雨上がりの虹に永遠を願った、6月の間奏曲



 まるで、幼い子供が無邪気に口にするような、「大好き」だった。
 まるで、大人が万感の思いを込めて口にするような、「愛してる」だった。
 まるで、罪を犯した人が懺悔するような、「ごめんなさい」だった。
 まるで、聖人がこの世の全てに感謝するような、「ありがとう」だった。





 どうせ届きはしないのに。巻き戻せやしないのに。
 それでも届かせようと足掻く、その歌を。
 自分が、表現できるだけの愛を、拙く、不器用に、僅かばかりの照れと、限りない自信で、精一杯。心を籠めて。想いを籠めて。愛を、籠めて。
 歌い上げる、その姿は、人を魅了するに余りある、天性の姿であるのだろう。あぁ、なるほど。ブースから聞こえてくる、彼本来の味であろうスマートな歌い方は為りを潜め、不器用な愛を詩にして、メロディに乗せる、そのちょっとばかり不恰好な姿に、納得をした。今まで、学園側が引き止めるから、彼はすごい歌い手なのだろうと思っていた。学園が惜しむぐらいだから、才能に溢れた逸材なのだろうと。間違いじゃなかった。それは事実だった。わかりきっていたことだった。だけど、きっとわかってなかった。
 聞こえてくる甘やかな声。低く腰に響くような低音。音は時々ズレそうになっても、それを補って余りある表現力。だけどどれも、肉欲の絡む淫靡さはなく、少し大人になった少年が、気恥ずかしそうに、大切な人に向けて語っている微笑ましさを滲ませて。
 愛してるなんて簡単に言えない、不器用さ。大好き、も告げられない捻くれ者。ごめんなさいを言うには意地っ張りすぎて、ありがとうを言うには照れくさくてそっぽを向く。
 純粋に、年相応に、それでもそこに確かな愛情を注ぐ、その健気とも言える姿をみて、絆されない人間っているのだろうか。神宮寺パパとママ、長生きしてればこんな風に息子から最高のプレゼントを貰える機会もあっただろうに、真にご愁傷様である。
 惜しいことをしたと、天国で悔しがればいいのだ。こんなにも健気で愛らしい息子の姿を見れずに死んでしまったことを、心の底から悔いればいいのだ。
 そう、思わせるほどに。神宮寺君の歌は、ブース内だけでない、レコーディング室中に響いて、きっと、そう。天にも、届くのだろうと。そう思う。天使の歌声というほどそんな清楚でも清らかでも澄んでもないけど、天使にも劣らない歌声なのは確かだ。あぁ、神宮寺君。君は確かに、ここを去るには惜しい人材なんだね。

「あいつが、こんな歌い方をするなんて」

 マイクに向かってこれでもかとハートをぶつける神宮寺君に、これなら行けるんじゃね?と思いながらもう傍にいない人に想いを馳せていると、茫然としたように日向先生が呟く声が耳に届いた。振り返れば、ポカンと目を丸くしている顔が目に入り、再び神宮寺君に視線を戻す。その時、丁度ブース内の神宮寺君と目が合い、茶目っ気たっぷりにウインクをこちらに飛ばしてきた。そういうのいいから真面目に歌え。・・・まぁ、結構思いっきり歌ってて気持ちがいいのかもしれないけど、とりあえずひらーと手を振って返事を返していると、まいったな、と再び日向先生が唸った。

「まさかこんな曲で来るとは思ってなかったな。よくまぁ、これをあいつに歌わせようだなんて考えたな、お前」
「リクエストが情熱的な愛の歌だったので。私の中で、一番情熱的な愛はこれなんです。激しいでしょう?」

 呆れたように目を半眼にして、こちらを見下ろす日向先生に、先ほどの神宮寺君を真似て茶目っ気を出すようにウインクを飛ばしてみた。・・・うん。あんまり自分には似合わない仕草だった。日向先生は微妙な顔をして、ぽす、と頭に手を置く。おぉい、その私がすごい痛い行動をしたかのような態度はやめてくれないか。そりゃ神宮寺君ほど華麗にウインクはできませんけれども、そこまで痛々しい行為ではなかったと思うんですけど!?
 釈然としないものを感じつつ、日向先生の驚きも一理ある、と一人頷いた。
 彼の持ち味を生かすのなら、雰囲気や仕草、性格行動に見合った曲が一番であることは間違いない。曲調はラテン、ジャズ、中の人的なそれで某テニスの氷の帝王様のあれそれとか。あの声で、仕草で、歌い方で、恋の歌でもエロティックに歌わせたら完璧だろう。そういう点では、私の曲は彼に歌わせる曲としては邪道なのかもしれない。実際、彼自身も初めての試みのようであったし。でもまぁ、歌えてるし、悪くないし、これはこれで新たな境地としていいんじゃないか。歌える曲に幅があるのは悪いことじゃないんだしさ。

「・・・激しすぎて、痛いぐらいだ」
「え?」
「なんでもねぇよ。つくづく、お前は人の予想の斜め上を行きやがる」

 ぽつん、と呟いた声は上手く聞き取れず聞き返すが、日向先生は頭に置いた手でぐしゃぐしゃ、と乱暴に撫でるとそういって笑みを浮かべて見せた。・・これは一応、好感触?なのかな?と、そう思いつつ、そういえば観客の反応はどうなのだろう、と後ろを振り向いた。思えば自分の曲を教師とパートナー以外に聴かせたことなどほとんどない。あとはせいぜい授業中のクラスメイトか。メインは神宮寺君といえど、曲を作った人間としては反応が気になるのは最早性というもの。悪くないといいなぁ、と思いつつ日向先生の反応がこれなんだから、案外こっちもいい反応なんじゃ・・・と思って壁際に並ぶ彼らを視界に収めた瞬間、私はぎょっと目を見開いて瞬時に前に向き直った。
 慌てて前を向いた私を訝しげに日向先生が見て、後ろを振り返ろうとしたのでがっし、と腕を掴んで振り向かせまいと行動を制止する。

「おい、?なんだ、どうした?」
「なんでもないですどうもしないんですそろそろ曲も終わりますから先生は神宮寺君だけを!見つめていてください!」
「その言い方は止めろ、オイ」

 苦虫を噛み潰したように嫌そうな顔をする日向先生は、それでもとりあえず振り返らせたくない気持ちを察してくれたのか、溜息を吐いて神宮寺君に視線を戻した。それにほっと胸を撫で下ろして、私はもう一度振り返りたい衝動を抑えて前を向き続ける。あぁ、なんでなんだ・・・!

「何故泣くんだ、一十木君・・・!」

 ぼそり、と呟いて、苦い顔をする。よもや泣いているとは思わなかった。しかもよりにもよって彼の泣き顔だなんて、予想外すぎる。いつも快活に、周囲を明るくするように笑顔を振りまく爽やか少年たる一十木君が、言葉もなく、無表情に。目から涙だけを流すだなんて、そんな光景があるとは思いもよらなかった。
 そりゃ、曲を聴いて涙することは確かにあるだろう。それは感動だったり、共感だったり、哀切だったり。だがしかしだ。よもやこの状況で泣かれるとは思わなかった。まぁ感性は人それぞれだから、泣くことはままあるとしても、だ。しかも恐らくあれは、自分が泣いていることにも気が付いていないに違いない。驚きすぎて咄嗟に見ていないフリしちゃったじゃないか。だってあの一十木君だよ?泣くにしてもあんな泣き方をするようなタイプに見えないのに、あの泣き方はない。なんかこう、傷に触れたみたいに切なくなるような泣き方じゃないか。
 てか、私が見るような光景じゃない。多分その横にいた七海さん辺りが目撃して甘酸っぱいやり取りをするんじゃないかと思うような光景だ。ごめん一十木君。誰しも心に傷は持っているものとはいえ、よりにもよって私が目撃することになろうとは。
 ・・・笑顔の裏に辛い過去持ちとかそういうのはあんまりない方がいいんですけど。そんな辛い過去、ない方がいいに決まっている。いや、フラグとかじゃなくて真っ当に考えてだ。誰だって辛くて悲しい過去なんてない方がいいに決まっている。とはいえ、見たからと言ってそのまま触れるわけにはいかない。見ないフリをしたのだから、このままなかったことにしておこうそうしよう。
 一瞬神宮寺君のことが吹っ飛ぶぐらいの衝撃映像だったが、曲も終わりになると盛り上がりも最高潮だ。最後の一音まで震えるように消えて、曲が終わりを告げる。
 最後まできっちり終わったことを確認して、曲の停止ボタンを押してCDを取り出す。神宮寺君は肩で息をするように僅かに上下させていて、余韻に浸るように目を閉じていた。

「すごい・・・神宮寺さん、こんな歌い方もできるんだ・・・」

 後ろで、七海さんがぽつりと呟く声が聞こえた。彼のイメージからは確かに遠いだろうから、意外に思うのも当然だろう。まぁ、私は練習で何度も聞いているので今更ではあったが、本番と練習ではこれほど違うのかとも思った。あるいは、観客がいることといないことでの違いなのかもしれない。
 CDをケースに仕舞いながら、ヘッドフォンを外した神宮寺君がこちらを振り向いた。目が合うと、とりあえず親指を立ててみる。ついでに口角もあげて、得意気な笑顔も浮かべてみせると、彼はちょっと目を見開いて、それからふっと口元を持ち上げて、親指を立て返してきた。
 そのままブースから出てきた神宮寺君に、まるで歌の呪縛が解けたかのように静まり返っていた室内が活気を取り戻した。私が寄る前に、わぁ、と一十木君たちが神宮寺君に駆け寄っていく。・・・うん?一十木君、平気なの?
 思わず神宮寺君ではなく一十木君を見るものの、多少目元が濡れているような気はしたが、涙は綺麗に拭き取られていた。・・・途中で気が付いて拭いたのかな?

「すっげぇよレン!なんていうか、こう、胸がぎゅーっってなるっていうか、でもなんかちょっとほっとするっていうか、お前こんな歌も歌えたんだな!」
「うんうん。すごいよレン!ほんとに、本当に・・・すごかったっ」
「レン君とってもかっこよかったです!レン君の伝えたい気持ちが、燃えるお星さまみたいに熱くて、きらきらしてて、こんな歌、初めてですっ」

 テンションも高く、顔を真っ赤にしながら神宮寺君の周りで口々に興奮を語る彼らの内容は、正直重なり合って誰が何を言っているのやらよくわからない。
 あぁ、土井先生がいればこれぐらいの人数の聞き取りなど容易く行ってくれるだろうに。なにせ十一人分の聞き取りができる神様の耳だ。彼の聖徳太子でさえ五人がせいぜいだというのに、いやあの技能は本当に羨ましい限りだ。 
 少しばかし、いや大分、昔のことを思い返しながら僅かに目を眇めれば、不意に視線を感じて賑やかしい集団からわずかに目を逸らす。
 視線を動かせば、神宮寺君を囲む彼らの中から、何故か七海さんがこちらを見ていた。・・・?何故神宮寺君ではなく、こちらを見るのだろう。不思議に思い首を傾げれば、七海さんは一瞬躊躇うように金色の双眸を彷徨わせて、物言いたげに半開きになった唇を震わせ―――日向先生の声に、かき消された。

「神宮寺」

 その瞬間、レコーディング室の熱気が、緩やかに質を変えた。緩んでいたものが、ピン、と張りつめる瞬間の静かな緊張。騒がしかった声が、たったその一声だけで消えてしまうことに、その存在感の重みを知る。そこで私は七海さんからごく自然に視線を外し、日向先生と、神宮寺君の二人を視界に入れた。
 あぁ、審判の時か。微笑みを消して、日向先生を見据える神宮寺君の顔は、ついとみないほと真剣だ。真顔といってもいい。目の前に立つ、教師を見つめて、ふっと一瞬笑みを作るように口角を歪めると前を塞ぐ一十木君や四ノ宮君、来栖君をかき分けて、神宮寺君は日向先生の前に立った。・・・高身長な二人が向かい合って立つと、得も言えぬ迫力が生じる。イケメンだしなぁ、二人とも。とりあえずあの間に挟まれるのだけは嫌だなぁ、と考えていれば、日向先生は一つ、と口を開いた。

「まだまだ練習不足だな。歌い込みがたらねぇ。音程のズレもあったし、息が続かないところもあっただろ」
「気づかれちゃったか、さすが龍也さん」
「プロ舐めんなよ?ったく、日頃の練習サボってっからだ。たった数日やそこらでどうこうできるほど甘くねぇんだよ、くそガキ」
「耳に痛いねぇ」

 おぉ、手厳しい。眉間に皺をぐっと寄せて、三白眼で神宮寺君を睨みつける日向先生の眼光は鋭い。指摘された点はこちらとしても自覚のある部分なだけに耳が痛い。いやだって、実質歌に集中できた時間って五日もない状態だったし。最初の二日三日ぐらいはアレンジとかパート練習とか、そもそも神宮寺君の基礎練習に時間の半分ぐらいは費やしていたわけだし。実際フルでの歌い込みって、マジ三日もなかった気がする。歌い込みが足りないのはしょうがないよねー。むしろその短期間であれだけのものに仕上げた才能というべきか努力というべきか、まぁ頑張りは素直に賞賛に値する。恐らく、私との練習以外にも、彼はきちんと練習をしていたのだろうし。勿論、そんな努力を指摘されるのはきっとあまり好ましくはないだろうから言わないけど。のっけからの駄目だしに、周りの空気が重くなった。
 視線を巡らせると、青ざめた七海さんや渋谷さんの顔が見える。・・・んん?

「大体途中のこの高音の部分。声が出てないにもほどがある!確かにきついところだが、出してこそ意味があるところだろうが。あとここはもっとビブラート利かせてみせろ、そんなこともできねぇのか」

 ズケズケ言うなぁ。日頃はもうちょっとオブラートに包んだ言い方をするもんだが、今日の日向先生は鬼教師を心がけているのだろうか。口調もぞんざいだし、目線は見下し気味だ。神宮寺君の顔が苦笑を浮かべつつも、耐えるように僅かに眉間に皺が寄った。それでも、ぐっと口を閉ざして日向先生の嫌味とも取れそうな駄目だしを黙って聞いている。それはいっそ、周りの方が聞いていられないぐらいに、痛ましい光景だったのだろう。耐えきれないように、来栖君が一歩足を前に踏み出した。

「日向先生!そんな言い方ってっ」
「お前は黙ってろ。これはテストだ。第三者が割って入る余地はねぇ」
「・・っでも!レンの歌、すっごくよかったじゃないっすか!あんな、あんな歌他にないっ。先生だってそれは感じてたんじゃないんですか!?」
「来栖」

 叫ぶように必死に言い募る来栖君を、日向先生は酷く冷たい目で見下ろした。それは、我儘を言う子供を窘めるような、なんて生易しいものじゃない。ただ、邪魔をするなと、煩わしく思う冷たい目だ。低い声すらも、面倒だというのを隠しもしないで、少し強い語調で日向先生は吐き捨てた。

「二度、同じことを言わせるな」

 切り捨てるような堅い口調。普段の親しみやすさを削ぎ落としたような声音に、来栖君の喉が言葉を飲み込むように引き攣った。ごくりと、誰かの喉を鳴らす音が聞こえてくるような静寂に、ここに月宮先生がいればもうちょい空気も軽くなるのに、と眉を潜めた。重苦しい空気に、居た堪れないように溜息を吐き、あんまりこういうのは得意ではないんだが、と一人ごちた。

「では、今後は要改善、ということでよろしいですか?日向先生」

 後ろから、黙り込んでしまった周囲の空気を変えるように、わざとらしくいつもより少し明るめの声を出す。突然口を開いた私に集中する視線を感じながら、驚いたように目を見開く神宮寺君を視界に収めつつ、日向先生を見上げた。
 非難するわけじゃないけど、ここいらで収めておくのが一番角が立たなくていいと思うのだ。いや、こういう役目って基本的に月宮先生だと思うんだけど、今はいないし、周りは日向先生の雰囲気に呑まれちゃって言葉もないし。月宮先生って、マジムードメイカーだったんだな。あの常時ハイテンションの感じは、日向先生と並ぶと丁度いい塩梅になってたんだなぁ。しみじみとその存在のありがたみを感じつつ、でも今はいないんだよねぇ、と眉を下げた。ああいう、日向先生と対等のムードメイカーがいないのって、こういうとききっついわ。
 そして、その日向先生と対等のムードメイカーがいないというのならば、この気まずい空気に、嫌々ながらも一番年上(精神年齢的に)である自分が動くべきだろうか、と思わないでもないわけで。いやほら、正直、中身だけ言えば私日向先生含めこの中で一番年上じゃん?そうなるとさすがにちょっとはフォローに回らないと良心の呵責がチクチクと。あまり出張りたくはないのだが、と思いつつ口を挟めば、日向先生はこちらを振り返り、僅かに眉を潜めてからはぁ、と溜息を大きく吐き出した。

「・・・そうだな。言うべきことも駄目だしも注意点もまだまだあるが・・・それは今後の課題だな」
「まぁ、これから日々真面目にこなせば神宮寺君ならクリアできるでしょう。よかったね、神宮寺君。まだまだ伸び代あるってさ」

 しょうがねぇな、これぐらいで勘弁してやるか。・・・なんて、そんな台詞が聞こえてきそうな調子だ。鬼教師も楽じゃないね、日向先生。飄々としながらポカンと呆気にとられている神宮寺君までとことこと近づき、その腕をぽんと叩いて改めて日向先生を正面に横に並ぶ。日向先生は神宮寺君ではなく私を見下ろして、やっぱり眉間に皺を刻んだ。でも、瞳の険が取れているので、あまり怖いとは思わない。思わず、苦笑いのようにくすり、と笑みを浮かべてしまった。

「あんまり勿体ぶるものじゃないですよ、先生?皆怯えてます」
「そういう割に、お前は動じねぇんだな。一体どこからその肝の太さができるんだか・・・俺のガンつけも落ちたもんだ」
「いやー日向先生に睨まれるとやっぱり萎縮しちゃいますよ。先生背が高いから上から見下ろされて迫力倍増しですし」

 ただそれ以上に怖いものを体験しているだけなので、一般人からしてみれば十分怖いっす。というか、正直内心めっちゃドキドキだったりするんだよね!いやだってこれ、一歩読み間違えればとんだKYになってしまう瀬戸際だ。どうやら読み間違うことはなかったようなのでほっと一安心だが、本当にこういう空気悪くなる感じの運び方はやめて欲しい。和やかでいろとは言わないが、あんまり過度に威圧するのもどうなんだ。
 ほれ、神宮司君なんか、さっきと今のギャップについていけてないようにポカンとしているじゃないか。

「いや、それはお前のせいだろ」
「日向先生が勿体ぶるからですよ」

 私のせいもあるかもしれないが、私だけのせいではない。心外な、とばかりに眉をきゅっと寄せると、か細い声でレディ、と呼ばれた。ええ加減そのレディ呼びは止めてくれないだろうか。普通に恥ずかしい呼び方だと思うんだよね。かといって名前で呼ばれるのも彼の場合問題なのかなぁ。でも他に不特定多数の「レディ」がいた場合、自分なのかわからなくなりそうだ。まぁその場の雰囲気とか目線とかで判断するんだろうけど。そもそもそんな風に彼と接触することなど今後あまりないだろうから、ここは捨て置くべきか。
 さておき、頼りない声にはいはい、とばかりに視線を向ければ、情けないような疑うような信じられないような、疑心暗鬼にかられた双眸と重なった。さっきまでの自信どこいった神宮司君。

「レディ、今後って・・・」
「うん?今後は今後だけど・・あー・・えっと、日向先生」

 あれ、さっきの会話で意味通じなかった?・・と、いうわけではないのだろう、多分。単純に、状況に追いついていない、というところか。あるいはわかっていても、先ほどの日向先生の態度込みで俄かには信じがたい、と。まぁ結構ズケズケ言ってたからなぁ、先生。ちらり、と横目で日向先生を見れば、先生は一瞬意地の悪そうに口角を釣り上げたが、すぐに思い直したようにこほん、と咳払いをして、神宮寺君の注意を引きつけた。

「つまり、だ。・・・これから先は、ちゃんと真面目に授業を受けろってこった」
「・・・え、」
「日向先生。それって・・・」

 渋谷さんが、周りを代表するように問いかける。それに器用に片眉を動かして、しかたねぇなぁ、とばかりに苦笑を浮かべた日向先生は言葉を失くす神宮寺君に一旦視線を戻して、それからにやり、を口元を三日月型にした。

「神宮寺レン。今回のテスト、合格だ。退学の話はこれで白紙だな」

 日向先生が、はっきりとそう口にした一拍後、レコーディング室が、それはもう華やかな歓声に満たされた。

「やったああああ!!レン、やった、やったよ!合格だって!」
「よっしゃぁ!ハラハラさせやがって!このお騒がせ野郎!」
「よかったです、よかったですね、神宮寺さんっ」
「あぁ、もう春歌ったら。泣くんじゃないの!」
「これからも一緒にいられるんですね、レン君っ」
「日頃の行動がこんな事態を巻き起こすんだ。これに懲りたら今後不実な行いは行わないように・・・」
「もうマサってば、今はそんなこといーじゃん。レンがこれからも学校にいるってことを素直に喜んでさ!」
「ば、馬鹿を言え!別に俺はこいつがいなくとも」
「そんなこといって、一番心配してたのこいつなんだぜ?素直じゃねぇの」
「来栖!」

 顔を真っ赤にして怒鳴ってもあんまり迫力はないかなぁ、聖川君。わなわなと拳を笑いながら聖川君から逃げる一十木君と来栖君を皆が微笑ましそうに見守る中、神宮寺君に視線を向ける。今まで一言も口を開かなかった神宮寺君は、彼らを見つめて数度の瞬きのあと、きゅっと強く目を閉じた。まるで噛みしめるかのように数秒。日本人にしてはやや彫りの深い整った顔立ちが、協調されるような数秒の沈黙。彼の周りだけ、音が途切れたような静かな間は、強く閉じた目をゆっくりと開けて、青い双眸が見えたときに終わりを告げた。目が開いた瞬間の、穏やかな微笑みによって。まぁ次の瞬間には、物凄い意地の悪い顔になっていたんだが。

「へぇ、それはそれは。随分と心配してくれてたんだな、聖川?」
「なっばっ誰がお前なんかをっ」
「赤い顔じゃぁ説得力もないなぁ。ふふ、可愛いところもあるじゃないか」
「おっ前は・・・!大体だな、お前が普段から真面目に生活をしていればこのような騒動は起きなかったことをもっと自覚しろ!ほとんど無関係のまで巻き込んで、反省の色が全く見えないとはどういう了見だっ」

 全くである。いいからかいの対象を見つけたとばかりににやにやと笑いながら聖川君に絡むのはいいけれども、そこ、私にもっと感謝の意を向けなさい。
 もっとも、彼自身結構痛いところを突かれたと思ったのか、ぐっと言葉に詰まり苦々しげな顔をしたので、聖川君はいささかの溜飲を下げたかのようにふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。

「・・・レディへの件については、反省しているよ。お前に関しては一切してないけど」
「いい度胸だな、神宮寺。表へ出ろ。俺直々に引導を渡してやろう・・・!」
「わーわーわー!マサもレンも落ち着いて!折角合格したのにこんなところで喧嘩沙汰になったら台無しだよぉ!」

 一触即発な雰囲気に、慌てて一十木君が割って入る。案外空気を読む彼はこういうとき苦労するタイプなのかもしれないなぁ。・・・さておき、ケンカ云々は置いといてもそろそろ部屋から出る頃合いだろう。先生だって暇じゃないんだし、いつまでも学生同士の戯れを眺めさせているわけにもいくまい。
 というか私も色々と部屋に戻ってやることがあるわけで。そう思って声をかけようとした瞬間、パン、と乾いた手を叩く音が聞こえて、思わず視線をそちらに向ける。

「おら、お前ら。いつまでも騒いでないで、そろそろ動け。俺も暇じゃねぇんだぞ」
「す、すみませんっ」
「えーもうちょっと喜びを分かち合ってもいいじゃないですか、日向せんせー」
「余所でやれ、余所で。ここは談話室じゃねぇんだから」

 ぶぅ、と唇を尖らせる渋谷さんをすっぱり切り捨てつつ、日向先生がべし、と神宮寺君の背中を叩いてドアに親指を向けた。いたっ、と呻いた神宮寺君は一瞬恨めしそうに日向先生を見たが、すぐに肩を竦めてしょうがないね、と吐息を零した。
 渋々ながらレコーディング室の扉から外に出ていくカラフルな集団を見送りつつ、私はCDを仕舞ったケースを鞄の中に仕舞い込んで、よいしょ、と肩にかけた。
 あー本当、疲れたなぁ。これでようやくお役御免である。ぐるぐると腕を回しながら、解放感に人知れず安堵の息を吐いていると、ふと後ろに気配を感じて振り返った。

「あれ、神宮寺君。皆と一緒に出たんじゃないの?」
「レディと、まだちゃんと話してなかったからね。イッキ達がいると、レディは遠慮して近づいてこないから」
「あの勢いに割って入るのは大変だからねー」

 あれと同じテンションを維持できないので、必然的に一歩引いて眺める羽目になるのだ。しょうがない、と苦笑すると、神宮寺君も苦笑いをして、それからふと真面目な顔になった。微笑みが消えた真摯な眼差しが上から真っ直ぐに見下ろしてきて、私も自然と背筋を伸ばした。

「レディ。本当に、ありがとう。きっと、君の曲でなければ、俺は歌えてなかった。ここまで、真剣に歌と向き合うことはなかった。・・こんなにも、必死になることはなかったよ。まだまだこの曲の歌いこなせてはいないけどね。龍也さんにも散々駄目だしをされたし・・・この曲は、本当に、難しいね、レディ」

 そういって苦笑する神宮寺君に、私はそんなに難しい曲だったかな、と小首を傾げた。そんなことはないだろう。と、咄嗟にそう言いそうになったが、寸前で言葉を飲み込むと、私は目を眇める。私の曲でなくても、彼はきちんと向き合っただろうし、必死になって歌を歌い、結果を残しただろう。歌いこなせていない、というほど歌えていなかった印象もない。むしろ十分表現していたと思うし、彼なりの解釈で曲に躍動感が芽生えていた。でもそれは結局私の主観でしかなかったから、これは彼の本心であり、目に見える結果というもので、それを否定することは今日までの彼の努力を否定することに等しい。だから私は、うん、と一つ、頷いた。

「私も、今日初めて、神宮寺君はこの学校に必要な人間なんだなって、実感したよ」
「そう、かい?」
「うん。今までは正直周りが引き止めるからそうなんだろうなって思ってたけど。やっぱり、神宮寺君はアイドルになる為に生まれてきたような人なんだねぇ。すっごく、きらきらしてたよ。七海さん達がいて正解って思った」

 人の目があってこそ輝くような。人がいるからこそ、輝けるような。そんな存在である彼は、芸能人に向いているんだろうな。

「・・もしかして、レディが仔羊ちゃん達の同席を許したのって・・」
「言ったでしょ?君が日向先生から合格をもぎ取るには、彼らの存在が不可欠だって」

 そういう性質なら、それを最大限生かせる努力は惜しまないつもりだ。ここまでやっておいて受からなかったとかそれはそれで腹立たしいことなので。
 飄々として言えば、神宮寺君は一瞬ポカンと呆けて、それから感心したようにほう、と吐息を零した。

「思ったより、レディは俺のこと考えてくれていたんだね」
「いやまぁそりゃ、ここまで関わった相手が退学とか寝覚め悪いじゃん?」
「そこで、もっともらしく俺のためだとか言わないところがレディらしいよ」

 そういってくすくすと可笑しげに喉を鳴らした神宮寺君は、今までの緊張だとか不安だとか決意だとか、そういった諸々を払拭させたようなひどく軽い雰囲気を纏っていて、あぁ、やっと肩の力が抜けたのだな、と目を細めた。
 張っていた気が、今ここで、ふつんと糸を切ったかのように穏やかになっている。

「そろそろ出ようか、多分、皆入口で待ってるだろうし」
「そうだね、仔羊ちゃん達をあまり待たせるのも悪いし」
「そこで一十木君たちと言わないのが神宮寺君だなぁ」

 何事も女性優先ですか。いいですけどね、別に。けたけたと笑いながら、レコーディング室の出入り口に向かい、その扉に手をかける。いやはや、ようやく終わるのだな、と思えばこの出入り口が分かれ目のように思えた。
 まぁそこまで深くも重要でもないが、これほどのレベルの人間と組むのはまぁそうないだろうな、と思う。例外なんだよ、一ノ瀬君といい神宮寺君といい。

「これでお役御免だし、まぁこれからは真面目にパートナー探しをして、相手にこんな苦労かけないようにちゃんとするんだよ」
「・・・・え?」
「日向先生も容赦しないだろうし、しばらくは神宮寺君大変だろうね」

 多分、今までの課題とか山積みにされてるだろうし。合格してはい終わりよかったね、ですむほど人生甘くはないのである。後ろで何やら絶句しているような空気を感じたが、まぁ今後の苦労を偲んでいるのだろう、と思って気にもせずにドアを開けた。廊下の光に一瞬目を細めつつ外に出れば、やっと出てきた、という声と共に、増えている人に軽く目を見張る。・・・うん?

「あれ、一ノ瀬君?」
「お疲れ様です、さん。どうやら無事に終わったようですね」

 意外にも、一十木君たちに混ざってレコーディング室の前にいたのは一ノ瀬君だった。一十木君に絡まれて鬱陶しげに寄っていた眉が、こちらを見つけたのをこれ幸い、とばかりに僅かにその皺を解す。それから、一十木君をべりっと音がなる勢いで引き剥がしてこちらに寄ってくると、口角をくっと持ち上げて笑みを浮かべた。
 彼も神宮寺君を心配してきたクチなのだろうか。でも彼の歌はもう終わっちゃったんだけどな。きょとん、としながらなんとかねー、と答えると、彼はちらり、と神宮寺君を一瞥してからすっと缶ジュースを差し出した。

「これでようやくお役御免ですね。よければどうぞ。喉も乾いたでしょう?」
「わ、ありがとう。一ノ瀬君気が利くねぇ」

 実際レコーディング室は熱気が籠っていたし、緊張で喉はカラカラだったのだ。パッと表情を明るくして、まだ冷たい缶ジュースを一ノ瀬君の手から受け取ると、後ろからのし、と頭に重みが加わり、思わず前のめりに傾いた。うおぉ!?

「イッチー?俺にはないのかい?」
「ありませんよ、そんなもの。それより退きなさい、レン。さんが驚いてます」
「ふぅん?そんなこと言うんだ。折角合格したのにお祝いにジュースの一本も奢れないなんて心が狭すぎじゃないか?」
「そもそもが自業自得の癖してしゃあしゃあと・・・そもそも合格なんてして当たり前なんですよ。あの曲を歌うんですから」

 そういってふん、と鼻を鳴らした一ノ瀬君に、神宮寺君は楽しげに喉を震わせた。ひどく近く、背中にぴったりと密着しているせいでその振動が直に伝わってきて、私は眉間に力を籠める。・・・何故にくっつくんだ、神宮寺君。未だかつて彼がこのような接触をしてくるようなことがあっただろうか。それなりにパーソナルスペースというものを大事にしているだろう神宮寺君の突然のゼロ距離感に戸惑いつつ、どうしようかな、と缶ジュースのプルタブにかつん、と爪を立てた。

「え、え、ちょっと待って。トキヤ、と知り合いなの!?」
「聞いてないぜ、そんなの!」
「どうしてわざわざ私の交友関係をあなた達に知らせないといけないんですか」

 とりあえずどのタイミングで神宮寺君を引き剥がそうかなぁ、と考えていると、一十木君と来栖君が目を真ん丸に見開いて一ノ瀬君に噛みついた。
 ・・・ていうか、こことも交流があるのか、この人達。一ノ瀬君が非常に鬱陶しそうに冷ややかな目で二人に対応するのを眺めながら、あれ、私なんかすごい目立つ面子に包囲されてるんじゃないか?と首を傾げた。
 私のちょっと目立つ系の知り合いのほとんどがこのグループに属している、だと・・・?!一ノ瀬君ぶっちゃけ神宮寺君以外と接触しているところなんてほとんど見たことなかったからAクラスの子とは関係ないんだと思ってた。ところがどっこい、結構親しそうだったとはなんたる不意打ち!!

「だってトキヤ、何時からと知り合いだったの?俺たちずっとのこと探してたの知ってたでしょ?」
「は?・・・さん、探されていたんですか?」
「あーうん。そうらしいよ。まぁそれについてはちょっと前に完結してるんだけど」
「レディは仔羊ちゃんの例の恩人なんだってさ。ほら、おチビちゃんが探してた女の子。それがレディだったってわけ」
「なるほど。それはとんだ盲点でしたね。というよりも、なんという狭い繋がりといいますか・・・」

 全くである。だれがこんな繋がりを予想できたというのか。しみじみと、人の縁というものを噛みしめるように呟く一ノ瀬君に同意し、肩に置かれた神宮寺君の腕をやんわりと退けた。案外すんなりと腕を退けた神宮寺君は、その流れで私の横に並んだが、やや距離が近い気がするのは気のせいだろうか?・・まぁいいか。

「その会話から察するに、つまり俺たちが探している時にはすでに一ノ瀬はと懇意にしていたというわけだな?」
「それって、トキヤに聞いてたらあんな駈けずり回って探さなくてもすんだってことか?!」
「えぇ、ちょっとなによそれ。音也、あんた超身近に情報あったんじゃない。なんでもっと突っ込まなかったのよ」
「そんなこと言ったって、俺だってまさかトキヤとが知り合いだなんて思わないよー」

 そりゃそうだ。渋谷さんに肘で小突かれた一十木君がへにゃん、と眉を八の字にして訴える。どうせその頃の私の情報なぞほぼ皆無であったのだろうから、そもそも一ノ瀬君が私と彼らの探し人をイコールで結ぶことは難しい。そうなれば、わざわざ一ノ瀬君が話題に出すこともないだろうし、話題に出されないのだから一十木君がその存在を察することもできない。ごく自然な流れである。
 情けない顔をする一十木君を七海さんが励ましている光景を眺めて、ジュースを開けて飲もうか、部屋に戻って冷蔵庫に仕舞っておこうか、その逡巡に缶ジュースを見下ろす。・・・あ、ていうか帰って洗濯物畳まないと。そしてご飯の準備して、出された課題をやって・・・学生のやることは存外に山積みである。
 そうと決まればさっさと帰ろう。なんだかこのまま宴会・・とは言わなくとも流れで集まってパーティでも始めそうな面子から離脱することを決意しつつ、ふと窓を見やった。

「あぁ」

 吐息が唇から零れる。騒ぐ周囲を呆れた目で見ていた一ノ瀬さんと、私の横に立っていた神宮寺君がその吐息に気が付いてこちらを見た。その視線を受けながら、少しばかり眩しそうに目を細めて、なんとも出来た話だ、とくすりと笑った。

「レディ?」
さん?」

 怪訝そうな二人の声に、くすくすと笑いながら、窓を指差す。その指先に誘われるように二人は窓を見やり、あっと息を呑んだ。

「全く、本当に神宮寺君のエンターテイメント性には恐れ入るよ」

 いつの間にか止んでいた雨の代わりに、とでもいうように。窓の外は、厚く垂れ込める曇天ではなく。珍しくもはっきりと弧を描くように、七色の虹がかかっていた。それは、ちょっと滅多に見ることができないほど、はっきりと、力強く、鮮やかに。全く、終わり方が綺麗すぎて、なんだかちょっと出来過ぎじゃないか?
 全く、音楽の神様とやらは、依怙贔屓に過ぎる神様なのかもしれない。