04 反抗期武勇伝
「何をしているんだ・・・?」
「弟子の見物」
背後からかけられた声にも全く微動だにせず、簡潔に答えると簡潔過ぎてわからなかったのか、鮮やかな浅葱色の髪の教皇はその愁眉を顰めた。その様子を鏡越しに見たのか、はゆるりと振り向き口端を持ち上げる。紅を塗ったわけでもなく、健康的に色づく唇が艶やかに光を弾き、形作った笑みは意味深に教皇の目に映った。それから、見物という言葉を補足するでもなく再び視線を鏡に向ける。それが、が自分に向けた答えの補足だとわかり、同じように鏡に視線を向けて、絶句した。
「な、な、・・・それはアテナの水鏡ではないか!!」
「んー。まーねー。アテナにはちゃんと承諾取ってるからもーまんたーい」
「無問題、とかそのような問題でもなかろう?!一体何を見ているんだ、そんなものまで持ち出して」
「見ればわかるわよ」
素っ気無い、ともとれる返答に教皇は肩を落とし、渋々と水鏡を覗きこむ。薄い皿に水を溜めたその鏡に、映っているのは覗きこむ教皇でもでもなく、全く別の風景だ。
ぴくりと眉を顰めて、目を眇める。映りこむ風景は見なれぬ光景で、そしてそこにぽつんとある2つの人影に益々顔を顰めた。
「・・・・・牡羊座と天秤座、か」
「まだその称号はないわよ。しいて言うなら候補、でしょ」
「星の巡りは彼等を次代と定めている。星は道を違えはしない」
淡々と落とされる言葉に、軽く目を伏せて微笑む。水鏡が描く向こう側で、自分の身の丈よりも倍は軽くある獣を前に、尻込みしている二人を見ながらは水鏡の縁を撫でた。
ほんの少し揺れたのか、水鏡が波紋を描く。ゆらゆらと揺れる向こう側で、弟子は必死に逃げ惑っていた。その様子を、ただは目を細めて見つめる。
「それでも、進むのは人よ。選ぶのも人よ。星が描いた道筋であろうと、2人の努力は星とは関係ないわ」
淡々とした答えに、息を飲む気配が伝わる。目を瞬かせ、教皇は呟いた。
「・・・驚いたな」
「何が」
「お前は、星の道筋など鼻で笑うものだと思っていた」
吐息混じりで呟かれたそれに、はくつりと喉を鳴らす。くつくつと喉奥を鳴らし、さも可笑しげに笑うに教皇は水鏡から視線を逸らした。視線の下で、自分と比べれば華奢な肩が細かく震えている。
「いやーまぁ、決まった未来なんてないって言ってもいいけど・・・決まった未来でも、複数あると思うのよね」
「複数?」
「そ。幸福な未来、不幸な未来、なんでもない未来、栄光の未来、色々あるの。でもそれは、あらかじめこの道筋を辿れば得られる、決まった未来で。決まるということは、何も一つだけ、ってことではないと思うのよ。決めるのは一つでも」
「・・・・・・複数の決まった未来を、選ぶことだけは出きるということか」
「まあ、そうかな?可能性の未来よりももっと確かで、絶対の明日よりも曖昧で。だから、アンタが見た未来も一つの決まった未来でしかないのかもしれない。もしかしたら一つ星の見方を変えれば、全く別の決まった未来があるのかもしれない」
コインに、裏と表があるように。一つのものにでも、二つのものがあるように。
そうと告げるの視線は、相変わらず弟子達に注がれている。熊の振り上げた丸太ほどもある前足が、2人へと襲いかかっていた。
「決まった、というのをどう置き換えるかよね。これは」
「一つにしか見えないのか、あるいは二つにも三つにも見えるのか。・・・そういう考えもあるのだな」
「千差万別ですとも。それはそうと何か用なわけ?」
そこでやっと、は後ろを向く。熊の一撃を避けた弟子達が、逃亡を図っているのがその肩越しに見えた。教皇は目を眇め、首を傾げる。
「いや。ただ見かけただけだ。しかし、・・・・何故お前がここにいて、2人はそこに?」
当然といえば当然の疑問である。しかも水鏡越しに見える光景は、十にも満たない子供が凶暴な熊を相手に逃げ惑うという、下手すれば死ぬような危険な光景だ。
再び熊が振り下ろした爪が、土を抉り飛ばしていた。あんなものを受けたら、聖闘士にもなれていない見習いでは一溜まりも無い。しかもその修行監督をするべき師は、今現在のんびりと聖域で傍観しているのだ。傍にいないことも問題である。殺す気か?という懸念が過ぎったが、それは流石に有り得ないと即座に否定した。確かに彼女は聖闘士ではない。それどころかこの世界の者でもないのだが、そんな人道にも劣ることをするような腐った人間ではないことは確かだ。そんな人間に、誰が頭まで下げて聖闘士の育成を頼むというのか。時々、彼女は自分ですらも到底及ばない深い見識を見せることもあり、これも何か深い意味があってのことかと教皇はを見た。しかし、はただ笑って。
「2人が熊ぐらい自分達で退治できる!!とかのたまうのでじゃあやらせてみようかと思って」
「2人だけで?お前が傍にもいずに?」
「私も2人じゃまだ無理だって言ったんだけど、それが琴線に触れたのか頑なになってねぇ」
「反抗期か」
「かもね。まあ最近何かと一人でやりたがることもあったし、2人一緒な分まだマシでしょ。私が本当に傍にいない状態で、どうなるか見てみたいのもあったし」
楽しそうに笑って眺めているの視線は、逃げて森の影に隠れている2人を追いかけている。隠れた2人を探す熊がうろうろとさ迷うのも、まるで出来の悪いホラーのようだ。
その様子を見下ろしながら、教皇は溜息を零した。スパルタだな、と内心で呟く。十にも満たないのだ。なのに命をかけた遣り取りをすでに味合わせるなど、スパルタ以外の何者でもない。それは恐怖だ。身に染みこむ抗えない人の性だ。けれど、それを知らずして闘うことなど誰にも出来はしない。まだ早い、と言うだろうか。もしかしたらそれは致命的なトラウマとなって、二度と闘うことなどできなくなるかもしれない。けれど、と教皇は水鏡を見下ろすの旋毛を見た。
「必要なのか」
「そう長い間、私はここにいられないからね」
「星はお前を含めてはいない。だから、私にはお前の道筋が読めない」
「異邦者ですからねぇ。しょうがない」
カラカラと笑う。そこには悲観など一つとして含まれてはいない、ただあるがままの事実を受け入れた者だけが持つ響きがある。教えられるだけのことを教える。人としてもっとも大切な、そして人であるからには捨てきれないそれを。自らの手で。師として、彼女は本当に優秀だと、吐息を零した。アテナの、そして自分の選択は間違ってはいなかったと、確信できる。全てを教えきれるわけではないだろう。教え残しがたくさん出るかもしれない。
けれど、彼女は必要な最低限だけを選び取る。限られた時間だからこそ、長くは無理だと悟るからこそ。もっとも大切で、重要な、聖闘士ではない、人として大切なものを。それがなければ闘えないのだから。
「ほどほどにな」
「イエッサー」
無気力とも言える返事に、苦笑を零して教皇は身を翻した。長い法衣の裾が床の埃を巻き上げる。歩き、外に出て、空を見上げた。抜けるような青空。眩しいほどに。
「いつかそれも、思い出になるのだろう」
呟き、目を閉じた。