雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲
最初に目を引いたのは、雑誌の見開き一ページを埋めるワンシーンもかくや、とばかりの洗練された空気そのものだった。
柔らかい午後の日差しを受けて天使の輪が浮かぶワックスをかけてスタイリングされているだろう藍色の髪に、光を受けて白く縁取られた顔の輪郭。元々肌は白い方なのだろうが、手元を見るために伏し目がちになった瞼を縁取る睫毛が影を落としてよりその白さを際立たせているかのようだ。開けることなくきゅっと軽く引き結ばれた唇は薄く形よく、横顔のせいでかすっと通った鼻筋さえも強調されて、まるで人形のように整った顔がそこにある。いつもはピンと伸ばされている背筋は今は椅子の背もたれに預けられ、ゆっくりと余分な力が抜けて余裕ができて、机の下では長い足が無造作に組まれていた。なんだろう、この芸能人の午後の一時、みたいな映像は。
そこだけ一種独特の雰囲気に包まれて、話しかけるのも憚られる静かな空気にしり込みしたが、私は折角見つけたのだし、とその空気感を壊す無粋さを感じながらも図書館であることを考慮して控えめに声をかけた。
「一ノ瀬君、ちょっといいかな?」
そっと声をかければ、彼は一瞬煩わしそうに眉を潜めて、それからじろり、と横目を向けてきた。非常に不機嫌そうな仕草に、あ、これは悪い時に話しかけたかな、と気まずい思いをしていれば、ぱちりと目が合うと驚いたように軽く目を見張り、それからパッと顔をあげてきた。
「さん、ですか」
「うん。読書中ごめんね?今ちょっといい?」
「えぇ、大丈夫ですよ。何か?」
物音の少ない図書館での声は自然と小さく密やかになるものの、元々通る声質なのか歯切れの良い一ノ瀬君の返答はすんなりと耳に届く。快い返事にほっと胸を撫で下ろし、私はこの前の話なんだけど、と早速本題に入った。
「この前?」
「ほら、神宮寺君の曲聞かせてほしいって奴」
「あぁ。・・・レンからはいい返事をもらえたんですか?」
「いやそれが全然。会ってすらいないし。一応渡せはしたんだけど」
「そうですか。・・・レンもさっさと素直になればいいものを」
「え?」
「いえ、何も。どうぞ、立ったままというのも気になりますし、座ったらどうですか?」
そういって正面の椅子を示され、私の用件はすぐに済むんだが、と思いながらもお言葉に甘えて、椅子を引いて一ノ瀬君の正面に腰掛けた。ぎし、と少し軋みをあげた椅子から顔をあげると、一ノ瀬君は本の間にしおりを挟んで、そっと脇に置いたところだった。なんか時間取ってごめん。読書の邪魔とか鬱陶しいよね。すぐ退散するから。
「それで。まぁなんていうか、現状接触できてないもんだから、彼が曲を聴いてくれたかどうかもわからなくて。あれから数日たってるけど、歌う歌わないの返答もないし・・・これはもう歌わないという結論でいいのかなという個人的解釈なんだけれども」
「自分から聞きに行こうとは思わないんですか?」
「それは思わないかな。別に私、神宮寺君にどうしても歌ってほしいわけでも、アイドルになってほしいわけでもないから」
冷たい言い方かもしれないが、現状私と神宮寺君の関係なんてそんなものだ。
私自らパートナー申請を出したならまだしも、半ば強制で組まされたようなものだし。
私は彼の本気を知らないし、深く知り合えるほど何かを為したわけでもない。と、いうか、私は未だ周囲がこぞって引き止めるほどの彼の力を見せてもらったことがない。見せる気もないのだろうが、それでどうして彼を惜しむことができるというのだろう。実力さえ想像の域を出ないというのに、引き止めろというのは土台無理な話だ。まぁわざわざ引き出そうともしない辺りが問題だと言われればそうなんだろうけど。基本他人任せだからなぁ、私。
どちらにしろ、そこまでの思い入れがないのだ。例えこれが失敗に終わっても私になんらかのペナルティがあるわけでもなく、ただただ曲の提供者という形なだけなのだから、無理に歌わせる気など起こるはずもない。確かにあの曲は神宮寺君のために作った曲ではあるが、どうしても彼に歌ってほしい曲というわけではない。歌いたい人が歌えばいいと思うよ、うん。この人だけに!っていう人が、多分パートナーになるんだろうしなぁ。
結局、これは彼が自ら動かねばならない問題なのだから、わざわざ動いてやる必要があるとは思わないのだ。突き放している、とも言えるかもしれないが、私は間違った対応をしているとも思っていない。
「神宮寺君にも言ってるんだけど、私は曲を作りはするけど、どうするかは彼次第だって。手を差し伸べはしないし、答えを促したりもしない。ただ、結果を待つだけだよ」
「見事なまでの放任主義といいますか・・・いえ。確かに、どうするかなんてことはレン次第ですからね。君の対応は間違いじゃありません」
「ありがとう。と、いうわけで、相手からなんのアクションもないのでこれはこれで終わりかなーと」
「なるほど。なら、今日はその曲を聞かせて頂けるということでいいんでしょうか」
「一ノ瀬君に時間があるなら。とはいっても、ここで会えると思ってなかったから音源は教室にあるんだけど・・・」
「では、今から行きましょうか。善は急げともいいますし」
そういって、にっこりといい顔で笑う一ノ瀬君に、何か企んでそうだな、と思いながらも聞いたところで話してはくれなさそうだから、私は曖昧な相槌を打って、席を立った一ノ瀬君に合わせて椅子を引いて立ち上がった。
ガタガタ、と少し音をたてて椅子を元に戻し、連れたって図書館を出る。
そういえば、気に入ってくれたら歌ってくれるということだが、本当に歌ってくれるのだろうか。その場合、一ノ瀬君が歌詞も考えてくれるってことだよね。
よくよく考えればSクラストップの実力者にそこまで目をかけてもらえることはすごいことだよな、私。Bクラスなのに・・・わぁ、すごい。まぁ音楽云々差し置いても普通の友人として良好な関係は築けているとは思うが、それにしたって、きっとあんなことがなければまず関わることのなかった相手だろうことは想像に容易い。いやまぁ、その前から実は会っていたことがあるんだが、それでも普通はあれっきりのはずだったのだろうになぁ。てかあの展開もすごい超展開だったからな。普通ないよね、あんな展開。
ちらり、と一ノ瀬君を横目で見上げながら、出会いって予測がつかないものだなぁ、としみじみと頷いた。
「?・・・何を一人で頷いているんですか」
「いや、今この瞬間の奇跡に感じ入ってるところ?出会いってすごいねぇ」
「どうして今それを実感する必要が・・・あぁ、着きましたよ」
「あ、はいはい。じゃぁ取ってくるからちょっと待ってて」
そういってBクラスの前で立ち止まった一ノ瀬君に声をかけてから、早足で教室に入り自分の机の横に下げている鞄からCDケースを取り出した。それから踵を返して一ノ瀬君のところまで戻ると、はい、と声をかけてケースを彼に手渡す。
大きな掌がそれを丁寧な仕草で受け取ると、一ノ瀬君はふと腕時計にちらりと目を落としあぁそうだ、と口を開いた。
「丁度今からの時間で練習室を予約しているんですが、さんも一緒に来ますか?」
「え?」
「そこならCDを聞く機械も揃っていますし、落ち着いて曲も聞けますから。自室だと煩いのがいるので、落ち着いて聞いていられないんですよ」
「へぇ。うーん、そうだねぇ・・・じゃぁまぁ行こうかな。ピアノの練習もしたいし」
煩いの?と一瞬首を傾げるが、同室者のことなのだろう、と思いあたりそこは聞き流すことにして、しばしの逡巡の後にこくりと頷く。自室にキーボードはあるがピアノはないので、偶にはそこで指を動かすのもいいだろう。そういえば神宮寺君とは別に普通に授業の課題が出てるんだよね。テーマに沿ってBGMを作曲せよってやつ。
あれもやらないといけないんだった。なんか色々重なった上に神宮寺君の曲が天啓のように降ってきたからそっちにかかりっきりになっちゃったけど、現実問題そっちより自分の課題の方が重要じゃね?いやでも結構曲的にはいいのができたと思うけれども・・。なんてか、ノリは止められないよね。うん。
まぁ、この際だから少しは進めておかないとな。提出期限はまだもうちょっとあったし・・・。でもそう言ってるうちにやってくるこの不思議。やれるときにさくさくやっておかなければ。頭の中で計画を練りこみ、一ノ瀬君に促されるまま練習室まで向かうと、ピタリと一ノ瀬君が足を止めた。およ?
「どうしたの?一ノ瀬君」
「誰かが部屋にいるようですね。もう時間的には人はいないはずなのですが」
「ふぅん?」
まぁでも、偶々通りかかって人がいなかったからちょっと使っちゃいましたー、って人もいるしねえ。そう思いながら、溜息を吐いてやや面倒そうに教室のドアに手をかけた一ノ瀬君が開けたドアを後ろから見ていれば、一ノ瀬君は部屋に入ることもなく入口で立ち止まった。うん?
「こんなところで何をしているんですか―――レン」
少し強張ったような、意外そうな、僅かに驚きを孕んだ声音で一ノ瀬君が中にいる人物を呼ぶ。その名前にえ、とばかりに彼の後ろで私は目を見開いた。え?なに?神宮寺君が中にいるの?えぇ、うっそ意外だな。まずこんなところに現状寄り付きそうもない人物に、中の様子が知りたいと思ったがまるで壁のように前に立ち塞がる一ノ瀬君のせいでちっとも中が見えやしない。一ノ瀬君、背が高い上に肩幅もそれなりにある方だから、前に立たれるとずれないと前が見えないんだよね。
今回は入口を塞がれているので、ずれたところで中を伺うことはできず、声でしか判断はつかなかったが、中からふっと笑い含みで返ってきたそれは確かに神宮寺君のものだった。
「やぁイッチー。今から練習かい?ご苦労なことだね」
「そういう君は何をしているんです?今まで散々近づかなかった場所ではないですか」
「なぁに、ちょっとドアが開いていたから覗いてみただけよ。すぐに出ていくさ」
「えぇ、そうしてください。今から私たちが使いますので」
「・・・私たち?」
語尾を上げた神宮寺君の声に合わせるように、一ノ瀬君が僅かに体を横にずらす。同時に半分ほどしか開けていなかったドアを全開にすると、そこでようやく私の視界は開けたように室内の様子が見えるようになった。一ノ瀬君マジただの壁。
そこで、物凄く驚いたように目を見張る神宮寺君が中に立っている様子が見えたが、そこまで目を見開かれる理由がわからない。・・・まぁ、会うのは久しぶりだけれども。
「どうして、レディが・・・」
「今から彼女が作った曲を聴くところなんですよ」
「・・・なんだって?」
さらりと答えた一ノ瀬君に、神宮寺君が眉間に皺を寄せる。そのままやや険しい顔つきをした神宮寺君を、一ノ瀬君はいつものように無関心そうな涼しげな顔で一瞥し、こちらを振り返った。
「さん、レンがいますけど何か話すことはありますか?」
「え?!・・・いや、そんな突然言われても・・」
別に何もないですけど?あ、でも曲聞いた?ぐらいは聞くべきかな?いきなり話題を振られてしどろもどろになりつつ、ちらちらと神宮寺君を見やる。なんでかあの人顔怖いんですけど。いつものへらへら顔はどこいった?!
「イッチーは、何が言いたいんだい?」
「別に何も。君がどうしようが私には関係ありませんから。ライバルが減ることは望ましいことですしね。あぁそうだ。彼女の曲、私が歌うことになるかもしれませんので、一応それだけは断っておきますよ」
「・・・っ。どういう、つもりなのかな、イッチー?」
「言葉通りです。君が不要というのなら、私が貰うまでです。まぁ、まだ曲を聴いてはいませんがね」
そういって、ふっと鼻を鳴らして僅かに首を傾げた一ノ瀬君を神宮寺君は苦々しげな顔で見やり、次に私に視線を移すと、やっぱり眉間にぐっと皺を寄せた。非常に余裕がないようです。そしてなんだろう、このやり取り。・・・一ノ瀬君、神宮寺君を挑発してる?相対する二人の何やら物々しい空気に一人居た堪れなさを覚えていると、神宮寺君は私を見つめて、何か傷ついたように顔を顰めた。口元が半端に持ち上がって、泣きたいのか笑いたいのか、よくわからない顔になっている。
「あの曲は、俺のために作った曲じゃなかったのかい?レディ」
「そうだけど、神宮寺君、歌う気ないんでしょ?」
「それはっ、」
「その様子だと曲は聞いてくれたのかな?まぁ、神宮寺君がどう思ったかは知らないけど・・・前も言ったけど、結論を出すのは君だからね?私は、曲を作って渡すことはできるけど、歌わせるような強制権なんて持ってないから」
しいて私が持ってる権利といえば、作った曲を他の人にも提供できるってことぐらいかなぁ?まぁ一ノ瀬君が気に入ってくれるかどうかはわからないので、それも未定なわけですが。言葉に詰まり、迷うようにきゅっと眉間を寄せて視線を逸らした神宮寺君を見つめて、私は少しばかり戸惑ったように一ノ瀬君をみた。
・・・結局、神宮寺君がどうしたいかがわからないままなんだが、これこのままでいいの?私もっとなんか言った方がいい?でも言えば言うだけ突き放しちゃう気がするんだけど・・・多感な時期にいいのかしらね?
てか、一ノ瀬君もなにかフォローしたらどうなんだ。挑発行為ばっかりじゃなくてさぁ。神宮寺君焚き付けるのもいいけども、ちゃんと後処理はしとかないと後々の友情に罅が入りますよ?
「そういうことです、レン。いい加減覚悟を決めたらどうですか?決まらないのなら、彼女のことも、私のことも、とやかく言う権利などありませんよ。あと邪魔です。時間は有限なんです。もう用がないならさっさと出て行ってください」
「一ノ瀬君、後半が本音すぎる。確かにわかりやすくここの時間は有限だけども」
もうちょっとオブラートに包んで言ってあげようよ。邪険にしすぎるとさすがに可哀そうになってくるんだが。え?私が言うなって?仕方ないよ、神宮寺君だもの。
「あの曲を、イッチーが歌えるとは思わないけどね」
「そうかもしれませんね。彼女の曲は、時に凄まじい世界感を作り上げる。―――歌うのが恐ろしくなるぐらいに」
「・・・失礼するよ」
囁くように。僅かに畏れを滲ませて呟いた一ノ瀬君に、神宮寺君は何か喉につかえたような変な間をあけて、ふっと視線を逸らした。ちょっと一ノ瀬君それ過剰表現じゃね?と思っている私を置いてけぼりに、神宮寺君は言葉少なに私と一ノ瀬君の間を抜けて練習室から出ると、私の横で立ち止まりふとこちらを見ろしてきた。その目を無言で見返せば、彼は何か物言いたげに唇を僅かに開き、けれど結局何も言わないまま、優雅なターンでこちらに背を向けた。
取り繕っているようだが、らしからぬ逃げるような足早な退出に、なんだかなぁ、と思いながら素知らぬ様子でさっさと練習室に入ってしまった一ノ瀬君に視線を向ける。
機材の前に立ってCDをケースから取り出している一ノ瀬君に、私は入口のドアにもたれかかりながら、あのさぁ、と口を開いた。
「一ノ瀬君って、結構いじめっ子?」
「はっきりしないレンが悪いんですよ。さぁ早くドアを閉めてください。曲を流しますよ」
「はいはい。・・・まぁでも、発破かける辺りは、お人よしなのかもね」
「なんのことかわかりませんね」
そういって、しれっとしながらスピーカーのスイッチをいれる一ノ瀬君に、素直じゃないのか捻くれているのか、難しいお年頃ね、と私は肩を竦めた。
さて、一ノ瀬君がここまでしてくれたわけだが、神宮寺君は一体どう出るんだろうなぁ。
「悩めよ、若人。・・・って、ところかな」
流れてきた曲に、真剣に聞き入る一ノ瀬君の整った顔を眺めて呟いた一言は、全く一ノ瀬君の耳には届いていなかったようなので、ただただ空しく、教室の壁に吸い込まれていったのだった。