるような足運び、いや、張りつめた威圧感とも言える空気を身に纏った男から、私は無意識に距離を測るように動き一つ一つに注意を配った。
 その警戒を感じているはずなのに、男は気にした素振りもなく私の前にくる。
 襟足で一纏めにされた緑がかった黒髪が歩く動作に合わせて揺れ、軽い癖のついた髪が男の精悍な彫りの深い顔の前に落ちる。
 切れ長の瞳はまるで歴戦の猛者のごとく鋭く、平和ボケした日本人のそれとは思えないほどに野性味を湛えてこちらを見据える。
 いくらかの年月を経たのか、いささかの年齢は顔面に皺となって表れていたが、それでもまだまだ彼から衰えは感じない。いや、むしろ年齢分の老僧とした肉厚の経験が、彼を更に高めていることだろう。おまけに、若くはないが顔立ちは整っている方だと見受けた。・・・整っているというか、男臭く色っぽい。日向先生も確かに野性的で男っぽくかっこいい人ではあるのだが、この人はまたその野性的とは違う感じだ。そう、ダンディって男ってこんな感じだろうな、とか。しいていうなら日向先生は男臭いが色気にはまだ乏しく、この人は男臭さも色気も兼ね揃えた、って感じだろうか。ちょい悪親父ともいえそうな・・・しかしもっと艶めいてそうな。
 服の上からでもわかるしなやかに隆起した筋肉の存在を目で捉えながら、そんな考察を重ねる。・・しかし、その年で体の方も年の衰えなど関係ないほどにきっちりと作っているとは――一体どういう人間だ?まぁ、ただ、その鍛えられた体を包む衣服が、燕尾服であることだけが、激しく違和感を覚えて仕方ないが。ていうか。

(誰だーーーーー!!???)

 目の前に現れた一見執事風の武人の登場に、警戒心も然ることながら予想外すぎて思わずポカンと口をあけて呆けるところだった。ただそれは、本能的にかそれとも今までの経験からか、なんとか表面上は取り繕うことで隠し通せた、と思う。
 しかし、頭の中では全く見覚えのない人物の登場に軽く状況が掴みかねていた。いや、英国風のガーデン迷路の中には、ある意味その燕尾服はマッチしている。英国風だもの。執事がいることに違和感はないし、出てきてもおかしくない周囲の風景ではあるが、私が対峙する相手としては全く予想外だった。しかもただの執事ではない。明らかに只者じゃない空気を纏った油断ならない男だ。
 いや本当に、ここで全くの見知らぬ執事と相対するとは誰が予想しただろう。月宮先生と話していた時から、なんらかの気配を感じていたので、流れから察するに日向先生とか神宮寺君とか・・まぁ私と関係、あるいは接触した人間だと思ったからこんな人気のない場所までわざわざ出向いたのに、蓋を開けてみればこれ。
 廊下ですぐに声をかけてこないのだから、きっと何か大っぴらにしたくないことがあるのだろう、と気を遣ったのが悪かったのか。その結果が全く知らない人間と二人っきりとか、どんなドッキリだ。え、いや、ちょ。マジで誰よこの人?
 見覚えがなさすぎて困惑しかできず、眉間に皺を寄せる。もうちょっと、こう、私にも対応できる人選できてくれませんかね?どうすればいいの、これ。ちょっとかっこよく呼びつけたのに、とんだ罠だよまいったね!
 そんな私の狼狽えた空気を察したのかしていないのか、謎の執事服の男は口髭を蓄えた口元を歪めて、ニヒルな笑みを作った。

「俺の気配に気づくとは、只者じゃないな、レディ」
「あ、神宮寺君関係の方ですか」

 人をレディ呼びする時点でなんとなく察して、ほっと胸を撫で下ろした。よかった、全く見知らぬ不審者かと思った。それともまた学園長が変なこと始めたのかと思ったよ。それでも、一定の距離を保つように相手との距離を目測で図りながら、神宮寺君関係ということは、この人は神宮寺の執事か何かだろうか。それにしては、なんか、随分と雄々しい空気なんですけど・・・。あと口調が割と粗雑。そも、何故本人ではなく執事が?と訝しげな視線を送ると、男は目を細めて腰を折った。優雅、且つ隙のないその礼に、男の旋毛を見つめて口を閉じる。

「神宮寺レンの世話役をしている、円城寺だ。気軽にジョージと呼んでくれ」

 何故ジョージ。どこからきたんだジョージって。顔をあげて、前に垂れている髪を不自然でない程度の仕草で後ろに払ってウインクを飛ばすところに、なんだか物凄く納得を覚えながらはぁ、と生返事を返した。なるほど、神宮寺君の世話役な感じしますね、言動が。

「・・・それで、その神宮寺君の世話役が、私に何の用ですか?」

 しかし言葉使いは雑、というかこれはこれでワイルドというべきだろうが、執事のイメージは覆されるな。丁寧な英国紳士じゃないんだ・・いやまぁ、これはこれで彼には合っている気はするから別にいいか。私には関係ないし。
 男の雰囲気には間違いじゃないな、と思いながら、胡乱な目で円城寺さんを見やった。神宮寺君の関係者とはいえ、何故本人ではなく他人がしゃしゃり出る。

「そう邪険にしないでくれ。多少君と話したいと思っただけだ」
「世話役の方と話すようなことは何もないと思いますが・・」

 それとも、私はチクリと何か言われるのだろうか?過保護だなぁ、と思いながら小首を傾げると、円城寺さんはふっと息を吐いて腕を組む。

「なに、レンが振り回されているレディに興味があっただけの話でね。まぁ、レン関係のことといえばそうだが・・・まさかこんなに可憐なレディだとは思わなかったな」

 流し目ありがとうございます。ちょ、色っぽいなその流し目!神宮寺君の流し目はあーはいはい、と思うだけだが、さすが年齢分の色気は伊達ではない。ちょっとドキッとした。というか神宮寺君のキャラは慣れ過ぎて免疫ができているのだが、あんまりこういう大人の男性っていうのは少なくてまだ慣れていないのだ。
 思わず胸元に手をやりつつ、男の色気すげぇな、と改めて感じ入って、視線をやや外した。それでも動きを終えるように足元は視界にいれて、ちゃんと男の動きは注視しておく。・・・私も結構染まってるよな。

「そうですか。ですが、何も面白いことはないと思いますよ」
「いや、そんなことはない。ただの小娘が、俺の気配に気づく時点で、な。しかも、今でさえ俺の動きを注視している。さて――レディは何者だ?」
「ただの一生徒ですが。・・・神宮寺財閥ほどの家ならば、私の素性など調べつくしているのではないですか?」

 微笑みを浮かべた顔が、鋭さを帯びる。それに僅かばかり気圧されながら(こっわいな)確かに、気配を察する人間なんぞそう多くはないだろう、と僅かに目を伏せた。しかし、世話役としては気になる点ではあろうが、私はただの一般人で間違いない。ただ私自身の中身の経歴が可笑しいだけで、この世界の素性にはなんの疾しいところもない。ただの一般人。それ以外に、彼が得られる情報も、また与える情報もない。それがわかっているのだろう。円城寺さんは僅かに顔を顰め、確かに、と頷いた。

「どこをどう調べても可笑しくはなかったな。同業者かとも思ったが、そんな痕跡は欠片もない」
「あなたこそ何者なんですか」

 ちょ、なんか物騒な気配が!なに!?同業者って!!明らかただの執事っぽくはなかったけどなんか思った以上にやばい感じの人なのこの人!?思わず引けば、にやりと笑って彼はさて、何者だと思う?と軽い調子で嘯いた。深く突っ込みたくなかったので、私はそれ以上を拒否するように首を横に振る。だって知ったらそれはそれで怖いことになりそう。口封じとかされたらどうしろと。

「私には解りかねます。そもそも、聞きたいとも思いません」
「懸命な判断だ」

 なので下手なことは言わんでください。できるだけつれない態度でキッパリと言えば、円城寺さんはくつくつと喉奥で笑い声を噛み殺しつつ探るような目を向けてくる。それに顔を顰めて、溜息混じりに円城寺さんを軽く睨みつけた。

「何がしたいんですか?こんな雑談、意味ないと思いますけど」
「レディと会話するだけでも有意義だが?ふむ、だがそうだな。レディの正体も気になるが、今はあいつの世話役として多少のフォローをしておこう」
「は?」

 ふっと、笑みを浮かべて円城寺さんは肩を竦める。話題を変えたい、と思った私の意図に乗ってくれたのだろう。存外にすんなりと引いた円城寺さんのその仕草は、手のかかる子供を持つ親のような、慈愛と優しさに溢れていて、あいつ、と呼んだ眼差しには慈しみが浮かんでいた。・・・なるほど、彼は世話役にもしっかりと愛されているらしい。
 まぁ、世話役というぐらいだ。神宮寺君を幼少の頃から世話しているとなれば、愛おしさも一入というものだろう。そんなことを考えれば、円城寺さんは困ったことに、と一言言い置いて口を開いた。

「あいつは――レンは、大概にしてまだ子供なんだ。本人は大人ぶっているがな。だから、レディの目に余ることもあるだろう。だが、男というのは大抵幼いものでね。多少大目に見てやってほしいと思うんだが・・・」
「彼は、一般的な十代の男子にしては、広い視野を持っていると思いますが・・まぁ、今回のことは、なんというか、まだ十代だなぁ、という気はしますけど」

 しかし、別に怒っているわけでも呆れているわけでもない。そういうもんだろうというか、ガンバレ青少年、とかいう微笑ましさを覚えているだけで・・・まぁ、わけのわからない八つ当たりはご遠慮願いますがね。
 フォローも何も、と思いながら仕える人間に対して餓鬼扱いをする円城寺さんに、神宮寺家の執事の基準って一体、とどうでもいいことを考える。まぁこれで、きっとすごい人なんだろう。AランクとかSランク執事とかそんな肩書きがあるんじゃね?漫画みたいな感じで。実際あるのかどうかは知らないが。
 困ったように笑みを浮かべ、円城寺さんを見つめる。その瞳の奥の、愛おしさに微笑みを浮かべて。あぁ、彼は本当に。

「愛されてますね、神宮寺君は」
「そう思うか?」
「思わずにいられますか?わざわざそんなことを言いに来る人までいるんですよ。おまけに教師、生徒からも注目の的。これで愛情を疑っているとしたら、彼はよほど自分に自信がないんでしょうね」
「自信がない、か。そうだな。愛情というものに対して、レンに自信なんてものはないのかもしれないな」

 全く、彼の周りの過保護なこと。羨ましいのか、ちょっとほっといてやれよ、と思うのか、どっちつかずの心境で吐息を零せば、円城寺さんは苦笑を浮かべてそんなことを口にする。・・・はて。あれだけ恋だの愛だのレディだの言ってる人間が愛情に対して自信がない、と?いやまぁ、あんまり他者からのものを信じてないような気はしなくもない。ああいうタイプは、大概本当の愛とかいうよくわからないあやふやなものを求めるものだからなぁ。本当の自分をみてくれとか、そんな感じで、上辺だけみて近づく人間ばかりだ、とか卑屈なこと言ってそう。
 あくまで私の脳内イメージだが、あながち間違いでもないと思うのは、彼があまりにものらりくらりと周囲に接しているからだろう。・・まぁ、今はその余裕もちょっと崩れているようだが。でも相変わらず女の子とは仲良くしてるんだよね。
 つらつらと内心の考えを悟られないように、肯定も否定もせずに先を促すように視線を向けた。円城寺さんは、不思議なレディだ、と一言呟いて話し始める。

「あいつは少々、家族と折り合いが悪くてな。まぁ、行き違いといえば、行き違いなんだが・・・あいつが思うほど、邪険になんかしていないんだが、どうもレンには伝わらないらしい」
「そういえば隠し子疑惑があったとかどうとかいう噂もあったみたいですしね。真相は闇の中とか。それは、まぁ、家族とも折り合いが悪くなるでしょうね」
「あぁ・・・調べたのか」

 てか自分は愛人の子とか言われたらそりゃ気まずいわ。誰でも家族と一線引くわ。家族が全力で気にしてないよー!って向こうからこなきゃ普通の人間は怖気づくわな。ネットで当時のちょっとしたゴシップ記事なんかもあったので目を通したが、なかなか彼の生い立ちも複雑らしい。まぁ、金持ちキャラにはよくある設定ですけどね。だから、余計に嫡男である聖川君が気に食わないのかもしれない。確かなその血を、羨んでいるのかも。・・・まぁ、関係ないので正直どうでもいいんだが、それを言っちゃ折角円城寺さんが神宮寺の内部事情を話してくれているのに勿体ないので、やっぱり内心は知られないように、にこ、と笑みを浮かべてみせる。笑顔はポーカーフェイスの基本ですとも。夢前君の笑顔とか弁慶さんの笑顔とか、すごかったよなぁ。

「最近はネットで大概のことは調べられますので」
「なるほど。最近は便利になったものだ」
「昔と違って?」
「そうだな、昔はもっと・・・おっと。俺も年を食いたくはないな。こんなことを言うようになるとは」

 そういっておどけてみせる円城寺さんに、なるほど大人だ、と思いつつ思考を巡らせる。家族仲が悪い、か。まぁ、それもどうやらすれ違いの結果らしいが・・・。なんだ、神宮寺の家は本音で話すのが苦手な家なのか。てか多分男っ気しかないのが問題なんだろうな。女の人が間に一人でもいれば、また違った感じになったんじゃないかなぁ。まぁ、どうしようもないことではあるが。いないものは、いないのだし。・・・いないものは、どうしたって、手元には戻ってこないのだそし。例え、どれほど、願おうと。

「・・・正直、」
「ん?」
「そんな家庭事情聞かされても、私には神宮寺家の問題をどうこうできる力なんてありませんし」
「・・・」
「むしろ、こんな、友達ですらないような人間に語られても、だからどうしたって、思うだけだったり、しますけど」
「・・・それは、確かにな」

 素直な心情を吐露すると、円城寺さんは一瞬目を見張り、それから苦く微笑みを浮かべた。もっともだと頷いて、くしゃりと前髪を掻き上げる円城寺さんは、ひらりと片手を振って忘れてくれ、と言った。いや無理だろう、と率直に思いつつ、まぁでも、と言葉を繋ぐ。

「なんとなく、わかりました。要するに神宮寺の家は不器用なんですね」
「ぷっ・・・くく、あ、あぁ。そうだな、確かにその通りだ」

 身も蓋もない評価を下せば、思わず、といったように円城寺さんは噴出した。笑を堪えるように肩を震わせているが、堪えきれない笑い声が漏れ聞こえてくる。
 くつくつ、と喉奥がきつそうに鳴っていて、笑いたいなら笑えばいいのになぁ、と肩を竦めた。

「不器用な、家なんだよ。親も、兄弟も」

 そういって、可笑しげに笑っているのに。どうしようもないものを見るような、慈しみが滲む声音は、ひどく低く深く聞こえて。

「じゃぁ、あなたが伝えてあげればいいのに」

 呟くように、そうすりゃ家庭円満なんじゃないのか、と今の面倒くさい状況への不満をぶつけると、円城寺さんは少しだけ困ったように眉を下げ、やれやれ、とばかりに首を横に振った。

「所詮、他人が口出ししたところで、本人が実感できなければ意味はないさ」

 そういって、しようのない家だ、と溜息を吐く様は。
 結構、この人も苦労したんだろうな、とそこはかとない同情を覚えるぐらいには、哀愁が漂っていた。でも多分、互いでなんとかしろ、っていう厳しい部分もあって、積極的に改善しようとはしなかったんじゃないかな、という気もしてたりする。

「ところでレディ」
「はい?」
「レンが迷惑をかけている詫びに、お茶でもご馳走したいんだがこの後の時間はどうかな?」
「・・・本当に、神宮寺君の世話役って感じですね」

 にこやかにお誘いをかけてくる円城寺さんに、思わず肩から力を抜いた私はほんの少しの呆れを混ぜて、苦笑いを浮かべた。
 答えは勿論、Noですよ!