祈りの言葉



 幸せに。
 どうか幸せになって。
 どうか、貴方だけは生きていて。
 
 ――そう告げた時のあの人の顔を、俺はいつまでも忘れられない。




 チカチカと目の前が明るい。瞼を閉じているはずなのに感じるその明るさに目を開ける。
 枕の上でもぞりと頭を動かし、明るさの原因を探れば昨夜きちんと締めきれていなかったカーテンから筋のように光の道ができていて、それが自分の枕元まで伸びて目元を照らしたのだと理解した。チュンチュンと聞こえる雀の鳴き声と、道路を走る車の音。太陽の光はまだ柔らかく、朝の空気はシンとして少し冷たい。飽きることもなく当たり前に登る朝日を、一体どれだけの人間が特別なものだと思うのだろう。
 ほろりと残滓のような雫が目尻から零れ、耳を伝い枕に染み込んだところでむくりを起き上がる。くあ、と欠伸を零して、ばさりと寝乱れた布団を退かすとベッドの上から降りた。
 素足のままフローリングに立ち、ぺたぺたと足音をたてて自室から出て最初に洗面所に向かう。洗面台についた鏡の前で蛇口を捻り、勢いよく出てきた冷たい水をお椀型にした掌で受け止めてばしゃばしゃと飛沫を上げながら顔面を洗っていく。肘を伝いぼたぼたと流れるそれが外に出ないように注意しながら、水を止めてタオルで顔を拭き、濡れた前髪を掻き上げるようにして顔をあげる。鏡に映る自分は少し陰鬱として、釣り目がちの三白眼はお世辞にも目つきがいいとは言えない。相変わらず愛想の欠片もない顔だと思いながら、目の下から鼻まで届く引き攣った跡を辿る。他の皮膚と色味を変えるその箇所を撫でて、眉尻を下げた。

「――おはよう、兄ちゃん」

 零れた声は、一抹の寂しさと一匙の幸福で揺れていた。





 俺には、前世の記憶がある。正確に、前世と名付けていいものかはわからない。ただ、自分でない誰かの記憶と呼ぶべきものがあることだけは確かで、そしてその誰かは「俺」という人格を持った人間であったことは誰にも言わない事実である。
 もっとも、前世の「俺」を明確に「人間」であるというにはいささか憚られるような部分もあったが、個人的な希望として人間だったとしておく。いや人間だって。うん。人間人間。
 ともかく、まぁ、前世の俺はそれはもう大変な時代を生きていた。鬼という人を食らう化け物が跋扈する大正時代。夜は穏やかな安息の時間ではなく、血と悲鳴と食欲に塗れた地獄の時間。いつ何時、脅かされるかもわからない薄氷の上で、生死を懸けて駆け抜けていた時代だ。もっとも、大体の人間がそんなもの知らなかったのだろうが、俺は何の因果か世界の裏側を知ってしまって、そうしてある人を追いかけてその世界に飛び込んだのだ。
 クソみたいな父親に殴られ罵倒され、母親を鬼にされ、弟妹を食い殺され、何もかもを失って。唯一残った大事な人を言の刃で傷つけて、ただ謝りたくて、また一緒にいたくて、疎まれながら追いかけた一生だった。誰かに語ると可哀想、という単語が似合うような人生ではあったが、まぁまぁ好き勝手に生きたし、悪いことばかりでもなかったので、俺の主観でいえばそう悪くない人生だった、と思う。いやまぁ、酷い人生っていえばぐぅの音もでねぇんだけど。
 そんな濃い、濃すぎるほどに濃い一生を、何の因果か今生まで持ち越した。いやここは何もかも忘れて生きていくべきでは?と思わなくもないが、まぁ、こういうこともあるんだろうと納得するしかない。あるいは、人道にも劣る行いを繰り返し、最後に特大級の大チョンボをしでかした罰なのかもしれない。そうだとしたら、神様という存在はそういうところだけしっかりしてんな、と呆れるしかないが納得もできる仕打ちなのでまぁ、つまり粛々と罰を受ける所存である。
 ちなみに、今生では家族は存命だ。優しい母親と父親。まぁ、一般的にみて普通の家族。前世みたいな畜生以下のクソ親父ではなく、極普通に妻と子供を愛し大事にして、仕事も頑張って、だけど家事や育児に積極的に参加するわけでもない普通の父親と、そんな父親に言いたいことは割とはっきり口にして時に愚痴を零しながらも家事とパートに勤しみ、最近人気の若いイケメン俳優なんかに熱をあげる普通の母親。ちなみに兄弟はおらず、一人っ子。家族構成、環境共に申し分ない平凡な核家族という奴で、唯一汚点があるとすれば、一人息子の体中にできた醜い傷跡だろうか。別に虐待だとかそんなヘビィなものではなく、幼少期に山の斜面から落ちてできた怪我である。いや、これ割と重い話か?でも幼少期の事故なんてそう珍しくもないだろうし、五体満足で何一つ損なわれることなくこうして元気に生きてるんだから笑い話みたいなもんだろう。そういうと友人は変な顔をするが、前世を思えばガチで笑い話レベルの内容だ。前世は重いという言葉では生温いぐらい重いからな。だって俺半分になったし。うん。体中の傷跡とか優しすぎる問題じゃねぇか?それに現代の医学の進歩を考えれば傷跡なんて消せるわけだし、やっぱり気にするほどじゃないと思う。
 さておき、俺がこうして記憶を持って生まれたということは、もしかしたら俺と同じような人間もいるのかもしれない、と考えるのは当然のことだろう。なにせちっせぇ頃は時間など有り余っていて、考える時間も馬鹿みたいにあったのだから。
 思い出した当初はわけもわからず何故どうしてを繰り返して色々あったわけだが、ぐるっと諸々一周しちまうと逆に冷静になるわけで。ある意味それもかつての師匠のごとく悟りに近いものなのかもしれないが、まぁ俺が俺と同じような人間がいるかもしれないという考えに行きつくのは至極自然なことだろう。
 もし。もし、俺と同じような――あるいは、俺の知り合いに会ったとしたら。そいつは記憶を持っているのか?それとも何も覚えちゃいないのか?そんなのは会うまでわかりゃしないが…俺は、会いたくないな、と思ったのだ。
 理由はまぁ色々あるが、言ってしまえば個人的な我儘である。だって、知り合いの中には、もしかしたらあの人がいるかもしれない。俺達が生まれ変わってここにいるのに、あの人がいない道理はなく。まぁ、絶対とは言えないが、でもそれは逆のことでも言えるわけで。いるかもしれない、いないかもしれない。いたとしたら――俺は、あの人にだけは会いたくないと思ってしまったのだ。会うべきではない、とも思っている。あの人…俺の兄貴にだけは、なんとしてでも。

「まぁ、そうなるとあいつらとも会えなくなるんだけどなァ」

 なにせ俺の知り合いは、ちょっとこう、色々と特殊な鼻やら耳やら感覚持ちの奴が多い上に、大層目立つ騒がしい奴らなので。会っちまって、もし兄貴がいたとしたら芋づる式でバレる未来しか見えてこない。それはちょっと困るから、徹底的に前世から逃げることにしたのだ。
 例えば、俺の容姿は前世によく似ている。顔の造作とか、体中の傷とかもそう。まさか鬼もいない世の中でこんな全身に傷を負うとは思ってなかったし、傷の位置もまぁ細部は違えどよく似ている。おいおい前世に近づけてくるなよ、と神の采配に悪態を吐きつつ、負ってしまったものは仕方ないのでそれ以外で似ないように頑張った。いや顔つきはどうしようもないから、髪型とか、服装とか、そういう「前世の俺」なら、という要素を消していったんだ。なので今の俺の容姿は極普通の黒髪短髪に、一応目つきを誤魔化すための眼鏡、それから服装も趣味かどうかと言われるとまぁちょっと違うが概ね目立ちようのない無難なそれを選ぶようにしている。それだけで印象ってのは大分変わるもんで、少しだけ前世から逃げられたようでほっとしたのもつかの間、成長するに連れて気が付く「やばい」ものもある。
 その最たるものが、小学校に上がってから中学に至るまでに発覚した、県内で名の知れた進学校――キメツ学園の存在だ。いやキメツて。中学受験なんて言葉まである昨今、高学年になるにつれて上がってくる話題に必然的に知ることになったその学園の存在に、俺は戦慄した。母親が寄せたパンフレットを見て更に愕然とした。――そこの学園長だか理事長だかが、前世の御館様その人であることに。そういえば教師紹介のところでもなんか知ってる顔があんなァ!とか思いつつ、俺は生まれたての子兎のごとく震えて中学受験を臭わせてくる母親に断固としてキメツ学園への入学だけは拒否したのだ。
 理由なんか色々でっちあげて、とにかくその学校だけは嫌だと駄々をこね癇癪を起こしとにかく拒否した。普段大人しく聞き分けもいい(何せ中身はコレだからな)俺が火が付く勢いで嫌がったので母親もさすがにそこまで嫌がるところに行かせるのは、と素直に諦めてくれたのが幸いだった。
 やめてくれ。あんな明らかに「前世関係者集めますよー」みたいなところに行ってみろ。どんな努力をしても遭遇するに決まってるだろ。俺の覚悟を水泡に帰すことだけはやめてくれ。ともかく、近くに地雷原ともいえる施設があることだけが悩みだが、それでも避けることができないわけではない、ととことん関わらない方向で行くことに決めたのだ。かといって情報収集しなさすぎても怖いので、どれだけ前世の知り合い、あるいは似た人物がいるのかと探ったことはある。その過程でこの辺で人気のパン屋が実はあいつの実家だったり近くの寺にはあの人がいたりだとか、まぁ色々地雷は埋まっていたわけだが、わかっていれば踏むこともない。要するにあいつらの活動範囲と重ならないようにすればいいだけで、そして存外人間というのは見た目に騙されてくれるものである。
 一部例外的な人間がいるが目立たず慌てず騒がず避ける。とりあえずこれで万事OK。案の定俺が中学に入学する頃には俺の良く知る奴らもあのキメツ学園に通い始めたようなので、やっぱりあそこは地雷原だったな、とほっとした。記憶の有無まではさすがにわからないが、なくても思い出すかもしれないし、とにかく関わらない方が身の為である。
 俺は俺の目的の為にも、絶対あそこには関わらないと決めたのだ。幸せになって欲しい人がいるから。幸せになるべき人がいるから。――俺が最後に、酷いことをしてしまった人がいるから。

 瞼を閉じれば思い出す。鮮明に、克明に。
 アァ、なんて酷いことをしてしまったのか。

 最後の瞬間の、あの顔を。流れた涙を、慟哭を。忘れられない。忘れてはならない。忘れられるわけがない。

「ごめんなァ、兄貴」

 謝っても謝り足りない。戻れるものならあの瞬間に戻りたい。こんな記憶を植え付けて生まれ変わらせるぐらいなら、やり直しをさせてくれたらいいのに、なんて自分勝手を神様が許してくれるはずがないとわかっていながら、そう思ってしまうのは自分の甘さだ。
 とぼとぼとキメツ学園とは真逆の方向にある自分が通う市立学校に向かいながら、掌で顔面を覆い隠す。込み上げてくるものを押し留めるように指先に力を籠めて、ぐぅ、と奥歯を噛み締めた。
 俺はなんにも、ガキの頃から変わっちゃいなかった。自分のことばかりで、あの人の役に立ちたいだとかほざいておきながら、何一つとしてあの人の為になることなど出来なかった。死んだことに後悔はない。死に方に不満もない。あの時の行動を、間違っていたとは思わない。
 ただ一つ、するべきではなかったというのなら、それは。

「今生では、絶対に会わないから…だから、」


 しあわせになって。


 祈りが音となって外に出ることはなかったけれど。その言葉は、あまりに身勝手な我儘だと知っているけれど。遠く、あなたが知らないところで、押し付けるつもりも、告げることもしないから、今度こそ。背負わせたりなどしないから。だからどうか、かみさま。

「…俺なんか、生まれなければよかったのになぁ」

 親が聞けばなんてことを、と悲しませることを呟いて、覆い隠した手を外す。一瞬ちかりと目が眩んだが、すぐに慣れていつも通りの通学路が伸びていた。ちらほら見える同じ制服をきた学生の姿にほっと息を吐きつつ、チリンチリンと後ろから聞こえた自転車のベルの音に道を譲る。シャッと抜けていく自転車に煽られてふわりと前髪が揺れて、その風にくしゃりを顔を歪めた。
 俺がいたら、きっとあの人は自分のことを二の次にしてしまうから。世界で一番優しいあの人は、俺の自慢の、最高にかっこよくて強いあの人は、どこまでも自分を犠牲にしてしまうから。記憶があれば尚の事、あの人は俺の為に全てを捨てることも厭わないだろう。そんな献身を、俺は許せそうもなく。そんな起こるかもしれない可能性を、受け入れられるはずもなく。
 思い出す最後。自分の最後、あの人の顔をみた最後。生まれ変わったからか、所詮記憶でしかないからか。冷静になった思考で考えれば、例えば自分が逆の立場だったら。生まれ変わって再会した兄貴に、俺はきっと執着するだろう。今度こそ、今度こそって。生きて、幸せに。幸せになって。――最後に請われたそれと同じことを、相手にも強要するだろう。そうして尽くされる献身を、我が身を省みない愛情を、――欲しいかと問われて、欲しいわけがあるかと喚き散らす自信しかない。そうじゃない、そうじゃないんだ。俺の為に生きて欲しいわけじゃない。兄貴は、兄貴のために生きて欲しいんだ。俺のことなんか二の次にして、自分のことだけ考えてくれればいい。兄貴の幸せは、兄貴のためだけにあるべきだ。そう思うから、わかるから、だから会わない。今生では兄弟に生まれなかった。つまり、そういうことだ。互いに離れるのがベストだったのだ。一緒にいればきっとそれは幸せではない。幸せに見えても、きっとどこか歪に違いない。それではいけない。真っ当に、平凡に、平穏に。つまらないと言われるような幸福こそが、兄貴に与えられるべきそれなのだ。
 それには、俺という存在は障害でしかない。記憶があってもなくても。俺と会うことで、あの人の一欠けらでも損なう可能性などあってはならない。
 あの人が今度こそ幸福であるために。その為ならば、胸に開いた風穴などなんてことはない。仲間に会えなくても。二度と話しかけられなくても。それが俺の幸せだ、と胸を張って言える。


 幸せになって、という祈りを、今度こそ祈りのままにするために。


 俺は、あの人に会わない人生を、生きていく。