03 仮病ノントロッポ



 ちょっとした悪戯のようなものだった。いつも余裕のあるあの人が、どんな反応をするのだろうかという、そんな好奇心もあって。

「お師匠・・お腹が痛いよぉ・・・」

 自分でも中々巧い泣き真似だったと、そう思った。眼の端に涙を浮かばせて、痛みに眉を顰めるようにして、お腹を抱えながらうるうると師を見上げる。は目を瞬き、しゃがみこんで童虎の前髪をかきあげた。

「お腹痛いの?」
「・・・はい・・・・ぅぅ・・・」

 痛みに唸るようにして、俯く。額に添えられた手は細く、綺麗で、大きくて、自分のものとは全然違っていた。滑るようにその手が額を滑り、それが首に触れて、軽く押し当てられる。
 そしてじぃ、と瞳を覗きこまれ、その真っ直ぐさに思わずぎくりと童虎の身が強張った。けれど、は一つ頷くだけでするりと童虎を解放し立ちあがる。

「そこに座ってなさい。今薬持ってくるから」
「は、い・・・・」

 平然とそう言い放った師に、バレてないバレてない、と内心で呟いて童虎はほっと安堵に表情を崩した。はすでに背中を向けて、家に向かっているので、童虎は何の気なしにその背中を見送る。あっさりと修行を中断して戻っていく師に、本当にバレなかったのかな、と小首を傾げて童虎は言われたとおり地べたに座りこんだ。小石や砂がお尻にあたり、けれど別に痛くもないので童虎はゆっくりと後ろを振り返り、自分と同じく聖闘士修行に励む修行仲間に目を細める。むっつりと、至極面白くなさそうにそして不安そうに顔を顰めている仲間であり友人に、童虎は悪びれもなく笑った。

「どうだった?うまかっただろ」
「・・・・まさかほんとうにやるなんて」
「なんだよ、そっちが言ったことじゃんか」
「そりゃそうだけど・・・でも、先生にバレたら怒られないかな?」
「それはわかんないけど・・・でも、今のところバレてないみたいだし、だいじょうぶだって」

 師を騙した罪悪感からか、いささか暗い面持ちのシオンに、童虎もチラとそう思わないでもなかったが、何も言わずに去ってしまった師を思い描くと、大丈夫なんじゃないかという安心感もある。服を握り締めて赤い瞳を揺らすシオンに、童虎はにっこりと笑いかけた。

「そんな顔するなよ、シオン」
「うん・・・」

 笑顔を浮かべて見せる童虎に、シオンも幾らか感化されたのか、強張っていた顔が和らぐ。そして童虎の傍まで歩き、横にぺたりと腰を下ろした。とりあえず、師が戻ってこなければ修行のしようがない。それを踏まえて、シオンもを騙せたという興奮にやや浸りたかったのもあった。シオンは、をとても尊敬している。敬愛といってもいい。
 無論それは童虎も同じで、彼等は自らの師がとてもとても大好きだった。
 感じる小宇宙もさることながら、は年齢に見合わずとても聡く、自分達とはやはり違う見方や考えを巡らせるその事実も憧れの元だった。自分達とは違う「大人」だ。
 けれど、今までの「大人」とも違う「大人」。そんな敬愛して止まない師を、騙せたというちょっとした試練をやり終えたような、誇らしさが2人の中に芽生える。もちろんそれは褒められたことではないが、それでもほんの少し、近づけたような気がして嬉しかったのだ。
 思わず顔を見合わせて笑う二人の顔が、瞬時に強張る。ばっと勢いよく前を向き、二人は神経を研ぎ澄ました。流れる水のような、漂う風のような、広がる大地のような、揺らめく炎のような、自然と同化している小宇宙に、2人は息を吐き出した。

「お師匠の小宇宙だ」
「うん。先生、近くまで来てるみたい」
「今回はけっこうはやく気づけたな!」
先生の小宇宙、いっつも気づかないもんね」

 これも修行だと2人は知っている。如何に小宇宙を感じられるか、それを常に童虎とシオンは求められていた。感じること、それは全てに繋がることだからと。全身で感じ、全身で知り、全身で考える。聖闘士にとって、否、神々に仕える闘士にとって小宇宙は必要不可欠だ。それを如何に正確に、そして素早く確実に感じ取れるかは死活問題なのである。
 もしも小宇宙を消され不意打ちでもされたら。そんな危惧があるからこそ、はいつも最低限にまで小宇宙を消して、微弱な小宇宙を纏っている。あるいはそれすらも、自然体として、周りと同一化していることが多い。それに気づくのは、実はかなりの至難の業だった。
 そんな師の小宇宙に気づけたことがまた嬉しく、2人は笑みが止まらない。けれど、現れたに童虎は今も痛そうな顔をし、シオンは緊張しながらも心配そうに童虎を見る、というスタンスを作った。

先生」
「シオン。どう?童虎の様子は」
「え、っと・・・変わらないです」
「そう」

 しどろもどろに答えたシオンに、思わず童虎が横目で見るが、すぐに向けられたの視線に俯いて唇を引き結ぶ。どくどくと早鐘を打つ心臓に、気づかれないだろうかとちろりと上目遣いに見ると、はしゃがみこんで柔らかに童虎を呼んだ。

「童虎、顔あげてー」
「はい」
「ほら、薬持ってきたから、飲みなさい」
「はい。ありがとうございます」

 そうしてずい、と差し出された器に並々と告がれている透明な液体に、童虎は首を傾げる。
 薬というのなら粉末やら薬草やらを思い描くが、こんなにも透明な液体はあまり見たことが無い。まるで水みたいだ、という感想を持って、微笑んでいるを見てから、口をつける。
 シオンが横から注いでくる視線を受けとめながら、器を傾けて、そして童虎は声にならない声で絶叫した。思わず吐き出しそうになったそれを、瞬時に伸ばされた掌で口を覆われ防がれる。口の中でぐるぐると動き回る味に目を白黒させて童虎はを見たが、はただ微笑んで、

「薬なんだから、ちゃんと飲まないとだめよー?」

 という、悪魔のような宣告を弟子に下した。瞬間童虎は再び悲鳴をあげそうになったが、口の中には薬がたぷたぷと揺れている。加えて口を掌で封鎖されているので、飲む下すしか選択肢はない。泣きそうな顔で、実際泣いていたが、童虎はごくり、とその悪魔のような液体を飲み下した。それを確認しては童虎を解放し、首を傾げる。

「に、に、に、にが・・・・っ!!!」
「ど、童虎?だいじょうぶ?」

 カクカクと震える童虎に、思わずシオンが顔を覗きこんで問うが、童虎はぶんぶんと首を横にふって、ただただ笑っている師に涙ながらに訴えた。

「こ、これもっっっっっっっっのすっっっっっっっっっっっごく苦いですお師匠!」
「うん。だって1番苦い薬を作って持ってきたから」
「なんで?!」
「そりゃ、生意気にも嘘なんか吐こうとするから、ちょっとした仕返しにね」
「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

 朗らかに笑って告げられた台詞に、童虎は目を見開いて絶句した。そしてシオンも同じく顔を青褪めさせて絶句した。その様子を楽しげに目を細めて見ながら、は薬を持ったまま目を白黒させている童虎の頭を撫でて、シオンに極上に笑いかけた。

「いやいやその年にしては中々上手い演技だったけどまだまだってことね。別にこれぐらいのことで怒るほど狭い心してないから、そんなビビらなくてもいいわよ」
「お、怒ってないんですか・・・?」
「ないない。本当にささやかなもんだし。これぐらいの悪戯、というか嘘?嘘にもなんないし。私の子供の頃なんかそれはもう凄まじかったわよー。幼馴染巻き込んでそしてそれを犠牲にしつつ、父親に向かってえげつないことしてたから」

 母親には流石に無理だったけど。やっても可愛いものだったわ、と笑って話す師に、肩の力が抜けていくのを2人は感じた。その様子を喉を鳴らしては見つめ、だからね、と言葉を繋げる。

「悪戯するにもなにをするにも別に構やしないし、どしどしやってくれて構わないけど。ほら、子供の頃にこそ悪戯してなんぼだし、度を越さなければ思考錯誤してかかってきなさい。だけど」

 そこで言葉を区切った師に、ごくりとシオンの喉が鳴る。その様子に目を眇めて、ゆったりとは口角を吊り上げた。三日月になった口唇に、細くなった目で、満面の笑顔を作り出して。

「やられた側からの仕返しもあるということ、肝に命じておくことね。その辺りも踏まえて、仕返しされないように上手くやる方法とかも考えておくのもいいかもね」

 そう言い放ち、立ち上がった師を目で追いかける。悠然と佇み、見下ろしてくる視線を見上げて。

「アンタ達がどんな悪戯し掛けて来るか、楽しみにしてるわよ?」

 それは、あまりにも子供の心に甘美に響く、遊戯への許しだった。けれど、心踊ったのも束の間、は笑顔で童虎の手元を指差し、

「でもとりあえずそれは全部飲みなさいね。私にばれたペナルティってことで。シオンも同罪だから、飲むように」

 ころころと笑いながら、どこから取り出したのか、色違いの器にたっぷりと注がれている透明な液体に、シオンは顔の筋肉が引き攣るのがわかった。そして童虎は。
 あの壮絶な苦味を思い出して、失神しかけていた。