攫ってください、どうかあなたのその腕で



 朝はまだ太陽も碌に見えては居ないけれど確かに周囲を明るく照らしだし、遠い地平の向こうが明るみを帯びる。
 薄っすらと雲に映る色は紫と青を混ぜたような色で、時間がたつにつれてそれは段々と白く透き通っていった。雲間の陰影もくっきりと見えるが、朝もやはどこか寝ぼけた様子を表してまだ世界が目覚めていないことを思い知る。
 冷えた空気が頬を撫で、吐く息に白さは混ざりはしなかったがどこか冷たく感じた。

「いい加減覚悟を決めてくださいな」

 早朝の澄んだ空気を震わせ紡いだ真っ赤な唇が微笑みを刻む。しかし眉墨を引かれた柳眉の尻は僅かに下がっており、それはしようのない人、とばかりに苦笑に微笑みを変えていた。じっと見つめる先には臙脂色の装束の男がいる。精悍な顔つきで眉間に皺を寄せている姿は、良い年をした男にしてはどこか途方に暮れているようで、爽やかな早朝風景にはいささか似つかわしくなかった。そもそも格好も、普通の町民とも農民ともつかない格好をしており、これから昼間を迎えようという空間にはどこか浮いて見えた。
 男は迷うように視線をさ迷わせ、幾度か唇を戦慄かせてから弱弱しく首を横に振った。

「やはり、私はお前に似つかわしくない」
「まだそれをおっしゃいますか。全く、幾度言えば納得してくださるのです?」
「お前こそ何故何度言っても聞かんのだ。私が何者か、わかっているだろうに」
「えぇ、えぇ。存じ上げております。あなたが何者か、知らないで何故お願いできましょう」

 ころころと鈴のような笑い声をあげ、それからぴしゃり、と厳しく言い切った。

「あなたがどれほど血に濡れてきたか、その全てはわかりません。そしてこれからどれほどの血を流すのかもわかりません。いつ果てるかもわからない命でございましょう。いつあなたは私を置いていくとも知れません。仕事とあれば家にいる時間もないでしょう。私は一人ぼっちかもしれません」

 あなたに惹かれていったあの頃から、ずっと絶えず考えていましたもの。そう言い、顔を顰める男へと手を伸ばす。決して早くはないそれから逃げることは容易いであろうに、けれど逃げることもできずに頬に伸びた手が、鋭角的な輪郭を撫でると、戯れるように指先に力を込めた。

「そのようなこともわかってないとお思いですか。全くあなたという人はなんと腹立たしい!」
「い、痛い痛い。これ、やめんか!」

 ぎりぎりぎり、と細い指からは想像もつかないほどの力で頬を抓られ、痛みに抗議すれば彼女はにっこりとそれは綺麗な笑みを浮かべて捻じ切るように指を動かした。
 ぎりり、ぎりり。ちょっと本気で肉が捻り取られそうで、ぞっと背筋に悪寒が走ったが、半分ほど男の目に涙が浮かんだ所で満足したように指の力を抜いた。それからそっと労わるように頬を撫で上げる。

「もう一度いいますわ、伝蔵さま。私はあなたを心底お慕い申し上げているのです。私を連れていってください。あなたの一生に、私を連れ添わせてください」

 じっと見つめる眼差しの強さに息を呑む。逃がすものかと頬にそえられた手が小さく震えると、伝蔵は唇を引き結んでそっとの手を捉えた。
 びくりと動く小さく柔らかな手が愛しい。意思の強い瞳が好ましい。怖気づいたように震える掌が、可愛らしい。

 一心に寄せられる苛烈なまでの心が、ただひたすらに、欲しい。

 ぐっと強く手を握り締め、その掌に唇を寄せながら、請うように囁いた。乾いてカサカサと荒れる唇の皮が、やわい掌を掠めて擽る。

「私は決して人に褒められるような仕事をしていない」
「存じ上げております」
「いつ死ぬともわからない、お前に死んだことすら伝えられないかもしれない」
「覚悟しております」
「寂しい思いばかりさせるだろう。いつ、しっぺ返しがふりかかるかもしれない、それでも」

 いいのか、という問いかけは無理矢理塞がれた唇で塞き止められた。柔らかく弾力のある唇が押し付けられ、舌先に紅のあのなんとも言えない味が広がる。驚いた拍子に空いた隙間からぬるつく舌が入り込むと、伝蔵の舌を絡めて己の口腔に導いた。
 まるでもう言葉は飽いたのだ、とばかりにちうちうと舌を吸われ、舐められ、くらりと眩暈を覚えた所でちくり、と痛みが口唇に走った。はっと目を見開けばそれは目と鼻の先で吐息を吹きかけ、擦れて滲んだ乱れ紅を晒して、聖母のように微笑んで見せた。

「それでも、良いのです。伝蔵さま・・・どうかめを、攫ってください」

 腕が首に回される。ぴたりと凹凸のできた体が寄せられ、胸板に豊満な乳房が押し付けられる。隙間をなくすと、行き場を喪った手がぴくりと動き、やがて掻き抱くように強くその女の肢体を抱きしめた。きつく背骨が軋みをあげるほど抱きしめ、髪のかかる耳朶に息を吹きかける。低く、唸った。

「後悔するなよ」
「させないでくださいな」

 打てば響くように返る軽やかな声に、くっくっと笑みを噛み殺す。朝靄は消えかかり、周囲の光が明るみを増していく。冷えた空気が暖められ、頬をなでるそれも心地よくなってきた頃に。
 彼らの姿は、靄の彼方に消えていた。