それは綺麗な恋でした。
一体それは、なんの予感であったのか。ふと夜中に目が覚め、そのまま寝付けもせずに暗い闇が凝る室内を、同室の友人を起こさないように抜け出て、山本シナは廊下に出た。
ポッカリと鮮やかに浮き出た月は欠けることの無い円を描き、驚くほど明るく周囲を照らしている。明るい月夜は好きだけれど、暗闇を駆け潜む者にしてみれば忌々しいものでしかないだろう。月を嫌う、ということはよくあることで、けれどシナはあの人が月夜は好きだと言ったから、己も月夜を好きになった。何より、月光に照らし出されるあの人は堪らなく美しくて、夜に映えるあの人を照らす月を、嫌いになどなれようはずもない。
ほう、と吐息を零して冷たい夜風にむき出しの頬を晒しながら、しずしずと廊下を歩く。
少し歩いたら部屋に戻ろう、とそんなことを考えながら歩いていくうちに、ふと視界に大きな桜が入り込む。今だ咲き切らない蕾を多くつけた桜は、花をつけるまでにもうしばらくの時がかかるだろう。桜が咲いたら。そう思い、蕾をつけた枝に目を細めるとその木の下に人影を見つけ、大きく目を見開いた。思わず零れそうになった声を押し殺して、シナは足音を殺して廊下を飛び降りた。見えた人影に心の臓が大きく高鳴る。
「先輩」
夜空に満月、地上に桜。花こそ咲いていないものの、蕾の下で静かに影のように佇む人に、潜めた声で呼びかける。その声に反応したように、常緑の忍び装束がとろりと濃い闇に溶け込みながら振り向いた。真っ黒な瞳がシナを見つけると、やんわりと細まる。
その仕草に一層胸をときめかせ、シナの頬が熱を持った。
「山本」
「先輩、どうされたのです?ここはくのたま長屋ですよ」
暗に、忍たまがここにいれば身が危ないと示唆しているのだが、そんなことこの二学年上の先輩が知らぬはずも無いだろう。くのいちが如何に恐ろしく、麗しいか、この学園で知らぬものなどいはしない。もっとも。―――麗しいだなんて、言うのはこの人ぐらいだろうけれど。さらりと高く結い上げた髪が僅かな動作にも揺れるその動きを目で追いながら、シナは寝衣のまま胸元を掻き合わせての前に立つ。僅かに血の錆びた臭いが鼻腔を掠めたが、あまりに僅かで、衣にも肌にもそれらしきものはついていないようだから、あえてそこには触れなかった。シナももう四年生だ。今更真夜中に装束をきて佇む意味を悟れぬはずがない。それに加えても優秀であるという自負があるだけに、想像に間違いはないだろうといえた。は僅かに躊躇いを見せた後、口角を持ち上げ小さな笑みを作る。物静かなこの人が大口をあけて笑うところをシナは見たことが無い。いつかそんな面も見れたらいいのに、と思いを馳せながら彼が口を開くのを待った。
「桜が、な。見えたから寄っただけなんだ」
「まだ、咲いてはいませんよ?」
「そうだな」
そういって、まるで愛しいものを待つかのようにそっとは幹を撫でる。がさついた木の肌を撫でる手を羨ましく見つめながら、シナは首を傾げた。咲いてもいない桜を、どうしてこの人は見にきたのだろう。しかも、くのいちの長屋まで来るなど、自殺行為も甚だしい。
これが下級生の長屋であればこの人のこと。なんの心配もないだろうが、ここは数こそ少ないとはいえ上級生が寝泊りをしてる長屋だ。罠も半端なものが仕掛けられているわけではなく、近寄るにはリスクが高すぎる。・・・もっとも、シナがここにくるまで、この人は誰に気づかれるでもなくここにいたのだから、いらぬ心配であったのかもしれないけれど。
そう、この人ならば、シナが気づく前に姿を隠すことも去ることもできたはずなのだ。
なのにそれをせずにここにいるということは、どうしたことなのだろう。思わずドキリと胸を高鳴らせると、は幹を撫でていた手を止め、シナを振り向いた。再び、心臓が音を立てる。
「もうすぐ桜が咲くな」
「はい」
「春が来る」
「はい」
「・・・私がここにいる時間も、もう僅かだ」
言われ、シナの心臓が凍りついた。静かに穏やかなの眼差しが、ひどく突き刺さる。
表情を強張らせ、言葉に詰まったシナを見つめながら、はそっと無骨な手を伸ばしてシナの柔らかな栗色の髪に触れた。撫でる手が優しいことに、嬉しさよりも悲しさが先立つ。考えないようにしていた。これから先に、気づかないふりをしていた。・・・桜が咲けば、目の前の人はこの箱庭から去ってしまうのだ。学園から。自分の前から。再び会える日が来るのかもわからない。いつ会えなくなるかも分からない。そんな、不確かな明日へと。
唇が戦慄く。表情に出さないようにしたのはシナの意地と矜持だった。未熟といえどくのいちとしての矜持。それでも寂しさを隠せもせず、曇った眉でシナはそれを見せないように俯いた。
「山本」
「・・・はい」
声が震えないように努めた。少しだけ間があいたけれど、それほど不自然な間ではなかったはずだ。しかし、呼びかけられたが顔をあげるのには躊躇われ、俯いたままシナは肩を震わせる。そんなシナを見かねたように、僅かに苦笑するとは髪に触れた手をそっとシナの頬に当て、低く再び呼びかけた。
「・・・・シナ」
「っせんぱ、」
「泣くな、シナ。私はここにいる。まだ、ここにいる」
ゆっくりと、それとわからないぐらいの力でシナの頬を大きな手で包み、持ち上げる。
抗おうと思えばできるはずの、優しすぎるぐらい優しいその促しに、けれどシナが抗えるはずもなく上げた顔は、はっとするほど麗しい悲哀に満ちていた。
涙こそ流れはしないものの、膜を張った双眸は潤み艶を持つ。赤い唇が戦慄く様はいっそ官能的ですらあり、はシナの悲哀を受け止めると頬に触れさせた手で輪郭を辿り眉を下げた。
「くのいちがそう簡単に感情を見せていては失格だぞ、シナ」
「先輩が・・・!先輩が、あんなことを言うからっ」
「あぁ、そうだな。すまない、シナ」
「・・・っぅ、」
行ってしまう。去ってしまう。半月も経たないうちに、この人はいなくなってしまう。
それが堪らなく悲しい、と、そう思うことは忍びとして、くのいちとして、確かに落第者なのかもしれないとそう思う。けれど、けれどどうして。人の心に鍵がかけられようか。
愛しいという思いに歯止めがかけられようか。戻れぬほどに思ってしまったのに。今更どうやって、なんでもないことのように振舞えるであろうか。肩を震わせ、シナはの胸元に顔を埋める。泣き顔を見せたくは無かったし、僅かでもいい。この人の体温を感じていたかった。広い胸板に顔を埋めると、シナの背中に腕が回される。やはり拘束することなく優しい手つきでそっと、まるで壊れ物を扱うかのような仕草を物足りなく思い、シナは一層きつくを掻き抱いた。
「こんな、こと、言うのは、先輩を困らせてしまうかもしれませんが」
「なんだ?」
「私、は・・・っ先輩に、いなくなって欲しくないっ・・・卒業なんて、して欲しくない・・・!」
「・・・シナ」
「先輩、先輩、先輩・・・!」
ああ、まるで幼子の癇癪のよう。頑是無い子供のようにすすり泣いて縋りつく。困らせるだけだとわかっているのに。どうにもならないことだとわかっているのに。この人が成績不振者で落第するならもう一年共にいられるけれど、そんな浅はかな望みをずっと持っておくなんて馬鹿の極みでしかないだろう。・・・共に旅立てない、この二年の空白が厭わしい。
「シナ。まだしばらくの時がある。そんなに悲しまないでおくれ」
「でも、桜が咲けば、あぁ嫌だ。桜など咲かなければいいのに!」
そうだ、桜など咲かないでくれればこの人と共にいられるのに。それすらも愚かしい考えだと、わかってはいるけれど。いつからこんなにこの人に溺れてしまっていたのか、もう思い出せない。もしかしたら。初めからであったのかもしれない。そう考えながら、きつく縋りつくシナの背を宥めるように撫で、は薄い唇から吐息を零すと、それまでの優しさとは裏腹にぐっときつく、シナが驚いてきつく閉じていた瞼を開けてしまうほどに強く。シナの背を、抱きしめた。それは、そう。まるでその腕にシナを閉じこめんとするように。
「あまり可愛いことを言ってくれるな、シナ。離れがたくなる」
「先輩・・・」
「まだ、だ。まだ時間はある・・・そうはいっても、どうしてこうも離れがたく思うのか。全く、お前は末恐ろしいくのいちだな」
そういい、一瞬の強い抱擁が嘘であったかのように、シナの体が開放された。
あ、と思わず呆けた声を上げて離れたを見上げれば、影がシナの顔にかかる。そうして、一拍。開いた刹那の時間を、風が奪い去って。晴れていた夜空に、雲が薄っすらとかかると、は微笑みを浮かべてシナの額に一つ、小鳥が啄ばむような軽い口付けを落とすと、音もなくその場から飛び立った。唯一、影だけがその動きを正確に追いかけて、塀の上に着地するとはあっという間に、気配の名残すら感じさせずに走り去る。
それは本当に見事な去り際で、きっと誰も、そうこの長屋にいる誰も、彼がさきほどまでここにいたなどと知るものはいないであろうことは明白で、立つ鳥跡を濁さずとはこのことかと感嘆の吐息すら零れる。しかし。
「・・・・っ!」
赤く染まったシナの熱が冷めるのは、どうにももうしばらくの時が必要そうだった。