雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲



 出入り口を開けた瞬間にむわっと全身を襲う湿気と熱気に、自然と顔を顰めながら楽器の間を縫って窓まで向かう。閉められている鍵をあけて窓を開けると、それだけでなんだか少しマシになったように感じられる。まぁ実際は風もない状態なので、あまり変わっているわけではないのが、空気の動きができるだけでも大分違うものだ。そうやって教室全ての窓を開け放ち、空気の入れ替えと教室内の気温の低下を目論みながら、鞄からタオルを取り出して額や鼻の頭、首筋に浮かんだ汗を拭きとり少しばかりすっきりとした心地を味わう。汗を拭いたタオルを鞄に戻し、更に中から制汗スプレーを取り出してカシャカシャと上下に振りながら自分の体に吹き付けて一瞬の冷気にふぅ、と息を吐き出した。
 汗臭い体がフローラルになった気がして気持ちいい。窓の傍で行っているので制汗スプレーの匂いも籠らないので、教室の中は多少の残り香だけでそれもすぐに消えるだろう。そうして軽く自分を身綺麗にすると、鞄の中から書きかけの五線譜、音楽プレイヤー、筆記用具を取り出してぐるりと教室を見渡した。
 課題のBGM作成に、この楽器教室の生音源を利用したいと思っているのだ。ふふん。通常生徒が使う楽器教室などはやはりそれなりに人の往来が多く、使用中の楽器もあったり長時間籠って作業を行うことはできない。公共の物なのだから当然だが、この廃れた楽器室ならばその心配はほぼないといってもいい。
 なんてたって人が来ないのだ。そもそも存在していることすら認知されているのかどうかも怪しいのだから、人の行き来がないなんてことは当たり前である。私だけの秘密の場所、なんてこっ恥ずかしいことは言わないが、それに近い優越感は少なからず存在した。他に知る人はいるだろうが、この際そんなことはどうでもいい。要は人が少なくて貸切にできる時間があって、ここに籠って作業ができればそれでいいのだ。

「そう思えば神宮寺君様様だな」

 彼が如何にしてこの教室の存在を知ったのかは不明だが、彼がここを選ばなければ私が知ることはほぼなかっただろう。せいぜいいかがわしいことをしている現場に遭遇しないことを切に祈るばかりだが、さすがにそんな漫画や小説のような出来事をリアルでやらかすような人間ではないと思いたい。
 さておき、私は豊富に存在する楽器を目を輝かせて見やりながら、どの楽器が一番テーマに合うだろうか、と想像を膨らませて吐息を零した。正直どの楽器も好きなだけ好きなように触れるのは有難い上にちょっと楽しい。
 とりあえずいくつか候補を絞っていくのが一番だよね。にや、と緩む口元もそのままにまずは、と手を伸ばして、私は脳内で流れるテーマ、基、映像に合わせるように、楽器を爪弾いた。





 一体、どれぐらい楽器を掻き鳴らしていただろうか。イメージに沿う楽器を選び、音を奏で、曲調を作る。真っ直ぐに伸びた五線譜の上におたまじゃくしとも言われる音符を並べていきながら、時に手を止めて、時に止めることもなく進めて。試行錯誤を繰り返して繰り返して、自分なりにピッタリだ!と確信できるそれができ始めた頃には、すでに時間のことなど忘れていたし、意識もしていなかった。日照時間の長さも、時間間隔を狂わせる一つの要因だったのだろう。遅くともまだ明るい外の様子に、まだ大丈夫、まだいける、と思い込みの末かなりの時間が経っていることはままあることだ。
 初夏の暑さも忘れて没頭していると、熱中症の心配はあるがそこはそれ。ちゃんと水分は取っていますので。ついでに言えば休憩を挟んでいないわけでもないので、ちゃんと自分の体調ぐらいは把握している。まぁしかし、そろそろ潮時かもしれない。楽譜に走らせたシャーペンの動きを止めて、ころりと転がすと丸めた背筋を伸ばすように両腕を天井に向けて突き上げた。ばきばき、と骨が鳴ったような気がしたが、伸びていく背骨と筋肉の心地よさには逆らえない。
 ぐっと背伸びをした後にだらりと肩の力を抜いて脱力し、椅子に背を預けた。
 必然的にずっと向いていた下から視線は上へと上がり、真正面を視界に捉えることになるのだが、私はパチパチ、と数度瞬きを繰り返して、こてり、と小首を傾げた。

「いつからそこにいたの?」
「そうだね、レディが二胡を弾きだした頃かな?」
「なんだ、途中からだったんだ」

 まぁそりゃ最初からいればさすがに気づくか。ついでに言えば、最初から見ていたとしてどれぐらいの時間が経っているのかは知らないが、どんだけ気が長いんだっていう。気付かれるのを待つぐらいなら声をかけろ。声をかけ辛くとも声をかけてください。見てる方も飽きるだろうが、見られてる方も気まずいよ。

「レディは二胡も弾けるんだね。それも昔取った杵柄、というやつかい?」
「まぁ、そんなところ」

 室町時代の経験ですけど何か?うん。やっぱり忍術学園はハイスペック人間育成学校だ。器用貧乏ともいうけれども、こなせる人はガチでこなせるからなぁ。
 いやぁ、きりちゃんとかはお金が絡めばマジもんのハイスペック人間だったし。あれこそなんでもこなせるスーパーアルバイター・・・じゃなくて忍者ね、忍者。懐かしい。でもハイスペックというならば平安後期の台所事情で現代料理を再現してきた有川さんところの譲君も大概ハイスペックだった。まぁ、天才肌という意味ならその兄たる将臣もそうだが・・・あれ有川兄弟なんというハイスペックイケメンなの。・・・いや、よくよく考えればほぼ全員ハイスペックか。乙女ゲームだしね、と究極の結論に行き当たりながら、ならば、神宮寺君もそれっぽいからハイスペック人間なのかなぁ、と首を傾げた。この世界、色々あれなので実は私が知らないだけでそういう世界なんじゃないか、とか思ってるんだよね。実は密かに。ひっそりと。まぁ、主な原因聞き覚えのありまくる声のせいでもありますが。
 頭のてっぺんからつま先まで、しげしげと眺めまわして、まぁほぼ確実にこいつもハイスペック人間には違いないだろう、と独断と偏見で決めつけた。だってそれっぽい。

「笛も吹けて二胡も弾ける。思いのほか多才なんだね、レディ」
「器用貧乏って奴ですよ。どれもそれなりなだけで、極めてるわけじゃないし」
「それなりにできれば十分じゃないかな。別に演奏家として生きていくわけでもあるまいし」
「確かに」

 くすりと笑う神宮寺君にこっくりと同意をして、そうだよなぁ、とちらりと立てかけてある二胡を見やった。極める必要は別にないもんなぁ。嗜む程度にできれば今のところ困ることでもないわけで。少々覚えがあるから、こうやって生の音で作曲に生かすことができるわけで・・・おっと。

「そうだそうだ、楽器の持ち出し許可貰わないと」
「持ち出し?」

 ぽくん、と掌を拳で打って今思い出した、とばかりのアクションを取ると、神宮寺君はきょとん、と目を丸くした。僅かに斜めになった頬を、さらさらと髪が滑って輪郭を縁取る。

「ここじゃ録音できないからね。使う楽器も決まったから、あとはレコーディング室で音取らないと」
「・・・それは、イッチーのために?」
「え?いや違うよ。これはただの宿題。BGM作曲のね、課題が出てて。偶には生の音をいれるのもいいかなぁって思っただけ」

 まぁさすがに全部が全部とまではいかないが、要所要所取り入れるだけでも雰囲気は変わってくるものだ。言いながら、ばたばたと筆記具を片付けて、五線譜をファイルに挟み鞄の中に仕舞い込む。楽器もとりあえず所定の位置に戻さないとな、と思いながら、くるりと神宮寺君を振り返った。

「それでさ、こう見えて私も結構忙しいから、何か言いたいことがあるなら早めに言ってね」

 というか、言いたいことがあるからここに来たんでしょう?苦笑とも微笑みともつかない曖昧な態度は、物を言い出せずにいる子供に向けるそれとしては及第点と言えただろう。一呼吸、息を詰めた神宮寺君が体の横でぐっと拳を握り、すぐにそれに気づいたかのように握り拳を解くと、困ったような情けないような、眉を八の字にして首筋を撫でた。

「レディは、厳しいよね」
「そうかな?でもこれぐらいで厳しいって言ってたら、この先はやってけないよ」
「そうか。・・そうだね。俺は、結構甘やかされていたみたいだ」

 そういって、くすり、と笑った彼は思いのほか穏やかな顔をしていた。青色の瞳は、何かしらを知ったかのように、不意に強く煌めいて真っ直ぐだ。まぁそれでも、まるで不安を表すかのように、ゆらゆらと揺れているところは、まだまだ未熟、といったところだろうか。私は鞄を肩に担ぎ、あえて時間はないですよ、というのを演出しながら、真っ直ぐに神宮寺君を見つめる。

「君はね、周りの人間に恵まれてることを自覚すべきだよ」
「お節介な連中が多いだけさ。レディに気にかけてもらえるのは嬉しいけどね」

 よく言うもんだ。肩を竦めて憎まれ口を叩く神宮寺君に、そのお節介にどんだけ背中を押されてきたんだか、と思いつつも、これも一つの虚勢だとわかったので苦笑だけを返した。

「お節介焼いてくれるうちが花だよ」
「レディなら大歓迎なんだけどね。間違っても、聖川のお節介だけは心の底から遠慮するよ」
「そう?君がより君らしく感情的になれるのは、聖川君の前でぐらいだと思うけど」

 いやまぁ、巻き込まれる側としてはもっと大人になれよとも言いたいんだけど、まだ未成年の癖にレディだの仔羊ちゃんだの言ってるよりは、ツンケンしながら嫌味の応酬してる方が年相応だと思うけどね。しいて言うなら、諍いに他人を、主に私を巻き込まないでほしいんだが。八つ当たりは勘弁ね。
 にこやかに言えば、先ほどまでの飄々とした笑みを消して苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を神宮寺君は浮かべた。寒気がするよ、なんて嘯いて、ぶるりと腕を摩るフリまでするのは多少過剰な気もしたが、まぁ、やっぱり聖川君に対してこういう態度を取る辺り、年相応というものなのだろう。私の微笑ましげな視線に気が付いたのか、神宮寺君は少々居心地が悪そうに視線を逸らして、しばしの沈黙を落とした。
 カチコチ、と秒針の音が刹那教室に響くと、しばらくしてから躊躇いがちに、彼の唇が震えた。

「ねぇレディ」
「うん?」
「まだ、間に合うかい?」
「何に?」

 これは意地悪だったかな。そう思いつつも、私の問い返しに神宮寺君はむっと眉を寄せて、言い難そうに一瞬口をもごもごと動かす。私は、すっと壁掛け時計に視線を向けて、唇だけで音を作った。あと一分。
 神宮寺君は、そんな私に唇を尖らせて、拗ねたように呟いた。

「皆まで言わせるなんて、酷いレディだ」
「さて、なんのことやら」

 わざとらしい。そう自分でもわかっていながら、少し楽しんでいるのは事実だった。いやーこの普段飄々としている相手をやり込める爽快感は中々味わえないよねぇ!眉間に一本皺を刻んで、軽くねめつけるようにこちらを半目で見やった神宮寺君に、軽く口角を上げて見つめ返す。こちとら腹黒い軍師様やら水軍頭領に絡まれ遊ばれ果ては時代の裏を暗躍する日陰者な人生を歩んできた中身ウン十歳の外見詐欺師なんですよ。例え財閥御曹司と言えども、早々簡単に主導権は譲りませんとも。
 まぁだけども?あんまり意地悪くやり込めるのもなんですから?多少はね、歩みよりますよ。

「ねえ、神宮寺君」

 呼びかけに、びくりと彼の肩が震える。

「・・なんだい?」

 僅かに引き攣る喉から、零れたものは、虚勢か懇願か。

「私はね、曲を作って、待ってるだけ。どうしたいのかは、君が選んで決めることだよ」

 唇が笑みを形作る。ねぇ私、ずぅっと、そう言ってきたよ。

「君は、どうしたいの?」

 後、二十秒。見つめ合った青い瞳は、多分この時一番、真っ直ぐに私を見返していた。息を呑んだ神宮寺君は、きゅっと唇を引き結ぶ。真一文字に結ばれた唇が、やがて解けて、息を小さく吸う動きまで粒さに見えた。薄い唇が、小さく小さく、戦慄いて。

「俺は――」

 言葉が詰まる。一瞬、ひくりと喉が震えて、まるで叱られる前の子供のように不安げに。揺れた瞳が、ゆっくりと薄い瞼の下に消えて。時間にしてみればほんの数秒、いやそれにも満たないかもしれない。けれどもしかしたら、彼にしてみればそれはとても長い時間だったのかもしれない。どう感じたのか、私に知るすべはないのだけれど、開いた瞼の下、見えた眼差しは覚悟を決めた人間の目をしていた。

「俺は、君の曲を、歌いたい。・・・今更かもしれないけれど、レディ。君の曲を、俺に歌わせてくれないか」

 たった、一言だった。たった、それだけの言葉を、告げるのに。たくさん、遠回りをしてきたのだろうな、とふと思った。それは私にしてみればくだらないと言えるような、青春だね若者よ、と微笑ましく思うような拙いものだったのだろう。
 それでもきっと、そのたった一言が言えなくて。その、たった一言を言うための気持ちもわからなくて。ぐるぐるぐるぐる、悩んで、背を向けて、目を逸らして、時々振り返って。そうやって、やっと彼は、決めたのだろうな、と思ったから。

「いいんだね?」

 最後の確認。別に、嫌だな、とか無理だ、と思えば、簡単に辞めることはできるとは思うけれど。無理して、続ける必要はないんだと思うけど。
 それでも、「続ける」ことを決めて、「目指す」ことを覚悟した彼は、これから先、投げ出すことはしないのだろうと思ったから、多分これが、最後の確認になる気がした。これで決めてしまえば、彼は多分、この道を進むほかないのだろうと、そう思う。投げ出すことも、逃げ出すこともできないに違いない。したっていいのに、多分、しようとしない程度には、彼は強いのだと思うから。ただ、それを覚悟するまでがちょっとばかし長かっただけで。問いかけに、神宮寺君はふっと笑みを浮かべた。何かを吹っ切った、晴れやかな笑みだった。

「男に二言はないよ。俺は、この道を進む。誰に言われたわけでもない、俺自身が決めたことだから」

 口角を持ち上げて、自信満々に。胸を張る神宮寺君は、その瞬間、確かに。
 「格好いい」と、思えた瞬間だった。いやまぁ、それまで情けないところ結構見てきましたけどね。うん。ならば、もう何もいうまい。これは、彼が下した決断なのだから。私は、彼の決意を受け止めてこくりと一つ頷いた。

「わかった。じゃぁ、一緒に頑張ろうか」

 カチコチと時計の秒針はひたすらに進んでいく。タイムリミットなんで、まるでなかったかのように。私は、一歩神宮寺君に近づくと、すっと手を伸ばした。
 神宮寺君はその手を見下ろして、少しばかり不思議そうに目を瞬かせる。けれどすぐに意図を理解したのか、僅かに照れたように目を伏せて、それからくっと口角を持ち上げると、次の瞬間にはいつも通りの強かな笑みを浮かべて、ゆっくりとその手を重ねてきた。大きな手が、私の手に重なり、しっかりと握られて。私も、彼の手を握り返すように力を込めて、二度三度、軽く手を上下させた。

「よろしくね、神宮寺君」
「あぁ。・・・よろしく、レディ」

 どこか晴れやかに。いつも通りに甘く不敵に。笑みを浮かべて背筋を伸ばす神宮寺君は、今後一層、周りの女子が放っておかないのだろうなぁ、と思わせるほどにキラキラと輝いて見えた。
 とはいっても、ようやくのスタートラインに立ったばかりだ。遅れは目一杯あるのだから、とりあえず今後放課後に自由な時間はないと思えよ?神宮寺君。

「無関係の人間巻き込んだんだから、それぐらいの対価は払ってね」
「しょうがないね。レディのために、本気を見せるよ」

 パチン、と飛ばしたウインクに、いや、自分のために出してやってよ、とウインクを弾き飛ばすかのように、ひらひらと手を振った。