09 無知なくらいがちょうどいい



 まっさらなのだ、要するに彼等は。何も知らないからこそ色んなことを知っていける。
 何も判らないからこそ一生懸命知ろうとする。元からあるものを変えていくのは難しい。
 けれど、ないものを埋めていくのは簡単だ。だからこそ聖闘士は子供の内からでなければなれない。大人になってからでは遅いのだ。子供ほど純粋に、それを植え付けることはできないから。小宇宙は言わば感覚の問題だ。子供は純粋で、又大人よりもそういう異質さに敏感だからこそ感じ取れる。まあ、それでも力なら身につけられることもあるだろう。
 かなり大変だとは思うが、問題は、認識である。変に常識など持ってしまうと、それによって目が曇ってしまう。曇った目で真実は見つけられない。異質を受け入れないのが大人だから、自分の中の異質さを「あるはずがない」という思いこみによって排除する。
 思いこみとは絶大だ。それは時に人の運命すら左右する恐ろしいものだ。子供の頃から植えつけられる考えは、例え周りから「異常」だといわれようとそれが彼等にとっての「常識」になるが故に、「異常」だとわからない。凝り固まった宗教観念などもこれに属するだろう。

「つまり、どういうことなんですか?」
「つまり、聖域はそれによって成り立ってるってことよ」

 まあ聖域だけじゃないけどねぇ、と呟いてはくるりと鉛筆を回した。童虎とシオンがむむ、と難しい顔をして考えるのを見下ろしながら、これは禁句なのだろうなとは考えた。
 「外」の人間だからこそ「聖域」という異常さがわかる。「中」の人間はそれを知らない、否。知っていたとしてもそれを教えてしまえば聖闘士として成り立たない部分があるのに気づくのだ。だからこそ黙認黙秘をする。聖域とはまさに狭い箱庭のような世界だ。
 だからこれは、聖域のルールに反することを私はしている。けれど、盲目ほど愚かな事柄もないだろう。無知はまだいい。知ればいいのだから。知ろうとするのだから。
 けれど知る事を止めてしまったら。それはなんて恐ろしいことだろうか。疑問を知らずに成長は有り得ないのだから。それに、とは目を眇めた。それに私は、彼等のルールに従う必要など全くないのだ。教えたいことを教える。教えなければならないことを教える。
 ただそれだけの話だと、自己完結させてはにっこりと微笑んだ。難しい顔をしながら、童虎が首を傾げる。

「聖域は間違ってるってことなんですか?」
「いいや。それもまた一つの選択肢で、それでなければ確かに成り立たない部分もあるから、一概に間違いとは言えない。愚かだとは思うけどね」
「おろか?」
「辞書でも引いて調べなさい。シオン、聖闘士の役目とは何か?」
「地上の愛と平和、そして正義のために、アテナを守り闘う者です」
「実に模範的な回答だわ。聖闘士なら頷くだろうけど30点」

 びし、と告げるとシオンが首を捻った。納得がいかないのか、見上げてくる目はどうして、と尋ねている。童虎もよくわからないのか私を見あげてくるから、くるりとまた一つ鉛筆を回した。

「これは1つの考え、私の持論だからこれが本当に正しいわけじゃないし、これから成長するにつれてアンタ達自身の考えを持つこともあるでしょう。一つの例としてまたこういう考えもあるんだと心に留めておきなさい」
「はい」
「地上の愛と平和と正義、なんとも抽象的な言葉ね。愛にも様々な形があり、平和にもまた様々なものがある。正義なんて見方を変えれば悪にもなりうるわ」
「正義が悪ですか?」

 驚いたように、問い返してきたシオンに、は言葉を探すように視線を泳がせた。

「そうねぇ・・・例えば、熊が人を襲ったとしようか。それは悪?」
「悪だと思います。人を襲うのは悪いことだと思います」
「そうね。人から見ればそれはきっと悪でしょう。けれど、熊の視点から物を見てみたらどうだろう」

 告げると、2人は目を見開いて口を噤んだ。戸惑うように視線が揺れ、童虎が森を見つめる。

「熊にも何か事情があったのかもしれない。もしかしたら、人がその熊の子供を攫ってしまったのかもしれない。それを取り返そうとすることは、悪かしら?」
「・・・・それは、」

 躊躇うようにシオンが口を開き、閉じる。それを見ながら、鉛筆をくるくると回しつづけた。

「熊にも熊のルールがある。人にも人のルールがある。それぞれの常識から逸脱したものが悪であり、それぞれの常識に当てはまるものが正義よ。・・・とまあ、こんな感じに正義とは見方を変えると悪にもなるということよ。わかった?」
「はい・・・」
「でも、なら師匠。それなら、聖闘士は悪なんですか?」
「言ったでしょう。見方を変えればと。聖闘士は確かに正義かもしれない。人を守る存在かもしれない。けれど、相手側にとってみれば悪に他ならない場合もあるでしょう」

 戦争とは自己の正義を証明する為に起こるものよ、と告げて、すっかり沈黙してしまった2人をは見下ろした。ゆっくりと、回していた鉛筆を止めては微笑む。

「この考えは聖闘士の根底を揺るがすものよ。だから、本来ならば教えるべき事柄ではない。必要なことなんだけどね」

 自身が悪かもしれないと思ったときに、誰が命をかけてまで戦うことが出来るだろうか。
 全てを賭けてまで闘うことなどできはしないだろう。アテナのために、地上のために、そんなことできなくなるだろう。疑問は人を迷わせる。迷う人はとても弱い。だから、聖闘士はそんな考えを持たないように子供の頃から教えられるのだ。地上のため、正義のため、アテナのために闘い、死ねと。幼い頃から植えつけられたそれは、いずれその人の根底になり基盤になる。そしてそこで初めて聖闘士として成り立つのだ。アテナのために闘う存在が出来あがるのだ。出来た仕組みだと、は嘲笑うように口角を歪めた。

「なら、先生はどうしてそれを僕達に教えてくれたんですか?」

 シオンが問う。それに瞬き、はゆるやかに唇に弧を描いた。目を細めて、シオンの頭に手を置く。驚いたように見張ったシオンの頭を軽く叩いて、は言った。

「成長して欲しいからよ。人として、大きくなって欲しいから」

 細まった瞳は慈愛に溢れて。真っ直ぐに、淡々とそれは輝いた。

「その為には、色んなことを知らなくちゃいけない。自分が認められない考えだったとしても、そんな考えもあるんだと、受け入れられるような人間になって欲しい。受け入れるからといって、それを自分が実行するわけじゃないけどね。そうやって色んなことを知っていって、そうしてその上で、選びなさい」

 それは彼等にはまだ理解できない、何かもっと深い意味があるような、ただ言葉そのままの意味しかないような、そんなの言葉だったけれど。

「選ぶ」
「そう。選ぶの。自分の道を自分の考えを。ただ決められたレールなのだとしても、何も知らずただ歩むより、自分で知って、自分で認めて歩く方がずっと有意義でしょ」
「それは・・・よく、わからないけど、素敵なことだと思います」
「そうそ。そうやって、素敵な人へとなんなさい。アンタ達はまだ何も知らないのだから、色んなことを知っていきなさい。まだまだ、時間はあるからね」

 まだそれはきっと、自分達ではわからないことなのだろうとシオンは思った。
 自分達ではまだそれを判断するだけの知識も経験もないのだと、深い眼差しを見せる師を見つめて、シオンは吐息を零して肩を落とした。童虎が俯いて考える。自分達は無知過ぎて、師の言葉の意味をきっと半分も理解できていない。知りたいと、知っていけるようになりたいと、そう考えて、童虎は顔をあげて師を見た。は、笑って視線を2人から空へと移した。つられて、2人も空を見上げる。夕暮れ時の空は茜色に染まり、地平線に程近い場所は紫がかっている。グラデーションは鮮やかに空を彩り、ほぅ、と感嘆の吐息を零した瞬間、は呟いた。

「地上の愛とか平和とかよりも、こういった綺麗なものをもう1度みたいからって思った方が、きっと1番わかりやすいんだろうねぇ」

 それは、2人にはまだよくわからない呟きだったけれど。ただ単純に、この空を、こうして3人で見るために地上が必要なのだとしたら、自分達はきっと命をかけて守るのだろうと、漠然とそう思えた。