雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲
時計の秒針がかちりと定刻を示す。からくり時計ではないので一々音を知らせるような音楽も鐘の音も鳴りはしないが、それなりに時計を気にしていればおのずと視線はそこに向くもので、ほっと肩の力を抜いた。
時間十分前にはすでに退勤のための片づけに手をつけていたので、さして時間をかけずに全てを終えると、近くにいた人に声をかけてロッカールームへと姿を消す。
やはり簡単な着替えを済ませ、ロッカーについてある鏡で身なりを軽く整えてから、関係者用の裏口から外へと出る。勿論、最後の挨拶を忘れることはない。
「お先に失礼します」
「お疲れさま。気を付けてねー」
定型句とも言える返事に頷きながら、空調の利いた店内から出ると、むわっとした湿気を帯びた生温い空気が肌を撫でた。暑い、というには物足りないが、かといって快適といえるような気温でもない。夕方頃には雨も降っていたので、余計に湿気は増したのだろう。止んでいる分には幸いだが、それにしてもこのじっとりした空気は考え物だ。まぁ、すでに陽もとっぷりと暮れ、夜といっても過言ではない時間帯なので、気温そのものはさして高くはないのだろうが。
厚く覆っていた雲も途切れ、星をちらつかせる空を見上げて肩に下げていたトートバックを漁り小型音楽プレイヤーを取り出す。携帯にお金は出さないのにそんなものには出すのかって?いやだってこれないと課題やらなんやらに支障があるんだもの。音楽データとか盛り込んだりパートナーと練習するときだってこれ結構活用するし。まぁ今のところその練習機会には恵まれていないわけだが。プレイヤーを操作し、今回はランダム設定でお任せにすると真っ直ぐに寮を目指して歩き始めた。
それなりに疲れた体で徒歩で帰宅するのは面倒、もとい疲れるものだが生憎と学園に自転車まで持参していない。
そもそも、自転車を活用するには学園の周り、いや敷地内か?に必要なものは大概揃っているし、そうでないものに関しては自転車で移動するにはいささか距離がある、というなんとも微妙な位置である限り、自転車の有効度は極めて低そうだが。
故に私の、というか学園に在籍する多くの生徒にとって、基本移動手段は徒歩か公共交通機関に頼るばかりなのである。稀に車で行動している輩もいるそうだが、基本それは某財閥令息に限られるので、勘定には含めない。
このバイト先も、徒歩通勤がさして苦にならない程度の距離なので、結局自転車という手段は取らないままだろうなぁ、とぼんやりと考えながら、生温い風に欠伸を一つ零した。時刻はすでに九時を回っている。未成年者のバイトは十時までなら許されているので問題はないが、この後やらなければならないことも残っているので、寝るのは大分遅くなりそうだ。夜更かしなど日常茶飯事ではあるが、故意的に起きているのと起きていなければならないのとでは、行動は同じでも理由の違いは大きい。
まぁつまり自分の趣味で起きている分には自業自得だが、課題なり仕事なりで起きてなくちゃいけないのはひたすら苦痛だよねってわけで。
しかもそんな時ばかり、現実逃避でもしたいのか眠気が襲ってくるもんだし。あぁ、人間ってままならない。薄汚れたスニーカーでまだ生乾きのアスファルトを踏みしめ、月と街灯に照らされた道路を進む。時折流れの速い雲に月が隠されると一気に暗がりが濃くなり、一層街灯の明かりだけが頼りの有様だ。・・・まぁ、この程度の暗闇、暗闇と呼ぶにはいささか物足りないけど。
「あぁでも、存外昔もそんなに暗くなかったなぁ」
確かに、人工的な明かりには乏しかっただろう。眩しくはないけれど、僅かに目を細めて電柱の電灯を見上げ、けれど、決して真っ暗闇だったわけではないのだ、と内心で一人ごちた。昔は暗かった、というけれど。確かに、決して明るくはなかったし、闇は今よりももっと深かった。闇に隠れ暗躍するものにとっては、隠れる場所には事欠かなかったに違いない。けれども、だ。
「空は、明るかったものなぁ」
そんな違いにぼんやりと呆けていれば、不意にこつこつこつ、とアスファルトを忙しなく蹴りつける足音がイヤフォンからの音に混ざって耳に届いた。自転車や車の気配に鈍感になってはいけないので、さほど音量を上げていなかったことが幸いしたか。まぁだからといって何をするわけでもないのだが。それはそれとして他者の存在を許容し、けれど深く意識を向けるでもなく、ごく当たり前の状況だと理解すればなんてことはない。ただちょっと足音が早めで距離が近くなっているというだけで。うん。・・・・すげぇ早い足音だな?かといって振り向くのもなんだかなーと思いつつ一定のペースで歩けば、おのずとそれを上回るペースで歩いている人物に追いつかれるのは当然だ。このまま通り過ぎるのかなー、と考えていれば、さん、と低く艶のある声が曲の隙間から割り込むように耳朶を擽り、ふえ?といささか間の抜けた声をあげつつ後ろを振り返った。
「・・・一ノ瀬君?」
「こんな時間でこんなところで、一体何をしているんですか?あなたは」
切れ長に瞳が細められ、くっと眉間に寄った皺を寄せてカジュアルな服装の一ノ瀬君が、大きな鞄を肩から下げた状態でこちらを見下ろしていた。肩に手を置かなかったのは彼なりの配慮だろう。声もかけられずにいきなり体に触られたら誰でもびびるからね!うん。下手したら攻撃されるかもしれないので、彼の判断は正しかったことだろう。だがしかし、その言葉、そっくりそのままお返しする。
「私はバイト帰りだけど・・・一ノ瀬君こそこんな時間にこんなところで何してんの?」
「・・・私もバイトの帰りなんです。私が言うのもなんですけど、学園は基本バイトを認めていなかったかと思うのですが」
そういって、まさか無断じゃあるまいな?と険しい顔をする一ノ瀬君に、ひらひらと片手をふって否定しておいた。
「あぁ、ちゃんと学園側から許可は貰ってるから。違反行為じゃないよ」
「そうですか。まぁ、あなたが校則違反をするとは思えませんが、だからといって女性がこんな時間まで働くのは感心しませんね」
この近辺の治安がいいとはいえ、危険は危険なんですよ。しかも一人でこんな夜道を、と軽くお説教を始める一ノ瀬君に、それを言うなら君もだろう、と思ったが、火に油になりそうだったので苦笑いを返すに留まる。多少の相手なら撃退する自信があったが、世の中予想外の事態というものはよくあるので、過信はよくないだろう。
だがしかし、延々とお説教を聞く趣味もないので、プレイヤーのスイッチをきって、イヤフォンを外すとじゃぁさ、と淡々と話し続ける一ノ瀬君に話しかけた。
「もう帰ろうよ。いつまでもここにいたら寮につくのがもっと遅くなるし」
「さんは、話を聞いているようで聞いてないでしょう。実は」
「聞いてるよ。でも、やっぱり素直に聞けるものとちょっと聞けないものがあるだけで」
「バイトのシフトをずらすとか、やりようはあるんじゃないですか?」
「一ノ瀬君もね。・・・まぁ、でも、やっぱり深夜枠には劣るとはいえ、時間給になると中々これが難しくてねぇ」
深夜だと割り増しなんだけど、さすがに法は犯せないのでできる範囲で高額を求めるのは貧乏人にとって当たり前の行動です。
肩を竦めつつ歩き出せば、一ノ瀬君は軽く溜息を吐いて横に並んだ。まぁ確かに、女の子が一人で帰るのは危ない。場合によっちゃ男だろうとそれは変わりない。それはわかる。理解できるし、できるだけ危険を避けるべきだとはわかっているのだが・・・命のやり取りなんぞそうそうないだろうと思っちゃうとまぁなんとかなるかなーて思っちゃうのはあれか。過去の弊害か。仕方ない。戦やら忍者やらやってると感覚も麻痺しちゃうよね!
「ところで、一ノ瀬君はなんのバイトしてるの?随分疲れた顔しているけど」
私はそれなりにだが、彼の顔の疲労度は半端ないと思う。いや相変わらずイッケメーンではあるのだが、こう、空気というか雰囲気というか、お疲れですーって感じなんだよね。私よりも君の方が夜道は危険なんじゃないか?と思いつつ話をふれば、彼の眉間に皺がぐぐぐ、と深くなった。・・・あれ?
「別に、普通のバイトですよ。多少今日は忙しかっただけです」
「そうなんだ。お疲れさまー」
無難な返事だ。顔に反しての当たり障りない返答に、私は深く突っ込みもせずに軽く流す。危ないバイトじゃなければいいな、とちょっとした懸念を覚えつつもまぁさすがに、さすがにないだろう、と言い聞かせて前を向いた。
一ノ瀬君は、なんていうか、割と地雷が多くて話題選びも一苦労だ。なんで普通の会話でこんなにも地雷原の近くを横切らなければならないのか。
てか隠したいバイトってなんぞや?・・・やっぱり変なことしてんのかなぁ。一ノ瀬君に限って、とは思うが、案外こういう人がって線も・・・。
想像だけは膨らむが、どれもこれも現実味がなく、また横に本人がいる状態で耽っているわけにもいかない。話をすり替えるように振られた内容に、私は素直に乗っかることにした。
「そういうさんは、一体なんのバイトを?」
「今日はファミレス。ご飯時は戦場だね!」
「君は、それで学業の方は大丈夫なんですか?今日は、ということは他のバイトもいれてるんでしょう?」
「そこら辺はちゃんと考えてるって。まぁ今のところ難しい課題も出てないし。あ、神宮寺君のは別だけど」
「そういえば・・・どうなってるんですか?あれから」
さすがに本業と両立できないならバイトの許可なんて下りないし。てか、支障が出るようならバイト辞めさせられるだろうし。そこら辺はちゃんとやってるから大丈夫。今のところ課題の提出期限に遅れただとかテストで赤点取ったってこともないから。まぁ油断大敵という言葉もあるので、気を抜いてはいられないけど。
なんか母親みたいな心配の仕方だな、と思いつつ話題を逸らすように神宮寺君の名前を出せば、彼はあっさりとそちらに乗ってきた。むむ。やはり一ノ瀬君もこの件に関しては非常に気になっているようだ。友達っぽいしね。
「特に進展はないけど、一応新しい曲は大体できたよ。もうちょっとで完成だから、今日辺り徹夜する予定」
「徹夜はやめなさい徹夜は。多少は睡眠を取らなければ体調を崩しますよ?」
「仕方ない。作曲家とは常に修羅場との戦いなのだよ。一ノ瀬君」
「どこの作家ですか君は。睡眠は肌の調子を整えるのに必要な要素です。ゴールデンタイムを逃すなとまではいいませんが、多少の睡眠は取るべきです」
「一ノ瀬君・・・発言が女子・・・・」
「誰が女子ですか誰が!私は、注意を、しているんです!女子なのはあなたでしょう?!」
キリリ、と眉を吊り上げて怒る一ノ瀬君にやっべ地雷踏んだ!と顔を引き攣らせ、両手をあげて降参のポーズをとる。いやでもやっぱり着眼点が女子だと思うよ、私は。うん。もう口にはしないけどね!
「失言でした、気を付けます」
「全く・・・。それでその曲は、レンを納得させられそうなんですか?」
「さぁ?」
「さぁ、って・・・」
「価値観は人それぞれだもの。私なりに神宮寺レンを出してみたけど、まぁそれを相手がどう取るかは知らないし。一曲目の二の舞になる可能性のが高いかも」
「先生に相談などは?」
「今回はしてない。時間がなかったのもあるし。そろそろタイムリミットらしいから」
「・・・ちなみに、今ここに曲は」
「ないよ。あったとしても、一ノ瀬君には見せられない」
「何故?」
ちょっと不服そうに、聞き返してくる一ノ瀬君に私は見えた学園の門から目を逸らして、そうだねぇ、とのんびりとした口調で口を開いた。
「せめて、一番に見るのは彼であるべきかな、と思うから。それからなら、アドバイス貰うにも見せたいぐらいなんだけどねぇ」
「・・・そうですね。仮とはいえ、今の君のパートナーはレンでしたね」
「あは。でも見せて拒否られたらお蔵入りだね。まぁその時は相手が悪かったということで」
むしろお眼鏡に適う気が全然してないわけだが、まぁあえて口にはすまい。一ノ瀬君は、少しばかり考えるように沈黙してから、校門を潜り抜けるとぽつりと口を開いた。
「なら、もしもレンが歌わないといったなら、その曲を私に見せてくれますか?」
「うん?いいけど・・・」
「ついでに、その曲を私が気に入れば、歌わせてもらっても?」
「え、それは・・・・」
「気に入れば、の話です。駄目ですか?」
そういって、挑発的に笑う一ノ瀬君に、私は少し考えた後、まぁいいか、と頷いた。
「いいよ。じゃぁ神宮寺君に見せた後一ノ瀬君にも見せるから」
「えぇ。楽しみにしています」
「・・・期待はあんまりしないでね」
「さて。どうでしょうね?」
くすり、と。含み笑いを零して一ノ瀬君は流し目を一つこちらによこすものだから、思わず顔を顰めた私は悪くないはずだ。顔がいい人間がするとどれも絵になるから性質が悪い。これを普通の顔の人間がしても雰囲気イケメンでない限りさほど意識もされないに違いない。キモイとかイタイとまではいかないよ。ただ、別段意識もされないというだけであって。顔面格差って、何気ない仕草で出てくるよね・・・。
そうこうしている内に寮の前までつくと、一ノ瀬君はではまた明日、と声をかけてくるりと背中を向けた。なんの名残もなくあっさりとしたその動作には逆に印象を良くしながら、また明日、とこちらも返事を返した後ではたと気が付く。
・・・・さりげなく女子寮まで送ってくれたんだな、一ノ瀬君。ざっざっざ、と遠ざかる背中を見送りながら、いやだわ卒がないイケメンって、と冗談交じりに溜息を零した。
「・・・さて、入るか」
そういえばにゃんこは今日も部屋にいるのだろうか。一応ご飯は用意してたんだけど、と思いつつこちらも背中を向けて寮へと入る。さて。では一ノ瀬君の忠告を取り入れるためにも、急いで完成させて睡眠時間は確保しなきゃだなぁ。
「えいえいおー」
夜なので控えめな声で己を鼓舞しつつ、しかしその前に何か胃にいれよう、と思う私は、十時以降の食事に気を遣うおしゃれ女子にはなれないだろうな、と思った。
一ノ瀬君は多分、この辺の食事めちゃくちゃ気を遣ってそう。さてもとにかく、冷蔵庫には何があっただろうか、と考えながら、自室の扉を開いたのだった。